東京の北部、北区と板橋区の区界にあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。
昨日アップした憲兵小屋の近くにある、
鬱蒼とした林に囲まれた四本木(よもとぎ)稲荷。→Mapion
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周囲を沢山の赤い鳥居とのぼりに囲まれ、
こじんまりとしていながら、
いかにも稲荷神社らしい雰囲気を醸し出しています。
本院と思われる社屋の拝殿は土間の造りで、
さらに拝殿と神殿の間がしっかりと分断され、
神殿が拝殿よりかなり高い位置に設置されているのをみると、
かつて行った、吉野の天河神社を思い出し、
なぜかレイゲンアラタカ的な気持ちにさせられます。
境内には社屋が二つあり、
それぞれに一つずつ鳥居が建てられています。
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この距離で二つの鳥居が立っているのは、
テレビドラマの『トリック』でしか見た事がありませんが、
色もちょうど黒鳥居と白鳥居です。
境内の一角に大きめの忠魂碑が建っています。
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傾きかけた夕日を浴びて妙に薄光りしていますが、
以前にアップした火薬製造の過程で使われる圧磨機圧輪を使っているからでしょう。
もっとあっさりおわらせるつもりが、
いつのまにか20回近くになってしまったこのシリーズも、
今日でおわりです。
かつては相当数の施設や建物があったと思われるこの地域に、
60年経った今、殆ど残っているものはありませんでした。
かろうじて北区への割譲で残存していた煉瓦275号棟も、
まもなく図書館別館への立替工事で消滅します。
以前画廊をやっている人から、
東京の下町にある東京都現代美術館の話を聞いた事があります。
立ち上げの時の殆どの資金は建物の建造で消えてしまったお陰で、
ろくに所蔵品を買う事ができなかった、と。
この十条にかつてあった沢山の建物も、
多くのお金を使って壊され立て替えられてきたと思いますが、
それはある意味歴史や文化を壊してなくすために使われたお金だったとも、
言える気がしてきます。
◆軍都 十条逍遙◆
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十条なかなか骨太なレポートで見応えがありました。十条は町がちょっと異様な雰囲気を持っている気がしていましたが、こういう背景を持っているんですね。私は大きな遺構よりも場末の町並のほうに行ってしまうのですが、貴ブログを拝見すると、町の見方に奥行きが加わる気がします。また寄らせていただきますね。
骨太でしたか(笑
巨大遺構もいいですが、場末の街並もいいですね。
横浜の黄金町とか、根津・谷中とか・・・
いや、谷中は場末ではないですね(笑
拙blogのカテゴリーの中の、
<新宿ノーザンウエスト><空地><東京暗渠>などは、
そういった街のほころび的なものをアップしたものです。
よろしかったらご覧になってみてください。
この四本木稲荷は、今、中央図書館の隣接となっている稲荷公園にありました。
その前は、今、そこから100メートルほど回り込むと自衛隊北門の手前に大きなケヤキの木がありますね。
その木のあたりから埼京線のあたりまでは昔、七軒町(しちけんちょう)という地名でした。もちろん、まだ軍用地になる前ですから、明治37-38年の以前のことです。
もちろん、自衛隊の塀なぞ無かったころの話です。
ケヤキの木から見て、塀の内側のあたりに、元、お稲荷さんがあったのを、軍用地になるので稲荷公園となる地に移設したのですが、移設前には、私の昔の家は茅葺農家でその四本木稲荷と呼ばれるようになるお稲荷さんの隣にあったのだそうです。
私のおじいさんの妹が、もうかなり老齢になっていたころ、私は
このおばあさんの昔話を録音しました。(今、持っています。)
つまり、このおばあさんが、そのお稲荷さんの隣の昔の家で生まれ育ったころの話をです。
おばあさんが言ったのは、
「昔、そのお稲荷さんの周りに、四本(しほん)の大きな樹があって、その中のサワラの樹は特に大きくて、荒川からも見えた。お稲荷さんを四本木(しほんぎ)稲荷っていうのはそれでだよ。」
というものでした。
お邪魔しました。67歳爺
特に、おばあさまの声を録音されたとのこと。
時間と共に消えて行ってしまう都市の記憶を、
記録することの重要性を、とみに感じる昨今でございます。
四本木の名前の由来もありがとうございます。