“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

「集団的自衛権議論は見るに堪えない」

2014年06月02日 12時58分36秒 | 臼蔵の呟き

元自民党議員、中枢幹部の発言です。安部がいかにでたらめで、私利私欲のために動いているかを指摘、糾弾する主張です。自民党がブラック政党化していることの現れです。このようなでたらめで、浅はかな安倍に屈服して、何も言わないでいる自民党議員、公明党は全て一蓮托生です。武器をとって戦いたければ、自分ひとりでやってほしいものです。しかし、彼らの狂気は、自分では何もせずに、安全なところにいて、多くの国民を戦地に行かせる、そして、その国民に戦えと。死ぬのはいつも国民です。このように卑怯なやからに集団的自衛権、国家のーーーなどと大それたことを言わせておくこと自身が笑止です。

<日刊ゲンダイ>   元参院議員・平野貞夫氏「集団的自衛権議論は見るに堪えない」 

 国会では集団的自衛権行使を巡る集中審議や与党協議が行われ、連日、侃々諤々(かんかんがくがく)やっているが、忘れ去られていることがある。憲法9条の問題は、憲法制定直後から国際情勢の変化もあって、さまざまな議論が積み重ねられてきたという歴史的経緯だ。先人たちは、その議論の中で、9条の趣旨、精神、枠を守るために知恵を絞り、苦労してきた。それをなぜ、安倍は「私が最高責任者だ」とひっくり返せるのか? 「歴史の生き証人」の怒ること。
■安倍首相がやっているのは爺さんの仇討
――集団的自衛権の議論をどう見ていますか?
 安倍首相もメディアも、あまりにも歴史を知らずにワーワーやっている。だから、歴史を踏まえた体系的な議論になっていないんです。こんなことじゃいかんですよ。

――国会での議論は、朝鮮有事の際、日本人を米艦船で救い出す事例などを話し合っていますね。

北朝鮮の金日成総書記が亡くなった後、1997年ごろですか、本当の危機があって、話し合っています。日本人をどうやって助け出すか、という議論です。米軍の船に乗せるなんていうのはあり得ないこと。米軍にそんな余裕があるわけないし、日本がやらなきゃいかんのです。ああいう事例を出すのは、バカな学者のイタズラですよ。

――憲法の枠内で有事の際にどうするか。これはずっと議論されてきたことなんですよね。

 そうです。小泉内閣の時、私は自由党の国対委員長でしたが、有事立法の議論で、こう国会質問したんです。「国連主義と憲法9条の枠をがっちり入れて、日本の安全をどう守るかということをきっちりやりましょう。特別立法でバクテリアを増やすようなことではなく、安全保障基本法のようなものを作る。これ以上おかしくしちゃダメだ」とね。そうしたら福田官房長官がエレベーターの中で肩を叩いてきて、「平野さん、ぜひやりましょう」って

――その福田さんは第1次安倍政権がつくった安保法制懇を棚上げして、事実上潰しましたね。解釈改憲なんかじゃなくて、ちゃんとやれということでしょう。そうしたら、第2次安倍政権が復活させて、こうなっている。

 爺さん(岸信介元首相)の仇(あだ)討ちをしたいというのかね。今までのやり方でできるもの、個別的自衛権でできるものをあえて、集団的自衛権と言いたいのでしょう。

――公明党は歯止めになるんですかね?

 僕に言わせりゃ、与党協議に入ること自体がおかしいですよ。与党協議の後に自民党に戻すわけでしょ。党内を説得するのに使われるわけです。自民党でまとめてから持ってこい、と言うべきでしょう。そうじゃなければ、政党政治じゃない。国民だって選挙の際に選択できないでしょう。今の公明党は自民党の一派閥です。

――加えて、今の政治家は歴史的経緯をわかっていない?

 そうなんです。1946年8月28日、貴族院本会議で、東大総長の南原繁(貴族院議員)が戦争放棄と国連への協力について、こんな質問をしているんです。「国連憲章は国家の自衛権を承認している。国連には兵力の組織がないので、必要な時、各加盟国はそれを提供する義務を負う。将来、日本が国連に加入を許された場合に、果たしてかかる権利と義務をどうするのか」と。当時から、先見の明がある人は集団的自衛権と9条の関係について、心配していたんですよ。これはすなわち、憲法9条が集団的自衛権を想定してないということの証しだし、果たして国連加盟の段階になって、9条のことが問題になっているんです。

――1952年の国連加盟申請ですね? どのようにクリアしたんでしょうか?

