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陸軍中将志位正人の名刺

2018年12月28日 07時23分14秒 | 収集品
おはようございます。
去年の今頃、共産党の志位和夫さんに関するこんな記事を出しました。

そして現在、たまたま志位さんの祖父である志位正人中将の名刺(下の写真)を手に入れましたので紹介します。(一部は前述の記事で書いてので今回はそれ以外の部分を主に取り上げます)



志位正人は明治22年10月、熊本県に生まれました。

熊本県は「軍神」橘少佐を輩出した県で、特に熊本陸軍幼年学校では、生家に見学に行っていたようです。

志位も恐らくは熊本幼年学校だったと推測されます。明治44年に陸軍士官学校を卒業(砲兵科30位/84名)、兵科は砲兵でした(「官報」)。同期で同兵科には橋本欣五郎がいました。

その後は野砲兵第12連隊で下積みを重ねて、大正12年に野戦重砲兵第2旅団副官、翌年には野戦重砲兵第5連隊中隊長、昭和2年に野戦重砲兵第7連隊副官と経歴を経て、同年10月に砲兵少佐へ昇進します。

昭和にはいると昭和3年8月より陸軍野砲兵学校研究部主事兼同校教官兼下志津飛行学校教官となり、研究リーダーと教官を兼任します。翌年9月には陸軍士官学校教官に着任します。とくに陸軍士官学校の教官は優秀な将校が充てられ、殆どが陸軍大学校へ入学しました。

しかし、志位は陸大へ入ることなく、昭和7年5月、野砲兵第3連隊大隊長へ異動、翌年8月には中佐へ昇進と同時に野砲兵第24連隊附、昭和10年12月には野砲兵第20連隊附となります。20連隊時代は宇都宮高等農林学校・栃木県立青年学校教員養成所・栃木県立宇都宮農学校の配属将校となって軍事教練を担当しました。いわゆるドサ廻り人事です。

昭和13年3月に砲兵大佐へ昇進し、12月に名古屋兵器支廠(本部は現在の名古屋市立大学北千種キャンパス)の支廠長へ着任します。
昭和15年3月には大阪兵器支廠長(本部は現在の大阪城詰所)へ異動し、4月に改称され初代大阪陸軍兵器補給廠長となります。
この頃から志位は兵器関係へ関わっていきます。

(まごーん所蔵の大阪兵器支廠正門絵葉書)

昭和16年11月になると南方作戦をにらんで、第15軍が創設されます。志位大佐も創設と同時に軍の兵器部長に就任します。兵器の補給・配備などが主な仕事です。
昭和16年12月にアジア・太平洋戦争が勃発するとビルマ作戦に従事し、以後戦争中のほとんどをビルマで過ごします。

昭和18年3月に15軍の上級部隊であるビルマ方面軍の兵器部長となります。この人事異動で15軍司令官になったのが、牟田口廉也です。

牟田口廉也中将は有名なインパール作戦を発動しますが、参謀長小畑信良や佐藤幸徳師団長の解任のちょうど真ん中の昭和18年6月、志位は方面軍兵器部長から陸軍兵器行政本部へ異動となり、ビルマを離れます。

陸軍兵器行政本部では監督官というポストにつきますが、この地位はよくわかりません。他の人事異動をみると陸軍少将が任命されるポストということのみです。志位も昭和18年8月に少将となります。


昭和20年5月6日に殉職し、中将に没後昇進、従四位に叙せられていますが、何が原因で殉職したのかは、確認できませんでした。(木下勇中将のように殉職したことが新聞報道される場合もありますが、どうやら志位中将のはそれに該当しないみたいです)。


先月も記事をあげられず、今月も忙しくバタバタしています。なので今回は少し雑になりました。御容赦下さい。

皆さん良い年末を!

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