石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

「石巻の人」・・「いしのまき散歩」より

2023年11月19日 | 感想

         

 

 この写真は前回投稿の古本市で購入した本のうちの1冊です。その本のカバーです。

 写真は北上川の石巻あたりの河口の様子の絵です。はっきりとは見えませんが、中瀬のあたりも描かれています。本の表紙の裏には写真の通りにペンで描かれた絵があり、場所ごとに地名や建物の名前などが入れられています。写真の絵は、いつの頃描かれたのか分かりませんが、懐かしく感じられる方もいらっしゃるでしょうか?

 

  この本の中に中に昔?の身近な石巻がたくさんありました。

「いしのまき散歩」という親しみやすい題名と表紙のきれいさに惹かれて手に取りました。

 目次には、聞いたことがある名前がたくさんあります。

 この本は、石巻在住のお医者様たちの石巻市医師会郷土史同好会の活動によって、20年の長きに渡って調べられた内容を3人の医師たちによって執筆された本です。「石巻を中心に『足で、目で』大地を探し、墓石に触れつつ得た尊い記録であり、感動と感銘そして嘆賞を参加の会員の方々から受けた」と太宰惇氏が発刊によせて序文で述べています。

 

 学者さんが書いたものではなく、同好会の方々が調べたことをまとめたものなので分かりやすくで興味の持てる内容になっているのでしょう。

 

 そんななかから、今回は「いしのまきの人」という項目を読んでの感想を書きたいと思います。

   以下、その項目の本文の一部です。

 「~略~ ここでは、石巻の屋号には、特に地名を連想させるものが目につくように思う。近江屋・越後屋・相馬屋・尾張屋・栃木屋・山形屋・秋田屋・気仙屋・讃岐屋・水沢屋などとスラスラ頭に浮かぶ。中には姓そのものを名のる方もあろうが、先代をさかのぼれば出身地を証明できる屋号であるかもしれない。

 更に、漁港でもあるから〇〇丸と鮮明を名のる漁業会社を随所に見かけるのは当然だろうが、元の船名と縁の切れた商売になってもそれを名のる老舗があるのは石巻ならではあろう。例として陶磁器の老舗が挙げられる。

 いずれにしても、石巻の商圏が海を相手に藩政以来特異であったことは確かだ。北上の河口港としての舟運と藩直轄地としての開放性が、他藩遠方と交易する商人の交流に大きな魅力となったのだろう。屋号を眺めながら昔日のロマンを味わいたいものだ。~後略~」

です。

そうい言われてみると、思い当たることがあります。

「品川屋」というお店もありました。

また、同級生には、水沢さん、越後さん、気仙(けせん)さん、讃岐さんなど、確かに地名と同じ苗字の方がいましたね。

それから、前に投稿した「三春屋平吉」もこの方は福島県の三春出身の方なのでしょうね。

 

 苗字のルーツを調べるのも面白そうですね。

 歴史を調べる時には地名や町名も大切な手がかりになりますね。

 何十年か前に仙台の「一番丁」の地名を「一番町」と改名する時に反対の声があったことを思い出しました。

 石巻でも、町名が変えられた時がありましたね。その時は合理的で良いと思ったのかもしれませんが、昨今のように災害が頻発する時代になると、昔の地名や言い伝えも大事にしなければいけないように思います。

 昔、その場所で何度かあった災害などの様子を伝える地名や、仕事の内容によって呼ばれていた地名がありますね。

 

 最後にもう一つ、石巻では「阿部」という苗字が全国平均から見て圧倒的に多いかったそうです。何故でしょうね。

 

その他、分かりやすく興味の持てる内容がたくさん。その内、機会があったらまた、紹介しますね。

 

※ 「いしのまき散歩」の執筆は、同好会代表 二宮以義氏、佐久間昌彦氏、山内豊氏 の3名によるものです。それぞれの苗字の一字を生年順にとって「二佐山連(にさやまむらじ)」としたのだそうです。命名の仕方もちゃめっけがあって面白いですね。平成2年3月21日初版発行です。発行は株式会社ヤマト屋書店です。

 

 

 

 

 


古本市 in  金港堂

2023年10月27日 | 活動

        

 

 どんぐりさんから情報をいただき仙台の金港堂で古本市が行われていることを知りました。

 10月20日~11月19日なので始まったばかり。

 出かけたついでに立ち寄ってみることにしました。

 「古本市(古本屋)」懐かしい響きです。

 私たちが若い頃には馴染みのあった場所ですが、今もあるとは...。

 私は、最近はもっぱら「ブック オフ」とか「メルカリ」を活用。たまっていた文庫本の全集などは「ブック オフ」に引き取ってもらっていました。

 仕事関係の本はダンボール箱に詰めて焼却場へ運び処分。

 そして、高価な全集はできたら図書館へ寄贈しよう等とも思っていました。

  でも、まだ本棚には今でも役立ちそうなものや見たい写真等があるものが並んでいます。 また、押し入れに眠ったままのものもあります。

 

 それと同じような懐かしい本も古本市には並んでいました。

                 

 上の写真は、私が若い頃に買った3~40年前に購入したものと同じ頃の雑誌の棚です。

  その頃の手芸の本にのっている人形たちは、素朴で愛らしく癒されます。

 

 お店の主人(?)はお父様が私たちと同世代とのこと。この世代の人達がたくさん本を売りに出しているそうです。断捨離が必要な世代ですね。

 

 私がもっている古いものについていろいろ聞いてみました。

 そして、意外なことも分かりました。

 私が独身の頃に買ったファッション雑誌は、着物よりも洋服のものが需要があるそうです。

 現代のものと違っていたファッションの歴史を学ぶ方たちにとって価値があるのでしょうか?

 また、昔あった洋画の雑誌「スクリーン」等は本体よりも当時の映画のポスターや入場券等が需要があるのだそうです。そして洋画よりも邦画のほうが価値が高いそうです。つまり、希少価値ということです。

 そういえば、私が先日整理した時に独身の時に旅行した時の観光地の入場券や列車の切符等をノートに貼付したものが見つかったけど、あれもレアなのかな?

 文章は、ガリ版刷りのもの、同人誌等が価値が高いそう。

 

 古本等出したいものがある時は引き取りに(査定に)きてくださるとのこと。

 実は、ほったらかしにしていたレコードもあります。その内、来ていただこう。と思ったりしました。

 

 さて、ところで私の欲しい本はあったかというと....、ありました。面白そうな石巻の本が。2冊ほど買ってきました。下の写真のように、立派な「石巻の歴史」全集がありましたが、定価17000円くらいで全〇巻は、私ではなく別の人が入手するのがふさわしいですね。

 

 そうかー。家の中には古本屋、古道具屋さんに引き取ってもらえそうなものがまだありそう。整理が下手だったということかも....。

 お店には文庫本もありましたが、そんなものもまだ家のダンボール箱にあるので。

 何にしても、昔はそれなりに価値があった紙類がまた誰かのために役立つなら古本も本望なのではないかと思ってしまいます。

  

 陶器やレコードプレーヤーなどの骨とう品(?)もあります。

    

 ポスターやレコード、DVDもありました。

※ 引き取ったものは、何軒かの古本屋さん(初めの写真の下の部分)で競りを行うそうです。ちょっと面白そうです。

 


 【特集】  生きている髙橋英吉『石巻学VOL8』・・・どんぐりさんからのお便り 

2023年10月22日 | 紹介

                                           

どんぐりさんから またまたお便りが来ました。新刊本『石巻学VOL.8』に掲載されている石巻出身の彫刻家「高橋英吉」の特集記事についての内容です。

以下に紹介いたします。

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〈新刊本紹介〉

『石巻学VOL.8』

【特集】生きている高橋英吉

 

2023年8月に刊行された『石巻学VOL.8』の特集は、「生きている高橋英吉」。丁寧に調べて書かれた原稿は、それぞれ読み応えのある充実した内容だった。

 

目次に並んだ原稿の書き手とその内容が、それぞれ的確であったことは、読んでみての第一の感想だった。恐らくこれまで高橋英吉を描いた書物としてはあらゆる角度から高橋英吉の時代と人を、そしてその後を取り上げていて、秀逸だろうと思われた。

作品の紹介は、見つかったときの状況など詳しかったが、美術としての評価にはあまり触れていない。これは美術評論家ではない筆者たちがあえて踏み込まないで、個人の評価にゆだねたからなのだろう。そう、人によって抱くイメージが違うだろうから。そしてこの若くして戦死した彫刻家は、生きていればどんな方向に花を咲かせていったか、その可能性まで見透かして語ることのできる人はいないということでもあろう。

もっとも、これまで高橋英吉だけを取り上げた書物がどれだけあったかは知らない。戦没画学生の1人として、または新聞記事として著わされたものが多かっただろうから、高橋英吉のエピソードというのは、これ以上は新しく見つからないだろう。これからは残された作品たちに語ってもらうほかはないだろう。

 

                                                     

                                        写真は、高橋英吉のコーナー  潮音 (海の三部作)

 

私が最初に高橋英吉を知ったのは、『祈りの画集 戦没画学生の記録』安田武・宗左近・野見山暁治著を読んで、だったような気がする。その本を手に入れた頃だから1977(昭和52)年頃のことになる。志半ばで戦場へ赴かなければならなかった画学生たちの遺族を訪ね、作品を借りて展示会を開こうとする3人の取材記が、戦没画学生の作品と、作品が生まれた背景、画学生その人を語っていた。

高橋英吉については評論家の宗左近氏が石巻を訪問、関係者に会って取材していた。ズンズンと心に迫る宗氏の文章が、英吉の彫刻に触れた感動を生々しく伝えていて、その文章に圧倒されたことを覚えている。宗左近氏が感銘を受けた英吉の作品を見てみたいと思ったが、それから20年以上たってから長野県上田の無言館ではがきを見たほかは、石巻市博物館ができるまで彫刻を見たことがなかった。

『祈りの画集』から46年ほどを経て、今また珠玉の英吉本が出来上がったというわけだ。さて今度の『石巻学』でどれだけ熟成された英吉像を構築しているか。それは読んだ方たちの読後感になるわけだが、読んでから石巻市博物館で英吉作品を見るか、見て知っているから本を読むか、どちらにしても英吉の作品に触れ、その魅力を知ったら、英吉作品を見る楽しさが倍増すると思う。

50年前なら「戦没画学生」という戦没者への哀惜の念が作品の評価に加わったかもしれないが、50年もたつとそういう世相も感情も薄れて、時代を超えた作品として見られるかどうかで評価をあおがなくてはならない。英吉の作品はそれでも人の心を揺さぶるか?