 その経過を外務省条約局長だった西村熊雄氏が1960年、政府の憲法調査会で正確に意見陳述をしています。私はそのころ、衆院事務局に入って1年目でした。60年安保の担当で。だから、鮮明に覚えています。すごく話題になったんです。西村さんは1946年11月から52年4月まで条約局長をやった。憲法制定から各国と平和条約を結び、日本が独立を果たすまで、もっとも重要な時の局長ですよ。

■国連も認めている日本の“特殊事情”

――問題となったのは国連憲章の51条、つまり、加盟国は個別的集団的自衛権を行使できる、という部分と憲法9条の整合性ですね?

 西村さんは憲法調査会の陳述で、国連に加盟申請書を書く際、「日本は国連憲章から生ずる義務を忠実に果たす決意であることを宣言したあと、ただし憲法9条に対し、注意を喚起する1項を付け加え、間接的にそれをいった」ことを明らかにしました。それはこういう文章です。〈日本国が、国際連合憲章に掲げられた義務をここに受諾し、且(か)つ、日本国が国際連合の加盟国となる日から、その有するすべての手段をもって、この義務を遵奉(じゅんぽう)することを約束するものであることを声明する〉

 つまり、一般的に義務は受託すると。しかし、〈日本国が有するすべての手段をもって〉と書いて、憲法上の制約のあるものは致しません、ということを裏から言ったわけです。西村さんは憲法調査会でこうも言いましたよ。「日本は軍事的協力、軍事的参加を必要とするような国連憲章の義務は負担しないことをハッキリいたしたのであります。この点は忘れられておりますけれども、この機会に報告しておきます」と。国連もそれは認めたんです。――しかし、その後、国際情勢がどんどん変わっていく。

 だから、法制局は苦渋し、憲法改正の話が出てくるわけです。しかし、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄も憲法改正をしないと言った。中曽根内閣まで憲法改正の話は出てこない。その中曽根さんも政権の時はあまり言わなくなった。軍隊嫌いの後藤田官房長官が歯止めになったんです。

――そもそも、冷戦時代に日本は再軍備せよ、という圧力はあちこちからあったわけでしょう? それを歴代政権は9条を盾にはねつけてきたわけですよね。

 自分から脅威をあおっているのは安倍さんだけです。冷戦時代は米国もソ連も日本に再軍備を迫っていたんです。それに対して、吉田茂さんは4つの理由ではねつけています。(1)日本の経済復興がまだ完全でなくして、再軍備の負担に耐えない(2)日本の今日にはまだ軍国主義の復活の危険がある(3)日本の再軍備は近隣諸国が容認するようになってからしなければならない(4)憲法上の困難がある。吉田さんは特に(2)は重要であると僕に言っていました。(2)も(3)も当時より、今の方が危険じゃないですか。これを日本人は思い出すべきですよ。なんで新聞は書かないのか、不思議です。――小沢さんは自衛隊とは別組織で国連に協力をすべきだと言っていますね。

 それも、こうした歴史的経緯があるからなんです。憲法9条があって、国連加盟の時の留保や吉田さんの理論を踏まえれば、自衛隊と別組織でやるしかない。つまり、国権の発動の武力行使ではない。国連の指揮下に入るものを提供する。それしかないのです。PKO法案の時に、そういう文章を作っていたら、社会党の土井たか子さんが「別組織にすれば党内を説得する」と言ってきた。彼女も憲法学者ですから、わかっていたのだと思います。

――憲法順守と国際情勢のはざまで、知恵を出し合ってきた歴史を安倍政権は無視している。「自分が最高権力者だ」という一言で、ひっくり返そうとしていますね。

 政治家は過去を勉強しなきゃいけない。自民党の人も勉強し、苦労してきた。真面目だったんです、われわれは。その意味では安倍首相は論外ですよ。いや、安倍さん自身は知らなくても周囲のブレーンは歴史を知らなければいけない。北岡座長代理は国連大使をやっていたんですよ。条約局長だった西村さんは亡くなる前、憲法が崩れてきた、と憂慮しました。今ごろ、怒り狂っていると思います。(おわり)

