醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  736号  松島について  白井一道

2018-05-20 12:24:10 | 日記


 松島、松島、松島


 華女(はなこ)さん
 なぁーに
 芭蕉は「奥の細道」の冒頭でまず「松島の月先(まず)心にかゝりて」と書いているよね。
 芭蕉は松島にあこがれていたのよね。
 そうでしよう。それならなぜ芭蕉は松島で一句も詠んでいないのかな。
 そんなことないのよ。一句、詠んでいるのよ。
 どんな句なの。

 嶋ぐや千ゝにくだきて夏の海  芭蕉

 天地創造の神様が大地を割り刻んで散らしたような大小無数の島々が青い夏の海に浮かび、白い波が砕け散っている。このような意味だと思うわ。今、私は天地創造の神様と言ったけれどもね。高校生の古文の試験でこのように書いたらきっとバツになると思うけど。
 何と答えれば、丸をもらえるの。
 それは「造化の神」と書かなければいけないのよ。
 へぇー、「天地創造の神」じゃ、なぜいけないの。
 「天地創造の神」はヨーロッパの神様だからよ。芭
蕉の神様は老荘思想が唱えた神様、それが「造化の神」なのよ。
 造化の神様と天地創造の神様ではどこが、どう違うのかな。
 難しい質問ね。キリスト教やイスラム教の神様は人間世界から超越した絶対的な神様、人間とは断絶した神様なのよね。それに対して東洋の神様は自然と共にある、いや自然そのものが神様なのよ。だから「嶋ぐや千ゝにくだきて夏の海」この句の場合、正しく解釈するなら自然が自らの意志で自分を千ゝに砕いてこのような景色を創った。このような意味になると思うわ。
 なるほどね。芭蕉はなぜこの句を「奥の細道」に入れていないのかな。
 芭蕉学者たちの中で定説というものがあるわけではないようなのよ。日本三景として松島や天橋立・厳島が広く知られるようになったのは芭蕉が生まれた一六四〇年代の中ごろからだったみたい。「奥の細道」の旅に芭蕉が出た一六八九年、元禄二年頃には松島はすばらしい景色のところだという噂が江戸の人々の間に広がっていたと思うのよ。だ
から昔も今もお金と時間に余裕のある人にとっては死ぬまでに一度は行ってみたいと思うところが松島だったんじゃないかと思うのよ。そう考えるとね、芭蕉は自分が詠んだ「嶋ぐや千ゝにくだきて夏の海」この句は「奥の細道」を読む人の松島へのイメージを損ないやしないかと心配したのじゃないかと、私は思うんだけど、句労君はどう思う。
 うーん。芭蕉は自分がイメージした松島を実際に見てイメージ以上の景色に圧倒されてしまった。その景色だけを表現する句では満足できなかった。そのような句を芭蕉は詠むことができなかった。こういうこともあったんじゃないかと思うんだけれど。
 そういう面も確かにあったとは思うわ。でもそれまで松島を紹介した同じような文章を書き、それで「奥の細道」を読む読者には松島をイメージしてくださいと、読者が松島にイメージする余地を残す方法をとったのだと思うのよ。私と同じようなことを俳人の長谷川櫂が言っているのよ。
 なんだ、華女さんは長谷川櫂の受け売りをしていたんだ。