博物館で相対して、じかに問ってみよう。

 

『石巻学VOL.8』

特集 生きている高橋英吉

目次

海と仏像―高橋英吉小伝  大島幹雄

高橋英吉の手紙―石巻市博物館蔵「高橋英吉資料」をひも解く   泉田邦彦

石膏像との出合い  鈴木哲也

戦場からの絵ハガキ  大島幹雄

高橋英吉のガ島戦  天谷裕道

熱かった英吉顕彰運動  鈴木孝也

魂の格闘から生み出したレクイエム「潮音〈海の三部作〉」  本庄雅之

時の余白に    芥川喜好

こころの版画家 高橋幸子  大島幹雄

お月さま  佐々木眞理子

高橋英吉作品一覧  石巻市博物館

ほか略

 

                                                                                                                                               

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どんぐりさん、ありがとうございます。

髙橋英吉については、今年(2023 令和5年 9月22日)の河北新報の記事にもありました。

「石巻出身の彫刻家」「高橋英吉の木彫童子どこへ」 「遺族 原型石こう像を市に寄贈」『「仙台西島蔵」手がかり 』  

という見出しです。

「石巻学VOL.8」の表紙の像は石膏像で「童子和音」の原型とみられているのですね。

高橋英吉が子どもの頃から美術の才を示し、東京美術学校(現在の東京芸術大)で彫刻を学び将来を嘱望されたが、太平洋戦争に召集され、31才の若さで戦死した。石巻市の市博物館ではその作品は所在不明も含めて計76点の木彫り作品を把握しているそうです

英吉が作成した作品リストの中の一つ「童子和音」があり名称の下に「昭和15年9月作 仙台西島蔵」とあり、詳細は不明とのこと。 

 

市博物館がオープンした一昨年秋、英吉の長女幸子さん(82歳)から高さ47.5センチの石膏像の寄贈を受けた。像は戦時中、知人宅に預けられ2011年に返却されたとのこと。

英吉の業績を調査している鈴木哲也さん(55歳)はそれが「童子和音」の原型ではないかと助言したとのこと。英吉の作品作成の方法が 石膏像作成の後木像を完成させるスタイル。調査の結果、その可能性が高いことが分かったとのことで、石膏像には「笛ふく童子」とタイトルをつけて市博物館に展示しているとのこと。

鈴木さんは「仙台の西島さん」宅に今も木像が飾ってあるかもしれないと発見を期待しているそうです。

市博物館の学芸員泉田邦彦さん(33歳)は「『童子和音』が見つかれば調査が進むことになる。情報があれば博物館に連絡をしてほしい。」と  呼びかけている。

ということでした。

 

石巻が少しずつ文化的な部分が増えてきているいうに思います。

市博物館は旧石巻のはずれの方にあるので、たまに石巻に行ってもちょっと行きずらく残念なのですが、行かないのはもったいない気持ちになりました。

どんぐりさん、ありがとうございました。                

 

※ 今回、原稿からのコピペがいつものようにうまくいかず苦労した結果、一部フォントが違ってしまいました。でも、このくらいがとりあえず読みやすいのではないかと考え終わりにしました。

pcの世界はミステリアスです。

 

 

 

 

 

 


9月17日 北多摩3市福島県人会主催映画観賞会「霧幻鉄道」ーどんぐりさんからのお便り

2023年09月30日 | お便り

   

前回の投稿からから随分間があいてしまいました。秋のお彼岸以降やっと暑さが和らぎ普通の感覚で生活できるようになり、ほっとしました。

どんぐりさんからは少し前に原稿をいただいていたのに、載せるのが遅くなってごめんなさい。どんぐりさん。

では、以下にその内容うを紹介いたします。

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9月17日 北多摩3市福島県人会主催映画観賞会「霧幻鉄道」

 

春に、東久留米市福島県人会主催の講演会に参加したばかりだったが、この秋は東久留米市、小平市、西東京市の北多摩3市による映画観賞会が開かれたので行ってきた。会場は東久留米の生涯学習センターまろにえホール。

会場に着くと、入れない20人ほどの人がホールの入り口にたむろしていた。私は前売券を持っていたのですぐ入れたが、会場500席のほか100人分の補助いすが用意されていても、入りきれない人が出ていた。

これは「只見線」の魅力のせいなのかな。県人会でない方も多そうだった。

                

(主催者の挨拶。簡単なものだった)

 

映画は我孫子亘監督の「霧幻鉄道」。福島県の会津若松と新潟県の小出をつなぐJR只見線を撮り続けてきたカメラマン星賢孝さんの話だ。(2022年制作80分)

