醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  652号  かたつぶり角振り分けよ須磨明石(芭蕉)  白井一道

2018-02-23 14:48:09 | 日記

 かたつぶり角振り分けよ須磨明石  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「かたつぶり角振り分けよ須磨明石」。「この境、[這ひわたるほど]といへるも、ここの事にや」と前詞がある。『猿蓑』に載せている。芭蕉45歳の時の句。
華女 「這ひわたるほど」とは、須磨から明石まではかたつむりが這って行けるくらい近いということでいいのよね。
句郎 その位近いということなんだろう。その近い所が遠い遠い思いをした源氏物語の一場面を芭蕉は思い出していたのではないかと注釈している人がいるんだ。
華女 『源氏物語・須磨の巻』ね。
句郎 そうなんだ。「明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の娘を思ひ出でて、文など遣りけれど、返り事もせず、父入道ぞ、
[聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もが]
と言ひけれど、[うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし]と、屈じいたうて行かず」とね。
華女 恋した娘が近くにいるのに受け入れてくれないのではないかと足が動かないということね。
句郎 近くて遠い須磨明石ということなんじゃないのかな。
華女 芭蕉はじっとかたつむりを見ているのよね。意を決して訪ねるのか、止めるのか、逡巡する気持、分かるわと言ってるということなのね。
句郎 そんな解釈はどうかなと思っているんだけど。
華女 「角振り分けよ」とは、どっちにするのと、いうことなのよね。
句郎 華女さんだったらどうするの。
華女 私ね、昔、好きになった人がいたのよ。その時、私どうしようかなと思ったの。私、意を決して彼の靴を黙って毎日磨いてやったの。彼には彼女がいたのを知ってはいたけど、我慢して毎日靴を磨いてやったら、彼の気持ちが私に向いてきたのよ。そうして彼をゲットしたことがあったわ。
句郎 へぇー、いろいろ男をゲットする健気なところが昔の若い女にはあっんだね。
華女 そうよ。昔の女は頼りになる男を得るには命を張るぐらいの気持ちがあったのよ。
句郎 「かたつぶり角振り分けよ須磨明石」。この句はいろいろな読み方ができる句のようだ。そのような句は名句というか、秀句なのかもしれないな。
華女 「須磨明石」という言葉からは夏の浜辺というイメージが浮かんでくるわ。今、気付いたわ。逡巡しているのではなく、意思をはっきりしろと励ましているということなんじゃないかしら。
句郎 私もそう思うな。芭蕉はウジウジした人間じゃないよ。意を決して決行するタイプの人だったんじゃないのかな。
華女 私もそんな気がするわ。
句郎 芭蕉のこの句は名句だと思うんだ。「かたつむり甲斐も信濃も雨の中」飯田龍太の句だ。飯田龍太は芭蕉の句をしっかり学んでいると思うんだ。
華女 「須磨明石」を「甲斐も信濃も」と言ったところに龍太の手柄があるということね。
句郎 カタツムリは雨の中、甲斐も信濃も雨の中。かたつむりが決まっている。動かない。芭蕉の名句が現代の名句を生んだ。