醸楽庵だより  735号  涼しさやほの三日月の羽黒山(芭蕉)  白井一道 

2018-05-19 12:58:13 | 日記


 涼しさやほの三か月の羽黒山  芭蕉



 芭蕉らが羽黒山に詣でたのは六月三日である。この三日の三と「ほの三か月」の三が掛詞になっている。後年、芭蕉は羽黒山に詣でたのはいつだったかなぁーと、記憶を尋ねたとき、「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を思い出し六月三日だったと思い当たる。
俳句は期日の入ったスナップ写真である。写真を見て過去を思い出し、当時を懐かしむ。そのような作用が俳句にはあるようだ。
 六月三日は現在の七月十九日、暑い盛りである。羽黒山の標高は四百十四mであるから高い山ではない。現在、2446段の石段になっている。元禄時代にはきっと今のような石段は無かったにちがいない。山伏が登る険阻な小道がつづいていたことだろう。この山伏が通る山道を辿って羽黒山に芭蕉らは登った。杉の大木が連なる小道は涼しかった。杉の大木の間からほのかに三か月が見える。このような景色を詠んだものと思う。「涼しいことよ。三日月が鬱蒼たる木々を通してほのかに見えるこの羽黒山中にいると、涼しさがま 
ことに快く、霊域の尊さもしみじみと感じられることだ。」このように久富哲雄は鑑賞している。同じように萩原恭男もまた「夕方の山気が身にしみて快い。ふと見上げると、ほんのりと三日月が黒々とした羽黒山の上にかかっている。」このように鑑賞している。
 以上のような鑑賞に対して長谷川櫂は次のように鑑賞する。「夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そんな景色の中にいると、心の中まで涼しくなるようだ。『ほの三か月の羽黒山』は眼前の景、この景と『涼しさや』という心の景との取り合わせである」。この「涼しさや」とは芭蕉が肌で感じたものではなく、心で感じたものだと言っている。
 私も長谷川櫂の鑑賞の方がより深いように思う。理由は以下のようなものである。芭蕉は初め「涼風やほの三か月の羽黒山」と詠んでいる。なぜ芭蕉は「涼風や」ではなく、「涼しさや」にしたのかということである。「涼風や」だと杉林の間から吹いてくる風を肌で感じたことになる。この風は夕暮れの疲れを癒す快い風。芭蕉が表現したかったことは羽黒山の厳粛な静かさなのだ。肌で感じる風の快さでは神聖な尊さが表現できない。夕暮れの風の快さでは田の道を歩き疲れた体を癒すものと変わらない。芭蕉が表現したいと思ったことは羽黒山の夕暮れの神聖さ、尊さだった。だから「涼風や」ではだめなのだ。「涼しさや」と言えば心の世界を表現できると気がついたのだ。「涼しさやほの三の月の羽黒山」と詠むことで羽黒山の夕暮れの厳粛さ、静かさが表現できたと、芭蕉は満足した。
「古池やかわず飛び込む
水の音」と同じように「かわず飛び込む水の音」は現実に芭蕉が聞いたかわずが飛び込む水の音である。この音と心の中の「古池や」とを取り合わせることによって深みのある世界が表現できた。同じように「涼風や」を「涼しさや」と詠むことによって芭蕉は山道を歩き疲れた夕暮れの涼しい風に癒されたことではなく、羽黒山の夕暮れの神聖な厳粛さと静かさに旅の疲れの癒しとともに表現できたと芭蕉は思ったのではないかと思うのです。

醸楽庵だより  734号  「般若心経」  白井一道

2018-05-18 11:01:23 | 日記


  般若心経  白井一道


 芭蕉は禅と老荘の思想に強い影響を受けている。芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」の初めの方に次のような文章がある。
「冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣(なく)有(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず。露計(つゆばかり)の命待まと、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとほるに、

 猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに

 いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる欤(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ。」
 この文章に芭蕉の仏教観が反映している。仏教は世界を苦の世界とみる。生きることが苦、老いることが苦、病を持つことが苦、死ぬことが苦である。これを四苦八苦の四苦である。この苦を受け入れることなしに人間は生きることができない。「三つばかりなる捨子」にさえ、「汝の性(さが)のつたなきをなけ」と、芭蕉は自分を、苦を受け入れろと言っている。
 問題はどうしたら現実の苦の世界を受け入れることができるか、ということである。その苦の世界を否定的ではなく肯定的に受け入れろ、というのが仏教の教えである。
 大乗仏教のたくさんある経典の中で仏教の教えの本質を述べた経典が般若心経である。この中の有名な言葉が「色即是空、空即是色」である。色とはこの世の目に見えるも、空とは無いということである。この言葉の意味することは見えるもの、この苦の世界は空だというのだ。無いと言っている。飢えて泣く捨子の苦は無い。この「無い」ということはこの世の真実ではない。真実の世界が飢えて泣く捨子がいるような世界であるはずがない。今、目の前にいる捨子の存在は真実の世界の存在ではない。こ
のようなことを言っている。
 この真実の世界にワープすることは現実にはできない。この真実の世界にワープする方法の一つが座禅することであり、念仏を唱えることである。大乗仏教では座禅することも念仏を唱えることも同じ修行である。
 人間の心の世界には意識下にある世界と無意識の世界がある。この無意識の世界を経験することを西田幾多郎は純粋経験といった。この純粋経験の中で「色即是空、空即是色」と認識する。このような認識を得たときに現実の苦の世界を肯定的に受け入れることができると仏教は教えている。念仏を唱え、座禅を組み、純粋経験によって真実の世界を認識する。
 真実の世界は「色即是空、空即是色」である。これは西田幾多郎が言うように「絶対矛盾の自己同一」なのだ。「色」は「空」、」空」は「色」なのだ、と言っているのだから。
 「色即是空、空即是色」を実感することは座禅を組み、念仏を唱え、現実世界からワープすることでもある。ワープした世界が西方極楽浄土、阿弥陀様のいる真実の世界なのだ。

醸楽庵だより  733号  鳥取の名酒「千代むすび」  白井一道

2018-05-17 12:06:56 | 日記


  鳥取の名酒「千代むすび」


侘助 今日の唎酒は唎酒でも趣向を変えて、美味しいと感じたことを言葉で表現をする。その言葉の表現を競うというのはどうかな。
呑助 どこの酒を唎酒するんですか。
侘助 鳥取のお酒なんだ。
呑助 鳥取というと何か、めぼしいお酒があるんですか。
侘助 鳥取というと智頭(ちず)の「諏訪泉」、鳥取市にある「日置桜」、それから境港の「千代むすび」が有名かな。
呑助 境港というと、水木しげるの生まれ故郷ですよね。
侘助 そうなんだ。漫画「ゲゲゲの鬼太郎」を書いた水木しげるの故郷が境港だよ。
呑助 今日はどの酒を唎酒するんですか。
侘助 境港の「千代むすび」の酒を五本、唎酒して、一番気に入った酒を言葉で表現してもらう。その後、誰の表現が一番良かったか、皆で手を上げ、一番手の上がった人が一位ということにしては、と考えているんだがね。「千代むすび」の五本の酒は試供品だから、全部飲むことはできないんだがね。
呑助 そりゃ、いいですね。
侘助 「千代むすび」の酒を唎酒したら、今日は四本の酒をマッチングしようと思っているんだ。
呑助 時間が大丈夫ですかね。
侘助 時間が難しそうだったら、四本の酒を飲み比べ、「水芭蕉」の酒、二本と「雪の茅舎」「美冨久・三連星」を楽しみましょう。
呑助 そうですね。今日のポイントは「千代むすび」ですね。
侘助 初めて飲む人が多いんじゃないかと思うんだ。今は取り扱ってはいないんじゃないかと思うんだけれども、川間の中田屋酒店さんが昔、取り扱っていた。その後は同じ川間のマコト酒店が「千代むすび」の酒を扱っていたから、「千代むすび」の酒に親しんだ方がこの中にもいるかもしれないよ。
呑助 マコト酒店が主催していた「本物の酒を楽しむ会」ですか。
侘助 うん、きっと「本物の酒を楽しむ会」に出品されたことがある酒なんじゃないかなと思うけれどね。
呑助 その会を私は知りませんけれどね。
侘助 今は昔のことになってしまったよ。野田には「吟醸酒を飲む会」という飲ン平の会もあったらしいから、そこで楽しんだことがあったかもしれない酒が「千代むすび」の酒なんだ。
呑助 いろいろ同好の士の集まりがあったんですね。
侘助 それもこれも、みな特定名称酒という上級酒が普及した結果なんだと思う。特級酒より美味しい二級酒の出現が特定名称酒を生み、日本全国の吟醸酒を飲み比べ、楽しむ吟醸酒メッセが東京赤坂プリンスホテルで開催されるようにもなったからね。また酒場詩人の吉田類の「酒場放浪記」がテレビ放送されるようになったのはいつからなのかな。もう何年も放送しているからね。ノミちゃんは見たことあるかい。
呑助 へぇー、そんな番組あるんですか。
侘助 日本全国の酒蔵の社長たちはほとんど皆、この番組を見ているらしいよ。うちの蔵の酒が飲まれていたというと何かしら、励みになるみたいでね。