 

JR只見線は2011年7月、新潟・福島豪雨と呼ばれる大災害によって、途中の鉄橋が3か所も流され、線路の崩壊もあり、その区間(会津川口駅~只見駅)は不通となった。すぐに代行バスの運行が始まったが、もともと利用者が少ない赤字路線であり、只見線はこれで終わったと誰もが思ったという。しかし奥会津と呼ばれるその沿線の風景の美しさは、日本で類を見ない絶景鉄道といわれていて、住民や自治体の熱意で、2017年JRの赤字覚悟の復旧が決まり、2022年10月1日に完全復旧された。

いちばん問題となる赤字路線の経営については、上下分離方式というやり方で、電車の運行はJRが、駅舎など鉄道施設の維持管理を自治体が負担することになった。

復旧費はその時赤字ローカル線支援の法律の改正などもあり、国の補助金も出て、結果的に地元とJRと国で3分割で受け持つことになった。

 

(只見線の地図の一部。福島県・只見線利活用推進協議会のパンフより) 

 

その只見線復活に奔走した星さんは、霧幻峡に渡し舟を浮かべ自ら船頭になってお客を写真の撮影ポイントまで連れて行ったり、撮影ポイントの環境整備をしたり、SNSで只見線の美しさを発信し続け、そのおかげで外国から写真を撮りに来る人が増えたという。

星さんは、その人たちは電車に乗ってくれないがその周辺の町に経済効果をもたらしてくれると盛んに言う。でもそのことで映画1本を貫くのは、私は難しいのではないかと思った。途中で飽きがくる。

何か月か前に、テレビのBSプレミアムの「新日本風土記」で放送された只見線の話では、町のいろいろな人がどんなに只見線と思いを共にし、今待ち望んでいるかを、数人の人を取材して展開していた。それはつらい出来事を持った方もいらしたが、今は心がほっこりしてくる話ばかりだった。

只見線の美しさを映画の画面として訴えて来てもらいたいというのも監督のねらいだろうが、何度も第一只見川橋梁と電車の図をこれはどうだ、ではこれはどうだと提示されるより、自分がそこに行って見た風景がいちばんいいとなるのだから、見に行くとどういう人に会えたり、どういう食べ物が食べられるのか、人との交流を見せてもらいたかった。

最後に我孫子監督と星さんがいらしていて壇上でトークしてくれたが、監督はぜひ来て電車に乗ってほしいと繰り返し、星さんは外国に広めたいと発言していて、主張の違いを感じた。

 

終わってからも大混雑だったので、早々に引き上げてきた。だけど、3市の福島県人会の方々は、ずいぶんがんばっているなあと肌で感じてきた。

        

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ご苦労様でした。どんぐりさん。

最近は、歳のせいか、コロナのせいか出不精になってきていた私でしたので、感謝です。

鉄道というのは、いろいろなかたちでできているのですね。人々の気持ちが集まってことを成し遂げるというのは素晴らしいですね。

私は映画を見ていないので、その只見線の景色の良さや土地の雰囲気が伝わりませんが、どんぐりさん以外の人たちはどんな気持ちで鑑賞したでしょうか?懐かしいというだけで喜んだ方も、もしかしたらいたかも....、

とにもかくもこのような場を提供できることが素敵ですね。

 

嬉しい情報有難うございました。


万葉の森に行きました! その②

2023年07月13日 | 活動

  

  1枚目は前回と同じ写真。      2枚目はシャガの花畑です。

 

 こんにちは!!  「万葉の森に行きました!」その②です。

 ①にもあった上の1枚目の写真、部分を拡大すると。下の写真のようになります。

 石に掘ってある文字が万葉集の歌の一首、そしてその斜め上の方に立て札があり、歌と説明が書いてあります。

 その後ろにある少し細い木がジャケツイバラ(かわらふじ)の木のようです。

 歌の説明は読めるでしょうか?

 「そうけう」とは、「かわらふじ」であり、「ジャケツイバラ」とも呼ばれる木なのですね。

 大意として

 「かわらふじに這いまわるクソカズラのようにいつまでも宮仕えをしよう」と書いてあります。詠み人は高宮王(たかみやのおおきみ)

 どの名前も初めて知りました。どんな花が咲くのでしょうか?

 その大昔から「クソカズラ」という名前はあったのですね。「ヘクソカズラ」と呼ばれている蔦は自宅の木にも絡みつきますが、葉は黄緑で花は藤色のような小さなものでそれなりに可愛く綺麗でもあるのですが、何か名前のイメージが悪いですね。誰かも確か怒っていたような....。

 

    

 このように歩く先々に、ところどころに万葉集の歌とそこに詠まれている植物が生えていたりするのです。

 

   

 これは、少し読みにくいですね。書き移してみます。

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 新元号「令 和」の出典は万葉集 巻五  梅の花三十二首併(あわ)せて序文から引用されました

  天平二年正月に  (そちのおきな)の宅(いえ)にあつまり宴会を申(のぶ)ぶ。時に

  「初春の令(れい)月にして、気(よ)淑く 風和(やわら)ぐ

                梅は鏡前の粉を披(ひら)き  蘭は  (はいご)の香を薫らす」

                              (※ 下線の部分は現代の漢字では出てこない部分です)

