ええと、今回は前回よりは若干前文に文字数使えそうなのですが、あんまり長い文章書けるほどでもないってことで、どうしようかな~と思ったり(^^;)
なので、本当は前回前文に書こうと思ってたことを、なるべく短めにまとめようかなって思います
前回の【18】のところで、マキがゲイの男性のことに関する本を色々読んでることについて、レオンが言及してたと思うんですけど……このあたりに入れようと思ってたエピソードが他にもあったものの、長くなるのでカットしたと言いますか(^^;)
で、そのエピソードの中のひとつに、ある数学者さんの話がありました。やっぱり、大学で数学の研究をされているだけあって、十代の少年期は勉強ばっかりしてたっていうことだったんですよねそれで、お母さんが結構生活のほうを管理してくるような感じの方だったらしく、四十を過ぎる頃になっても可愛い息子が結婚しないのを見て、このお母さんがお見合いをお膳立てしたそうです。ところが、お見合いしたひとり目の方とはすぐ離婚することになり、ふたり目の女性とも同じ結果に――それで、このふたり目の奥さまが少し気になることを言い残していったらしく。。。
この息子さんは、お母さんに言われて精神科へ行くことになりました。ようするに、女性に対してアレが機能しないらしいといったことが原因だったというか。
そして、カウンセリングが進むにつれてわかったのが、この数学者さんの、かなり特殊な状況だったかもしれません。彼は自分がゲイであるとも、女性よりも男性が好き……といったようにも自覚していませんでしたが、唯一、ある特定の年齢の子供たち――少年期にある子供たちに対してだけ、強い性的興奮を覚えるという男性だったのでした。
もちろん、彼にもわかっています。公園でもしそうした男の子たちに何かしようものなら、自分は犯罪者として捕まるだろうと……また、そうした欲望が日常的にあって苦しんだり悩んだりしてるというわけでもなく、ただ、時々公園などでそうした男の子たちの姿を眺めては――何か嬉しい気持ちになるという、そうした感じだったそうです。
わたし、この実話に基づく症例について読んだ時、ちょっとマイケル・ジャクソンさんのことを思いだしてしまいました(^^;)
この男性の場合、歌やダンスのレッスンによってではなく、とにかく毎日勉強・勉強で、少年期が奪われてしまったことが、そうした精神状況を生みだしてしまったとのことで……でも、こうした場合でも、この数学者の方が女性と結婚して子供が欲しいと願っていた場合、治療の方法はあるということでした。ただ、もう年齢的に四十も過ぎてるので難しい、二十代とか、もっと若い頃に来院していたら、お子さんが出来ていた可能性は十分あったろう――という、精神科医の方のお話でした。
つまり、この数学者の方は、小さい頃からずっとお母さんの言うとおりにしてきたんですよね。そして、「そろそろ孫の顔が見たい」と言われて二度もお見合いし、さらには精神病院にカウンセリングへ行ってみてはどうかと言われて、その通りにもしている。でも結果として――嫌な言い方ですけれども、このお母さんは実際「自分の息子にとって良かれと思ってしたことの結果」がわかったとしたら、どのように受けとめられるのだろうな……と思ったりしました。。。
あ、そろそろほんとに文字数がなくなってきたので、今回はこのへんで!
