8月の句会の兼題は「目」で、思い出した話題があります。
「邪視」という思想です。「ねたみ」とか「そねみ」とかは、人間誰しも抱く感情ですが、そういう「邪(よこしま)」な思いで、「視」線を向けられたモノには、思いを向けた人の怨念のようなものが取り憑いて、持ち主に災いをもたらす、という考え方です。「邪視」という言葉は、かの南方熊楠が、このような思想が、世界のあらゆる所にあると紹介した時に、導入した訳語だとされています。
世界中といいながら、とりわけイスラム圏では、気にする人が多いようで(コーランにも、ねたみの心を戒めるムハンマドの言葉がある)、対抗する「お守り」が、国ごと、地域ごとにいろいろある。
下の写真をご覧ください。
「ナザール」と呼ばれるトルコ版の「お守り」です。ガラス製で、目玉を模しています。直径は10cm前後で、いくつかサイズはあるようですが、紐が付いていて、家の玄関先などに吊るして使います。「目には目」で、邪視を撥ねつけようというわけでしょう。ご覧のように、土産物屋の店頭でも、人気の「商品」みたいです。
まあ、「お守り」も一つの手段ですが、そもそも、ねたみ、そねみの目を向けられないに越したことはない。
というわけで、家なんかも、見かけは普通の住宅の外観、形はシンプルな四角で、色は白。窓も小さいのが多いような気がする。そうはいっても、大きさまでは誤摩化せないから、意味はないと思うんだけど。大きい家は、家なりに内装、家具などを豪華にしてるに違いないし。
見られたり、思われただけでそうなのだから、具体的に言葉で言われると大変なことになる。邪視を信じている人の洋服とか持ち物を、ごく普通の感覚で、「おしゃれだね」とか「よく似合ってるよ」などと褒めるわけにはいかない。「邪視」ならぬ「邪言」で、災いをもたらすモノになったのだから、言われた人は、その洋服なりを、他人にあげるか、捨てるしかなくなる。
洋服とかモノなら、捨てるか、あげるかすれば済むが、まさか、子供を捨てたりはできないから、邪視を恐れる親たちは、子供を褒められないよう、ねたみ、そねみの対象とならないよう細心の注意が必要になる。粗末な格好をさせたり、ヒドい名前をつけたり、といろいろ大変らしい。
そんな国とかに落語なんてのがあれば、「子ほめ」ならぬ「子けなし」が演目として、きっと、もてはやされるはず。
「うわ~、皺(しわ)だらけや」
「それは、隣で寝てる爺さんやがな」
「それにしても、アンタに似て、ぶっ細工な子ぉやなぁ~」
「さっそく、ケナしてもうて、おおきに、おおきに」
「えらい老(ふ)けてるけど、おいくつです?」
「おいくつですって、生まれたばっかりやがな」
「生まれたばっかりにしては、老けて見える、どう見ても、ハタチそこそこ」
「そこまで、ケナしてもうたら、嬉しいなぁ」
「泣き声も弱々しいし、今にも死にそうやんか」
「なんぼなんでも、ええ加減にしなはれっ」
大阪弁バージョンだと、こんな具合ですかな。さてと、そろそろ「目の俳句」を考えなきゃ。
いかがでしたか?次回をお楽しみに。