 現代語訳は

   「初春のめでたい月に 天気も良く風は和らぎ  

            梅は女性が鏡の前で化粧をする粉のように

                     白く咲き蘭は香のように薫っている」

 旅人は任地の大宰府で部下の役人を集め梅花の宴を採捕し、梅を題に作歌を命じたが、その時の自作の歌を含めて、万葉集巻五には、この梅花の宴で詠まれた歌三十二首を載せている

  「わが園に  梅の花散る  ひさかたの

               天より雪の流れ来るかも」    (巻五 八二二)

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 この歌の歌碑が下の写真です。右の立て札の内容は読めますね。

 

 これは、きれいな歌です。大伴旅人は有名ですね。梅はバラ科だったのですか。

 

   

 

 

 これもなんとか読めそうです。

 左上の「ホオノキ」の名札が見えます。ホオノキが生えているのですね。

 

 とりあえず 今日はこのへんで。

 写真が鮮明ではなく、しかも手当たり次第に撮ったので、どれとどれが同じ歌なのか探すのに時間がかかってしまいました。

 また、昔の漢字や読み仮名だったりで進めにくかったけどちょっと勉強になりました。

 

 なので、この続きはまたこの次にしたいと思います。

 

 それでは、また!

 

 

 


「万葉の森」に行きました!

2023年06月25日 | 活動

        

     1枚目 万葉集出典和歌1首               2枚目は野草「イカリソウ」

  季節は梅雨時となりましたが、しとしと....ではなく土砂降りの雨になったり、と思ったら急に真夏のような暑さと蒸し暑さがきて面喰ったりするこの頃です。日本全国どこでも災害発生の可能性のある昨今です。

  そんな中ですが、今回は前のことになりますが、ゴールデンウィークに訪れた県内の観光地(?)「万葉の森」を紹介したいと思います。

 上の写真のお触書のような立て札には、万葉集の中の歌が書かれており、その横には訳があります。そしてその脇の石碑にはその歌が記されています。

 

  

 

 「万葉の森」は仙台より北の地域の大衡村にあります。国道4号線から少し入った所です。

 私は北に行く時は東北自動車道を通るので仙台に近い県北の地域には詳しくありません。一緒に行った知人は親類がこの近辺にいるとのことでよく訪れたのだそうです。

 

 当日は、まさにこれぞゴールデンウィーク日和とも言える晴天でした、コロナによる規制から解放され自由が広がる喜びも相まって幸せいっぱいの気分でした。

  

 

 最初に向かったのは、「大衡村ふるさと美術館」です。常設の展示室と期間限定の展示室があるようで、知人の知り合いの家族(?)の方の写真展があるので、まず見なければ、ということでした。

 

 美術館の入り口には、上の写真のような自然木で創作した人形たちがお出迎えです。

 特別展示は野生の動植物の写真などがありました。迫力がありました。

 常設展示では郷里出身の画家の作品がありました。

 作品も素晴らしいですが、この美術館の建造物そのものがアート作品のようです。

 

 これが美術館への回廊です。木造建築で、美しい造りです。

 外に向かうと、先には池があり、金魚がいます。池を過ぎるとこんな立て札が。

            

 その前の立て札の内容は右の通り。

 写真がぼやけていて読みずらいですね。

 今回は読みにくいのですが、もっとはっきり読める写真もあります。

 それは、次回に譲り、とりあえずその①閉めます。

 それでは、また!

 


「福島県人会講演会 (東久留米市にて)」~どんぐりさんからのお便り 

2023年05月14日 | お便り

 

 ゴールデンウィークも終わり、いよいよ本格的に今年度が始まろうとしている時、また、震度6強の地震が石川県に起きました。水道はまもなく復旧し始めたようで少しほっとしましたが、雨の悪天候もあり、そして地震も頻発し、かたずけは思うように進まないとのこと。心が痛みます。

 忘れた頃にやってきたかどうかわかりませんが、間もなく別の地方でも震度マグニチュード5以上の地震がいくつか起き、本当にいつどこでまた、大きな地震が起こるか油断ができません。

 地震のたびに防災リュックを思い浮かべますが、実際は必要なものを全部詰めることができずにいることを感じます。なにしろ、背負って避難することも考えなければなりませんから。

 何年か前に前の家の老夫婦のおばあちゃんに避難の話をした時、「その時はあきらめるのっしゃ。」とおっしゃって笑ったことがあります。

 

 さて、あの東日本大震災で甚大な被害を被った福島の方々のその後の一端を知ることのできるかもしれない福島県人会主催の講演会が東久留米市にて行われたそうです。

どんぐりさんが参加してその様子を伝えてくれました。

以下に紹介いたします。

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     福島県人会主催の講演会(東久留米市にて)

 

 地域新聞に目を通していて、「発酵食品と免疫力」という講演会のお知らせを見つけた。隣町東久留米市の福島県人会主催だという。結成10周年の会だから、震災後の結成で、その記念の講演会だという。