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【19】-
「お風呂でも、入ってきたら?」
「えっ、えっと、そうね……」
レオンの態度が元通りに戻っているのを見て、マキはほっとした。最初の頃こそ、「後片付けくらいするわ」、「いいよ。気にすることないよ」というやりとりを繰り返していた気がするものの、結局レオンに押し切られてしまうため、今ではすっかり彼の言葉に甘えるようになってしまっている。
マキは(その前に……)と思い、自分の部屋のほうに貴史のことを連れていくと、そこでおっぱいを一度あげることにした。
「そういえば、貴史があんまり離乳食を食べてくれないんだよね……色々献立のほうは工夫してるつもりなんだけどさあ」
マキはもうおっぱいをあげてるところをレオンに見られても、どうとも思わなくなってしまっている。実をいうと、妊娠前までは脇から寄せてきておっぱいにする肉さえなかったマキだったが――今では、前よりもワンカップくらい胸が大きくなっていた。とはいえ、彼女はそのことをあまり喜んでいない。というのも、授乳のせいもあるのかどうか、形のほうもあまりよくないし、これなら前のように真っ平らだったほうが良かったのではないかというくらい、左右のバランスまで悪かったからだ。
「大丈夫よ。そんなに急がなくても……おっぱいやミルクをたっぷり飲んでくれてる間は、まあそれでよしとして、おかゆとか色々作るの、レオンも大変でしょ?明日、ベビーフードでも買ってくるわ。その中に貴史の好きな味があるといいんだけど……」
「そうだね。僕はなんでも手作りのほうがいいかと思ってたんだけど、食べてくれなかった時のがっかり感がすごくてさ、凝ったものを作った時ほど食べてくれなかったり、機嫌が悪くなったりするっていう……でも、おかしなもんだよね。今僕とマキがこんなにやきもきしてるのに、貴史はそんなこと、大きくなったら覚えてもいないだなんて。ベビー服もさ、マキは『どうせすぐ大きくなるから』なんて言うけど、僕は全然ダメだよ。色んな服を着せて、写真やホームビデオに残しておきたいとか思っちゃうし」
「貴史は男の子で良かったのかもしれないわね」
マキはくすりと笑って言った。
「だってそうでしょう?あの子が女の子だったら、君貴さんもそうだけど……レオンみたいな格好いい人がパパだったりして、可愛がりに可愛がって育てたりしたら、『パパみたいな人が理想』とか言い出して、絶対誰とも結婚できそうにないものね」
「マキは……」
レオンはごくりと唾を飲み込んだ。彼女のほうでも自分とのことを少しは考えてくれているのだろうかと思ったのだ。
「ふたり目とか、欲しくないの?ほら、マキが仕事から帰ってくる前に、君貴とも話してたんだ。もし二、三日ここにいるんだったら、明日あたりマキとデートして、ホテルにでも泊まってこいって。貴史のことはもちろん僕が見てるし……それで、ふたり目が出来たら、その子のことも僕が面倒見るよって。そしたらあいつ、頭おかしいんじゃないかっていうような目で、僕のほうを見てたよ」
「いいのよ、レオン。気を遣ってくれなくて……君貴さんはただ、わたしとレオンが本当にうまくやってるかどうか、様子を見にきただけなんだと思うし。それに、最近わたしにもよくわかってきたの。君貴さんの、あの貪欲なまでの仕事への打ちこみようは――ようするに、ピアノが関係してるのね。やっぱり、君貴さんには『もしあのまま音楽院をやめず、プロのピアニストになっていたとしたら』っていう、第一の人生の道があって……でも、建築家っていう第二の人生をあの人は選び取ったわけでしょう?だから、最初のピアニストの道を選び取らなかっただけに、それなら、それを凌駕するくらいの凄い仕事をやり遂げないことには、自分が生きてることに意味や価値を見出せない……みたいな、何かそうしたところがあるんでしょうね」
レオンは、マキがふたり目を欲しいのか欲しくないかの答えが欲しかったが、軽くはぐらかされてしまったように感じた。(だが、まあいい)とも彼は思う。何故といって、君貴は長くいても数日で帰ってしまうだろうが、自分とマキにはこれからもたっぷり時間があるのだから。
