♫まりあ☆の、ちょっぴりスピリチャル♬

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ギフト。

2009-12-03 10:29:25 | 日記
まだ引きずっているのかと言われるだろうが、先日の【鳩事件】、

実は天からの【ギフト】だったと気がついた。

私は、犬を赦したことにより、過去の自分を赦したのだった…。



☆ 私がある時思い出した過去生に、こんなものがある。


≪私はその過去生で、中国の、美しく才気溢れる、若き将軍だった。
 自分の才覚で、のし上がったというよりは、多分どこぞの名門の、お坊ちゃまだったのだろう。

 ある時私は皇帝の御前にひざまずき、直々に、大軍の指揮を任せられる光栄にあやかった。

 歓喜にほほを染めた若者は、興奮のうちに自分では完璧と思える作戦をたて、戦いに臨んだ。
 しかし、何かの理由で、兵だけを先に行かせ、自分は送れて現地に到着することとなった。

 息せき切って馬を走らせ、戦地に到着した私が見たものは、見渡す限りの死体の山だった。
 私の何千何万という兵は、昨夜の内に敵の奇襲攻撃に遭い、全滅したのだった。

 あまりのことに、言葉がなかった。
 私の作戦はすべて、敵に読まれていたのだった。
 そして見事に裏をかかれ、いとも容易く全滅させられた…。

 屍となり、万里の長城を埋め尽くすかのごとく、累々と横たわる兵たちを前に、私は地面に崩れ落ち、息が止まるほど泣いた。
 自分の未熟さが悔やまれ、何故、軍に遅れてしまのかと激しい罪悪感に打ちのめされた。
(私の失敗だったのに、私だけが、助かってしまった…。)

 私の命令に従ったばかりに、無駄死にしてしまった兵達に、私は何と詫びたら良いのだろう。
 死んで詫びると言ったところで、私は1度しか死ねない。死んだ者の数だけ死ぬのでなければ、償いになろうか。

 何千何万の者には、それぞれの家族があり、人生があった。

 そして、私は固く自分に誓った。

     【私は決して幸せになってはならない】


 その時の人生は、その後長くは続かなかったらしい。

 私は何をするにも無気力な呆けた人となり、失意のまま誰に顧みられることもなく、生涯を終えた。≫


その人生を思い出した時も、シフトの時期だったようだ。
それを思い出すことにより、私は、長い間私を縛ってきた【幸せになってはならない】という思い込みが、
どこから来ていたかを知った。
そして、それに関して【誓いの破棄】をすることで、心に希望の明かりが差したのである。

     【私は幸せになってもいい


で、このことについては、それでもう終わったと思っていた。
でも今回の鳩ことを思い巡らせていた時、ふと、これは【私への赦し】だったのだと気づいたのだ。

私は誓いは破棄したものの、【赦して】は、いなかったのだ。
罪悪感は、深いレベルで残ったままだった。
それが、この衝撃的な事件を経ることで、愛による赦しがどんなものか、身を持って体験し、
同時にその過去の傷も開放されたのだった。

【自分の外側にあるものは、内側の投影。
外の世界で起こることは、実際は内側で起こっている。】

だから、犬を赦すと言った時、
あんなにも、周りの風景までもが、明るく感じられたのだ。
悲しみが溢れ出ているのに、何故、ハートは燦然と輝きを放っているのか?!
その時疑問に感じていた謎が、これで解けた。


現世で、浄化、解放の際、悲惨さや痛みが伴うことはよくある。


しかしながら、それを越えたこの天からのギフトに、
私は深く感謝すると共に、
これに協力し、身を捧げてくれた鳩の魂の尊さに、頭を垂れた。

精神体から見た真実

2009-12-01 08:22:15 | 日記
きのう書いた、鳩事件に関して補足。

きのう物事の真実について、表面的なことに踊らされてはならないと書いたけど、
ある意味それもまた、一つの視点からの見方である。

私には、多分に対象に感情移入する傾向があり、それを【愛】と誤解しているふしもある。
それが、私の生来の気質なので仕方ないのだが…。
またこれも、この人生をどう体験するか考えられた上での、【初期設定】の一つなのだろう。

というわけで、鳩の不慮の死について、きのう書いた内容は感情体を主とした真実である。

精神体を主としてみれば、また違う真実?が見えてくる。

その鳩は長年私に慣れすぎていたため、野生を忘れ油断していた。
その理由の一つとして、私がエサを与えたりして、野生のものに干渉し過ぎたことが挙げられる。
そのため鳩は、隙を付かれて、決して俊敏とも言えないペット犬(スピッツ)にしとめられるという事態に見舞われたのである。
体も衰えていたのかもしれない。
この状態では、いつかは何かの餌食になっていたと思われる。

前から思っていた。
野生のものに、可愛いからといって食べ物を与えてはならないと。
それでも、小鳥が好きだったため、
最初は冬の間だけ、メジロなどの姿を見たくて庭にエサを置き出したのだが、
いつの間にか、毎朝、鳩と雀がエサを待つようになっていった経緯があった。

こうして見ると他のテリトリー(野生は野生)の侵害をしないことの大切さが見えてくる。
善意?からであっても、結局それがアダになることもあるからだ。
大きな視点からみればそれも良しなのかもしれないが…。


きのうと矛盾するかもしれないが、ここで私の言えることは、
本当は、【物事には真実などない】ということだ。
その人が選択したこと、信じたことが、
その人にとっての真実になる。
だから、【私は何を真実とするのか】、ということが大切なのかもしれない。
それによって、この世界での体験が、随分違ったものになってくるだろうから。

物事は、事象なのだ。
それに意味合いをつけるのが人間だ。
誰にでも、過剰に反応したり、無視できない領域や分野があるはずだ。
そこに、自分を解放するカギが眠っていることも少なくない。

事象を在りのままにただ受け取ること。
流すこと。
見守ること。

それが、この3次元と呼ばれる世界を超えた者、越えようとしているものの、
普通の姿なのかもしれない。

釈迦は中庸を説かれた。
中庸もまた中々のクセモノと感じる。
シンプルなのだが奥が深い。
それもまた、個人の捉え方次第とも言えるが…。