“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

集団的自衛権 司法の審査

2014年06月29日 10時13分52秒 | 臼蔵の呟き

三権分立を否定し、行政権の優位、暴走を許すかどうかの瀬戸際に立たされています。三権分立、憲法の制定、基本的人権などは世界各国の共通した制度であり、体制の違い、内容の相違があったとしても現代社会における基本的な考え方の基本になる政治思想ではないかと思います。安倍、自公政権、高村などの自民党中枢が血道をあげる解釈改憲が、世界各国の評価、歴史の評価に耐えうるのかどうか分かりきったことのように思います。

現段階で最高裁の司法判断が出なくても、訴訟が提起された時点で、避けて通ることができない判断が要求されます。最高裁がその判断を回避すれば、自らが司法の存在を否定し、三権分立を否定する行為と評価されることになるでしょう。福井地裁が行った大飯原発差し止め訴訟の判断は画期的といわれています。考えてみれば、憲法の規定に基づき、行政から独立し、純粋に司法としての判断を行えば、当然の判断でした。司法への行政の関与が強まり、正常な司法判断がゆがめられていても、三権分立が制度として死滅、否定されない限り、必ず、憲法を無視した解釈改憲は否定されるはずです。

<毎日新聞社説>集団的自衛権 司法の審査

□憲法判断を侮るな

 集団的自衛権に基づき自衛隊が派遣されるような事態を迎え訴訟が起こされれば、司法判断が出ることになる。安倍晋三首相は「政府が憲法を適正に解釈するのは当然」と強調するが、行使を可能にする解釈変更が憲法上「適正」かどうかを最終判断する権限(違憲審査権)は最高裁にある。その時、違憲判決が出ないとは言い切れない。

 政府・与党には、三権の一角を占める司法の場で、いずれ事後チェックを受けることを見据えた慎重で冷静な論議が欠けているのではないか。

 他国を守るための武力行使を認める集団的自衛権は、国際紛争解決のための武力行使の放棄や戦力の不保持、交戦権否定をうたった憲法9条に反するとの学説は憲法学者の間に根強い。

 木村草太・首都大学東京准教授(憲法学)によると、国民の生命・自由を国が最大限尊重すると定めた憲法13条などを根拠に政府が従来認めてきた個別的自衛権と異なり、集団的自衛権は憲法に行使を認める根拠規定も手続きの規定もなく、想定されていないという。「政府解釈を変えても違憲は違憲。認めるには憲法改正が不可欠」と話す。

 ドイツの憲法裁判所などと違い、日本では具体的な紛争が起きて初めて訴訟として裁判所に認められる。集団的自衛権の場合、自衛隊派遣命令などが出た時に差し止め請求が起こされたり、武力行使に伴い生命・財産などの被害を受けた当事者や家族から国家賠償訴訟が提起されたりすることが想定される。

 今の裁判所に違憲判決を出せるはずがないと、政府・与党は高をくくってはいないか。

 「憲法9条はわが国固有の自衛権を否定していない」と初判断した砂川事件最高裁判決(1959年)は、日米安保条約について「高度の政治性を有しており、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、司法審査権の範囲外」との見解を示した。いわゆる「統治行為論」だ。

 集団的自衛権をめぐる訴訟になれば初の憲法判断となる。最終的には15人の裁判官による最高裁大法廷で審理され、結論が示されるはずだ。もし「統治行為論」が再び持ち出され、審査の対象とされないようでは司法の消極姿勢が問われるだろう。

 そして、違憲判決が出た場合の影響は計り知れない。自衛隊活動の正当性に疑念が深まり、賠償責任を負うなど政府が抱え込む訴訟リスクはあまりに大きいと、木村氏は警告する。

 司法の憲法判断をあなどってはならない。政府・与党には、憲法学者らの意見に耳を傾ける謙虚さが足りない。


戦争する国に反対 勉強するのは安倍、高村、自民党自身だ!