「そうだねえ。だからあいつ、僕のピアニストとしての生活が結構大変なのを間近で見て、溜飲を下げてる部分もあるんじゃないかな。レオンみたいになるくらいだったら、建築家としての仕事のほうがまだしもましだぞ、なんてね」
「君貴さんは、レオンに救われてるんじゃない?天才の技術を保つのは大変だっていうのをそば近くで見ることで……建築家としての仕事にもいい影響があるのはまず間違いないことだし」
「そういやさ、マキ。前に、僕のコンサート見にきたことあるって言ってたよね」
「うん、そうよ。新聞社に勤めてる友達があなたの大ファンなの。でも、急に別の用が出来ていけなくなって――チケットを譲ってもらえたの。凄かったわ。あなたが舞台上に現れるちょっと前まで、『キャーッ!!』とか『レオンさまーっ!!』ていう黄色い声が飛んでるんだけど、あなたがステージに姿を現すと、拍手のあとは水を打ったみたいに静かになるのよね」
「プログラムのほうは、なんだった?」
レオンはもう数え切れないくらいリサイタルを開いているため、プログラムのほうを聞かせてもらえば、それがいつ頃くらいのコンサートだったか、思い出せるかもしれなかった。
「ベートーヴェンの『幻想曲』や、ショパンの『舟歌』、リストのピアノソナタロ短調とか……魂が震えて恍惚とするっていうのは、ああいうことを言うんだなって思ったくらい」
「…………………」
一度プロのピアニストになってしまうと、周囲の人間の褒め言葉というのは極めて信用ならないものへと化していく。レオンはそのことをよく知っていた。また、彼が欲しいのは女性の黄色い声援でもなければ、気難しい専門家の絶賛の声でもない。自分のピアノの音を欲する人の心に、自分の奏でた曲の想いがそのまま届くという、それだけのことだった。
「ピアノってね……いや、音楽全般に言えることなんだろうけど、作曲者と、その意図を汲み取って演奏できる人間がいるだけじゃダメだっていう話だよね。三番目に必要な存在として、絶対に聴衆っていうものが必要になってくる。でね、僕は何かと人から騒がれる条件が揃ってたから――なんていうか、人が自分を褒めてくれても「へえ。それで?」みたいによくなってた。一応、これも仕事だと思って愛想笑いを浮かべつつ、『ありがとうございます』とは言うんだけどね。正直、ホールを埋めた人たちのうち『どのくらいの人がわかってるものなんだろう』っていう猜疑心も強かった。でも、ひとつコンサートを終えるごとに、色々手紙が届くわけ。『ガンの闘病中で、あなたの演奏に心が洗われる思いでした』とか、中には『自殺を考えていたけど、感動のあまり思い留まることにした』っていう人までいて……こうなるとまあ、僕としてもピアノを弾くっていうことが一種の宿命みたいになっていく。苦しいし、つらいし、結構大変な時もあるんだけど――ある時、だから僕はいいんだなって思った。大して重圧を感じるでもなく舞台に立ててしまうよりは、そういう葛藤とか心理的なせめぎ合いがあればこそ……人の心に届くものがあるんだろうなってことに気づいたっていうか」
マキは、レオンのこの言葉に驚いた。彼のピアノ演奏のライヴ映像を、マキは何度も見たことがあるが――おそろしく研ぎ澄まされた神経の中にも、いい意味でのヴィルトゥオーソとしての精神的余裕というのだろうか。そうした空気感を感じていた。けれど、彼には普段人には知られぬ、超一流アーティストとしての苦悩があるのかもしれない。
「だから、今のマキの言葉、すごく嬉しかったよ。マキが、僕のピアノでそんなふうに感じてくれてたっていうことがね」
このあと、マキはレオンに貴史のことを任せて、お風呂に入ることにした。レオンはといえば、再びうとうとしはじめた赤ん坊を連れて、リビングのほうへ戻ったわけだが――彼はそこで意外なものを見た。
「ふうん。おまえもようやく家事に目覚めたっていうわけ?」
