Nonsection Radical

撮影と本の空間

もっと光を

2010年01月18日 | Weblog
某月某日
昨日は横浜へ行った。
赤レンガ倉庫と横浜美術館へ。
赤レンガ倉庫ではヨコハマフォトフェスティバルを開催していたので、内容も確かめずに出かけた。
横浜駅からプラプラ徒歩でスナップしながら気分はマーティン・パー状態。
会場へ着くとなんだかわからず呆然としていたらYasさんがいたので仕組みを訊く。まあ無料かどうかを訊いただけだが。
部屋を進んで行くと映像を流している部屋や数々の写真を並べている部屋などがあり、さっさと、かつ真剣に眺めて行った。
で、元のところへ戻りYasさんに暇乞いをした。
Yasさんにも言ったのだけど、オヤジにはよくわからなかった。
よくわからなかったと言うのは写真をうんぬんではなく、心情的にピンと来なかったという感じなのだ。
それぞれの写真は焼きもキレイで「中味」もそこそこなのだが、みんなそこそこにしか見えないのだ。
悪いと言っているのではなく、satoboの今の心情には働きかけがないのだった。
なにしろマーティン・パーなもので(冗談)。

次に横浜美術館に行ったのだが、ここコレクション展は500円。
写真は「都市へのまなざし」と題し、須田一政「わが東京」(1979年)、石内都「絶唱・横須賀ストーリー」(1977年)、金村修「Keihin Machine Soul」(1996年)、米田知子の阪神淡路大震災の写真がセレクトされて展示されていた。
須田と石内両氏の写真を70年代という時代を考慮しながら見ていると、金村氏の96年という時代の写真との時差を感じざるを得ない。
これはまた前両氏と金村氏との年齢差という事も考慮に値するかもしれない。
金村氏の写真はとかく暗いとイメージされがちのようだが、初めて氏の写真を見て、全然そのようには感じられず、案外わかりやすい上手な写真だなと思った。
米田氏の写真はジャパン・ニューカラーというようなカラー写真と心情的距離感を保ったモノクロ写真が共にクールに響いてきた。

これらの感情が赤レンガ倉庫ではわいてこなかったのだ。
感情をわき起すものがなかったのだね。なんでだろ?

コレクション展では他に有名日本画も展示され、横山大観、下村観山、鏑木清方などを見ても、クソッタレと思うのだが、くやしい世界がある。
また片岡球子を見ているとなんて絵画は素晴らしい力強さがあるのかと感じる。
洋画でダリなどシュールなものを見ていると口が半開きになり、嗚呼なんだかなぁと自分の写真のつまらなさに立ち向かわざるを得ない状態に追い込まれる。
これで500円は安い授業料だ。

美術館を出て、石川町まで歩き、いつも行くラーメン屋で「横浜ラーメン」を食べる。
別にウマいわけでもなく、中華街に近いため店員が全員中国人で、店員同士や他の客との会話が中国語なのが変な気分なのだが、なぜだか横浜に行くと来てしまう。

横浜駅から石川町まで直線距離で4キロほどなのだが、いろいろ寄り道してかなり脚と腰が痛くなってきた。
が、再び横浜駅めざして歩き出す。
クタクタになって電車に乗ると、前の席にキレイな女性。
カバンから着付け入門のテキストを取り出す。
髪が長く、色白で、足首が細い、化粧っ気がない美人。推定27~8才。
きっと着物を着たら素敵だろうなあと妄想を働かせて時間を過ごす。
薬指にリングがない事を確認。
同じ駅で降りたが、オトコらしくそこで別れた(笑)。
コメント (6)
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