2014年06月28日 12時45分30秒 | 臼蔵の呟き

自らの政策に反対する自治体を恫喝し、排除するかの発言は、自民党の独善性、暴走を良くあらわしています。そもそも選挙でも、国会でも全く集団的自衛権行使容認についての国民的審判は受けていません。自治体が憲法を守れと要求し、決議を上げることがなぜ悪いのでしょうか。おごりもここまで来ると狂っているとしか言いようのない独善振りです。国民が要求をしてもいないことを安倍、高村、自民党中枢の思惑で、一方的に閣議決定をしようと狙い、画策をしています。おろかな、政治集団です。

自民党の高村副総裁「日本人なら勉強しろ」

 「地方議会であっても、日本人であれば慎重に勉強してもらいたい」

 自民党の高村正彦副総裁は27日の記者会見で、岐阜県議会と那覇市議会で自民党議員が集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を批判する意見書を提出、可決されたことを批判した。

 高村氏は「いまだかつて一つの閣議決定に当たり、これだけ慎重にやったことは私の経験では知らない」と強調。さらに「自国の存立を全うするため必要な自衛の措置をとることを憲法は禁じていない」とした昭和47年の自衛権に関する政府見解に言及し、「この見解を出したときも与党の事前了承はなかった」と述べ、丁寧な議論を積み重ねているとアピールした。

 岐阜県議会は24日、「慎重な検討を求める」意見書を、那覇市議会は20日に「安倍内閣への抗議」の意見書をそれぞれ可決した。

自衛権の行使 海外で認めてはならぬ

 これでは歯止めにならない。「集団的自衛権の行使」を認める政府の新しい憲法解釈案である。公明党も軟化し、安倍内閣は来週、閣議決定する構えだが、海外での武力行使を認めてはならない。

 集団的自衛権の行使容認に反対する国民や地方議会の声は結局、踏みにじられるのか。憲法改正を堂々と提起し、国民投票で判断を仰ぐのならまだしも、これまで政府自身が違憲としてきたことを、一内閣の判断で合憲とねじ曲げる異常さに気付かないのは、政権与党の面々だけである。

 「解釈改憲」による行使容認に慎重だった公明党は、山口那津男代表が容認に転じ、週末には地方組織幹部を集めた会合を開く。支持者に近い立場の声をくみ取り、政府や自民党にぶつけるというよりは、説得が主眼なのだろう。

 山口氏は、これまで十回開かれた与党協議を経て「二重三重の歯止めが利き、拡大解釈の恐れはないと思っている」と語っているが、果たしてそうだろうか。

 政府の新解釈案は、憲法九条の下で「武力の行使」を認める三要件を示している。その本質は専守防衛を転換し、自衛隊の海外での武力行使を認めることである。

 他国への攻撃でも自衛隊の武力行使が認められる「日本の存立が脅かされる」とはどんな事態か、必ずしも明確でない。

 政府の判断次第というのでは、海外での武力行使に歯止めが利かなくなる恐れがある。政府が挙げた米艦防護など十五事例の妥当性も十分検討されたとは言い難い。

 政府の対応は一貫性を欠いていた。多国籍軍支援を認める新しい基準として四条件を示したが、公明党の反発でわずか三日後に撤回し、別の条件に置き換えた。

 安倍晋三首相は「武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはこれからも決してない」と明言しながら、中東ペルシャ湾などを念頭に、武力行使に該当する機雷除去は行うと主張する。

 この一貫性のなさは、対応が必要な切迫した事例がないまま集団的自衛権の行使を認め、自衛隊の海外での武力行使に道を開くという「結論ありき」で議論を強引に進めたからではないか。

 戦争の多くは自衛名目の派兵で始まった。歴史の教訓をかみしめるべきだろう。一内閣の判断で専守防衛という戦後日本の根幹を変えていいのか。与党だけの密室協議や連立政権維持という政局的判断で、国を誤ってはならない。


電力外車は原発頼みの経営脱却を

2014年06月28日 10時27分51秒 | 臼蔵の呟き

電力会社は地域独占、総括原価方式に胡坐をかき、経営努力をこれまで怠ってきました。そのような経営、方針を政府が認め、保障してきたことが経営状況の悪化、改善の見通しをつけることが出来ない体質を作り出してきました。資本主義社会、自由競争といいながら、実体は地域独占、独占企業の代表としての電力会社は、独占に胡坐をかき、自然エネルギー開発、発送電分離なども着手してきませんでした。