醸楽庵だより  732号  名酒「雪の茅舎」  白井一道

2018-05-16 11:32:05 | 日記


  秋田の酒「雪の茅舎」


侘輔 今日の酒は羽後の酒「雪の茅舎」だよ。
呑助 「羽後」というと、東北の酒ですね。
侘助 そうだよ。秋田の酒かな。
呑助 秋田は日本で一番日本酒を消費しているらしいですね。
侘助 そうらしい。もう十年以上前になるけれども卒業生の結婚式に出たことがあるんだ。
呑助 へぇー、首都圏に住んでいた人が地方の、秋田に就職したんですか。
侘助 そうなんだ。懇意にしていた生徒でね。レスリング部の猛者だった。将来、彼が山村で生活したいと言ってね。就職を一緒に考えたんだ。日本地図を広げて、どこで就職したいといったら、北の方がいいというから、北海道あたりがいいかなぁ、と云ったら青森から秋田にかけての地域を指し、白神山地あたりがいいというから、ああ、ここは日本でも有数な落葉広葉樹林の広がる森だというとここが良いということで決まったんだ。
呑助 そんなことで就職を決めたんですか。
侘助 私は早速、秋田県庁に電話をかけ、森林組合で人員募集している所はないかと聞いてみた。
呑助 白神山地の森林組合が若者を募集していたんですね。
侘助 森林組合の組合長さんが乗り気になってくれてね。電車賃、宿泊代をだすから、気持ちの変わらないうちに面接に来てくれと云うことになってね。一人で面接に行ったんだ。
呑助 面白いもんですね。
侘助 面接に行ったら、組合長さんの家に招かれ、御馳走でもてなされたようなんだ。面接と云っても秋田のショッツル鍋を御馳走になりに行ったようなものだったらしい。
呑助 いい面接ですね。そんな面接なら私も行ってもいいですね。
侘助 ただ、五年間は辞めるなよと、強く念を押しておいた。
呑助 その彼氏の結婚式によばれていったわけなんですね。
侘助 そうなんだ。その結婚式の乾杯は日本酒だったことを覚えているな。
呑助 「雪の茅舎」だったんじゃないんですか。
侘助 忘れてしまったな。彼は青森に近い方の能代から白神山地に入った二ツ井に住んでいたからね。「雪の茅舎」は秋田市から南、山形県に近い由利本荘の方だから。
呑助 「雪の茅舎」の特徴はどんなところにあるんですか。
侘助 「雪の茅舎」を醸す杜氏さんは私と同じ歳の人なんだ。
呑助 と、いうと七十歳ですか。
侘助 そう七十歳。我々が十代の後半から二十代にかけての頃は経済が高度成長した時代だったから地方から都市に若者が集まって来た頃なんだ。その時、地元に残り、酒造りの道に入った人なんだ。親と一緒に農業に勤しみ、農閑期に酒蔵に働きに出た。蔵人の下働きから始め、飯炊き、洗濯、釜炊き、洗い、米研ぎ、真冬の厳しい寒さの中での水仕事をした人なんだ。
呑助 苦労人なんですね。
侘助 そうなんだ。その人が今では日本一だと云われる杜氏さんになった。高橋藤一杜氏さんは酒は微生物・麹や酵母が醸すものだ。人間が手をかけて造るものではないと言っている。酒造り名人の言葉なんだ。