 問い合わせ先に電話したら、福島人でなくてもいいというので、隣町まで出かけて講演会の券を買った。講師は免疫学者として有名な東京農業大学名誉教授の小泉武夫先生。先生は福島県いわき市の出身だという。だからあの日以来、講演会などで被災地を支援しているのだという。

 4月22日(土)午後、会場は300人くらい入ると思われた。早く着いて、福島の方のお話を少しでも聞けるかと思ったが、お隣に座った方は、亡くなったご主人が福島のいわき出身だったという方だった。15年も前にご主人はなくなられたという。お住まいも東久留米市ではなく東村山市とのこと。今回は私のように、県人会に入ってないけど、免疫の話が聞きたくて来たとのこと。

 その方とは、東村山市にある国立ハンセン病資料館の話になった。1907(明治40)年からハンセン病療養所の多磨全生園があった場所である。私は周りは何度か通っているが、中に入ったことはない。緑の多い、広い敷地のところだ。

 

 

 講演会が始まる前の会場は、知り合いとにぎやかに話をかわしている人たちが目立ったが、福島のなまりが飛び交うわけではない。若い方はいなく、皆さん70~80代。福島県人だけではなく、県人会の人が身近な習い事とかの仲間を誘って来ているという感じだ。西東京市や小平市の福島県人会の方たちもいるはずだったが、会場で紹介されるわけではなく、講演のほかに特別な話があるわけでもなかった。

 小泉先生の講演は、話慣れしている方のしゃべりで、とてもわかりやすかった。

 お忙しいらしく、4時にはここを出なければならないからと、休憩をとらずに話された。

 いわきのつくり酒屋の出身で、今は親戚の方が郡山でその酒蔵を継いでいるとのこと。

   

 

 家業を継がないで研究に夢中になるとは、なんだか今テレビで始まったばかりの朝の連続ドラマの牧野富太郎に似ているなあと思った。

 先生があわただしく帰られたあとは、観客がゆっくりと動き出した。仲間同士で会場を出た人の中には、打ち上げに出席するとかしないとか言っていた方たちもいたので、その方たちは県人会の人たちだったのだろう。震災から12年もたてば、東京の県人会の人たちも、普通の生活の中でゆったりとしているようだ。

 受付の方にうかがったら、被災して福島から東京に移った人もいらっしゃるそうだから、もう東京の生活が出来上がっていることだろう。

 この会の現在の会員数は240名、新年会、春の花見、まろにえ祭り出店、福島県内に1泊2日の応援バスツアー、市民祭り出店、講演会、各種サークル活動など、会員の親睦・交流と福島県への応援活動をしているとのことだった。福島のためになることが生きがいだという。

 

 久しぶりの東久留米駅北口は、以前とはすっかり変わって、駅もりっぱな建物になって、にぎやかになっていた。以前は狭い路地に、小さい商店が個々に営業しているというふうだったが、その旧商店街の東側に新しい駅広場ができていた。

 黒目川のタヌキを見に来た20年前とは全然違う。神社の神藤像を見に来た10年前とも違う。あの時は工事中だった。こうして街って変わっていくのだなあとしみじみ思った。

 

 

 

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 どんぐりさん、ありがとうございます。

 読ませていただいて、時の移り変わりを感じさせられました。そして、今後この世の中がどのように変わっていくのか?どのように変えていかなければいけないのか?と考えさせられました。

それにしても、福島の方々が土地を離れても、新たな場所で集まって活動をしている姿に少しほっとしました。

 

 

 

 

 

 

 

 


「船岡城址公園」に行きました ・・・その④ 「本丸跡 船岡観音像」編

2023年04月28日 | 活動

   

 

やっと「船岡観音像」の所に到着!

ここは一番眺望の良い所です。

  

北側からは、白石川沿いの「一目千本桜」も見えます。そして、山沿いに広がる花々!

 

立て札の文章が読めるでしょうか?

ここ船岡館跡について書いてあります。

読みにくいので以下に写しました。

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船岡舘跡(別称 柴田城・四保舘・船岡要害)

 ここ船岡の知は、江戸時代の初め頃(慶長初期  1600年頃)までは四保(しのう)村とよばれ、領主四保氏の居館四保舘のあったこの舘山も四保山であった。四保山は、欧州街道と白石川を挟むかたちで〇神山(〇の部分は案内の漢字の読み方が辞典に出てきません)と対峙し、軍事上の要塞だった。この丘陵上に築かれた四保舘は、沼や堀・川に囲まれ、峻険な地勢と相まって、天然の要塞というべき山城である。鎌倉時代に、この地域を治めた一族は、御家人小山氏の一族だったが、この地名を採り四保氏を名乗ったとされる。

 16世紀の初め、柴田家の祖  四保但馬定朝がここに住み、二代目宗義の時、四保姓を柴田に改めた。柴田氏は、文禄二年(1593)、志太郡桑折(大崎市三本木桑折)に所替えとなる。