原子力発電所の再稼動が切り札との経営陣の見解は、国民と福島県民、東北の汚染地域住民への冒涜です。自らは全く努力をせずに、一方的に地域住民、利用者にその付けを回すかの倫理観は地に落ちています。彼らが唯一頼るのが安倍政権です。しかし、原子力発電所再稼動反対は司法判断としても出されています。また、地域住民、国民の再稼動反対の声は、過半数を維持しています。そのような国民の意思に反する原子力頼みの経営方針は電力会社の反国民性を示しています。

<電力株主総会 原発頼みの経営脱却を>

 原発再稼働の見通しが立たない中、東京電力など電力各社が開いた株主総会は、八方ふさがりの経営状態を浮き彫りにした。立て直しに必要なのは「原発頼みの経営」から踏み出す決断ではないか。

 二〇一一年三月の福島第一原発事故から三年の株主総会は、九社のうち五社が三期連続赤字という決算を受けて開かれた。原発停止の長期化や火力発電の原燃料費の負担が重く、中部電力の三田敏雄会長が「配当ゼロ」をわびるなど各社は終始、経営悪化の弁明に追われた。一方、株主からの脱原発提案は、過去に一度もなかった北陸電力を含め全社に出された。いずれも否決されたが、総会は長時間に及んだ。

 経営陣が総会で示した立て直し策の柱は原発の再稼働で、「原発は重要な電源。さらに高いレベルで安全を確保し、地域の理解を得ながら再稼働に向けた取り組みを進める」(東北電力)など各社から強い意欲が示された。政府のエネルギー基本計画が原発を「重要なベースロード電源」と位置付けたことを受けたものだ。

 しかし、再稼働をめぐる現実は一段と厳しくなっている。そのひとつが、「脱原発」の自治体への広がりだ。

 関西電力には筆頭株主である大阪市が脱原発を迫った。京都市も脱原発議案を提出、これに神戸市が賛成した。現職や元市町村長らが二年前に設立した「脱原発をめざす首長会議」は会員が六十九人から九十八人に増えている。政府と電力各社は、原子力規制委員会の審査終了をもって地元との協議に入るとみられる。しかし福井地裁による大飯原発の再稼働差し止め判決もあり、協議の難航は避けられないだろう。

 電気料金の再値上げは窮余の策だが、消費税率10%への引き上げを控える政府が簡単に認めるとは考えられない。コスト削減の余地も狭まっている。

 国会で電力システムの改革法が成立し、地域独占にあぐらをかいてきた電力各社は今、自由化の入り口に立っている。関電の総会で橋下徹大阪市長は「経営陣は失格だ。自由化に耐えられる会社ではない」と経営の刷新を求めた。東京電力の舵(かじ)取りを任された数土文夫会長も「従来の経営手法を大胆に転換する」と強調している。見通しの立たない原発頼みの経営を脱却し、電力改革に正面から取り組むことで、消費者である家庭や企業の期待に応えるべきだろう。


集団的自衛権 どこか人ごと なぜ議論がもりあがらないのか

2014年06月26日 12時59分58秒 | 臼蔵の呟き

憲法とは国家の基本的なあり方を規定する最高法規です。同時に、権力者を縛る法規です。ところが、その憲法を権力者である安倍、自民党中枢は公明党、維新の会、民主党一部を巻き込み、国会での議論を抜きに、密室で解釈変更を行う、閉会中に合意して、閣議決定すると報じています。

これで本当に良いのでしょうか。??????

<毎日新聞夕刊>

集団的自衛権 どこか人ごと なぜ議論がもりあがらないのか

 集団的自衛権の行使容認が閣議決定されそうな勢いだ。解釈変更による「改憲」が国民投票も経ないまま、時の内閣の判断で決まっていいのか。安全保障政策の大転換なのに議論は今一つ盛り上がらない。大事なことがすうっと決まってしまいそうなこの感じ、何なのだろう。

 ◇「政治の話はタブー。大人だってそうでしょ」と大学生

 ◇白井聡さん「戦後のツケ」 赤坂真理さん「政治の消費者はダメ」

 前半16分、日本代表の先制ゴールが決まると、客席は総立ち。サッカー・ワールドカップ(W杯)の日本初戦、対コートジボワール戦が行われた15日、東京ドームのパブリックビューイングに約3万5000人が詰めかけた。人の集まる場所で「解釈改憲」について聞きたくて「大事な日にそんな取材をするな」という反発を覚悟して出かけた。だが、みな驚くほど親切に答えてくれる。