君貴が、食器洗浄機に軽く汚れを落とした皿やコップを入れているのを見て……レオンは少しばかり驚いた。普段、あまりそう家事について率先してやるタイプでないだけに。
「皿洗いくらい、俺だって時々はするさ。まあ、大体のところレオンとマキの関係性についてはわかったから、邪魔者は明日にでも早々に退散するよ」
「だから、おまえはその前にマキとデートでもして来いって言っただろ?幸い、明日は日曜で、マキは休みだ。なんだったら、今からだってどこかホテルを取るとかすればいいじゃないか」
「悪いが俺はインド帰りだぞ?あと、これからもう少し仕事もしなきゃならんしな。東京はただの、明日ロスへ戻るための中継地といったところだよ」
「…………………」
君貴はペーパータオルで手を拭くと、やはり息子に目をくれるでもなく、自分の書斎のほうへ向かおうとしている。
「君貴がそんな態度だったら、ほんとに僕、マキのこと取っちゃうよ!君貴はさ、ほんとにそれでいいの?」
「むしろ逆に、だからだよ。いつまでかはわからんが、今の時点で理想の父親なのはレオン、おまえのほうだ。俺はこうしてたまにやって来ても、ガキのオムツひとつ替えるでもなく、また仕事に旅立っていくってことの繰り返しだからな。俺が何かヘマをやらかして、自分の設計事務所が倒産でもしない限りは、俺の人生はこれからもずっとこんな感じだろう。ようするに、マキにも血の繋がった子供にも、大して構ってやることは出来ない。二番目の子なら、おまえがマキとの間に作れ。俺は反対はしない」
「ふうん。マキ、僕のピアノのコンサートを前に聴きにきてくれたことがあるんだって。その時の感想を聞いたら、『魂が震えて恍惚とした』ってことだったよ。ほんと、もし貴史がいないとしたら、僕、ピアノで超絶技巧を見せつけて、マキのことを落とせるのになって思っちゃったくらい」
レオンのこの意見を聞いて、君貴は笑った。醜男だったと言われるベートーヴェンでさえ、ピアノによって女性を魅了していたことを考えれば――レオンにはそれこそ、リストかショパン並みの魅力が備わっているだろうと思ってのことだった。
「まあ、ここにおまえのべーゼンドルファーはないにしても、マキのヤマハのポンコツならあるからな。べつに、貴史が起きてる間なら、今だってピアノを弾いたって何も問題あるまい?」
「あ、そっか!そういえば君貴は貴史のこと、将来ピアニストにしたいとか、そう思うことはないの?」
「ないな。というより、強制はしないが、とりあえず選択肢のひとつとして与える必要はあるだろう、くらいに思ってる感じだな。それに、おまえだってわかってるだろう?将来、貴史に嫌われたくなきゃ、ピアノの英才教育なんて絶対やるもんじゃない」
「確かに、そりゃそうだね。それに、もしそんなことになったら、何かと神経質にうるさい継父より、放任主義の父親のほうが絶対いいみたいになって、今の僕と君貴の立場が逆転しちゃうかもしれないもんね」
「そういうことだ」
――この時、お風呂に入っていたマキの耳にも、親友同士であり恋人同士でもある男ふたりの笑い声が届いていた。もちろん、彼らがなんのことで笑っているのかまではわからない。けれど、この時彼女はとてもほっとしていた。やはり、君貴の独特の性格に負うところが大きいのだろう。レオンと君貴のふたりが顔を合わせ、その間に自分がいたとしても……それほど気まずいと感じずにいられることが、マキにはなんだか不思議だったほどである。
また、この翌日の午後、君貴はロス行きの最終便に乗る予定であったが、レオンと貴史がテラスに出たあと――彼はマキに自分の本心を伝えることにしていたのだった。
その時、マキは昼食の下ごしらえをしていたのだが、君貴はアイランドテーブルにノートパソコンを乗せ、やはり仕事を続けていた。そして目のほうは画面にやったまま、キッチンに向かい、自分には背を向けているマキに話しかける。
「おまえがどういう女かは、たぶんレオンよりも俺のほうがわかってる」
「どういう意味?」
今では一月以上も一緒にいる、レオンのほうが自分を理解している――とは、マキも思っていない。また、そういう意味でないことは、君貴にもわかっているはずだった。