▽ひらの・さだお 1935年高知県生まれ、78歳。法政大学大学院政治学修士課程修了。衆議院事務局に入り、副議長(園田直)秘書、議長(前尾繁三)秘書などを経て、委員部長となる。92年から参院議員。一貫して小沢一郎と行動を共にし、04年政界引退。以降、政治評論・執筆活動を続けている。


集団的自衛権 考えているのか命の重さ

2014年06月02日 10時55分57秒 | 臼蔵の呟き

自民党の高村氏が今国会会期中に、集団的自衛権行使容認の閣議決定を行うと会合で述べたことが報道されています。自民党が与党かもしれませんが、憲法を解釈改憲で、形骸化するような法解釈の変更を安倍、自民党政権の一存で行わせるようなことは許してはなりません。このような政権が、今後、次々と出ることで憲法は事実上、意味をなさなくなり、時の権力者は何でもありの政権と化すことはあきらかです。安倍政権だけの問題ではありません。

自民党は政権党としての自覚、自浄能力、最低限度の倫理観すら失われているように思います。このような政権に日本の政治をゆだねることは、危険を通り越して、破壊的な被害を日本にもたらす可能性すら生まれています。

報道機関への恫喝、人事介入を通じて、世論操作を行い、多くの国民が何がなんだか分からない最中に、どさくさにまぎれて、何でもありの政治を強行しようとしていることは許せません。第一次大戦後のヒトラーの政治手法を真似た彼らの動きを止めることが必要です。

<信濃毎日社説>集団的自衛権 考えているのか命の重さ

 「総理、集団的自衛権の行使とはアメリカの戦争のために日本の若者の血を流すということですね」。先月28日の衆院予算委員会。共産党の志位和夫委員長が安倍晋三首相に質問した。

 「それは明確に違うということを申し上げておきたいと思います」。首相はこの重い問いをあっさりと否定した。行使を容認すれば他国のために戦うことが可能になる。首相は国民向けの会見や国会の答弁で「国民の命と暮らしを守る」などとプラスのイメージばかりを強調し、想定され得る危険については語ろうとしない。

 志位氏が予算委で指摘したのはこの点だ。米国が2001年に始めたアフガニスタン戦争には北大西洋条約機構(NATO)に加盟する欧州諸国が集団的自衛権を理由に参戦した。志位氏の説明だと、開戦からこれまでにNATO諸国軍の犠牲者は千人を超えた。日本は憲法9条が海外での武力行使を禁じていることから、このときはインド洋での給油支援にとどめた。

 続くイラク戦争では日本は復興支援の名目で、米国の求めに応じて自衛隊の「戦地」派遣に初めて踏み切った。9条との整合性を図るため、活動は「非戦闘地域」に限った。当時の小泉純一郎首相は戦闘地域かどうか「分かるわけがない」と語り、見切り発車だったことを印象付けた。

 自衛隊の宿営地を狙ったとみられる砲撃は十数回に上った。死者こそ出さなかったものの、隊員が死と隣り合わせの危険な任務に就いていたことは明らかだ。仮に、集団的自衛権の行使が認められていたら、戦闘参加を求められた可能性が否定できない。

   <「血の同盟」論>

 自衛隊の海外派遣は国民的な議論を軽視し、対米重視の政府によってなし崩しで拡大させてきた経緯がある。安倍政権が取り組む集団的自衛権の行使容認は、「専守防衛」を旨としてきた自衛隊を、米軍と一緒に戦える「普通の軍隊」にするための総仕上げのプロセスとも言える。

 事実、安倍首相は自衛隊をイラクに派遣した直後に出版した著書で「軍事同盟というのは“血の同盟”です…今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはない」と嘆いている。先の大戦における甚大な加害と被害、自衛隊員が血を流すことについて、どこまで深く考えているのか。首をかしげたくなるような見解を披歴している。

