Nonsection Radical

撮影と本の空間

ツイッターに正しい使い方はない

2012年08月16日 | Weblog
ツイッターという”さえずる”サービスサイトがある。
140文字以内で何かを書いてウェブ上に時間軸で積み上げていくものだ。
同様なものにブログというものもあるが、文字制限はなく、やはり時間軸で積み上げていくものだ。
どちらも基本はそれだけ。
その使い方は自由で、日記に利用する人もいれば、メモ、発表の場、交流の場、掲示板に使う人もいるし、つぶやくだけの人もいる。
どのように使うかは、利用者本人が決める事で、変更も自由だし、このように使うべきだというルールもない。
また、どのように使っているかを、いちいち宣言して使っている人もいない。
書いている本人だけが、本人のルールに基づいて文字を積み重ねていくだけだ。
そしてツイッターもブログも第三者が閲覧する事が出来るし(フォローという)、コメントをつける事も出来る。
しかし、双方向ではなく、あくまでも主従の関係だ。
それは、そこの”主人”がルールを自分で決めて、多くがそのルールを表に出さずに運用しているから、平等にはならないのだ。
勝手のわからない他人の家に遊びに行ったようなものだ。
遊びに行った相手がどのような人かよくわかっていれば問題も少ないが、知らない人だと意思の疎通も難しい。
特にツイッターは140文字という制限があり、それゆえ何を言っているか(書いているか)は、ほとんど本人以外にはわからない。
ぎんざなう。
と書いてあれば、それを閲覧した人は、書いた人が銀座に今いるのだろうと想像するが、実態はわからない。書いた理由もわからない。
そういうものだ。
書いた事によってコミュニケーションをはかろうとしているの”かも”しれないし、そうではない”かも”しれない。
ただ、そのように”さえずっている”だけなのが事実だ。

ところが、そんなツイッターをコミュニケーションツールだと一方的に定義して、書いている本人と閲覧している人が、たとえ知らない間柄であっても平等にコミュニケーションできると思っている人がいる。
だから有名人が何かをさえずると、その意図、目的、真意など一切わからないにもかかわらず、コメントすれば何か反応があるべきだ、平等に扱われて当然だと行動する人がいる。
また、”公開”討論の場として、当然登場しなければならないはずだと、勝手に決めつける人もいる。
まったくおかしな話だ。
140文字以内で何かを書いてウェブ上に時間軸で積み上げていく、という事だけが決められているだけなのに。

そうは書いているが、ツイッターを始めた頃には、そのような考えをまとめる事も出来ず、試行錯誤してたくさん失敗もしてツイッターの特性を考え、自分のルールを作り出していった。
特にそのルールを表明しないのは、他の人と同様だ。
最近上杉隆氏に関するサイトを読んでいて、上杉氏のルールの一端を知る事が出来たが、彼は自分のツイッター上に掲載され続ける文面のすべてを見るわけでもないし、問い合わせにすべて答えるわけでもないという。
だって無理でしょ、いうわけだ。
上杉氏をフォローしている閲覧者は、上杉氏がすべて読んで、すべて返事をし、当然自分ともコミュニケーションをとってくれる平等な立場なんだと思っている人も多いだろうが、実際は、これが彼のルールなのだ。

で、satoboのルールはというと・・・
基本的に140文字では、コミュニケーションをとる事は不可能だと思っている。
わずかな文字を読むだけで、それを読んだ他人が自分の思いを100%理解してくれるとは思えない。
32文字の短歌をそれぞれがそれぞれの想像で楽しんでいるのと同様だ。
だから基本的にはツイッターを”つぶやき”の場として、利用している。
なんの説明もなく、ただつぶやいている、あるいは”ぼやいて”いるのだ。
これが自分の理解するツイッターの特性を考えた利用法だ。
ただ、フォローした人が何かをさえずった時があるとする。
そのさえずりに何かコメントをしたいと思った時には@のついた”返信”を送ったりもする。
それはつぶやいた本人宛てへの公開私信だ。
でも、フォローした人の書いてある事が100%は理解出来ない場合(それがほとんどだろう)、理解出来た範囲で思う事を返信ではなく、さえずりとして書くこともある。
理解出来ていないのだからワケのわからない事を返信されても相手は困るだけだし、こちらも相手の”真意”をつかみかねている事を自覚しているので、トンチンカンな事を知りつつさえずるのだ。
このさえずりを誰か閲覧者が自分への事かと”深読み”する場合もあるが、それはどうしようもない。
ツイッターはそういう特性(自分へのさえずりかと思ってしまう意味不明性)があるのだから。
しかし、自分のルールでは@がついた”返信”だけが、特定個人へのさえずりなのである。
また、誰かのさえずりに対して、それから連想する事柄をさえずる事も多い(むしろこちらがほとんどだ)。
ただし、あくまでも連想する事で、そのさえずり自体に100%関連するものではない。
だから当然@はつかない。
連想して勝手に話を広げていき、他の閲覧者にはワケのわからない展開をするが、それも自由に自分の空間を利用してよいというツイッターの基本事項を利用しているだけで、誰に断りを入れる必要もない。
そこに誤解が生まれる事もあろうが、それはそれでツイッターの限界なので仕方ない。
自分は他人のさえずりのほとんどが理解出来ないので、理解出来ない事を自覚した上で、自分への事かぁ、とか、理解されていないなぁ、とか、”深読み”はしない事にしている。
何かわけがわからないけどさえずっているなぁと思うだけだ。

他の利用者も自分なりのルールで運用していると思うのだけど、つぶやきには文字以外に何の背景も説明はないのはどこも同じだ。
つまり何を言っているのか(書いているのか)わからない、のが実情だ。
それを前提にすると、結局”ひとりごと”の場として利用するのが一番だとの結論になるのである。




大阪市福島区海老江2丁目11から


大曽根本通商店街 名古屋市北区


尾道市 東第1踏切から


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする