母校の二次試験に挑む浪人生のことを心にいだきながら今日一日を過ごしました。
合格を勝ち取ってほしいと切に願います。
2月25日(土)のつぶやき
14:20 from gooBlog production 異国の地にいるのに国公立大学二次試験が気になります。 blog.goo.ne.jp/skmdphd/e/5b70…by...
今回の内容はFBに書くのははばかられるので、記憶代わりにブログに書くことにします。
いつの間にか、僕の中では、FBが「陽」で、本ブログは「陰」という役割分担となってしまったようです。
ド阿呆な父親から親孝行な娘が生まれてきてくれたことを感謝します。
すべて終わったので書きますが、娘は6年生になってから日本に戻ったため、父親としては中学受験させることにずっと戸惑いがありました。受験をさせることにためらいのある父親と、チェレンジしてみたいという娘の駆け引きが長く続きました。
幸い無事受験した学校にはすべて合格してくれましたが、娘が最後の受験校の合格発表後の帰り道に、「これで、(お父さんが)アメリカに留学したこと(家族を連れて行ったこと)を周りからとやかく文句言われなくなるよね。」と言ってくれました。所詮、まだ小学生の子供にすぎない娘は、心ない周りの「大人たち」を意識しながら受験を頑張っていたのでしょう。そして、父親をも、かばおうとしてくれたのです。長い海外留学生活で経済的に逼迫しているときに特待生入学というご褒美までプレゼントしてくれました。
実は、少々負けず嫌いなところがある娘は、心ない「大人たち」から投げかけられた「海外に何年も行ったら日本の勉強ができなくなって馬鹿になって帰ってくる。」というアドバイスという名の「そねみ」「やっかみ」を気にしていた妻の「不安」を解消し、そして母の「面子」を守るために戦ってくれていたふしがあります。娘は私を心配させないように受験中は、そのことを一切口にしませんでした。今回の海外留学によって、娘と妻に想像以上の苦労とプレッシャーを与えてしまっていたことに改めて気づかされ胸が痛みました。
中学受験は親の受験とも言われますが、やはりその側面は否定できないと思います。
アメリカに暮らして3年がすぎ、祖国日本に対してさらなる愛国心がわくとともに、日本の欠点にも気づかされました。
日本人は、ときに他人のことを気にしすぎ、嫉妬心が強く、人のことを必要以上に干渉したがる人がそれなりにいるように感じられます。そのような人間にはなりたくありませんし、今回の経験で娘がさらに人の気持ちを思いやってあげられる優しい人間に成長してほしいと願います。
娘よ、合格おめでとう!
今回も親バカ日記になってしまい失礼しました。
(PS)福沢翁が理想とする精神を体現できている学校が現代社会にに存在するかどうかは疑問に感じますが、「学問のススメ」は素晴らしい内容だと思うので一度娘にもぜひ薦めたいと思います。
大学時代に講師のアルバイトをしていた塾の生徒が母校の地域枠推薦入試で見事に合格してくれました。
どこか不器用なところも感じますが、とびきり優秀な可愛い後輩が一人増えたことを本当に嬉しく思います。
ふと、20年ほど前のことを思い出しました。今だから過去の恥ずかしい自分をさらけ出せます。
今から20年ほど前の1月のことです。浪人中の私は一浪して満を持して迎えたセンター試験で、普段の模擬試験よりも60-80点も低く、現役のときの点数にすら30点ほどおよびませんでした。
第一志望校のプレ模試で全体で第2位をとり、夏頃から模擬試験でも第一志望のA判定をキープできるようになり、現役のときの雪辱を果たしてついに念願の大学への進学を手中にできると意欲満々だったたけに、浪人生活の一年間が水の泡となってしまったと感じました。我が家の経済事情からは、はじめから国立医学部一本でしたので、二次試験の出願先として意中の大学を選択するリスクが高すぎ、当初想定していた志望校すべての受験を断念せざるを得なくなり自暴自棄になってしまいました。
