オヤジってウザくてキモいよねと口にする人って「ほぅ、すごい」と思ってしまう。
自分の感覚を肯定して口に出せる自信があるのだから。
そうやっていろいろなことを自分感覚で判断して生きていけるのだからうらやましいと思う。
こちとらすぐに「こんなことを考えるのって変かなぁ、偏っているよなぁ、異常だよなぁ」と思ってしまうので、自分の立ち位置を偏り側に規定しているのに。
都内某所で写真展が行われていて、それがいわゆる「ろりこんしゃしん」だというので、その”異常性”を投げかける投稿がいろいろ出ている。
感覚的には、昔は良かった、自由に人を撮影できて、声をかけて写真を撮ることもできたぁ、という”ノスタルジー”ものであるのだけど、それが少女を撮った”ろりこんしゃしん”ということで、ふざけるなぁと批判の声が上がったのだ。
声をかけているという”いいわけ”に当事者であった女性からは、当時も怖くてキモくてイヤだったという声も出てきて、当然のごとくろりこんおやじ粉砕の流れとなっているのだが、そのことをどうこう思っているわけではない。
街なかをカメラを持ってウロウロしているのは不審人物で、危険だから通報対象者となるということについてだ。
ここで撮影の自由とか表現の自由とかいうわけではない。
なぜならそれ以前に自由であるからだ。
撮影することだって自由だ。
ただ最近は”肖像権”とか権利侵害に対する問題とバッティングするケースがあり、何も問題が起こらないとは限らない。
権利侵害について「話し合わなければならない」ケースも出て来るだろう。
だからと言って、自粛を求められることもないし、自粛する必要もない。
その時には「話し合い」を持てばいいのだ。
そう思うからカメラを持ってウロウロしているオッサンをキモいとかウザいと断定する”自分感覚”がすごいなぁと思うのだ。
そこには他者に対する”思い”が一切入り込まないでしょ。
すごくない?
一方で、テレビやマスコミが映し出す街なか風景など撮影に対しては寛大な気持ちが働くようで、むしろ逆にうつされて(写され、映され両方の意味)嬉しいとかの感覚がある人も多い。
その感覚はわからないのであるけど。
当然自分の肖像権をどのように取り扱うかは自由なので、誰に撮影を許可するかは勝手に決めていいのだけれど、何に使われるかわからないという点ではマスコミによるものの方がずっと影響力があると思うのだけどなぁ。
だって、それを見た人がどんなことに、どんなふうに使うかはもう手の届かないところで起きることなんだから。怖いよ。
そして怖いということなら、ろりこんおやじがケシカランことをしているので、すべてのオヤジはケシカランし、そういうケシカランことを放置しておくのは”おかしい”という風潮が広がり、街なかを撮り歩くヤツはケシカランという世界になっていくことがもっと怖い。
今回のことで、なかには文筆を生業にする人もいて”参戦”しているけど、たとえば(たとえばではなく実際に現在でもそうなのだが)大手マスコミ(変な言い方)の人間が取材に歩くのはありだが、どこ野馬の骨ともわからないヤツが取材に歩き回るのはキモいし、ウザいし、怖いと”認定”されたらどうするのだろう。
まあ実際には、そんなことは日常茶飯事で、などと言うだろうが、ではなぜ”自粛”しないのか?