醸楽庵だより  651号  ほととぎす消え行く方や嶋一ツ(芭蕉)  白井一道

2018-02-22 11:18:31 | 日記

 ほととぎす消え行く方や嶋一ツ  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』に載せている。
華女 この句の「ほととぎす」、決まっているの、それとも動くの。
句郎 ホトトギスは初夏を告げる鳥だといわれているからね。初夏の海を表現しているこの句の場合「ほととぎす」は動かないんじゃないのかな。ほかの言葉、季語を変えることはできないように考えているんだ。
華女 今、「ととぎす」という鳥に興味、関心を持っている人って、いるのかしら。
句郎 ほととぎすの鳴き声も分からない人が多いのじゃないのかな。
華女 昔、夏の訪れを告げるホトトギスの初音を待ちわびる気持ちを詠むのが本意だと短歌の時間に教わったような気がするわ。
句郎 芭蕉の時代から戦前の頃までの日本人にとってホトトギスは切っても切れない身近な鳥だったんだろうね。
華女 芭蕉の時代からじゃないのよ。万葉の時代からなのよ。だからホトトギスには多くの書き方や呼び方があるんだと思うわ。
句郎 そうだよね。調べてみたら「杜鵑」「時鳥」「子規」「郭公」「不如帰」「杜魂」「蜀魂」、こんなにもあったよ。
華女 その他にもあるらしいわよ。
句郎 「文目鳥(もくめどり)」「妹背鳥(いもせどり)」、うない鳥、さなえ鳥(早苗鳥)、しでの田おさ(死出の田長)、たちばな鳥(橘鳥)、たま迎え鳥、夕かげ鳥などがホトトギスの異名になっているみたいだ。
華女 本当にたくさんあるのよね。
句郎 鳴き声が初夏の気持ちを湧き起こす力があるように感じるな。
華女 ホトトギスが鳴くと稲作の始まりだったからじゃないのかしらね。
句郎 農夫たちはホトトギスの鳴き声を聞くと体に力が漲ったんだろう。「名のみ立つしでの田長は今朝ぞ鳴くいほりあまたとうとまれぬれば」と『伊勢物語』にあるそうだ。「死出の田長(しでのたおさ)」とは、ホトトギスをいうらしい。
華女 でも一方、ホトトギスは得体のしれない摩訶不思議な鳥だとも思われていたのじゃないかしら。
句郎 「死出の田長」とは、渡り鳥として冥途からやってきて、卵は自分で孵化しない。ほかの鳥にまかせる。
華女 ホトトギスは神様の使いだったのよ。
句郎 そう言えばホトトギスを詠んだ歌があったよね。
華女 「ととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」『千載集』にある後徳大寺左大臣の句ね。芭蕉の「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」の句と似ているわね。
句郎 きっと百人一首の歌を学んだ芭蕉は影響を受けているんだろうな。芭蕉は和歌の伝統を継承しているということなんだろうな。
華女 和歌と俳句に共通する詩情のようなものを感じるわ。
句郎 ホトトギスが飛んでいく姿が黒い点となり、消えていった先に薄黒い島影が見えるということだよね。小高い山からの眺望だよね。鳥の鳴き声に刺激され、空を見上げると有明の月がある。

