東の空はきれいに朝焼け、本当に12.3℃と暖かな朝で、9時半頃にポツリと
降り出した雨、一時は本降りになるも午後3時には止んできた。
今後は寒気が南下し、季節が一歩進みそうですね。
6時30分 13.0℃、94%
今朝から奈良市中部公民館で奈良学セミナー後期四回の1回目を受講、講師は
帝塚山大学 客員教授「西山進」さんで「源頼朝と東大寺大仏殿の再建」を。
隠れた副題は「鎌倉どのの13人と重ねながら」と明かされ、視聴率は芳しく
ないが、先生的には今回の大河が一番優れているようだと話され、要所要所に
大河に登場されている人物に似せ、目鼻立ちのはっきりしたマンガチックな
登場人物がスライドに登場しておりました。
743年聖武天皇の大仏造立の詔で「人々や動植物すべての生命の安寧を願い」
「一枝草、一把土・・・趣旨に賛同する民衆の自発的な参加を求めた」
そして鎌倉時代の再建は、1180年の12月28日に平清盛の命を受けた平重衡の
東大寺焼き討ちで、正倉院と転害門を残して焼けたことからで・・・
平清盛が1181年に亡くなり、東大寺再建を託された61歳の「重源(ちょうげん)」
東大寺HPより
初めに大仏再建の全国での勧進を後白河法皇(西田さん)に願い出ている。
勧進状には「尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も」聖武天皇と同じく、微々たる
力しか提供できなくても構わないからと協力を求め、1185年に大仏開眼となる
次は東大寺大仏殿の鎌倉期の再建、江戸期の再建では縮小された大仏殿でも
2万本の材木を用いたことから、約3万本にも及ぶ材木の調達に苦労されたよ
うで、材は近畿にはなく東大寺の所領だった周防(山口)からの切り出しと奈良
までの輸送で、つまりお金(その後岡山も東大寺の所領となる)と護衛です。
頼ったのは「源頼朝」(大泉さん)、先生曰く信心深い人だそうです。
1188年8月 鎌倉に下向し頼朝と面会し材木輸送への協力を依頼する
1188年9月8日 頼朝は材木輸送に関する書状を重源に送る
後白河上皇の指示を仰ぎ、朝廷主導の事業とすべきと。
朝廷を重んじていることが推察されますね。
甲斐善光寺HPより
1192年3月13日、後白河法皇66歳で崩御、
1192年7月12日 頼朝征夷大将軍に。
東大寺大仏殿内に脇侍(虚空蔵菩薩、如意輪観音)と四天王がおられるが
その四天王の担当者、
残るは背後の二仏、快慶作の「広目天」は梶原景時(中村獅童)
定覚作の「多聞天」
後部に頭部だけの二仏 運慶作の「増長天」は畠山重忠(中川大志)
康慶作の「持国天」
1195年2月14日 頼朝、政子(小池栄子)・大姫(南沙良)・頼家(金子大地)を伴い
東大寺供養のため鎌倉出発(最後の家族旅行)
大姫を伴ったのは、後鳥羽天皇に嫁がせるためだったが失敗
大姫はその後20歳で亡くなる
1195年3月11日 東大樹への寄進、光背の金のため、米千石、馬千頭など
1195年3月12日 後鳥羽天皇、頼朝、政子など臨席して大仏殿落慶供養会
数万騎の武士などが寺内・門外を警護する。
*大雨が降るも警固の武士は身じろぎもせず(愚管抄より)
今までは屋根下などへ避難していたが、新しい武士の時代
がやって来たと述べている
1199年1月13日 頼朝亡くなる
1203年11月30日 南大門等完成し東大寺供養第3回目、後鳥羽上皇御幸
*東塔、鐘楼・・・まだまだ復興は続きますが・・・
1206年6月5日 重源上人亡くなる
*3月のお水取りで、5日と12日の二回、初夜の大導師作法で、神名帳の
あとに過去帳の読み上げがあり、東大寺の建立や復興に大いに関った
人々、縁の深かった人々の菩提を弔うため読み上げられる。
もちろん、後白河法皇、源頼朝、重源上人が登場している。
1221年 承久の乱
1229年2月22日 後鳥羽上皇崩御
いつものことですが、西山先生の「頼朝愛」が伝わってきた講演でした。
なお2代目の大仏殿も1567年、三好三人衆と松永久秀との争いの際、焼失。
*近年の研究により松永久秀が火をつけたとの見立ては誤りとされ、
三好方が自ら火を放ち、延焼して大仏殿が燃えたと(多門院日記等)
当ブログ記事参照「1567年の大仏殿の炎上の原因を戒壇院と大仏殿の間で」
現在、重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前面部)
が残っている。