 サムライブルーのユニホームを着た男性(23)は「集団的自衛権? もちろん関心があります。行使容認に賛成。平和憲法だ、戦争放棄だ、と言っても中国が攻めてきたらどうするんですか」。孫と観戦中の男性(69)も「行使容認、大賛成」。閣議決定による解釈「改憲」という手続きに反対の人はいるが、行使容認には賛成が多い。

 別の日、今度は慶応大湘南藤沢キャンパスへ。3人の総合政策学部生に話を聞いた。行使容認にも解釈改憲にも賛成。「護憲派の上の世代の理想主義って既得権を守ろうとする人と同じにおいがする」という。

 3年生(20)は「このままじゃ自衛隊の人に申し訳ない。法整備のないまま手足を縛られて」と嘆く。少子化の日本ではいずれ徴兵制が必要になるかも、と話を向けると「こういう大学に通う僕が戦場に駆り出される可能性はないと思う。この国で徴兵制は無理。若者は竹やりより弱い。専門性の高い軍隊に国を守ってほしいから、戦闘員が足りないなら移民を。そのために相当のカネを投入し、法整備も必要」。

 それって雇い兵ってこと? 何だろう、この「誰かに守ってもらいたい」的な当事者ではない感じ……。思わず「身内の戦争体験を聞いたことは?」と尋ねると、「全然ないですね」。

 別れ際、彼らは言った。「正直、僕らの世代で行使容認に反対の人、ほとんどいないと思いますよ。W杯の時期で愛国心、すごいですから」。本当にそうなんだろうか。

 2日後、同じ学部の別の3年生(21)から話を聞いた。「僕は行使容認にも解釈改憲にも反対。『敗戦後、日本は戦争で一人も殺さず殺されもしなかった』という事実を壊してしまったら、先の戦争で死んだ人々の思いを踏みにじる」。周囲の友人もみな反対という。同じ学部内でも互いに異なる意見をぶつけ合う機会はないのか。

 「だって政治の話はタブー。『この教授のゼミを選んだからにはこういう考えの持ち主か』と推察し、少しずつ距離を詰めるのがせいぜいです。政治の話ができるのは親友だけ。でも大人だってそうでしょ。僕が政治に関心を持てたのは政治的な意見を述べる予備校教師に出会えたから。そんな先生は大学にもめったにいない」

 反対だが行動には踏み切れない。「脱原発の集会やデモに行ったが違和感の方が強かった。結局、投票くらいしかないのかな。大きな流れに逆らえない」。昨年の特定秘密保護法成立直後は友人と「ひどい」と話したが、その後は話題に上らない。「解釈改憲もきっとそう」

 深いあきらめが漂う。日々のニュースがすごいスピードで流れていく。最近インタビューした作家、半藤一利さん(84)の言葉が思い浮かんだ。「戦争への道を後戻りできなくなったノー・リターン・ポイントはいつなのか、その時代に生きていた人は、意外とそれに気づけない。今がその時ではありませんか」

 なぜ、こんなにも議論が盛り上がらないのか。文化学園大助教(社会思想・政治学)で「永続敗戦論」の著者、白井聡さん(36)は「枝葉末節の細かい議論に持ち込み、国民をけむに巻く。事例を次々に増やし、議論をテクニカルにする。安倍晋三政権のぼやかし戦術です」と批判する。確かに、政府が現行法制では十分に対応できないとする「15事例」や集団的自衛権に関わる「8事例」を列挙できる人はまずいない。最近は自公がどこに妥協点を見いだすか、政局の話になっている。

 白井さんはもう1点、「戦後のツケ」を挙げる。

 「日本は『敗戦』を『終戦』と言い換えることで敗戦を否認し、戦前の支配層が戦後の統治者として居残った。東西冷戦中、米国の保護下で経済発展を謳歌(おうか)できたことで、国民は思考停止し、いくつものタブーを棚上げしてきた。『平和憲法と非核三原則を掲げた唯一の被爆国』という建前を守る一方、米軍による核兵器持ち込みは見逃した。自衛隊創設からイラクへの派兵まで、憲法解釈の変更によるつじつま合わせの繰り返しを受け入れた。だから今、解釈『改憲』は立憲主義に反する、という批判はどこかむなしく響く。こんな光景は実は見慣れたもの。解釈変更によるつじつま合わせは、戦後の保守政治の王道だったからです」