醸楽庵だより  650号  月はあれど留守のやう也須磨の夏(芭蕉) 白井一道

2018-02-21 11:20:34 | 日記

 月はあれど留守のやう也須磨の夏  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「月はあれど留守のやう也須磨の夏」。芭蕉45歳の時の句。「須磨」と書き、『笈の小文』に載せている。一方『真蹟詠草』には「卯月(うづき)の中比、須磨の浦一見す。うしろの山は青ばにうるはしく、月はいまだおぼろにて、はるの名残もあはれながら、ただ此浦のまことは秋をむねとするにや、心にもののたらぬけしきあれば」と前詞を書き、「夏はあれど留守のやうな也須磨の月」という句を載せている。
華女 「須磨の浦のまことは秋をむねとする」とは、須磨の秋を詠んだ有名な歌があるのね。
句郎 元禄時代に生きた芭蕉にとって、『源氏物語』は現代文学だった。須磨の秋の侘しさは『源氏物語』にあるようなんだ。光源氏が須磨に流されたという話に尽きるみたいだ。『須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり…』
華女 「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ」。光源氏が詠んだ歌ね。この波音は須磨の秋の浜に打ち寄せる音なのよね。
句郎 そうなんじゃないのかな。秋の須磨だから想像力が刺激されるんだ。夏の須磨では、いくら月夜であっても想像力が働かないなぁーということなんじゃないのかな。
華女 夏の須磨では、光源氏を偲ぶことができないということね。
句郎 芭蕉は古典の世界に遊びたかったんじゃないのかな。「見渡せば詠むれば見れば須磨の秋」と詠んでいるからね。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」。定家の歌を味わいたい。「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮」。「ながむれば」とくれば、良暹法師の歌を思い出したい。「見れば」というと「月見れば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」。大江千里の歌が胸にこみあがる。せっかく須磨に来たのに夏だったのでがっかりしてしまったということなんだろうな。
華女 芭蕉にとって旅とは、古典の世界に遊ぶことだったのね。
句郎 夏の月では、興趣が湧かないと言うことなんじゃないのかな。だから月は秋、秋の月夜には想像力が働くということなんだろう。だから月は秋の季語になったんだろうな。
華女 秋の月は人の心を静かにする力があるんじゃないの。
句郎 須磨の夏の海浜に美を芭蕉は発見できなかったんだよ。きっとね。
華女 『源氏物語』「須磨」の巻に芭蕉の心は縛られれていたので句が詠めなかったんじゃないのかしらね。
句郎 教養が邪魔して却って句が詠めないなんてことがもしかしたらあるのかもしれないな。
華女 芭蕉はそのころ源氏物語を勉強していたのかもしれないわ。すらすら源氏物語が読めるような学力が芭蕉にはなかったんじゃないのかしら。
句郎 そうなのかもしれないな。何回も同じ文章を読み、どうにか意味がとれるようになった頃だったのかもしれないな。

醸楽庵だより  649号  杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉(芭蕉)  白井一道

2018-02-20 11:48:19 | 日記

 杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉」。芭蕉45歳の時の句。「大坂にて、ある人のもとにて」と書き、『笈の小文』に載せている。
華女 『笈の小文』にある「ある人」とは、具体的に誰であったのか、わかるのかしら。
句郎 『芭蕉紀行文集』「笈の小文」注釈には「此句は万菊を供して難波の一笑が本に旅ねの時也。一笑はいがにて紙や弥右衛門と云る旧友也」とある。
華女 芭蕉は故郷の伊賀上野の友人一笑さんと難波で再会した時に詠んだ句だということなのね。
句郎 大和路の水辺に咲く杜若の花が綺麗だったと一笑さんに土産話をしたということなのかな。
華女 古き都大和路の春は良いわねと大和路の寺々の佇まいを話し合ったということね。
句郎 『笈の小文』の注釈に「から衣着つつなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」(伊勢物語)在原業平が詠んだ歌を「杜若」の句はふまえているとある。この歌のどこに「杜若」の句が踏まえているのか、華女さん、分かるかな。
華女 失礼ね。分かるわよ。私は国文科出身よ。このぐらいのことが分からないなんて、恥ずかしいことよ。このような歌の技法を「折句」というのよ。「からごろも」「きつつなれにし」「つましあれば」「はるばるきぬる」「たびをしぞおもふ」。「かきつばた」という五文字を和歌の(五七五七七)各句の頭文字に置いて旅の気持ちを詠んでいるのよ。
句郎 妻のいない旅の侘しさを忘れさせてくれるものが「カキツバタ」だったかなと語り合ったということなのかな。
華女 妻なしに男は大人になり切れないのよ。
句郎 人間は独りじゃ生きていくことができないということなのかな。
華女 そうよ。人生には伴侶というものがいなくちゃ、生きていけないものなのよ。
句郎 芭蕉は漂泊の旅をしたというけれども、いつも誰かと一緒に旅をしているね。
華女 そうよ。有名な『おくのほそ道』の旅では曾良と一緒に旅をしているんでしょ。
句郎 『笈の小文』の旅では杜国と一緒だったようだ。
華女 旅というのは芭蕉の時代も今も同じなんじゃないのかしら。旅は人との出会いを楽しむことなのよ。
句郎 そうのかもしれないな。見知らぬ街の自然や風景、人、人情に触れることによって世界が広がる喜びなんだろうな。
華女 旅とは自然を楽しむ。自然の中に自分がいるということを実感する。一人だということを感じるから人を恋うのよ。
句郎 自然の中にいるとピュアな自分に出会うということがあるような気がするな。
華女 日常生活に追いまくられている状況のなかでは、杜若が咲いていても何も感じないし、綺麗だとさえ思わないものなのよ。
句郎 忙しい仕事をしている時には、花の美しさなどというものに気を取られていては仕事にならないということがあるな。
華女 杜若なんて深川芭蕉庵の近くでも目にすることができる花なんじゃないかしら。
句郎 そうだよね。