 その後、船岡の地は、伊達政宗の家臣屋代勘解由兵衛景頼の所領となる。屋代氏は二の丸に住んだが、慶長12年(1607)に改易となった。

 この地に、原田氏(甲斐宗資、甲斐宗輔の父)が桃生郡大瓜(石巻市大瓜)から移封されたのは元和元年(1615)のことである。原田氏は山上には屋敷を設けず家中屋敷に二屋敷分を取り居屋敷とした。しばたの郷土館のあたりであったと考えられる。しかし、寛文11年(1671)3月27日に起きた寛文事件(伊達騒動)により、原田家は改易となる。

 その後天和元年(1681)に、寛文事件の波及を身を挺して留め落命した柴田外記朝意の子中務宗意が、登米郡米谷(登米市東和町米谷)から再び船岡に戻った。元禄7年(1694)7代宗僚の時「三の丸」に居屋敷を築造し、以来170余年を経て明治維新を迎えることになった。

      「二の丸跡」(現・コミュニティガーデン花の丘柴田)については略   

  撰文 しばた歴史観光ガイドの会   (平成三十一年三月設置)

 

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  この地にもどこにも江戸時代の暮らしがあったのですねえ。四保村があり、四保氏が治めていてその舘がこの四保山にあったのですね。そしてこの地形が戦さの時の優れた要塞でありえたのですね。歴史を感じます。

 そして、時を経て原田甲斐の祖先が桃生郡(現在の石巻市大瓜)から移封されたことは初めて知りました。石巻との縁があったとは...。昔の地域の統治組織の一端を垣間見た想いでした。

 そして、その後起こる有名な寛文事件の舞台となるのです。「樅ノ木は残った」というNHKの大河ドラマにもなりました。その頃は内容が良くは理解できませんでしたが、その他戯曲などでも演じられ、有名な場面はよく耳にしている覚えがあります。

改めてもう1度「伊達騒動」を読んでみたいなと思いました。

 

 そんな歴史上の地に船岡観音像を建立した方がおりました。

 柴田町船岡出身の野口徳三郎翁です。昭和50年に亡き妻の冥福と世界の平和と安全を祈願し、私財(当時のお金で7500万円)を投じ1年の歳月をかけて建立しました。高さ24mあり、胸に平和の象徴である鳩を抱いています。という事などが「本丸跡」という立て札に書いてあります。(下の写真)

ーーー石庭 ーーーー

 また、船岡観音の足元に石庭がありますが、正面の羽ばたくようせり出している石は稲井石だそうです。(石巻の稲井の石は質が良く墓石に使われていると聞いたことがあります。稲井から続く雄勝は質の良い石の産地で硯が全国的に有名です。このへんは良い石の産地なのですね。)

 この庭についての説明があります。(立て札)宮城県造園建設業協会 青年部が設立30周年を記念して造りました。その思い等が記されています。左側の2つ組み合わせている石「人」の文字を表し、一期一会を大切におもてなしをするという思いが込められているそうです。石は全部宮城県産を使用しているとのことです。

 船岡観音や本丸跡を大切に思う気持ちが伝わってきます。

 

     

 

 前の立て札にあったの二の丸跡(現・コミュニティガーデン花の丘柴田)の文については省略。

と思いましたが、写してみました。

 「二の丸は、山頂の本丸の南東にあたる。東西26間(約50m)、南北44間(約80m)の長方形の平場である。その西側に土塁がめぐる。さらにその外側はただちに急な崖となる。南東斜面には、段築・土塁・空堀の防御施設を備えている。二の丸には井戸(絹引きの井戸)が現存する。」とあります。

 なるほど、ここはとにかく戦さの時代にあっては、優れたな自然の要塞だったのですね。

   

  本丸跡の南側から眺めると、本当に見晴らしがよく、当時、戦さの行列が進んできたらその様子がとても良く見えそうです。想像してしまいます。

 

  その他、ここには原田甲斐宗輔供養塔や柴田外記朝意公供養塔もありました。

 

  頂上に来て急に歴史がたくさん詰まっていました。

 

  私たちが訪れた日はウィークデイでお天気も薄曇りだったので、人が多すぎずとてもゆったりと楽しむことがでできました。

 

  私の知り合いは、行ったのは日曜日だったので、スロープカーは1時間待ちということで諦めたということでした。

  思いついて急に行ったのでしたが、かえって混まずににラッキーでした。

 

  もうすぐゴールデンウィークが始まりますが、私は、近年は渋滞する車の列に参加するより、家の庭にくる鳥や花や木々を眺めながらゆったりとすごすのが好みになっています。歳をとったのかもしれません。

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 やれやれ、やっと船岡城址編4連作が終わりました。

 

 現在、多賀城歴史博物館では、「東日本大震災復興祈念  悠久の絆 奈良・東北のみほとけ」が開催されていっます。

 5月には「G7仙台科学技術大臣会合」が秋保温泉において開催されます。

 また、5月26日から6月18日まで仙台市を会場にいした緑化フェアが開催されます。主会場は青葉山公園追廻(おいまわし)地区ですが、その他市中心部や沿岸部の会場も色とりどりの花が植えられています。(追廻というと、昔テニスコートがあったことが思い出されるのは私だけでしょうか?)

