むさでん業務日誌帳(改)

むら@車掌の徒然模型日記・・・・(ちょっとだけ愚痴もあるよ!)

岡山の路面電車・・・・・

2011-10-21 23:15:00 | 車掌@コラム

今日の特集は岡山の路面電車・・・・。かつて 全国に路面電車が走っていた頃は その事業主は公営のものが多かったものですが 大都市圏を中心に地下鉄へ変貌をとげてしまったり、バス路線に変更されてしまったりしたものです。 そんな中、当地の路面電車は公営路線では無く、岡山電気軌道という私鉄が運行しているのが特徴です・・・。 また 早くから車両への冷房装置搭載等、路面電車の近代化に取り組んでいる頼もしい鉄道線なのです・・・・。

そんな岡山の路面電車を紹介してみましょう・・・・。 出張時の「ついで撮り?」なので 所属全形式の網羅とはいきませんでしたが 岡山の路面電車はこんな感じ・・・・というのが伝えられればそれで十分。

7100形・・・・従来車の足回り部品を利用して1981年に製造。写真の7101号車は岡山電軌の子会社となった 和歌山電鉄 貴志川駅の駅長 猫の「たま」を模したイラストが描かれた「たま」電車となっています・・・。本家の和歌山鉄道にも このイラストが描かれた「たま」電車が走っております・・・。 何より猫好きにはたまらない電車ではないでしょうか?

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こちらは7200形 7202号車・・・・。こちらも足回り流用の準新車というところでしょうか?流用元の車両形式の違いにより形式が分けられているようです・・・・。 訪問時、この車両は地元放送局の全面広告が施されていて「たま」電車同様に愛らしいデザインが施されていました・・・・。

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次は7400形電車 7401号車。 これも足回り流用の車体更新車・・・。 車体デザインは先の車両達とほぼ同じのようです・・・・。岡山電軌の電車は 運賃収集の都合からか 車体側面にある乗降ドアが両端に寄った2か所のみ。 この車体デザインも岡山ならでは?なのかもしれません・・・・。車体両端に寄ったドア配置は古い路面電車に良く見られたものですが これは昔の2人乗務(運転手&車掌)時代の名残なのでしょうが ワンマン運転が一般となった現在では 混雑時の乗降に時間が掛ってしまうデメリットもあるようです。 近年ではドア位置を前後でずらしたデザインが多く普及しています・・・。

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こちらは7500形電車 7501号車。 訪問当時は全面広告がなされていませんでした。広告主が付くまでの仮の姿なのでしょうか? まるでサーフェイサーを吹いた下塗りのまま走っているようで ちょっと珍しく思えたものです。カメラを向けながら 「なんだか高野豆腐が走ってる・・・・!」って呟いたような気がします・・・・。

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7600形 7601号車・・・。7000番台のシリーズもここにきてデザインを一部変更、前照灯の配置や側窓などに変化が見られます・・・・。側窓上部のスイング式開閉ドアも この頃流行ったデザインでした。 窓ガラスが暗く見えるのは 熱線吸収ガラスの採用によるもののようです・・・・。

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7700形電車 7701号・・・・。 前面部分のデザインに 更なる変化がみられます。

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7900形電車 8101号車・・・。 「えっ? 8100形じゃないの?」って思っていたら 車籍上は7900形電車のグループに属する、という事を後日(というより 今回初めて・・・・)知りました・・・・。

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これも同じく7900形電車の8301号車・・・・。当地の路面電車の特徴としては屋上部分のパンタグラフがあげられます。 やぐらに載った小型のパンタグラフはここだけで見られるものです・・・・。

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最後に登場するのは最新鋭の路面電車9200形電車・・・・。愛称は「MOMO」・・・。御当地 岡山といえば桃太郎・・・・いや、良いネーミングだと思いました。 外国製LRVの技術を導入した新潟トランシス製の意欲作・・・。2車体連接構造の大型車となりましたが 全体的に丸みを帯びた欧風スタイルの車体は非常にスマートで眺めているだけでもホント格好良い!。 この電車、外装だけでなく内装もまた凝ったものが採用されているようです。 何よりバリヤフリー化を目指した超低床式電車が いまこうして現実のものとなった訳で、 同様の車両が富山ライトレールや万葉線にも導入されており 何れも路面電車の未来を考える上でも この電車の存在は相当大きいものです。 

