子供のことに親が口出しをすべきでないことは、もちろん原則正しいし、全く同感である。しかし、子供の心が壊れかけているときにドクターストップをかけるのは親や学校の大切な役割ではないのかと思う。たとえ故意でないにしろ、人を傷つけたことに対して素直に謝ることができない人間はたとえ子供であっても寂しい。うちの子が逆の立場なら、まずは素直に自分の子供の「無神経」「無知」について素直に相手に謝らせる。それからお互いの反省点をみつめてこれからどうやっていくか考えさせる。当方の真意が通じると思った私の判断、そして学校が人間教育の場であることを期待した自分は甘かった。調停役はあくまで、双方からリスペクトされている人にしか務まらないことを。そんな私の考え方を、親しい人は「アウトロー」と呼ぶ。(苦笑)
子供が今回のことで少し強くなってくれたこと、自分の欠点を見つめ直してくれたことが救いである。納得できなくとも吹っ切れたのか、家での表情が目に見えて明るくなってくれた。ただ、終わりよければすべてよしとは行かない展開に、後味の悪さがのこる。今回のことが、ニューヨークでの特殊な小さな「日本疎開」での出来事だと思いたいが・・・。当初、あれほど熱意を持って子供たちに自ら気づかせる場を持たせてほしいとおっしゃっていたはずの肝心の調停役が、本質を見ることなく直前で三人とも同じだけ悪かったという「結果平等」だけでお茶を濁そうとする姿勢に方向転換してしまったこともわかり、教育者としての誇り、矜持を感じることはできなかった。この人には以前から信頼して期待をしていただけにガッカリ。
こんなときはいつも、学生時代講師とお世話になった塾が思い出される。決して絵に描いたような形態ではないが、どのような生徒に対しても、塾頭はじめ講師、先輩が分け隔てなく家族のごとく遠慮なく接するあの空気は「私塾」でしか出せないのかもしれない。わたしも将来の職場のメンバーに対して、そのような雰囲気の組織作りをしたいが、それはやはり「公」の場ではなく、やはり「私」の場でしかできないのではないかと感じられる。昔、やんちゃをした時に人として「本気」でしかってくれた学校の先生は、今はもう絶滅危機にあるのか。教育の現場は子供との「真剣勝負」、出来レース、八百長などいらない。
今回の一件は、自分の判断ミスを猛省させられることになった。 もちろん、私もまた人生修行がまだまだ足りない一人である、ハイ。