よく晴れた今朝は5.8℃と冷え込み、午前中は小春日和だったが、昼過ぎから
空全体を雲が覆い始め、最高気温は11時頃の16.4℃止まりだった。
11時、15.9℃、55%
今日は打診法を考案したオーストリア「レオポルト・アウエンブルッガー」
1722年の誕生日で、生誕300年になります。なお1809年5月17日歿する。
1761年に「人体胸部叩打による内部潜在疾患検出のための新発見」を発表。
この論文が注目をあびたのは1808年のことです。
ナポレオンの侍医長でフランスの医師「ジャン・ニコラ・コルヴィサール」が
「心臓病の診断に最も有用な方法」として打診法をドイツ語からフランス語に
翻訳し紹介した。これを契機に世界中に広まっていくことに。
現在でも安ければ1000円台と安価な聴診器一つで有用な診断を導いてくれる。
さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花は「ムラサキシキブ・紫式部」、
初秋の林縁など、葉の上で鮮やかな赤紫色の小さな果実が目立つが、今年の
10月初め春日遊歩道では、色づいていなかった。
2022.10.5春日遊歩道
園芸用には近縁種の「コムラサキ」で、特徴は細い枝が長く伸びて弓状に枝
垂れ、ムラサキシキブに比べ果実が多数固まってつく。
花言葉は平安時代の作家紫式部にあやかり「聡明」と
コムラサキ、11/12自宅
岐阜・富山の旅⑤、郡上八幡城から高山そして富山を記す。
10時半前に出発した車は、郡上八幡に近づくに従い、雨脚が激しくなる中を
小一時間走り、旧市街地に着けば、観光客の姿はほぼ見ない。
ここ郡上八幡は一昨年に下呂温泉への通り道として、食事も兼ね立ち寄った。
GoToトラベルの影響か、注文してから一時間も待たされたため上がれなかっ
た「郡上八幡城」へと、急坂で狭い道路を駆け上がった。
駐車場から
郡上八幡城は1559年、遠藤盛数によって砦が築かれたのがはじまです。
古名を積翠城、郡城、虞城といい、郡上八幡市街地の北東にそびえる八幡山
(古名牛首山)にあり、 山の南側と西側にそれぞれ吉田川と小駄良川が流れ
天然の濠になる。
また急峻な山容は、防御に高く、山麓には城下町を構築する平地もそなえると
いう極めて理想的な条件を揃えていた。
現存する「慶隆御一世聞書」によれば、1601年春~1603年の秋に天守普請
「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」と。
1758年、大規模な百姓一揆により断絶した金森氏に代わり、青山幸道が10代
藩主として丹後宮津より入部し、以来100年以上も郡上藩青山氏が続く。
なお東京都港区の青山の地名は、郡上藩青山氏の江戸下屋敷が由来になる。
明治維新の動乱で1869年に取り壊されたが、1933年に街のシンボルとして
大垣城を参考に木造模擬天守が再建され、日本最古の木造再建城となる。
城郭構造は平山城で、天守構造は独立式層塔型の4層5階、他に2つの隅櫓、
高塀、櫓門も再建され、続日本100名城、141番に指定されている。
立派な石垣の傍を行く
カメラスポットから
作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。
北の方向
南西側では郡上八幡の街並みが伸びている。
入場門へあがり、西を見れば吉田川
南東側から市街を見る。吉田川の流れが・・・
眺望が望めず、お腹もすいてきたので内部には入らずに、戻れば・・・
途中に城内松の丸にある「凌霜隊の碑」への矢印が・・・
戊辰戦争の際、郡上藩脱藩士によって組織された凌霜隊は、旧幕府側に立って新政府軍と戦った。
「道は一筋ナリ」
その後、紅葉の名所「せせらぎ街道」を通り、高山市内で散策の予定が、
東海北陸道の高速を通り飛騨高山へのコースに変更となる。
ひるがの高原を過ぎ、清見ICまで、雨ですがきれいな紅葉が愉しめました。
高山西ICで降り、「道の駅 ななもり清見」で乾燥した朴葉をお土産に。
次は高山市内ベーカリー「トラン・ブルー」への提案を却下。というのも
高山市内の和菓子屋「分隣堂」に営業されているか電話していた連れ合い、
麦落雁「和」を買うためだった。
雨のため市内観光もままならず、早めに富山へ向かうことに。
昨日のパンなどを食べながら、国道41号線を順調に抜け、飛騨から富山への
道筋の紅葉も見事で、ゆったりとしたドライブになりました。
富山の親せき宅には午後3時半頃到着すれば、皮肉にも雨が上がる。
着くなりビールを勧められ、楽しい一夜を過ごしました。