Nonsection Radical

撮影と本の空間

写真は面白い

2012年08月15日 | Weblog
久しぶりにデジカメ画像をインチキ加工した。
仏滅を仏が滅びるとか、友引は友を引くとかワケのわからない事を言うのと同様、写真は真を写すなどと言葉尻遊びをする人がいるが、じゃぁ赤口は?と訊かれても答えられないように、写真にも言葉に意味があるわけじゃないのが現実だ。
絵を描く時にシロートであっても、現実の忠実な模写をするわけではなく、思うように構図し色を塗り取捨選択をするのと同様に、デジカメになって思うように加工が出来るようになったのは選択肢の広がりであり喜ばしい事だ。
まあその前に何を見ているかという問題があるけど、これはあくまでも記念写真や旅行の思い出写真などは排除した話として、絵を描くというおこないと同レベルの目的で考えると(”表現”などという言葉を使わないで言っているだよ)、目の前にある光景というのは写真撮影するという目的の素材でしかないわけだと思うんですよ。
その素材をどう写真として表すかという工夫が、まず面白い。
そして、その元画像をどのように加工して自分のイメージを創り出すかが面白い。
その結果、出来上がったものが他の人にとって、面白く感じられたり、つまらなく感じられたりするのだけれど、それはそれぞれの人の感じ方や理解度の違いもあるし、このように見なさい、このように感じなさいと強制出来るものでもない。
それは絵画や映画などと同じでしょ。
ただ、見た人が自分の感想や疑問を直接ぶつけてきた場合に、相手にあった答えをすればいいのだと思う。
ピカソやマチスやブレッソンなどが、自らの作品を前に意図や見方などを説明する事などなかったように、そんな無粋なおこないは楽しみをなくしてしまうと思う。
が、”うちわ”での話はそれもあるだろうと思う。
うちわとは、同じ事をしている”仲間”ということだ。
最近はこれを”ビューイング”と称して時々行なわれているが、あくまでも内輪話であって、他人の考えている事を聞いて自分の参考にしようという意識の元でされるものだ。
そういう点で”同好の士”というのは、純粋な鑑賞者ではなく、見てもらってもあんまりウレシイ人とは言えない。
もし、写真を撮るのが好きというのではなく、写真を見るのが好きという人がいれば(絵画や映画にはそういう人がたくさんいる)、そういう人に見てもらえる機会がある事が見せるという喜びになるのだと思う。
見せるからには、相手任せにする覚悟が必要なのだ。
それが自分にとって好ましい結果を生まなくても、そういうものだと思うべきものだ。
時には、”作品”を見て、その感想を言うのではなく、そこから自分の”論”を言う人が”評論家”を先頭にいるけれど、それがその”作品”にとって何の意味も持たない事は、撮った写真が被写体に対して何の意味も持たないのと同様だ。
また、撮影者自身がその写真に関して語るのではなく、自分の論を語る事もあるが、その論は写真に何の意味を持つものではない。
撮ったものと撮られたものはまったく別のもの。
撮ったものと語られるものはまったく別のもの。
だから面白いんだと思う。




大阪市福島区海老江1丁目9から
コメント
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