 自衛隊を時の政権の道具のように扱うことに異を唱えた政治家のことを思い出す。8年前に亡くなった箕輪登さんだ。自民党のタカ派防衛族として知られた。議員引退後、自衛隊のイラク派遣は「憲法9条に違反し、日本人がテロの標的にされる可能性が増大する」などとし、派遣中止を求めて提訴。全国に広がった派遣中止訴訟の先陣を切った。「自衛隊は専守防衛を任務とするものであり、そのために志願して若い人が入隊したのです。それを侵略戦争の共犯者にするのか。小泉首相はあんまりだ。公平な裁判をお願いします」。病を押して車いすで意見陳述を続けた。戦前の軍隊と自衛隊の両方を知る政治家が振り絞るように発したこの言葉は今の安倍首相にも向けることができる。

 「首相1強」体制の下、今の自民党からはこのような声は聞かれない。そんな中、野田聖子総務会長が行使容認に前のめりになる首相に「非常に不安を感じる。血を流さないといけないリスクを国民に突き付けることになるが、きちんと伝わっていない」と疑問を呈した。党内には首相の強硬姿勢に違和感や疑問を感じても黙っている議員が多いようだ。

   <戦死者が出る恐れ>

 防衛省出身で、小泉政権などで安全保障担当の官房副長官補を務めた柳沢協二さんは先日、自民党の安保関係の会合に講師として呼ばれた。集団的自衛権の行使を認めれば日本が戦争の当事国になるなどと訴えると、出席者からは批判が相次いだ。「集中砲火を浴びるのは承知の上で出席した。異論があっても声を出せない自民の議員に集団的自衛権の危険性を理解してもらいたかった」と語る。

 首相の説明に欠けているのは、集団的自衛権の行使によって自衛隊員や国民が被るリスクだ。最悪の場合、戦後初の戦死者を出すことになるかもしれない。

 政治家だけでなく、国民もこうした事態と向き合う覚悟があるかが問われている。首相の悲願や信条だからと、他人任せのように考えてはならない問題だ。集団的自衛権を命の重さの観点から深く掘り下げなくてはならない。


「ホワイトカラー・エグゼンプション」制度

2014年06月02日 05時40分01秒 | 臼蔵の呟き

労働法規の規制緩和は、働く労働者の権利を限りなく、制限し、経営者、企業の利益追求の対象とすることを意味します。20世紀後半から21世紀にかけて新自由主義政治経済の拡大により、労働者の権利攻撃、労働条件の削減が激しくなっています。そもそも、労働者は自らの肉体と、拘束された労働時間を切り売りして賃金を得、生活を行う人々です。企業経営者、巨大な資本家のように経営資源を使って、利益を最大化するような条件、手段は全く有していません。したがって、労働者は資本家、企業経営者の様々な利益追求手段から労働の権利、健康を守ることも含めて―――労働時間制限、有給休暇制度、最低賃金、団結権などを法律によってーーー保護される必要がありました。これらは、政治が上から与え、法制化したわけではなく労働者自身の闘いによって導入、法制化され、獲得されたものです。

自民党政権は、経団連、大手企業、多国籍企業の代理人として、労働者の権利を限りなく0化する攻撃を行っています。その口実が、規制緩和、働き方の自由度を高めるーーなどの美辞麗句に脚色されています。ブラック企業がこれだけ、蔓延しているときに、労働時間規制を撤廃する働き方を導入するなどはもってのほかであり、自民党という政党自身がブラック政党であることを証明しています。

このような政党、政権を退陣させ、まともな働き方が社会的常識になるような政権、政治をとり戻そうではありませんか。

<琉球新報社説>残業代ゼロ 安易な規制緩和は慎め

 安倍政権は、働いた時間の長さと関係なく成果に対して賃金を払う「ホワイトカラー・エグゼンプション」制度を導入する意向だ。
 この制度は第1次安倍政権で導入を図り「残業代ゼロ法」「過労死促進法」と批判され撤回に追い込まれた経緯がある。
 なぜ断念した制度を再び導入しようとするのか。理解に苦しむ。今国会で成立の公算が大きい過労死防止法の理念にも逆行する。労働者保護の視点を欠いた安易な規制緩和は慎むべきだ。


