Nonsection Radical

撮影と本の空間

規模の呪縛

2014年04月26日 | Weblog
仕事先に見積もりが寄せられたのだが、あまりにも少量でどこも引き受け手がないという。
たとえばの話、10センチ長さの糸が欲しいと言われても、5グラムの塩が欲しいと言われても、最低量はもっと多いので、1巻き、あるいは100グラム仕入れて小分けするしかないのだが、10センチ分、5グラム分の費用しか払えないと言われるとどこも受け手がないのは当然だろう。

しかし世の中は大量にモノが売れる時代ではなくなっている。
少量を売って利益を出す事を考えなければならない時代だ。
昔、オリンパスがあるカメラの製造を中止した理由が、最初に大きな製造ラインを作ってしまったので、売れなくなってきた時に少量を作るのでは採算が合わなくなったからだという話を聞いた。
日本の企業は大量生産で会社の規模を拡大してきた。
家電も自動車も食品もそうだ。
どこの会社も立派な大きな工場を持つようになった。
ところが時代が変わって、大量生産しても売れなくなった時に、少量を作る事が出来ない環境になっている。
赤字でも作り続けるか、製造を止めるかの選択しかない。

一方で、この何十年かの”不況”によって、中小企業の仕事の多くが海外に移されて、零細企業は廃業するところが増え続けた。
その海外への仕事も発注量の減少によって受けてもらえないか、少量すぎて海外で作るメリットがなくなるようになった。
そのような“ハンパ”な仕事が国内に戻ってくるようになったが、上記のように少量でも受けてくれていた零細企業はなくなってしまったのだ。
多品種少量生産などという言葉は何十年も言われ続けてきたが、時代は少品種少量生産へ移って来たのではないか。
しかし、大企業でそんな事は出来ない。
多品種であろうと少品種であろうと、大量に作らなければならない規模になっている。
大量に作れなければすべてをやめるの繰り返しで、良い言い方だとリストラ、悪い言い方だと竹の子生活が企業の生き残りの方法になっているのでは。

こんなものが欲しいという個別の希望を大企業が聞いてくれる時代でもなく、小回りの利いた小さな会社がそうそうあるわけでもない。
購買者の嗜好はドンドンと個別化されている。
それに対応出来る方法はあるのか?

そういう時代には、みんなが同じものを欲しがるように思想統一した方が簡単なのかもしれないな。
この国なら出来る気がするけど。




衣棚通から夷川通を
京都府京都市中京区花立町,竪大恩寺町,泉町,弁財天町,二条新町,亀屋町,大黒町,­毘沙門町,薬師町
撮影 2014年3月8日 土曜日 13時40分
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