 新著「愛と暴力の戦後とその後」を出した作家、赤坂真理さん(50)は「議論が盛り上がらないのは、憲法が私たち国民の血肉ではないから。もし血肉となっていれば、内閣の話し合いだけで憲法解釈を変えるのはおかしい、という反対の声が改憲・護憲の立場を超えて出てくるはず」と指摘する「日本人にとって『憲法』は上から来たものです。国民が勝ち取ったことは一度もない。だから『憲法は国家権力を制限するもの』という西欧風の立憲主義に現実感がないのです。それでも戦後、平和憲法が尊重されてきたのは、戦争の怖さを肌身で知る世代がいたからでしょう」

 しかし、今、くしの歯が欠けるように戦中派が減っていく。赤坂さんは「今回の解釈『改憲』は賛成、反対で語れることではなく、もっと憲法の根幹に関わる問題。憲法って何か。国家って何か。素朴で率直な『子供の問い』を恐れず発しないと、私たちはいつまでたっても政治の『消費者』のままです」訴え、こう呼びかける。「確かに私たちは国政にものを言う癖がついていない。でも今から始めることはできます。民主主義の本質は多数決ではなく、『民が主』という考え方です。今回の議論、『わからない』ことがたくさんあるのに、それすらちゅうちょして言えない。『わかんない祭り』始めませんか。『わかんない』と正直に言いましょう。今言わないと。騒がないと。自分の言葉で。政治の『消費者』になっては絶対にダメです」

 消費者ではなく、主権者に−−私たちはなれるだろうか。


新成長戦略 奇策や禁じ手ばかりだ

2014年06月26日 10時58分17秒 | 臼蔵の呟き

石原環境担当大臣の暴言、都議会における自民党都議団幹部のセクハラ発言と傍若無人の自民党議員の発言が続いています。安倍、自民党政権の独裁、暴走が常態化する中で、国民無視、愚弄する態度が頂点に達しているのだと思います。彼らは、衆参のねじれ解消でどんな法案でも議席数との関係で強行採決できることを過信し始めています。まさに、ブレーキがない自動車のような状況に陥っています。彼らの周りには御用学者、茶坊主が集まり、歯止めが利かなくなっています。経団連、大手企業は安倍、自民党政権を政権ごと丸抱えしたような関係になっています。千載一遇のチャンスとばかりに、労働時間規制の撤廃、労働法規の空洞化、農業分野への企業参入、零細農業者の排除、医療保険制度を大手保険会社への開放などを成長の名の下に公然と開始しました。

このようなことは、自民党型政治の閉塞感を打開する道が、有効に打てないことから来る自暴自棄的な政策に行き着いているのだと思います。自民党型政治経済の問題点が分からないはずはありません。しかし、自民党の政治基盤である経団連、大手企業、富裕層の要求を受け入れるしか自民党としての存在価値はないのであり、政治的選択肢が限定され、限界に達していることを示しています。

社説でここまで酷評される成長戦略などは何のではないかと思います。経済政策などというような代物でないことはあきらかです。

<東京新聞社説>

 株価さえ上がれば何をやっても許されると思っているのだろうか。安倍政権が閣議決定した新成長戦略は、なりふり構わぬ手法が目立つ。国民の利益を損ないかねない政策は成長戦略といわない。

 国民の虎の子の年金積立金を株式市場に大量投入する「官製相場」で株価つり上げを狙う。

 財政危機だと国民には消費税増税を強いながら、財源の裏付けもない法人税減税を決める。

 過労死防止が叫ばれる中、残業代ゼロで長時間労働につながる恐れが強い労働時間規制緩和を進める。

 低賃金など劣悪な環境で「強制労働」との批判もあがる外国人技能実習制度を都合よく活用する。

 昨年の成長戦略は安倍晋三首相の発表会見中から株価が急落、大失敗に終わった。今回はその経験だろう、株式市場とりわけ外国人投資家の関心が高い法人税減税や労働市場改革を柱にすえた。国民の財産の年金資金による株価維持策という禁じ手まで使うに及んでは株価上昇のためなら何でもありかと思わざるを得ない。日々の株価に一喜一憂する「株価連動政権」と揶揄(やゆ)されるゆえんである。