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今月の鉄道誌面を眺めていたら 近日中に この「MOMO」の増備車が入線するとの事。 次回はいつになるかは判らないけれど 是非再訪してみたいと思っています・・・・。 

以上、本日は岡山の路面電車を紹介してみました・・・・。


函館の路面電車・・・・・

2011-10-20 20:38:00 | 車掌@コラム

豊橋の路面電車を撮影してから 手持ちの路面電車画像を整理する意味も含めて このブログにアップしてみることにします。 なにゆえ 撮影時期がまちまちなので リアルタイムなものではありませんが まずは地域ごとに整理したうえで撮り溜めた画像の中からカタログ的に紹介していこうと思います。 

まず初めは 函館の路面電車を取り上げる事に・・・・。

函館の路面電車は公営交通で 正式には函館市企業局交通部というらしい・・・・。工場長としては以前の函館市交通局といったほうがしっくりくるのですけれど・・・・。

それではいきます・・・・・

710形 721号・・・・1961年 新潟鐵工所製・・・・・。 かつては函館の主力電車でした。 当地 函館だけではありませんが 路面電車には全面の車体広告がつきもの・・・・ カラフルなカラーリングも合わせてご覧いただければ幸いです。 また この広告も数年単位で切り替わっていくものなので 現在は既に異なったカラーを纏っている車両があるかもしれません・・・・。

全国区(というより世界的?)の企業広告・・・・コカ・コーラ塗装。 当然ながら赤一色でした。

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800形 810号・・・・・1964年 新潟鐵工所製・・・・・。こちらもお馴染み「BOOK OFF」号。

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2000形 2001号・・・・・ 1993年 アルナ工機製・・・・・。 企業広告には地域性のあるものも多いので 旅人としては それを眺めているだけでも楽しいものです・・・・。

この2000形は 27年ぶりに投入された新型車両。 函館市最初のVVVF制御、カルダン駆動を採用した近代的な車両です・・・。 但し北国という事からか冷房装置はありませんでした・・・・。

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3000形 3001号・・・・・前掲の2000形と同時に登場。 こちらは冷房装置を搭載、回生ブレーキ装備の電車・・・。函館は坂の街なので回生ブレーキは有効なのでしょう。 撮影時にはJR北海道の広告電車として走っていました。 良く見ると車体側面が789系 スーパー白鳥号の絵が描かれています・・・・。

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こちらは801形を車体更新して新たに8000形として登場したもので 1993年 アルナ工機製。更新車という事で足回りは従来の吊りかけ駆動のままで活躍中・・・・・ 御当地の航空会社である AIR  DO の広告が北海道らしさ?を演出しているような・・・・ちょっとイイ感じ?

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最後は 観光用として使用されている30形 37号・・・・通称「箱館ハイカラ号」。 函館市市制施行70周年事業の一環として1993年にササラ電車(除雪用電車)として残っていた車両を復元改造したものだそうです・・・。 元は1910年 天野工場で製作、千葉県成田市で活躍していたものを1918年に函館に譲渡・・・、以来 当地で活躍してきた車両との事。 明治時代ならではの木造車体が忠実に再現され、ブリル製2軸の足回りも非常に魅力的・・・・。運転席は前後のデッキ部分にあります。 春~秋の観光シーズンを中心に運行されているようですが 冬季は車庫で冬眠?してしまうようです・・・・。 ここは函館、酷寒の北国ですから 冬季は運転手さんが大変なのでしょう・・・・。

函館駅前の急カーブで捉えた37号・・・。2軸の足回りは全く衰えを感じさせず ギューンといった感じ?で軽快に加速していきました・・・・・。

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以上、今日は函館の路面電車を紹介してみました・・・・・。


青梅線・・・ついでの話。

2011-03-06 21:31:00 | 車掌@コラム

模型のほうで青梅線の話題が出て来ましたが・・・当の工場長も色々な想い出が蘇ってきました。そんな訳で せっかくなので?別項立てにて青梅線の想い出話でも書き綴ってみる事にします・・・・。

模型さながら・・・・旧型国電時代の青梅線のおはなし・・・・

母の実家が青梅ということもあって 幼少期の私(幼稚園に通う前だった・・・?)も何回か乗車していました。 当時の青梅までのルートは?というと・・・路線バスに揺られて立川へ向かい、そこから青梅線に乗車して青梅へ向かう・・・といった 今では想像も出来ない経路でした・・・。