今思うと家族には本当に申し訳なかったのですが、当時の私のやり場のない悔しさといらだちには「自暴自棄」という言葉しか思い浮かびません。傍目からは、たかが受験のことですが当時の自分にとっては人生の一大勝負だっただけに厭世観すら感じておりました。
そんなとき、尊敬していた東京の叔父から電話がかかってきました。
「調子はどうだ。今度大阪に出張があるから一緒に飯でも食うか。」
そのときに諭された言葉を思い出します。
「今回は残念だったな。東京にくれば俺の家で毎晩飯を食わせてやれたのにな。人間というものは怒りや恨みがあるときには、正しい判断はできないものなんだ。今はわからないかもしれないが、いつかわかるときが来る。二次試験で逆転可能な地元か地方の医学部にしたらどうだ。お前の場合、医者になるのが目的なんだから地元か地方の国公立の医学部に入っても医者になれるのは同じじゃないか。俺は二浪したから敢えて言うけど、二年も浪人するよりは早く大学にはいって社会に出た方がいいぞ。人間、そのときそのときでおかれた状況から最善をつくしかないんだから。」
そのときは完全には素直に受け入れることはできませんでしたが、親父を失ってからの精神的支柱、東京の大企業で出世街道のトップを走るあこがれの存在であった叔父の言葉でしたので、悔しさをおし殺して志望校を変更して今の母校を受験することにしました。
合格後、最も喜んでくれたのも叔父でした。母に向かって「よかったな、姉さん。これでうちの家系からも医者の卵が生まれたじゃないか。」
数年後、叔父が倒れたときに母からあきれ半分で言われました。「あのとき、お前に会いにきてくれたのは出張なんかではなく、お前のことを聞いて心配した○○(叔父の名)がお前に内緒で会社を休んできてくれたんやで。お前はそんなことすらきづかなかったの、、、。」
このときほど自分自身が恥ずかしいと思ったことはありません。
東京の病院にお見舞いにいったときに、そのときのことを気づかなかった非礼を詫び、改めて感謝の気持ちを伝えると、叔父は「○○(自分の名)、お前の親父さんには生きておられたときに随分とかわいがってもらったからな。そのくらいは当然さ。いい医者になって、はやく俺の病気も治してくれよ。」と笑って返してくれました。その一年後、叔父は職場で急に倒れ帰らぬ人になりました、、、。
昨年秋、今回合格してくれた生徒が自暴自棄になって家出をしたと聞きました。そこに二十年前の自分を感じました。これまで挫折をしらなかった典型的な田舎の神童に塾頭も手をこまねいている様子でした。昨年秋の一時帰国時、出発前日の夜遅くに数時間だけ空き時間ができました。自分には何もできないかもしれないけど、顔をあわせることで少しでも気が晴れてくれればと思った私は何の迷いもなく塾に向かっていました。結果は、夜中の12時頃にいきなりあらわれてテンションが高くしゃべりたいことだけしゃべって帰っていった昔のOBってところだったのではないでしょうか。私の人間力など、敬愛する亡き叔父のそれに未だ遠く及びません。
いよいよ来月から東京での勤務がはじまります。学生時代、東京にはご縁をいただけなかった私が約20年の歳月を経て、東京のど真ん中ですばらしい機会、ご縁をいただくことができました。将来への方向性が見いだせなかったときに師匠に言われた言葉を思い出します。「○○君、今後どんなにつらく厳しい状況でも、今お前が語った夢や希望だけは心のどこかに持ちつづけるようにしなさい。自分では決して気づかないだろうが、一生懸命頑張っていると、誰かがどこかで必ず見てくれているものなんだ。」
今回のご縁に対して見えないところで背中を押しつづけていただいたわが師匠に心から感謝いたします。
20年前に見えなかったものが確かに見えます。
人生の次の坂道は随分と傾斜がきつくなりそうです。