醸楽庵だより  648号  若葉して御 めの雫ぬぐはヾや(芭蕉)  白井一道

2018-02-19 12:36:40 | 日記


 若葉して御 めの雫ぬぐはヾや  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「若葉して御 めの雫ぬぐはヾや」。芭蕉45歳の時の句。「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」書き、『笈の小文』に載せている。
華女 「招提寺」とは、唐招提寺ということでいいのよね。
句郎 鑑真和尚が唐招提寺の開祖だからね。
華女 鑑真とは、中国から日本にやって来た僧侶だったのよね。いつころ日本に中国からやってきたのかしら。
句郎 八世紀の中頃だったのじゃないかな。、
華女 奈良時代ね。
句郎 天平時代の頃だと思う。聖武天皇全盛の頃のことだったんじゃないのかな。
華女 当時の中国は日本と比べたら遥かに先進国よね。その中国のお坊さんがなぜ又、日本に来ようと思ったのかしらね。
句郎 当時の日本では仏教の教えを広めることよって天皇の統治の安定を図っていた。そのため僧侶が優遇されていた。僧侶になれば優遇される。その結果、坊主頭になれば、僧侶だと名乗っても誰も咎めだてすることができないような状況があった。政府は誰でもが勝手に僧侶になってもらっては困る。僧侶になるには受戒が必要だ。僧侶の資格を与える受戒師としての仏教の戒律の専門家を求めていたんだ。聖武天皇は興福寺で仏教を学んでいた栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)二人の若き学問僧を唐に派遣し、戒律を授ける律師を日本に招聘する職務を与えたんだ。
華女 私、思い出したわ。井上靖『天平の甍』ね。
句郎 奈良・天平時代に生きた青年の夢や理想がどんなものであったのか、表現してみたいと考え小説『天平の甍』を書いたと言っていた。
華女 出家とは、どういうことかということよね。
句郎 中国から日本に来るまで十二年くらいかかったようだから、目が潮風に当たり、視力を失ったと言われている。
華女 唐招提寺の開山忌に芭蕉は参ったのね。私も肖像彫刻としても見ることができるという瞑目した鑑真像を拝観したことがあるわ。
句郎 華女さんも六月六日の開山忌に唐招提寺に参ったことがあるんだ。
華女 いや、違うわ。上野の国立博物館で見たような記憶があるわ。
句郎 目に優しい色の若葉で瞑目した鑑真の目を拭ってあげたいと鑑真の渡海の苦しみをねぎらっている句を芭蕉は詠んだ。
華女 鑑真の人生を芭蕉は自分の人生のように受け入れ、日本の仏教に魂を授けてくれたお坊さんだとぬかずいているのよね。
句郎 鑑真像を今見てもまるで血の通った人間を思わせるような生き生きした尊像だよね。
華女 運慶に代表される鎌倉仏とは違っていると私は思うわ。鎌倉仏のようなリアリティーはないよね。やはり天平仏に変わりはないと思っているわ。でも鎌倉仏に匹敵するようなリアリティーがあることも事実だと思うわ。八世紀にこのような仏像が造られたことに驚異を感じるわ。
句郎 そうだよね。鑑真像に匹敵する尊像というと夢殿・行信僧都座像かな。