 コロナ禍が解消されつつある今年の春の仙台はいつにも増して賑やかさではちきれそうです。

 そうそう、大事な青葉祭りも今年はコロナ前のように大々的に開催される予定です。

 

  それでは、とあるコーヒーショップの窓の外の新緑を眺めながらさようなら! 

 最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


船岡城址公園に行きました!・・・その③ 「花の丘 柴田」編

2023年04月14日 | 活動

                                                           

 もう、季節は新緑の美しい時に入り始めて並木道が爽やかです。

でも、せっかくなので前回の続きを一応お知らせしたいと思います。

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スロープカーを降りて、さてどっちに行こうか?二股に分かれた左の方に行ってみました。

  

素敵な花園が見えてきました。「コミュニティーガーデン 花の丘  柴田」です。

入ってみると、花がいっぱい!よく見かけるクリスマスローズの他に下のクリーム色の小花がたくさんついているものも。

鮮やかなまるでネオンような輝きのある紺色の花。これは何という名前なのかな?

          

 

   

空中に 浮かんでいるような木蓮。

 

下の濃いピンクの木蓮は珍しいです。街路樹などではあまり見かけません。隣の二色の木蓮はおなじみ。

        

 

  

スマートなチューリップや昔ながらずんぐりしたチューリップ達!

                 

左の星型の花はよくホームセンターで見かけます。右の木はなんでしょう?グーグルで調べたら「ピスタチオ」と出てきたけどほんとかな?違うような気がします。形は土佐みずきや日向みずきの花の付き方に似ているけど....今度誰かにきいてみよう!

石楠花(しゃくなげ)もたくさん!赤、ピンク、小さい花のものなど。とにかく花尽くし。

 

とても、良い気持ちで次の所に。

今度は白い大きな観音様が木の陰の方に見えます。(初めの写真)船岡観音像です。     

ここは「本丸跡」です。1番高い眺望の良い所です。

 

とりあえず、今日はここまで。

この記事を書いているうちに季節は大分進み、櫻はもう季節外れになりかかっています。なので、「本丸跡」は次回に!!

 

 

 

 

 


船岡城址公園に行きました。・・・その② 「スロープカー編」

2023年04月12日 | 活動

      

 

さて、船岡城址公園入口から、坂を登っていくことになりました。坂道の途中に写真のようなのぼりがあり、この時期は「桜祭り」なのですね。

とことこ?と歩いていくと、脇には桜の他にレンギョウやその他、地面にはたくさんの野草が生えていて花も咲いています。野草の花は形や色が似ていてもそれぞれいろいろな種類があるようで覚えられませんが、みな小さくても控えめな美しさがあります。上の写真の花はなんというのでしょうか?なんとかすみれとか言うのでしょうか?下の写真の植物は、確か「カラスノエンドウ」と言ったでしょうか?

そんなふうに植物を見ながら歩いていると、なぜか足が速くなってきました。スタ、スタ、スタとひとりでに足が動いてどんどん先に進んでいくようになっているのです。ビックリです。

これは、私が本来持っている力が覚醒したのかもしれません。もともと歩く速さは速く一緒に歩いている人に驚かれたりしていました。

それが、ここ2~3年というものコロナのせいであまりいろいろな所に出歩かないように気を付けていました。絶対にウィルスを家に持ち込まないようにと気を使ってきたので、随分筋肉が鈍ってしまっていたのかもしれません。

なので、愉快な気分になり、歩くのが楽しくなって進みました。

 

そして、着いたのが船岡城址公園。

 

ここは、「三の丸広場」です。

広々とした場所です。ここにも広場を囲んで桜が満開!

ここには、城中井戸、忠魂碑、平和塔、があり、屋台もあります。今回は屋台の写真だけ。(ウィークデイなので人が多すぎずゆったりした感じです。屋台も少ないかも...。

 

少ない屋台と広場からの眺望。

 

ここはそこそこで後にして、一番のお目当て「スロープカー」の乗り場を探し、向かいます。

ちょっと歩くと、すぐそれらしいものが見つかりました。看板があります。脇には「観光物流交流館」の建物。ここは「さくらの里」です。

すぐにスロープカーの乗り場へ。10人前後の人が乗車を待っていました。切符往復500円を買って乗り場で待ちます。外国人もいます。家族連れやカップルらしい人たちも。数分待つと、スロープカーが戻ってきました。座って乗りたいのでこれはやり過ごし、次に戻ってくるのを待ちます。

この辺にも花はいっぱい。レンギョウが噴き出すように咲いていました。

  

さあ、いよいよスロープカーに乗りました。車内では一斉にスマホを車窓に向けて撮影開始!!

 

   

 

結構急な角度でグングン上っていきます(傾斜30度)。窓の下には今まで歩いてきた道や桜の花が眼下で次々に変わっていく愉快さに思わず歓声が起こり顔がほころびます。満開の桜のトンネルを通過する時には、「わあー!桜の雲の中を上っていくみたい!」とかぐや姫?にでもなった気分?

やっぱりこれが一番爽快な素晴らしい体験かも!

そんな感じで5分ほど行くと、さあ、着きました。

ここからは、地図によると、また見どころがあるようです。

 

では、この次のことはまた次回に!