カメラを片手に

菅原の里「喜光寺」と菅原遺跡との関連は

今朝は8.7℃とやや冷えこみましたが、東を眺めれば、暖かな光が秋らしさを
装いだした若草山にも降り注ぎ、今日の最高気温は20.3℃にも。
      10:10、15.6℃、69%

さて西ノ京から西大寺そして秋篠寺まで歩き、その続き4回目です。
平城京の西二坊大路を北に歩き、平城京内に残された「垂仁天皇陵」菅原伏見
東陵(蓬莱山古墳)を見て進み、阪奈道路の高架と西大寺の南側に間の地区が
「菅原道真」に代表される菅原氏の名前の由来の「菅原の里」がある。
『万葉集』20巻 4419 石川女郎が詠む
大き海の みなそこ深く 思いつつ 裳ひきならし 菅原の里


阪奈道路の高架下を過ぎ、直ぐのところに法相宗別格本山「喜光寺」がある

行基さんが721年に「菅原寺」として創建され、布教活動・社会事業の重要な
拠点寺院でした。748年に聖武天皇から「喜光寺」と、749年行基さんが喜光
寺東南院で82歳で入滅された(その縁で現在「行基さんお寺」と呼ばれる)。
その後の戦乱等で荒れ果てたが、1275年に西大寺中興の興正菩薩叡尊に復興を
依頼されて果たされるも、またしても1499年に創建時の本堂は焼け落ちた。
1544年に本堂が再建されるも1570年代の戦乱に巻き込まれ、江戸時代に再興
をくり返すも、明治の廃仏毀釈で荒れ果てていた。
     
大正10年、歌人の会津八一はこの荒廃した寺の様子を詠む
ひとりきて 悲しむ寺の 白壁に 汽車のひびきの ゆきかへりつつ
     (昭和40年代も自由に境内に入れたようだ。)
1990年に山田法胤住職が就任され、行基菩薩の遺徳顕彰と伽藍復興を目標に
「平成の復興」が始まり、2010年に南大門2014年に行基堂、再建途上です。

伽藍内には本堂・室町時代 重要文化財、正面五間、奥行四間、高さ17.1m
行基さんが東大寺建立に先だち、本堂を建立した伝承から「試みの大仏殿」
1544年に縮小しての再建ではあるが、高さ17mの大きさはなかなかのもの。
南側一間を吹きとおしにし、「南庇(なんぴ)」や「裳階(もこし)」という
建築技法は奈良時代を意識した復古建築の粋というにふさわしい建物です。
また上層の四方には連子窓から光を取りこむという新しい技法も・・・。


境内内にはハスの鉢が並び、ロータス街道の一寺になる。

行基さんの墓は生駒の竹林院にあるも、残された遺物等は殆どなく、詳細は
不明。しかし住宅地造成による発掘調査が、近くの菅原遺跡、長岡院の一部
で行われ、驚くべき遺跡が出土するも研究者の願いむなしく破壊されている。

菅原遺跡は、行基の業績を記す「行基年譜」に記す行基建立四十九院の一つ
「長岡院」の一部と考えられ、二条大路の延長線上の高台に位置し、東に
喜光寺、平城京を挿み、東大寺から若草山が望まれる最高の場所です。


今年5月21日一部新聞発表があり、狭川真一・大阪大谷大学教授(仏教考古学)は「東大寺を意識した位置に行基を供養する施設を建立したのだろう」と。
回廊を囲む円形建物の構造が・・・

今後、発掘を担当された元興寺文化財研究所から詳細な発表が待ち遠しい。
しかし無くなった遺跡、ここに至るまで、行政側もなんとかならないか。

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