千杵坂(ちきねさか)
花菖蒲園に入って右手に鳥居が建つ階段が見える。この階段お宮(豊国神社・天満宮・愛宕神社)にと続く階段だ。
「千杵坂(ちきねさか)。御宮・養生所造営のとき、町方御冥加の人夫、男女十二・三歳までの子供数百人、町々目印の旗・纏(まとい)を先へ立て、思い思いの衣装を飾り、手に手にすりこ木を持ち、きやり人の跡より千本つきと唱へ、面白く歌ひ拍子を取り、養生所より御宮山へ、この坂を登るありさまの美麗なるより、此の名を付けたりという。」(「開拓録」)。
工事の人夫には、藩で雇った人夫のほかに、町方よりの御冥加(ごみょうが)の人夫がいた。士人にも庶民にも御冥加(労力の奉仕)が求められ、勤労奉仕に参加した人々である。
「開拓録」の挿絵には、千杵坂に石の階段はない。鳥居と手水鉢も、明治二年には、ここになかった。
「卯辰山開拓録」(明治二年刊行)内藤誠左衛門著より 「卯辰山と浅野川 平澤 一著」
【日暮丘】
「千杵坂の高、出先の丘なり。ここに休み茶屋、扇面形の池あり」 (「開拓録」)。
千杵坂を上ると、四阿(あずまや)のある台地に出る。今まで左はお宮の山、前は坂の石段で、右しか開けていなかったのが、一度に見晴らしが開ける。三段に切り出された丘の構造は、昔と変らないが、池も茶屋も今はない。金沢東ライオンズクラブの立てた標識は 「開拓録」 と同じ 「日暮ケ丘」 になっている。泉鏡花は小説 「由縁(ゆかり)の女」 の中で、日暮しの丘と呼んでいる。「其の時出来た見晴しの、(日暮しの丘。)とか言ふ、草の蓬々(ぼうぼう)と生えた中に、立腐れに残った小屋が一つ。山開きの頃には、芝居より繁昌した (扇の茶屋) の跡だとかって。」思わず景色に見とれて一日すごしてしまう丘という意味で、「日暮しの丘」 と呼んだのであろう。八田健一も、「日暮しの丘」と書いている。「ひぐらし」と呼ぶのはこの二人だけであるが、我々もこれに従うことにする。ここは、戦後、前の観音山が削られたため、見晴らしは一段とよくなった。
ここ日暮しの丘から金沢城がまじかに見える写真(6月3日18:35頃に撮影)この日は百万石まつりで金沢城もにぎわっており太鼓の音などがここまでとどいた。
それほどに金沢城と日暮しの丘は近く「安政の泣き一揆」の叫び声が届いたのだろう。
安政の泣き一揆立て看板拡大
映画「武士の家計簿」にこの「安政の泣き一揆」のシーンが出てくる。
卯辰山三社周辺の由緒案内板
花の観賞の後にゆっくり卯辰山を散策してみてはいかがですか。
参照;卯辰山と浅野川 平澤 一著