Nonsection Radical

撮影と本の空間

自分たちのことさ

2016年05月06日 | Weblog
読書感想文を
長らく探していてやっと手に入れた赤川次郎著「プロメテウスの乙女」。
なのにずっと積ん読だった。
それを本棚から見つけて読み始めた。
内容は近未来サスペンスと称されるもので、急速に右傾化が進んだ日本で愛国心あふれる若き乙女たちの組織が反体制派とされる人々を弾圧し、反対勢力は・・・というもの。
読み終わってさっそくネットで感想を検索したのだが、どうも違和感が・・・
ベストセラー作家の赤川次郎が書いたものとして他の著作との比較やストーリーの展開などに読書好きの諸氏が感想を述べているが、あまり触れていない部分が大いに気になったのだ。
1981年の初出なのだが、最近は現在の情勢とからめて、ジョージ・オーウェルの「1984年」とともに近未来予測の”傑作”などと紹介されたりもした。
当然感想にも現状との比較とかで近似性を讃えるものや、イデオロギー小説ととらえる向きがある一方、赤川作品としてはあまり・・・という感想を持つ人とかが並んだ。
小説内では近未来とは1981年から先の19xx年となっていて、とっくにその時代は過ぎてしまっているのだが、では1981年とはどんな年だったのかと振り返れば、当然いろいろなものが起こった年であり、国会では憲法、国際法と集団的自衛権との関わりの質問がされるなどあったけれど、基本的にはキナ臭い時代ではなかった。
あと4年もすればプラザ合意によって急激な円高が起こってバブルが始まるのだが、その前の数年はなんとなく不景気という”いまひとつ”の感じだったと記憶している。
それでも現在と比べるとずっと経済状態は良くて、なにも不安を感じずに生きていける時代であった。
そんな中に右傾化して軍国主義に走る日本の姿を描いた小説がなぜ出現したのか。
感想文の多くが小説中に描かれる右傾化の状況を現在の状況と対比して、作者の”先見の明”を讃えるのだが、そうなのかぁ?
むしろ作中に登場する、あるいは登場しないあまたの”国民”の姿に観察力と先見の明があると言うべきではないのか。
うら若き乙女集団が傍若無人に”非国民狩り”をする姿に、多くの国民が押し黙り、無視し、諦める姿が描かれる。
そして乙女集団が暴走していくのと並行するように、国家も暴走していくのだが、誰も止めることができない。
そこにわずかな数のテロリスト集団が現われ、首相暗殺をはかるのだが・・・
なにも変わらない世の中。
なにも変わらない国民。
その姿こそ、1981年に見えた近未来の日本人の有り様だったのではないのか。
つまり現在の自分たちの姿を描いた小説だったのではないのか。
今の自分の姿を思い描いて読めば、誠に重苦しい気持ちになってしまう話なのだ。
それは世相がどうのではなくて、自分がどうかという話なのだ。



由比の街並み 1
静岡県静岡市清水区由比寺尾
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時30分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする