醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  741号  『おくのほそ道』から恋の名所、末の松山

2018-05-25 15:07:43 | 日記


  恋の名所、末の松山 『おくのほそ道』


 末の松山は恋の名所だという想いが芭蕉の胸に迫ってきた。「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」古今集東歌が草鞋に石の凹凸を感じながら芭蕉は口に出して味わった。あなたを差し置いて他の人に私の気持ちが移るなんてことは末の松山を波が越えないように変わることなどありませんと女は誓ったが離れて生活しているとどうなったのだろう。人の気持ちほど当てにならないものはないからなぁー。
清原元輔が心変わりした女に未練を残した男に成り代わって「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは」と詠んでいるのは人の気持ちの変わりやすさを言っているのだろう。人の気持ちなど簡単に末の松山を越えてしまう。お互い泪に濡れた袖を絞りながら、あの大きな末の松山を波が超えることがないように私たちの気持ちは変わりませんと誓い合った。そんなに固く誓い合った仲であっても離れて暮していると気持ちというものは離れてしまうものなのだろう。恋人の心変わりを元輔は責める歌を詠んだが責めてみたとこでどうなるものでも
ないだろう。変わらないようで変わりやすい人の気持ちの儚さを芭蕉はあじわっていた。
 沖の石の近くに末の松山はあった。松林の松と松との間は墓になっている。この場所で男と女が永久(とわ)の愛を誓いあっても、終いには墓石の下に眠っている。恋などというものはほんのいっときのものでしかない。「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」と詠った絶世の美女・小野小町も年老いてどこにでもいる老女になった。本当に世の中は無常なものだ。
 若い男と女が胸をときめかした末の松山も今では訪れる若者もいない墓原になっている。末の松山を偲ぶ縁(よすが)は末松山(まっしょうざん)という寺しかない。変わり行く月日の重みを実感するのみだ。
芭蕉は曽良を伴って末の松山を見た後、塩釜に入った。日永の一日も夕暮れを迎えていた。塩釜の浦に夕日が射している。疲れた体に時刻を告げる梵鐘の音が聞こえる。五月雨の空が少し晴れてきた。夕月が幽かに見え、籬(まがき)が島も近くだ。「わが背子を都にやりてしほがまのまがきの島のまつぞ恋しき」古今集に詠われている籬(まがき)が島だ。この島がこんなに近くに見える。あの島で妻は夫の帰りを待っていたのだ。感慨も一入(ひとしお)だった。
漁師たちが小船を操って港に帰ってきた。獲った魚を分ける漁師たちの声が薄闇に聞こえてくる。「みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手(つなで)かなしも」古今集東歌が思いだされる。陸奥(みちのく)の浜はどこでも同じようなものだが、塩釜の浦のこのしみじみとした風情は格別だ。古今集に詠った歌人の気持ちがよくわかる。
その夜、芭蕉が寝床に入ると近くから琵琶法師が語る浄瑠璃が聴こえてきた。初めはうるさく感じたが、そのうちその浄瑠璃のひなびた哀切な調子に心を奪われてしまった。何代にもわたって伝えられてきた伝統の力が芭蕉の胸の襞々に沁みてきた。芭蕉は旅の醍醐味を味わっていた。

醸楽庵だより  740号  「震災の経験を小説に」  白井一道

2018-05-24 14:38:00 | 日記

   
  震災の経験を小説に


 ぼくら親子はいつ死刑判決が下されるか分からない未決死刑囚のようだね、と長男が母親に話した。被爆者の戦後生まれの息子二人が最近相次いで急性白血病で突然亡くなったことを母親は知り合いの被爆者から聞いた。戦後三十年を経ての話だった。
 一九四五年八月九日長崎での被爆と三十年後の急性白血病の発症にどのような因果関係があるのかないのか、分からない。ただ被爆者である親もその子も自分が発病するのではないかという漠然とした不安に苦しみ続けてきた事実がある。原爆投下は被爆者に被爆二世にも負の遺産を一九四五年八月九日から現在に至るまで背負わせ続けている。
 自分が死んだときのカルテとして書き残す必要がある。私は長崎で原爆投下を経験した。その証拠が私の書く小説だ。被爆体験を書くことは私に課せられた使命なのだと自覚したとき、林京子は小説「祭りの場」を書き始めた。
 自分の体験を書く使命のようなものを感じたとき、人は体験記や小説を書き始める。歴史における個人の役割を自覚するということだ。
 民主文学二〇一一年八月号に載った中村恵美著「海と人と」、同上九月号に掲載された野里征彦著「瓦礫インコ」は二〇一一年三月一一日東日本大震災被災経験を書いた記録文学といえるものであろう。
 二〇一一年三月一一日東日本大震災には無限の事実があった。この無限の事実を一人の被災者が経験できるものではない。無限の事実の中の極く一部分を経験しただけである。更に自分が実際に経験したすべてを書き記すことはできない。自分が経験した極く一部を作者は選び取り、書き記した。その書き記した内容は作者の考えによって選ばれた事実によって組み立てられた主観である。
 実際に経験したことを限りなく忠実に書いたと作者が考えたとしても出来上がった作品はフィクションである。
 酷いようであるが、中村恵美著「海と人と」の作品は自分が選びとった事実の報告に過ぎず、文学にまではなっていない。東日本大震災の極く一部の記録にはなっている。これが私の感想である。被災経験が余りにも生々しかったので具体的な事実に作者の心が支配され、その事実についての考察が不十分であった。
 また野里征彦著「瓦礫インコ」、この作品は東日本大震災の一断面を切り取った短編文学作品になっている。
「『キロは、あの漁師によくなついているようだ。お前にはもう必要のないものだ。』
 父親はそう言って、道を真っすぐに走った。」
 この最後の文章は読者に深い感動を与える。この感動に人間の真実があるのではないかと思う。
 「ガンバレヨ、ガンバレヨオイ」と言葉を発するインコが家族を失い、家を失い、仕事を失った漁師を励ます。このインコの言葉は高校入学試験を控えた中学生をもつ父親が息子を励ますために息子の部屋にインコを入れた鳥籠を置いた。その鳥籠が大震災で壊れ、鳥籠から逃げ出したインコが被災した漁師を励ます。このインコになついている漁師を見た元インコの持ち主はインコを返してほしいと申し出ない。ここにこの小説が読者に与える感動なのだ。

醸楽庵だより  739号  怨念の塊「殺生石」  白井一道

2018-05-23 15:35:39 | 日記


  怨念の塊 殺生石


 禅の恩師仏頂和尚山居の跡を訪ねた後、芭蕉は殺生石に行く。恩師はどのようなところで禅の修業をしたのか、芭蕉は訪ねたかったに違いない。その気持ち、分かります。しかし殺生石になぜ芭蕉が行くのか、その理由が「奥の細道」を読むかぎりでは分からない。読者の想像に任せている。
 当時、東海道には観光案内書のようなものがあったが、那須野は観光案内書がでまわるような名所にはなっていない。それにもかかわらず芭蕉は旅立つ前に殺生石には行こうと決めていたに違いない。殺生石についての情報を事前に芭蕉は得ていたのだ。その情報によって芭蕉は殺生石に行きたいという気持ちになった。
 その情報とは何かというと、それが謡曲「殺生石」である。きっと能舞台を見たことがあったのであろう。この謡曲「殺生石」に芭蕉は感銘した。殺生石とはどんなところなのだろう。殺生石とはどのような石なのだろう。生き物を殺す石とは、好奇心に燃えていた。
 当時那須野は徳川の勢力範囲の辺境にあった。少し行くと白川関である。この白川関は「奥の細道」に書
いてあるように三関の一つである。この三関とは平安時代のものであるから芭蕉が生きた徳川・元禄時代にはその役割を終えていた。平安時代の役割とは蝦夷は来る勿(なか)れ、大和民族が異民族・蝦夷の侵入を防ぐために設けられたものである。勿来関(なこそせき)とは読んで字のごとく、蝦夷の侵入を防ぐ意味を表している。勿来関は太平洋岸、白川関は東北道、鼠ヶ関(念珠関)は日本海岸、それぞれ侵入のしやすい所に設置された。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、八世紀末、蝦夷との激闘をした場所の一つが那須野の原であった。そこは戦場に散った兵士たちの幽鬼が往生出来ずにさまよい出るところであった。
 那須野の原がそのような場所であったが故に生き物を殺す石は兵士たちの怨念ではないかという物語を紡ぎだした。
 十二世紀初め、鳥羽上皇の寵愛を受けた妃に氏素性のはっきりしない玉(たま)藻(も)の前がいた。眉目秀麗な玉(たま)藻(も)の前は妬(ねた)みの対象になった。その妬みが玉藻の前の本性
を暴く。玉藻の前は金毛と九つの尾を持つ狐だと化けの皮をはがす。本性が暴かれた玉藻の前は宮廷から逃れ、那須野に逃げ延び、都人への怨念(執心)が石となった。玉藻の前が逃げ延びた所がなぜ那須野だったのかというと、そこは死んだ兵士たちの幽鬼がさまよいでるところであったからだ。怨念に苦しむこの石に玄翁和尚が念仏を唱えると殺生石は割れ、玉藻の前の怨念は消え、極楽への往生を遂げる。このような物語が謡となり、元禄時代の人々の心を癒した。
那須岳の噴火で吐き出された溶岩が固まり、硫化水素や亜硫酸ガスをだし、生き物を殺すという認識を当時は得ることができなかったので、このような物語ができた。
芭蕉は謡「殺生石」を胸に抱き、怖れながら石に近づき、怨念のもつ恐ろしさを、恨みに執心する恐ろしさを感じた。きっと芭蕉は殺生石に手を合わせ、念仏を唱え、極楽への往生を願い殺生石を拝んだことであろう。

醸楽庵だより  738号  公教育制度につい  白井一道

2018-05-22 11:34:02 | 日記


 公教育制度について


 子どもの存在を近代社会は発見した。子どもの誕生なくして近代社会は存在し得なかった。子どもの発見が近代国民国家を成立させたのである。
 江戸時代には子どもはいなかったのかと、言えばそんなことはないだろう。子どもはいたに違いない。江戸末期には人口が急増していたから子どもの数は増えていたに違い。それにもかかわらずに江戸時代には「子ども」はいなかった。なぜなら江戸時代には公教育制度がなかったからである。公教育制度が成立するためには「子ども」を発見し、誕生させなければならなかった。
 三浦綾子の書いた「母」を詠むと子守に出された小林多喜二の母が小学校の教室の窓の下に行き、赤子を背中に背負い教室の覗き込み、一心に教師の話を聞いたことが描かれている。そんな子守たちが教室の窓に集まると追い払う教師がいたということが書いてある。この教師の姿に権力者の本質が表現されている。
 明治時代前半のころ小学校に通えない子どもたちにとって小学校は憧れの場所
だった。小学校に通える子どもの数は限られていたのである。だから明治政府は子どもたちを学校に通わせるよう地方自治体に強制した。この強制に対して小作農民や中小の商工民は血税と言って反対したのである。青年男子が兵隊に取られることと子どもを小学校に通わせるよう強制されることはまさに小作農民や中小の商工民にとって働き手を国に取られる血税だったのである。
 子どもを保護の対象にする。国家が子どもを教育の対象にする政策をとるようになるのは近代社会成立の結果なのである。教育によって子どもを国民にしたのである。子どもを国民にするということはまず国語を子どもたちに教えた。教えるということは強制することでもあった。普段、家で父母が使う言葉を汚い言葉として否定した。国語とは明治政府がつくった日本語である。方言を否定し、共通語を普及させることによって国家統一を進めた。このように子どもを保護の対象にすることは父母に血税を払わせ、国民を形成していくことであった。
 公教育制度の普及によって国家を国民のものにしていった。その成果が日清・日露の戦争だった。世界最強を誇ったロシアのバルチック艦隊に対して東郷平八郎率いる日本海軍が「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」このような電報を大本営に打ち日露戦争に勝利でたきたのも日本国民の心底からの協力があったからである。
しかし真に国が国民のものになったのかというと現実にはそうではなかった。現代にあっても国は国民のものにはなっていない。国を現実として国民のものにすることが現代日本社会の課題になっているのである。
それは公教育制度を現実として国民のものにしたときに公教育というものが人類の文化遺産を継承する生徒・学生中心の教育になるのだ。
 資本主義社会にある公教育制度は疎外されて存在している。現在も多喜二の時代も公教育制度は疎外されて存在している。この中にあって学ぶ者は地獄に生きることなのだと多喜二は真実を見抜いたのである。

醸楽庵だより  737号  象潟や雨に西施がねぶの花(芭蕉)  白井一道

2018-05-21 15:11:18 | 日記



 象潟や雨に西施がねぶの花   芭蕉


 象潟に咲く合歓の花に雨が降っているところは古代中国・春秋時代、越国の美女、西施がまどろんでいるようだ。「ねぶ」という言葉が掛詞になっている。「ねぶの花」という言葉に「眠っている」という意味を含ませている。
 この句は「西施」という言葉が何を意味しているかを知らなければ鑑賞することができない。高校生の頃、私は「西施」を楊貴妃と並ぶ中国の絶世の美女だと教わったような気がする。夏、磯でまどろんでいると雨が降ってきた。夏の強い雨をものともしないですやすやと眠っている美女を想像したように思う。そうずっーと思ってきた。
 今回、「奥の細道」を読み、私が想像していたようなものとは違ってる。こう思った。今まで三回ほど「奥の細道」を読んだことがある。にもかかわらず、記憶に残っていなかったことがある。それはこの句の前に「象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」この文章がある。美女、西施の美しさはうらむがごとく、
寂しさに悲しみを加え、悩んでいる姿ではないかと感じた。
 西施は越の王から呉の王に献上された奴隷だった。この女奴隷の悲しみを表現した句ではないか。
 呉越同舟という四語熟語がある。春秋時代は小さな都市国家がいくつも出現した時代である。それらの小さな国々が興亡を繰り返し、最終的には戦国の七雄といわれる七つの国にまとまっていく。その過程は戦乱につぐ戦乱であった。最終的には中国南部の地域は呉の国に統一されていく。この
呉の国の文化が日本に影響を与えた。その一つに呉服がある。呉服の起源は呉の国の服装であった。また漢字に呉音読みがある。これは当時の呉の国の漢字の読みの音に違いない。呉は大国であった。呉が大国になっていく過程で敵国の越の国の人と同じ船に乗ることを呉越同舟という。また「臥薪嘗胆」という四語熟語がある。日清戦争後、下関条約で遼東半島の割譲を清国に承認させたが、三国干渉によって遼東半島を清に返還させられた。この時、欧米諸国に復讐を誓ったスロ
―ガンが「臥薪嘗胆」である。薪の上に臥して屈辱を忘れない。三国干渉の屈辱を忘れてなるものか。
同じように越の国が呉の国への復讐を誓った言葉が「臥薪嘗胆」である。
復讐に燃える越の国の男たち、女の体に溺れる呉の国の男にそんな戦などどうでもいいではないか。戦の好きな男たちに対するやり切れない哀しみ、寂しさに満ちた儚い美しさが篠つく夏の雨ではなく、霧雨に煙るような雨に打たれて眠る西施の姿を芭蕉は胸に描いて詠んだ句ではないかと考えるようになった。
 臥薪嘗胆などという復讐を誓う男がいなければ、呉の王に女を贈り物として届けられるようなことはなかった。戦の好きな男に対する深い絶望に裏打ちされた女の哀しみを表現したのが「象潟や雨に西施がねぶの花」という句ではないか、こんな考えを持つようになった。
 古代ギリシアでも同じように戦を好む男を笑う喜劇「女の平和」という演劇がある。男は戦が好き。女は平和が好き。女たちが団結して男たちに戦をやめさせる芝居である。