 新しい成長戦略は「企業経営者や国民の一人一人が自信を取り戻し、未来を信じ、イノベーションに挑戦する具体的な行動を起こせるかどうかにかかっている」と最大のポイントを挙げている。しかし、この成長戦略でどうやって国民が自信を取り戻し、未来を信じればいいのか。

 二十年近く続いたデフレの大きな要因は、非正規雇用の急増などで国民の所得が減り続け、それが消費減退、企業活動の低下を招くという「賃金デフレ」であったことは通説だ。正社員の給与も伸び悩み、中間層が消失、一握りの富裕層と大多数の低所得者層に置き換えられたのである。

 だとすれば、まずは非正規労働の増大や長時間労働に歯止めをかける。人材教育や訓練に力をいれることによって生産性を高め、働く人への適切な分配を進める。成果主義によって報酬を決める労働時間規制の見直しでは、生産性向上よりもかえって長時間労働を生む懸念の方が強いだろう。

 原発再稼働を目指し、トップセールスと称して原発や「武器」を世界に売り歩き、今度はカジノ賭博解禁に前のめりだ。どうして、こんな奇策ばかり弄(ろう)するのか。正々堂々と経済を後押しし、国民が納得する形の成長戦略でなければ、いずれ破綻するであろう。

<河北社説>新成長戦略/「実感できる豊かさ」どこに

 「地方が元気を取り戻し、国民一人一人が豊かさを実感できるようにすること」。きのう閣議決定された新成長戦略は、自らの最終目標をそう規定する。
 その目標に向けた第一歩として、企業の「稼ぐ力(収益力)」を強化することが不可欠だとし、法人税の減税をはじめ、国が「世界に誇れるビジネス環境」を整えてサポートするとうたう。従って、戦略には企業寄りの政策が並ぶ。
 だが、狙い通りに稼ぐ力が向上したとして、その収益を「豊かさ」の形で家計にどう波及させるのか。戦略目標を実現するその道筋は描かれていない。
 国民の目からは、実感できるようになるはずの豊かさが見えてこない。目標を掲げてはいても、企業が第一で、国民の暮らしは二の次なのではないか。そうした疑念が消えない。
 新戦略づくりで安倍晋三首相が手柄のように誇ったのは、自らが「岩盤」と呼ぶ農業、雇用、医療分野の規制緩和である。いずれも、大企業を中心に経済界が強く要望していたものだ。
 医療では、保険診療と保険外の自由診療を併用する「混合診療」を拡充する。新薬や医療機器の開発が活発化し、患者にとっては治療の選択の幅は広がろう。ただ、自由診療は効果や安全性が未確認だ。安全をどう担保するのか、懸念がある。
 雇用では「時間でなく成果で評価される制度」を打ち出した。残業代ゼロの仕組みで、対象は年収1千万円以上の専門職。だが、人件費を抑えたい経済界は対象の拡大を求めており、そうなれば、長時間労働に歯止めがかからなくなる恐れがある。
 医療でも雇用でも企業にメリットがある。だが、そうした改革が、多くの国民にとって有益なのかどうか。医療格差が拡大し、労働者保護は後退する。そうした不安が拭えない。
 残る農業は、観光などと共に「地方に元気を取り戻す」ための柱とされた。農協・農業生産法人・農業委員会改革が盛り込まれた。企業の農業参入を促すための規制緩和といえる。
 それらを通じて、今後10年間で所得倍増を目指すという。ただ、注意すべきはその対象が「農業・農村」であり「農家」ではないことだ。企業が農村に入り、そこで作った農産物を加工し売って稼ぐ。それでも農業・農村の所得増となろう。
 だが、その収益が農村にとどまって農家の家計を潤し、地域経済の好循環につながる保証はない。元気を取り戻すのは農家や地方ではなく、企業だけということにもなりかねない。
 企業優先の競争原理がまかり通れば、格差拡大という副作用が広がりかねない。そのことは、国民一人一人の豊かさにつなげるという成長戦略の目標と相いれないのではないか。
 戦略の目玉政策とされる法人税減税にしても、減税に伴う「果実」を国民にどう還元するのかが見えない。政策効果を広く社会に行き渡らせる道筋さえ示せない戦略は、戦略の名に値しない。そう言わざるを得ない。