そこには自分なりの”正義”があるからなのか。
一方ではキモい、ウザいを肯定し、自分には当てはめないのはどうしてなのか。
それとも、すべてのキモい、ウザいに対しても、自分のことには当てはめなくていいんだよとアドバイスするのであろうか。戦えと。
自由は誰に対しても平等にあるから自由の価値があるので、日頃自由に活動している方々が、世間の風潮が息苦しい方向に向かうことが多い昨今に、一つのことが全体を取り締まる傾向がますます強まっていることに無関心であるはずはないのだろうに、感覚で言葉を発する”軽さ”にすごいなぁと思ってしまうのだった。
由比の街並み 4
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時45分
自分の感覚を肯定して口に出せる自信があるのだから。
そうやっていろいろなことを自分感覚で判断して生きていけるのだからうらやましいと思う。
こちとらすぐに「こんなことを考えるのって変かなぁ、偏っているよなぁ、異常だよなぁ」と思ってしまうので、自分の立ち位置を偏り側に規定しているのに。
都内某所で写真展が行われていて、それがいわゆる「ろりこんしゃしん」だというので、その”異常性”を投げかける投稿がいろいろ出ている。
感覚的には、昔は良かった、自由に人を撮影できて、声をかけて写真を撮ることもできたぁ、という”ノスタルジー”ものであるのだけど、それが少女を撮った”ろりこんしゃしん”ということで、ふざけるなぁと批判の声が上がったのだ。
声をかけているという”いいわけ”に当事者であった女性からは、当時も怖くてキモくてイヤだったという声も出てきて、当然のごとくろりこんおやじ粉砕の流れとなっているのだが、そのことをどうこう思っているわけではない。
街なかをカメラを持ってウロウロしているのは不審人物で、危険だから通報対象者となるということについてだ。
ここで撮影の自由とか表現の自由とかいうわけではない。
なぜならそれ以前に自由であるからだ。
撮影することだって自由だ。
ただ最近は”肖像権”とか権利侵害に対する問題とバッティングするケースがあり、何も問題が起こらないとは限らない。
権利侵害について「話し合わなければならない」ケースも出て来るだろう。
だからと言って、自粛を求められることもないし、自粛する必要もない。
その時には「話し合い」を持てばいいのだ。
そう思うからカメラを持ってウロウロしているオッサンをキモいとかウザいと断定する”自分感覚”がすごいなぁと思うのだ。
そこには他者に対する”思い”が一切入り込まないでしょ。
すごくない?
一方で、テレビやマスコミが映し出す街なか風景など撮影に対しては寛大な気持ちが働くようで、むしろ逆にうつされて(写され、映され両方の意味)嬉しいとかの感覚がある人も多い。
その感覚はわからないのであるけど。
当然自分の肖像権をどのように取り扱うかは自由なので、誰に撮影を許可するかは勝手に決めていいのだけれど、何に使われるかわからないという点ではマスコミによるものの方がずっと影響力があると思うのだけどなぁ。
だって、それを見た人がどんなことに、どんなふうに使うかはもう手の届かないところで起きることなんだから。怖いよ。
そして怖いということなら、ろりこんおやじがケシカランことをしているので、すべてのオヤジはケシカランし、そういうケシカランことを放置しておくのは”おかしい”という風潮が広がり、街なかを撮り歩くヤツはケシカランという世界になっていくことがもっと怖い。
今回のことで、なかには文筆を生業にする人もいて”参戦”しているけど、たとえば(たとえばではなく実際に現在でもそうなのだが)大手マスコミ(変な言い方)の人間が取材に歩くのはありだが、どこ野馬の骨ともわからないヤツが取材に歩き回るのはキモいし、ウザいし、怖いと”認定”されたらどうするのだろう。
まあ実際には、そんなことは日常茶飯事で、などと言うだろうが、ではなぜ”自粛”しないのか?
そこには自分なりの”正義”があるからなのか。
一方ではキモい、ウザいを肯定し、自分には当てはめないのはどうしてなのか。
それとも、すべてのキモい、ウザいに対しても、自分のことには当てはめなくていいんだよとアドバイスするのであろうか。戦えと。
自由は誰に対しても平等にあるから自由の価値があるので、日頃自由に活動している方々が、世間の風潮が息苦しい方向に向かうことが多い昨今に、一つのことが全体を取り締まる傾向がますます強まっていることに無関心であるはずはないのだろうに、感覚で言葉を発する”軽さ”にすごいなぁと思ってしまうのだった。
由比の街並み 4
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時45分