カメラを片手に

歴史探検ウォーク平城京跡史跡指定100年「世界遺産平城京跡を歩く」

晴天の朝、久しぶりの6.5℃迄冷え込んだ奈良、午後1時半ごろに最高気温は
18.2℃迄と平年並みの天候で、風の弱く穏やかで秋真っ盛りの一日に。
      12時、16.7℃、47%

NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はタデ科の「ミゾソバ・溝蕎麦」
小川や沼沢地、湖岸などに生育する一年生草本で、茎や葉に棘がある。
和名の由来は、溝に成育し葉がソバに似ていることからで、また別名の
うしのひたい」は、葉の形が牛の顔に似ているからと。
花言葉は「純情」と。
写真の蕾はコンペイトウのようなトゲトゲとした見た目をする。
開けば5枚の花弁、いやタデ科の特徴の一つの「萼」になる。
      11/5、奈良上狭川にて

この奈良市上狭川地区を紹介しようと思ったが・・・
10月28日に伏見公民館主催、歴史探検ウォーク『平城京跡史跡指定100年・
特別史跡指定70年世界遺産平城京跡を歩く」』で、二時間半ほど歩いてた。
集合は西大寺駅、橋上駅舎となり自由通路が出来、南出口は再開発の最終で
直ぐ近くの真言律宗総本山「西大寺」、東門から境内が望めます。
      

西大寺駅前では元総理安倍さん襲撃現場で頭を下げ、秋篠川沿いを歩けば、
新築の『奈良文化財研究所』、さらに道路を渡り、平城京跡歴史公園に入る。
「平城宮跡資料館」で710年に女帝「元明天皇」が遷都された平城京跡の全貌
      

が足元に描かれている。69年間の都、外京を除き東西約4.3㌔、南北約4.7㌔、
羅城門、朱雀大路、朱雀門そして大極殿院などを説明して頂いた。
さすが藤原不比等が関与した都の計画ですからね。
      Wikipediaより

784年に長岡京へ遷都され、810年の平城天皇の薬子の変以降は見捨てられ、
田畑に戻っていた。

江戸末期1852年に「北浦定政」が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の
畦や道路に街の痕跡を見つけ『平城宮大內裏跡坪割之図』をまとめる。
1907年に「関野貞」、大極殿の基壇を見つけ、『平城宮及大内裏考』を発表
1922年には史跡に指定、
1924年、「棚田嘉十郎」が「奈良大極殿保存会」を設立し平城宮の発掘調査
”平城宮いざない館前に右手は大極殿を指し、左手に軒瓦立つ棚田嘉十郎像”
      10/28

1952年に特別史跡「平城宮跡(へいじょうきゅうせき)」として保存。
1959年以降、奈良国立文化財研究所が発掘を継続し、2004年現在約30%と。
      

1961年に最初の木簡が出土、(資料館では「地下の正倉院展」11/13まで)
     
お役人が削った木簡・・・この木くずが捨てられて保存され、現在に蘇る。
      


2017年に計3,184点の「平城宮跡出土木簡」が国宝に初めて指定され、
2020年には、有名な長屋王家木簡が重要文化財に指定されている。

次は歩いて5分ほど、2010年に復元された第一次大極殿、総工費は180億円、正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、
屋根瓦約9万7000枚を使い、平城宮最大の宮殿です。
天皇の即位式や外国使節との面会など、国の重要な儀式のために使われたが、
奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁宮に移築され、山城国の国分寺金堂に
なるも平安時代には焼失している。
発掘図です。

柱は国産ヒノキなどを調達されている。


遠く若草山を望め、東大寺大仏殿や二月堂が・・・


内部には天皇の玉座「大神座・おおみくら」が真ん中に
      

大極殿院が復元中、2022年3月に大極門が完成し、東楼に着手中、


今年完成したばかりの「大極門」へ行きましょう。総工費56億円
 入母屋造の二重門、間口22.1m、奥行8.8m、高さ約20mと、
朱雀門よりやや小さな礎石立ちの建物です。

2030年頃には西楼、その後回廊ができるようです。 

真南を望めば、朱雀門が・・・

 


朱雀門は1998年に復元され、間口約25m、高さ約20mの入母屋二重構造。 
門前では、元日や外交使節の送迎の際に儀式が行われたほか、都の男女が恋の歌をかけあう歌垣(うたがき)なども催されたと

朱雀大路は南北約3.7km、路面幅約70mの規模で、都の正門である羅城門から
平城宮の南正門の朱雀門までを一直線に結ぶ大路で、柳が植えられていた。 



遣唐使船も復元され、その内容等知らないことがいっぱいあった。

朱雀門から大極門そして第一次大極殿が見えます。
間を通る近鉄奈良線、25年もすると移動することでしょう。ギリギリか?

奈良時代の庶民からどのように見えていたのでしょうか。
住んでいた人は、最近では5~10万人と考えられており、住民構成は、
貴族や役人とその家族、一般庶民、商人や僧侶、物づくりの工人など、
さまざまな身分や職業の人々からなっていたようです。
また諸国から納税のために上京した人々や、工事に駆り出された人夫などの
短期居住者や、はるばる海を越えてやってきた外国の人々も滞在したようと。

ゆっくりと説明を受け、見て回ればまた違った面白さが発見できました。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「奈良散策」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事