さっと

東北・秋田県南での田舎くらし

9/6 「黒の日」のようです

2024-09-06 12:04:46 | 日記
黒いものと聞いて思い浮かぶのは何?

今のワタシにとっては「墨」になると思いますが、墨の黒には無限な色味があるのです。
墨染の衣、墨がついてしまってもそん色なく外出できる衣類が普通の人よりも随分と多いような選択をしていると思います。



今日は旧暦八月(大)四日 中潮 墨の日 三碧 大安 みづのと・とり 二十八宿は「婁」の金曜日



雨だれの音が響く雨降りです。
肌寒いので、ノースリーブの室内着から袖のあるものに着替えました。

まだ一枚も9月号の課題作品に取り組めていませんが、届いた本を眺めてはいます。

お昼ご飯を食べたら、午後の仮名文字の練習に向かわないといけないのですが、
この秋っぽい雨降りの中、気を付けて運転するためには、時間的に焦らないようになるべく早めに出かけよう・・と思います。

今日は、夜に、支部の練習会もあります。


明日は、十文字で猩々祭りというものをするんですって。
ぼんぼりをたくさんたてる人が出ていて、看板も設置してありました。
令和6年度「第43回十文字猩々まつり」が開催されます。
日時:令和6年9月7日(土曜日)午後4時~8時30分
会場:十文字地区交流センター駐車場(十文字地域局駐車場)
内容:よさこい演舞、猩々おどり、抽選会、麺&お菓子まき、縁日・飲食コーナーなど
「猩々まつり」
旧十文字町発展のシンボル「猩々の道標」の誕生を語り継ぐお祭りとして、開催されています。
松林が主の野原だった羽州街道と増田(浅舞)街道の交差点に、増田通覚寺の住職である天瑞師が、
文化8年(1811)、旅人の道しるべにと「猩々の左は湯沢 右はよこて うしろはます田 まえはあさ舞」の歌を刻んだ石の猩々像を建立したのが「猩々の道標」の始まりです。
その後、文化14年(1817)、この交差点に1軒の家が建てられ茶屋を営むとそれに続いて8年後の文政8年(1825)には9軒と家々が建ち、天保11年(1840)には十文字新田村が誕生し、この頃から、交通の要衝として栄えるようになりました。
「猩々像の由来」
文化8年(1811)当時、この十文字の市外地は一面の芒野原(ぼうのがはら)で、わずかに湯沢~横手・増田~浅舞に通ずる道がある程度の淋しいところでした。道行く人は時折道を踏み迷い、おおかた狐か狸のしわざとされていました。
増田通覚寺(つうがくじ)十四世 天瑞師(てんずいし)は、己の酒に酔いしれて踏み迷うことを戒めるとともに、この難渋を救うため「酒は好むが酔うてなお泰然、こころ清浄(しょうじょう)なる猩々の如くあれ」と願いを込め、猩々像に酒壺を抱かせ方角地名を誌(しる)して建立したのが猩々像の由来です。
 
期間9月上旬(予定)場所
秋田県横手市十文字町字海道下12-5
十文字地区交流センター駐車場
(十文字地域局駐車場)
交通
JR十文字駅から徒歩10分
十文字ICより車で5分
問合せ先十文字町観光協会
よこて市商工会十文字拠点センター内
電話:0182-42-0406 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9/5 | トップ | 9/7 白露 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