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当時・・・、所沢駅西口から立川駅北口行きの西武バスが1日に数本走っていました(現在は廃止)。 自宅に程近い「桜淵(さくらぶち)」という名前のバス停 (※こちらも今はありません)から このバスに乗車して立川へ向かい、立川から青梅線で実家へ向かう、という行程でした。 当時の我が家には未だマイカーが無く 実家へ向かう時にはこのルートを使っていた様子・・・。我が家にマイカーがやって来たのは妹が生まれた47年夏の事。 仕事柄、父は運転免許は持っていたようでしたが 職場への通勤にはスーパーカブを使っていた・・・、もっとも当時、うちの近所でも車を持っていた家は僅かなもので・・・それも殆どがスバル360とかフロンテとかの軽自動車・・・・。そんな中で ついに我が家でも二人目の子供が誕生間近・・・・それに合わせてのマイカー購入となったようです。

さて・・・、当時の所沢は本当の田舎街で・・・我が家から程近い 先のバス通りの県道も未舗装の砂利道・・・・、それだけに雨なんぞ降ろうものなら もう大変!な時代だったようです。何より立ったままバスに乗っていられないほど揺れたそうで・・・・当時の苦労が偲ばれます。 話は脱線しますが 今の最寄り駅である西武狭山線の下山口駅・・・、当時は駅自体が無かったんですよ! ※下山口駅は戦前に開業していましたが 戦時中に不要不急路線ということで一旦廃止され、戦後もそのままの状態が続いて 再度駅が開業するのは昭和52年6月4日まで待たねばなりませんでした・・・・ちなみに この開業日には 学校に通う前、父と一緒に西所沢行きの始発電車に乗車してきました・・・・この時から 私と狭山線の付き合いが始まった、と言っても過言では無いでしょう・・・・。事実、それまでは「ただ眺めるだけの電車」だった訳ですから・・・・・。

そんな訳で 当時は家の前を電車が通るけど 最寄駅が無い状態・・・・、地元の人は並走する西武バスを利用して 所沢市内へ買い物に出掛けたものです・・・。それが 西武ライオンズの誕生と共に 急速に狭山線のインフラ整備が進み 電車の利便性が飛躍的に向上したのとは裏腹に 野球開催時における道路交通事情の悪化(開かずの踏切)によって長年利用してきた 立川・狭山湖⇔所沢駅西口間のバス路線もやがて廃止に追い込まれる事となった訳です。ちなみに 今現在では 西武ドームでの野球開催時、立川駅から西武ドームまで臨時の路線バスが運行されていますが この路線は 在りし日の立川行きバスを偲ぶ事が出来ます・・・。

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と・・・話がだいぶ脱線してしまいましたが 青梅線の話に戻る事にします。

立川から乗車する青梅線・・・・。当時は今のように中央線との直通運転などはありませんでした。唯一 休日の奥多摩・五日市方面への行楽列車が乗り入れて来るのみの典型的なローカル線だったように思います。先のとおり 自分の記憶に残っているのは昭和46~7年の頃のこと・・・、当時の青梅線は未だ73系電車が主流だったと記憶しています。ボロボロ?に見えた茶色の車体・・・、片開きドアから車内に乗り込むと スタンションポールが立っていて、紺色モケットの座席に腰掛けてみれば 異様な座り心地だったように思えます(座り心地って・・・幼少期だから良く判るまい・・・)。紐で編まれた 本当の「網棚」がついていて・・・床板はコールタールの染込んだ木製板・・・如何にも機械?といった臭いだったのを憶えている。 やがて短い発車ベルの後、車掌さんのホイッスル一笛・・・、プシュ~っとドアが閉まれば 僅かの間をおいて グォ~ン・・・と 特有の吊り掛け駆動を響かせて走り出します・・・。 青梅線の歴史を辿れば 元は青梅電気鉄道という由緒ある私鉄で・・・、 戦時中に国有化されはしましたが 歴史のとおり 駅間が比較的短く 電車もそれほど高速では走りません・・・、西立川、東中神、中神、昭島、拝島・・・と進みます・・・。この付近・・・幼少期ながら記憶にあるのは たぶん日野自動車のトラック工場に並んでいた大量のトラックと 米軍横田基地周辺の米軍キャンプ等々・・・・、ベトナム戦争も終焉を迎える頃だったのかもしれませんが 横田基地界隈にいると 頻度に巨大な輸送機(4発レシプロの大きなやつ・・・・C-97とかだったのかな?)が離着陸していて それは青梅線の車窓からも眺められましたよ・・・。

