今朝の報道では、あの鹿児島県・阿久根市長が裁判の二審でも敗訴した。職員への違法な・異常な人事権行使・処分が不当だということが、司法・裁判所の判断として出されたわけだ。三審制なので、まだ最高裁へ上告することができるが、逆転の可能性はきわめて低い。
この例は、政治家の権力行使が「恐れ」として作用している。理にかなわない・合理的理由がない・常識では考えられない権力行使ということだ。このような権力行使は、その処分を受けた職員にとどまず、まだ何もしていない職員にまで抑制効果をもたらす。その結果、誰にも忠告されない・意見を言ってもらえない「独裁者・権力者」が誕生することになる。
歴史的には、このような手法を使って権力を絶対的なものにした政治家(王や皇室、貴族なども)はたくさんいる。
しかし、21世紀の民主主義の社会では、このような権力者・政治家の出現は百害あって一利なしである。
もう一つのおそれは、漢字では「畏れ」となるのかな。
人格的に高潔であったり、専門分野に精通しているなり、広い範囲で知識と理解力のあるイメージだ。このような政治家の場合も、職員や住民から「おそれられる」が、それは尊敬の念を含んでいる。
職員にとっては、「いいかげんな提案では認められない」「もっと学習調査して、住民の意見も反映させないと指摘される」「あの政治家の言うことには一利ある。しっかり意見を聞こう」ということとなり、場合によっては「対等な議論ができる相手」として映ることがある。
これらのことは、総理や市町村長だけでなく、私たち議員にも当てはまる。政治家の言い分が通るということは、「圧力」なのか「正論」なのかということにもなる。確かに、旧態依然としているところでは「圧力」による政治が存在することは認めざるを得ない。
しかし、本来は「正論」による政治が求められているのではないか・・・
地方政治にかかわるものとして、心しておきたい。
あなたのまちには、「圧力」による政治がはびこっていませんか?