腫瘍内科医一家のニューヨーク滞在記

ニューヨーク研究留学中での出来事を感想を交えてメモ代わりにつづります。

人生の勝負所にいるKさんへ

2012年03月26日 11時11分46秒 | 日記

 人生の勝負所にいるKさんへ

 もし、このままれいめい塾を去る事になっても、定期的に国語のO先生や私にはコンタクトをとり続けてください。

 この世に君の事を応援してサポートしようという意思がある人間が、家族以外にもいる事を忘れないようにね。

 宅浪だけは、選択肢として「禁忌」です。これだけは念を押しておきます。

 とにかく、世間との接点も少しでも多く持つようにしてください。

 そして、素直な心と、感謝の気持ちを失わず持ち続けて下さい。

 

 今の不安を、自らの意志と努力で将来への自信に変えてほしいのです。

 僕の好きな言葉「自らの努力でできることを、神に頼んだとしてもむだである。」(エピグロテス)を贈ります。

 いまこそ、悠々として急げ!!!

 私たちはこれからも応援し続けます。

 自分の将来の進む道が決まったとき、胸を張って塾に報告しに来て、みんなを喜ばせてください!

 


我々は世間からどう見られているか。

2012年03月24日 22時15分38秒 | 日記

大学生時代に塾講師をしていたときの生徒が、その後、私学最高峰のW大学教育学部に進学しました。今から、およそ17、8年ほど前の話です。

その彼が、母校の教官を経て、数年前から、ある国立大学医学部の教官として出向中です。

彼のブログの中に、医学教育に携わるもの見た生徒へ熱い思いを読み、私が日々感じていることと重なることが多く、嬉しい気持ちになりました。

http://d.hatena.ne.jp/takaci/20120309

我々は、世間からこのように見られる宿命にある職業です。また、医師がこのように見ていただけるうちが、「花」ではないでしょうか。

私よりも明らかにポテンシャルが高く、優秀な人材である彼が、日本の医学教育を大きく前進させてくれることを心から期待しております。個人的なことではありますが、本当に将来が楽しみです。

最近写真を載せていませんので、久しぶりに歩いたタイムズスクエア。

ブロードウェイの当日券ディスカウント売り場[Ticket]とM and M チョコレートのフラッグシップショップ。

マディソンスクエアガーデン前


秀才?の墓場行きにならないための心得。

2012年03月23日 23時44分55秒 | 日記

 私は能力的には凡人であります。

 職場には、その分野で世界的にトップクラスの人がおられます。一方、その他大勢の人は優秀ではありますが普通の人だと思います。人間の性(さが)なのかもしれませんが、ときおり自分を等身大よりも大きく見せようとする人を見かけますが、多くの場合、逆効果のように感じられます。

 歴史が語るように、ごく限られた方だけが、その生涯のうちに、人々の生活を変えるような発見に巡り合うことができるのでしょう。

 しかしながら、私のような凡人でさえも、謙虚に自分の置かれた環境で最善を尽くしつづければ、その道で超一流とはいえなくても、その道のプロ(一流に)はなることができるかもしれないと感じております。

 たしか、芥川龍之介の晩年の作、「侏儒の言葉」の中に、「凡人には99と100の間にあるとてつもなく大きな隔たりが理解できない。」という内容の文があったと記憶しております。高校生の時に、この言葉に出会い大きな衝撃を受けました。

 トップを走る人と、その次のグループの人には見かけ以上に大きな差があるものです。そして、その差はどの分野であろうと相応の苦労をしたことがない人には決して見えないことでしょう。

 我々は偉大な先達が築いてくれた素晴らしい業績の単なるフォローワーに過ぎないことを自覚し、謙虚に受け止めないといけません。究極の「実学」である臨床に携わるものの使命として、せめて今の時代により適合する新しいコンセプトを提示する努力だけはつづけていきたいと思います。まだまだ、未熟者の私にもかかわらず、大きな機会を与えようと尽力してくださる諸先輩方には、ただ感謝の気持ちしかありません。

 NYでの貴重な時間を日々大切にしていきたいと思います。


子供に先の大戦を語る日が来た。

2012年03月20日 02時19分17秒 | 日記

 先日、こちらの新聞報道で、ニューヨーク市のフラッシング地区(中国系、韓国系のコミュニティが形成)を地元とする、中国系アメリカ人と思しき名前の政治家が、従軍慰安婦を追悼する通りを作ろうと動いているという記事を見て、国民性というか民族性のあまりの違いにがっかりしました。

 以下の文章は少し前に書いたものであることをご了承ください。

 娘が学校で歴史を学ぶ年齢になりました。

 「なぜ、人類はいつの時代も戦争を繰り返してしまうのか。」

 娘にはどうしてもすっきりしない問題のようです。

 

 歴史の授業も、第二次世界大戦の敗戦、戦後となり、ついに公民の授業が始まったようです。

 この時代の歴史を学ぶことは、我々日本人にとっては非常につらいことと同時に、「奇妙な違和感」を覚えるものでもあります。

 なぜ、勝算がほとんど見込めないアメリカとの全面戦争を回避できなかったのか。

 大東亜共栄圏というスローガンを掲げ欧米列強からのアジア諸国を解放するはずが、現実には中国や朝鮮半島等の人々の激しい抵抗にあっていたという矛盾。

 強制連行されたと主張される朝鮮半島出身の方々の多くが、実は自ら日本に渡ったという事実。(直接、韓国人の友人から「自分の先祖も含め大半の韓国人は自らの意思で日本に渡ってきた。祖父母からは日本の方が暮らしやすかったからと聞いている。」と聞かされたこともあります。)

 沖縄戦における一般市民をも巻き込んだ多大な犠牲。

 アメリカによる一般国民をも巻き込んだ非人道的な広島、長崎の原爆投下。

 勝者側が敗者側を一方的に裁いた、極東国際軍事裁判の存在自体の矛盾。

 日本国民の意志でなく、アメリカに強制される形で定められた日本国憲法の不幸な出自。

 日本「だけ」が永遠に戦争を放棄させられたことが、果たして今日の世界の平和にどれほど貢献できているのでしょうか。 

 当時、日本も悪いこともたくさんしたことは間違いありません。しかし、同時に、日本もひどい目に遭わされましたし、未だに、敗戦国として根拠の乏しいつけを払わされ続けている部分があると思えてなりません。

 平和に対する罪(!?)は、敗戦国だけが一方的に負わされるべきものなのでしょうか。そして、このような発言すると、なぜか、感情的になり右寄り思想とか軍国主義者などという決めつけをする人が出てきます。日本人として、このような人たちに違和感を覚えざるをえません。

 家庭でも、学校でも、マスコミ報道であろうとも、一方的な意見を押しつけるのではなく、様々な見地から冷静に戦争というものを子供たちに伝えていかないと、世界平和を達成する叡智など、この先、それこそ人類が滅びるまで生まれてこないのではないでしょうか。

 次世代を担う子供たちには、いいことも悪いことも含めて、なるべく詳細に我が国の歴史、世界の歴史、そして大人たちの本当の姿を知ってほしいと思います。そして、次の時代あり方を自分自身で考えて欲しいものです。ニューヨークで暮らして、子供達の中に、外国人に対する偏見が薄れてきているように感じています。