上陸から駆け足でずっと急かされた軍艦島ツアー
とうとう1時間弱の滞在が終了し、端島を出航します
端島神社が見送りしてくれました
お祀りされていたのは金比羅様
毎年、山神祭が開かれ、4月3日だけは炭鉱作業も全て休みになったと言われています
最高で5000人が住んでいたという軍艦島
水の確保・排水など女ならではの心配や不安は想像に難くありません
それでも物やお金があった端島は住民にとっては都だったのかな?
当初護岸工事と飯場程度で始まった端島炭鉱は3倍の大きさになり軍艦島呼ばれるようになったのだそうです
端島から2つ隣の高島にてトイレタイムの確保と軍艦島の模型を使っての説明がされました
島の端にあったプールは海水を貯めたもの ほとんど使われたことはなかったそうです
時代とともに変化した鉄筋コンクリート造りの建物の実物が残っているのは
建築学的な視点からは大変な価値があるのだそうです
ましてや人の手が入らず、自然に朽ちていくだけの状態は他に類がないからです
ガイドさんの話で興味深かったのは
「軍艦島で一番偉いのは、長崎県知事でもおまわりさんでもなく『炭鉱長』」 という話でした
それだけ島の社会=炭鉱だったのですね
長い間無人島で島の上陸が禁止されていましたが、2009年より一般人の一部立ち入りが許可されました
でも、端島に住んでいた方々は
「たとえ荒れ果てようとも 朽ち果てようとも
世間から棄てられた島と言われようとも ここは私たちの大切な故郷
もとの岩礁の姿に戻るまで 想いはこの島に残り続けます
だから 荒らさないで下さい 汚さないで下さい 盗らないで下さい
この願いを聴いて下されば 私たちは感謝すると共に 貴方の無事をお祈り致します」
と、島にプレートを残しています
島を離れたとは言え、住民の方々の気持ちを知って
現在の軍艦島人気に乗っている現在を、ちょっと考えさせられました
高島にある炭鉱の資料館
たくさんの炭鉱で使っていたであろう物品が並べられています
三菱のマーク
長崎の「炭鉱社」のバルコニーに貼ってあった有田焼のタイル
以前上野の岩崎邸に行った時もかなり手の込んだ装飾を見て驚いたことを思い出しました
他の銅像は海に向けて指を指すのが多いと記憶しますが
高島の岩崎弥太郎の銅像は炭鉱のある島の中心に向けています
創業時の九十九商会が船旗号として採用した三角菱が現在のスリーダイヤ・マークの原型です。
これは岩崎家の家紋「三階菱」と土佐山内家の家紋「三ツ柏」に由来すると言われています。
後に社名を三菱と定める機縁ともなりました。(三菱グループHPより)
産業革命はメリットもデメリットも大きかったのだと、改めて考えさせられました