 労働基準法は労働時間の上限を原則として1日8時間、週40時間に規制している。労使が合意すれば時間外労働が認められるが、企業は残業代や深夜・休日の割増賃金を支払わなければならない。しかし、ホワイトカラー・エグゼンプションは1日の労働時間に規制はなく、企業が時間外労働をさせる場合の労使協定も必要ない。

 安倍晋三首相は政府の産業競争力会議でこう発言した。「成果で評価される自由な働き方にふさわしい。労働時間制度の新たな選択肢を示す必要がある」。果たしてその選択肢は適切か。
 若者を長時間労働で使い捨てる「ブラック企業」が社会問題化し、労働者を取り巻く環境は悪化している。沖縄労働局による県内企業の抜き打ち調査は27社中21社で法令違反が確認され、改善を指導されている。

 こうした中で規制を緩和すれば、成果を挙げるまで際限なく働かざるを得なくなり、心身の健康を損ない過労死に追い込まれる労働者が増える可能性がある。規制の枠外にある働き方では、労働基準監督署によるチェックも行き届かず、長時間労働への歯止めにならない。
 成果に対して賃金を払い残業代をゼロにするという考えは、労基法の趣旨に反する。従業員を1日8時間を超えて働かせた企業には残業代を支払う義務がある。労働問題に詳しい水口洋介弁護士は、企業側の残業代コストをできる限り少なくするのが政府の狙いと見る。規制緩和で株価浮揚につなげようという狙いも透けて見える。
 今、必要な労働政策は、労働時間の規制緩和ではない。長時間労働を確実に短縮させるための法整備ではないか。経済界の意向を優先し、労働者を犠牲にして進められようとしている安倍政権の労働政策は、改革とは程遠い。

<東京新聞社説>残業代ゼロ案 アリの一穴が狙いでは

 政府が成長戦略への明記を決めた労働時間の規制緩和は、本当に専門職などに限定されるのか。派遣労働がそうであったように、結局はなし崩し的に働く人の多くに広がる懸念を禁じ得ない。

 働く人にとって最も大切な労働時間の制度変更を、労働界の代表が入っていない産業競争力会議で決めてしまう。いわば「働かせる側の論理だけ」という乱暴極まりない手法である。成果によって報酬が決まる新たな労働時間制度はあっさり導入が固まった。

 具体的な制度は今後、厚生労働省の労働政策審議会で詰めることになるとはいえ、早くも対象を「高度な専門職」などと限定する案に対し、財界や経済閣僚から「一握りでは効果がない」と異論が出ている。人件費削減のために一般社員などへ、できるだけ対象を広げようとの思惑が透けて見えるようである。

 少子高齢化の進展で生産年齢人口(十五~六十四歳)が減り、一人当たりの生産性向上が課題となるのは否定しない。効率的な働き方、長時間労働の是正が実現するのであれば歓迎する。しかし、この労働時間規制の適用除外とするホワイトカラー・エグゼンプションは、第一次安倍政権の二〇〇七年に世論の猛反対で頓挫したように、残業代ゼロのいわゆるサービス残業を合法化し、長時間労働を常態化させかねないものだ。

 労働時間でなく成果で評価されるようになれば、従業員は成果が出るまで働き続けなければならない。企業は労働時間を気にしなくてよいから従業員が疲弊していようが成果を求め続ける。毎年百件以上の過労死が社会問題化する中、時代に逆行し、そればかりか残業の概念がなくなれば過労死の労災認定そのものが困難になる。

 首相は「希望しない人には適用しない」「働き方の選択によって賃金が減らないようにする」と明言したが、従業員の立場が会社に対して極端に弱いことすら理解していないのか。首相の言うことが通用するなら、これほどまでに過労死も過重労働も起きていないに違いない。ブラック企業すら存在しないであろう。

 働く人を守る労働法制が首相や財界の意向で都合よく変更されてよいはずがない。限定論や美辞に惑わされ、なし崩し的に広まりかねない。派遣労働が典型だ。「働き方の多様化」「柔軟な労働形態」などの名目で緩和され、今や働き手の四割近くが非正規雇用だ。同じ轍(てつ)を踏んではならない。