拝島に到着すると必ず見られたのが 青梅線名物の石灰石を満載した貨車の列・・・・。それに横田基地に出入りする航空機燃料輸送用のタンク車たち・・・。特にタンク車は米軍御用達?ということで標記類が他の国鉄の貨車とは少々違った趣きで印象的でした・・・・。また拝島は八高線との乗り換え駅・・・・、運が良い時?には八高線のディーゼルカーを見る事も出来ました・・・・。当時は絵本でしか知らなかったディーゼルカーでしたから さぞかし喜んだ事でしょう・・・・。 拝島を過ぎれば再び民家と畑の車窓が続き いよいよ終点の青梅駅へ・・・。

青梅駅には上屋付きの大規模?な電留線 があって さながら車庫の様相を呈していました。 そして駅構内には茶色い電車が溢れていた・・・・今だったら まさに天国?とも思えるぐらいの光景だったのでしょうが 当時の自分はそのまま母に手を引かれ そそくさと駅を後にしたのでしょうね・・・・。

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青梅駅から歩いて15分程のところにある永山公園・・・・、この一角に有名?な「青梅鉄道公園」があります。 ここにも本当に良く連れて行って貰ったものです。 日本の鉄道史上、貴重な蒸気機関車や電気機関車たちが静態保存されており、今現在でも訪問可能です。 蒸気機関車が身近に感じられるようになったのは まさにこの公園のおかげなのでしょう・・・・。火を落とした蒸気機関車ではありましたが 当時の私にとっては機関車の大きさを肌身で感じ、その巨大な鉄の塊に夢を抱いたものです・・・・・。

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考えてみたら今から40年も昔の話・・・・

今となっては良い想い出に違いありませんし、何より自分の鉄道好きは この幼少期に体験した青梅線がルーツとなっていると言っても 恐らく間違いでは無いでしょう・・・・。 最近でも 愛車で青梅へ行く機会はしばしばあるけれど・・・・鉄道公園には行ってないな。自分の鉄道趣味の原点を確認すべく 近々再訪してみようかな? って思うようになりました・・・。

それと・・・先のクモハ40もここに保存車があるんだった・・・・!

こりゃ 早く行かなければ・・・・。 


秋の日の想い出・・・・・。

2010-09-29 22:17:00 | 車掌@コラム

ほんの半月前まで 猛暑に見舞われていたのが嘘のように すっかり涼しくなりました。 昨日の外出時も 一応、客先に出向く!ということで ジャケットを羽織って出掛けて来ましたが 暑くもなく寒くもなく・・・すっかり秋モードに入ったようです。 そういえば 昨日・・・車中から栗拾いをしている老夫婦を見掛けたんだった。 栗農家の方かどうかは判りませんが どこかのんびり、というかほのぼのした印象がありました。やっぱり田舎はイイな!って思います。

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栗といえば 自分には嫌な思い出があるのです・・・・

幼少の頃の事・・・、まだ幼稚園児だった頃の出来事だと思います。

当時、自宅の前には雑木林が広がっていて そこが遊び場にもなっていました。 春になれば芝桜の花弁を摘んで蜜を吸ってみたり、タンポポの綿毛で遊んでみたり・・・と、懐かしい想い出もあるのですが、一番の想い出というのは やっぱり悪い事が記憶に残るみたい・・・・。

恐らく晩秋、というより初冬の頃の事かもしれません・・・。いつものように雑木林で遊んでいると 栗の「いが」がたくさん転がっているのを見つけました・・・野生の栗の木が数本生えていたのでしょう。 子供ながらに「これは面白そう!」と この「いが」を拾い集めようと 駆けだしたその時、ちょうど足元にあった木の根につまづいて そのまま栗の「いが」の上に転んでしまいました・・・・。 野山で遊んでいれば転ぶことなど しょっちゅうあったし、だいたい、毎日赤チンのお世話になっているぐらいでしたからビックリもしなかった。 けれど、起き上がろうとしたその時、両手にいっぱいの「とげ」が刺さっていて それはもう大変・・・・。チクチク痛いし、擦っても取れないし・・・で、大泣きして家に帰ったのを憶えています・・・。でも、悲惨だったのはその後の事・・・、家に帰って 一目で全てを把握した母は 何故か笑っていたように思えます。(その辺は定かではありませんが・・・) 

