今朝の気温は下がりきらずに25.2℃と熱帯夜、降りそうで降らない曇り空、
それでも最高気温は32.0℃迄上がり、湿度が高く不快な日中になった。
12時、29.9℃、76%
NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はイネ科の「ススキ・芒・薄」
『すくすくと茎が成長する』ことが和名の由来とされる。
このことから、花言葉は「活力」と。
平城京跡のススキの一種・オギ
野原に生息するイネ科の多年生草木で、ススキ、アシ、チガヤなどの総称と
して 「茅・萱」がある。
風にたなびく黄金の穂は、万葉の時代「花穂が馬の尾に似ている」ことから
「尾花・おばな」秋の七草の一つとして万葉集 巻八 1538番 山上憶良が詠む。
「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志 また藤袴 朝貌の花」
葉に無水珪酸(水晶の成分)を多量に含み、手で触れると切傷を負うことから
「テキリグサ・手切草」とも呼ばれ、その他にも多数の別名があり、一例は
「シキナミグサ・敷浪草」「ソデフリグサ・袖振草」「ミダレグサ・乱草」
「ツユグサ・露草」「ミグサ・美草」「サミダレグサ・五月雨草」と呼ばれる。
茎は緑色の円柱状で節がある。硬くて丈夫なことから屋根、炭を入れる俵、
ホウキ、すのこ、冬季の家畜の飼料に用いられ、一番は「茅吹屋根」ですね。
その耐用年数は30年ほど、断熱効果が高く、夏は涼しくて冬は暖かいという
長所を持つも、火災に弱く、瓦屋根に取って代わられた。
さて瓦って、いつの時代に中国から日本にもたれされたのでしょうか?
そういうお話を昨日の午後、「都跡公民館・歴史講座」、奈良文化財研究所の
「川畑純」から「平城山(ならやま)の瓦窯(がよう)」としてお聞きしました。
・日本列島の瓦の使用は、飛鳥寺の造営に始まり、当初は寺院のみ
・瓦は藤原京、平城京の造営を経て、宮都や官衛、貴族の邸宅へ広がる
・瓦は仏教という新たな文化、国家の権力構造を象徴、視覚化するのに役立つ
・権威や権力の象徴としての役割は近世初頭から、織豊系城郭の金箔瓦も
・ただし、今日では役立たないと「瓦礫」「瓦石」「瓦全」というイメージ?
奈良時代、平城山(ならやま)には数多くの瓦窯(がよう)が営まれ、奈良時代全期間
瓦を造り続けて平城京や寺院などで、権威の象徴する重要な役割を担っていた
平城山(奈良山)丘陵とは
・標高100~150mのなだらかな丘陵地で、かつては海が穏やかな隆起で生じ、
大部分は大阪層群(多数の火山灰層と海成粘土)からなる
*名の由来は『日本書記』崇神天皇十年に、”兵が草木を蹢跙(ふみなら)して
陣営を設け、これにより山を名付け那羅山(ならやま)という”
・河川は西の押熊川・秋篠川が南流し平城京の一部をかすめ奈良盆地へ、東は
笠置山地から流れ出す佐保川は当丘陵の南裾を西流する
・丘陵の小谷を通る歌姫越(県道751号)は古来からの街道
1968年頃の空中写真(国土地理院より)
・1960~1970年代頃から平城・相楽ニュータウンが建設で宅地化され現在に
1960年代の開発の伴う調査で奈良山瓦窯群が調査され、2000年以降にも新た
に発掘調査が行われた。
なお一番東の梅谷瓦窯だけは興福寺の造営用です。
操業時期が特定されている。
一例として瓦窯の配置と工房の姿とは
【音如ヶ谷瓦窯跡】
【梅谷瓦窯】丘陵斜面に列をなす。
瓦作り工房として明らかにされた市坂瓦窯・五領池東瓦窯、上人ヶ平遺跡
窯の形を分類すれば大きく4つのタイプに
【Aタイプ】窟窯(あながま)
・幅に対し奥行きが長い
・燃焼部と焼成部に数十センチの段差がある
・傾斜の強い焼成部の床面に粘土や河原で数十センチの平坦部がある
・奥壁には通煙孔を作り、煙道部へ至る
【Bタイプ】窟窯で、Aに比べ少し緩やかで奥行きが短い
【Cタイプ】平窯
・焼成部は方形に近く、傾斜は極めて緩やか
・壁体は粘土ブロックや瓦を積み上げる
【Dタイプ】平窯でCより、焼成部は平坦で、床面にも瓦と粘土を縦方向に
積み火床を作る。奥壁に通煙孔がなく、天井にあったとみられる
中山瓦窯(大極殿を飾る👇初期の鬼瓦(体も) 梅谷瓦窯は興福寺創建期
作られた瓦の蓮華紋から、初期は複弁蓮華紋、後期は単弁蓮華紋と習う
「複弁蓮華紋」単弁蓮華文が二つ重なった文様で、外側の花弁の中に短い子葉
を表現します。中房の部分には蓮子が1+8粒設ける。
西大寺
単弁蓮華紋(歌姫西瓦窯跡)
レプリカ 歌姫西瓦窯跡
瓦の質としては飛鳥時代の瓦が一番良いようで、平城山瓦窯は大量生産で質は
それほどよくはなく、一部は藤原京から持ってきたものも葺かれている。
なかなか難しいので・・・ここまで
詳細は、奈良文化財研究所 「平城宮跡資料館」で見学してください。