夜明け過ぎからポツリと降り出し、10.8℃と暖かな雨の朝の奈良、昼過ぎの
気温は13.2℃止まりで肌寒く、前線の通過で夕方にかけ雨脚が強まるかも。
10時半
先日19日の現地学習『日本書記が語る神武天皇の誕生、大和での決戦』へ
行程:学研北生駒駅13時・・・金鵄発祥之處・・・(トイレ休憩長弓寺)14時
・・・神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑・・・天忍穂耳神社・・・夫婦塚・・・
15時杵築神社・・・神武天皇像と金鵄像(解散15時45分)
昭和15年当時の文部省が行った聖蹟地調査にて鳥見白庭山、長髄彦本拠地、
鵄山(金鵄発祥の地)などが特定されて、石碑が建てられたようだ。
午後1時、近鉄けいはんな線・学研北生駒駅北口から北東へ歩き出しました。
この竹林の向こうが白庭台で、左側に饒速日命(にぎはやひのみこと)墓があり、
右側が長髄彦(ながすねひこ)の本拠地とされる「鳥見白庭山碑」があると。
駅裏の鵄山(金鵄発祥の地)まで5分ほど上ると民家があり、断りを入れて
私有地の中を通り雑木林の中を少し下ったところに「金鵄発祥之處」と刻まれ
た石碑が西向きに建っている。
日本書紀によれば・・・
神日本磐余彦尊(後の神武天皇)東征5年目、河内から大和に入ろうとしたが
生駒の勇士「長髄彦」に阻まれ、熊野より日の光を背に大和に入り第二戦!
その際、にわかに天曇り、雹が降り、金鵄が飛来します。
この地がそうではないかと西向きに建てられている。
富雄川沿いへ下りれば、
奈良交通の「鵄山(とびやま)」バス停留所
近くの高山郵便局付近に「鵄山 従是東二丁」との石碑が建つ。
大阪探勝わらじ会の建立で大正3年とされる
鵄山の中央左側?に金鵄発祥之處の碑があり、右端が学研北生駒駅に当たる
☟
日差しの中、てくてくと富雄川沿いを走る国道沿いを1㎞ほど南下します。
畑にはソラマメがもう花をつけています。
汗が吹き出せば気温(18℃)が25℃と思えるほどで、やっと十一面観音像が
御本尊の「長弓寺」(後日書く予定)に到着。トイレ休憩だけで歩き出す。
奈良北高校を過ぎ西村橋を越えると小さな案内板に当たる。見逃さないように
左折し70m程上れば一段高いところに「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」がある。
昭和15年の文部省調査に基づき、昭和16年生駒市上、奈良市富雄両地区の
境界線付近に、紀元二千六百年奉祝会が建てたもの。
裏の刻は
"神武天皇戊午年(西暦紀元前六六三)十二月皇軍ヲ率ひきヰテ長髄彦ノ軍
ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシニ因リ時人其ノ邑ヲ
鵄邑ト称セリ聖跡ハ此ノ地方ナルベシ」と
日本書紀はさらに記す
"金鵄は稲妻のごとき光を放ち、その光景を目の当たりにした長髄彦の兵たち
は戦意を喪失・・・、二度と立ち向かってくることはありませんでした。”
その「神武天皇と金鵄の像」が「御嶽山大和本宮」境内に建てられている。
神道十三派の一つで、由来は・・・。
海抜110mに台座を含め高さ16mと大きな像です。
「生駒市誌」の神話時代の鳥見郷上村(上町)によれば
"上村(上町)から斑鳩まで続く矢田丘陵(斑鳩三十六峰)のような長くのびた地
形を長層嶺(ナガソネ)と呼び、そこの部族の長が長髓彦(ナガスネヒコ)だっ
たようであり、登美彦(トミヒコ)とも呼ばれた。
彼は長くこの地方を占拠していたが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天磐
船に乗って河内の国から斑鳩の峯をこえて白庭山に来たので、この命を奉じ
て益々勢盛となった。命は天照大神の皇孫で、長髓彦を帰順させ、その妹の
御炊屋(ミカグヤ)姫を娶って、可美真命(ウマシマデノミコト)という男児を
もうけた。その後、神武天皇が九州を発ち、瀬戸内海を東征して大和へ攻め
込もうとしたが、長髓彦が地利のよい生駒山を盾にこれを迎え撃って、天皇
はついに、難波からは大和にはいれなかった。そのため、天皇は紀州を廻っ
て大和に入り、東からこの地を奇襲攻略した。この時に金色の鵄(トビ)が
飛び来たりて天皇の弓にとまった。その鵄の光が流電の如く輝いて、長髓彦
の軍兵が目がくらんでしまって戦えなくなった。この話が有名な金鵄伝承で
ある。神武天皇は、自分が饒速日命と同族 (天孫)であることを知ったが、
長髓彦を斬って帰順させた。後には物部氏として饒速日命の子孫が栄えたと
いう。これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源である。
一説によると、トビ・トべ(その変化としてのトミ)またナガ(ナカ)は
「蛇神」をさす呼称であり、金色の鵄は本来、長髓彦(登美彦)側の神であり
「金色の蛇(トビ)=金色の鳥(トビ)」である。
神話の中の話も、日本の成立を知るうえで大切なことの一つですね。