とりあえず手を洗いながら ぬるま湯を張った洗面器の中に手を入れていました。 恐らく手をふやかすためだったのでしょう。 そして「とげぬき」を持った母が 私の手をとって とげを抜こうとするのですが それが痛くてたまらない。あまりの痛さにさらに大泣き、さらにはじっとしていないものだから とげもろくに抜けないし・・・・。

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夕方、仕事から帰って来た父も加わって とげの摘出作業となりました。 父は僕を羽交い締めにしながら 手を押さえ、母が「とげぬき」で抜いていく・・・。僕は全く持って体の自由を奪われたまま 絶叫し続けた・・・・! というのが本当のところなのかな・・・? (よその家から覗かれていたら それこそ今で言う「児童虐待」・・・もっとも当時はそんな言葉は無かったのでしょうけれど・・・) その時間がどのぐらいの長さだったのかは 今となっては判らないけれど とげを抜き終わった後は、汗だくで非常にぐったりしていたのだけは憶えています。

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今でもこの季節、我が家で栗を見掛けると そんな話が出てくる始末。 父も母も 大笑いしながら想い出話に花を咲かせていますが 格言う私も その「事件」の主人公?として 只々笑うしかありませんが、今となればそれも良い思い出なんでしょう・・・。

と・・・、今日は趣味的なネタが見つからなかったのでこんな話題にしておきました。


「さよなら」を言う前に・・・・

2009-03-12 09:58:38 | 車掌@コラム

2009年3月12日木曜日・・・・

我が愛する九州行き夜行寝台特急列車全廃の日まで 残すところ あと2日となりました・・・・。

私 工場長にとっての惜別の想いは 明日のブログに書くこととなりましょう・・・・

東京は 春の日差しが眩しい朝を迎えましたが この晴天も今日一杯の様子・・・・

天気予報によれば明日の天気は下り坂・・・・夕方には雨模様となるようで・・・・

東京発のラストランは雨模様の中 帰らぬ旅路を往く事になりましょうか・・・・

何でも 「春の嵐」とも言うべく 風が強まるとの事ですから 最期の力走に影響しなければ・・・・と 少々心配な工場長です・・・・強風による運転規制に掛かってしまうと 終着駅を待たずに 途中、運転打ち切りになる場合もある事ですし・・・・14日土曜日からは 新たなダイヤが敷かれているので 尚更の事・・・・・まあ、その辺りのところは JRの良識?にお任せする事に致しましょう・・・・。

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さて・・・私自身がセンチメンタルな気持にならないうちに ちょっとしたコラムでも書いておく事にします。

ダイヤ改正以降でも 東京発の夜行寝台特急列車は残ります・・・・

サンライズ瀬戸&サンライズ出雲・・・・東京を出発する時点では両列車とも併結されていますから 1本の列車という勘定となりますが・・・・。 この両列車・・・使用車両は285系という「寝台電車」です。それも JRになってから造られた新しい車両・・・(既に新しくはないのかな・・・?)、今回廃止となる 富士、はやぶさ で使用されてきたのは国鉄時代に作られた「寝台客車」・・・・ブルートレインと言ったほうが判り易いと思いますが、客車を牽くには 当然ながら 「機関車」も必要となる訳です。

今回のダイヤ改正について 私が個人的に感じている事・・・・

それは東京駅に「機関車」を必要とする列車が無くなってしまった・・・という事実です。

これは 日本の鉄道の歴史上、かなりのインパクトのあるものと言えるでしょう・・・・

日本に鉄道が開通してから 137年目・・・・ついに東京駅から機関車が消えてしまいます。

これも時代の流れと言ってしまえば仕方がない事なのかもしれません。

東京駅を出入りする機関車が居なくなってしまうなんて・・・・

少年時代の思い出が・・・・本当に過去帳入りしてしまうようで・・・・・・

一抹の寂しさを憶えます・・・・。