「だからさ、俺とも寝て、レオンともそうするだなんて、そんなことには耐えられないっていう意味だよ。だが、俺はもうそれで構わないと、きのうここへ来てそう思った」
マキはこの時、ミニトマトを半分に切り、パセリを微塵切りにして、にんにくを潰しているところだった。その手が一瞬止まる。
「べつに、もうわたしのことなんてどうでもいいって意味?」
「そうじゃない。それに、これはどちらかというと、おまえのためというより、レオンのためだってことを俺は言いたいんだ。あいつのウィキペディアの生い立ちの第一行目のところには、『母親のメアリー・キングは、息子を出産後、もともと患っていた鬱病の悪化により自殺している。その後、カトリック教会が運営する乳児院へ預けられ……』みたいにある。俺も詳しくは聞いてないが、ロンドンにある児童養護施設ではひどい目に遭ったらしい。つまりな、俺はあいつがすごい奴だということをここで言いたいわけだ。自分が与えられて当然のものを両親から受け取りもしなかったのに――今のあいつを見てみろ。自分の子でもない赤ん坊をあんなに可愛いがっちまって、それで幸せ満タンなんだと。俺はな、これは俺自身がどうこうとか、マキがどうこういう以前に、レオンにはそういう幸せが必要なんだということを、ここで言いたいわけだ」
マキは、鯛のアクアパッツァの下ごしらえを終えると、次はペスカトーレを作りはじめた。こちらも、海老とイカとホタテの下ごしらえを済ませてしまえば、あとは大してすることはない。パスタを茹でたら、具材を順に入れていき、蒸し焼きにすればいいというそれだけだ。
「べつに俺は、レオンのためにおまえに犠牲になってくれと言ってるわけじゃない。というより、この場合は犠牲どころか、マキにとってもプラスなことが満載なわけだろ?しかも、性格の歪んだ、ハゲのずんぐりむっくりと永久に一緒にいろと言ってるわけでもない。相手はあの世界のレオン・ウォンだぞ。正直に言えよ。おまえだってあいつに言い寄られて悪い気はしてない……大体がそんなところだろ?」
マキははーっと溜息を着くと、イライラしたように包丁を拭き、後ろの君貴のことを振り返った。
「君貴さん、あなたなんにもわかってないわよ!わたしのことなんて……」
「言いたいことがあるなら、今のうちに早く言ってくれ。レオンがこっちに戻ってきたら、俺たちはふたりとも黙り込むしかないんだからな」
「もう!勝手なんだから……そりゃあ、レオンは魅力的な人よ。この上もないくらい、家事も完璧にこなしてくれるし、貴史の面倒もよく見てくれるし……わたしが今思ってるのはね、そのうち彼がコンサート活動を再開したら、きっと今の生活は終わりになるっていうことなの。つまりね、今は世界のレオン・ウォンにとって、芸術家として羽休めをする期間なんじゃないかってこと。でもいずれ、こんな幸せな生活も終わるわ。でも、そのあともレオンが時々うちに来てくれて、貴史の顔でも見てくれたら嬉しいっていう、これはそういう話じゃないの」
「わかってないのは、おまえのほうだ」
(さっき俺の言ったこと、聞いてたか?)と、君貴のほうでも少しイライラしてきた。彼としても、マキとレオンが結ばれることを、諸手を挙げて賛成しているわけでは決してない。むしろその場合、この三人の中で一番犠牲となりダメージを負うのは自分なんだぞ、とすら思っていた。
「あいつはな……どちらかというともう、ピアノなんか辞めたいんだよ。ショパンの全集だの、モーツァルトのピアノソナタ全集だの、その他世界の一流オケとのピアノ協奏曲の録音だの――まあもう目ぼしいところは大体制覇したと言っていい。今のあいつを動かしてるのは、最終的にただの慈善心だけなんだよ。マキはまだ知らないだろうが、レオンとつきあうのは実際、結構大変なんだぞ。俺が一体何度あいつのマネージャーからコンサート前に呼びだされて、『あなたが来ないと彼はピアノを弾かないって言うんですう!』なんて、涙声で頼まれたと思う?」
マキは一旦黙り込んだ。彼女にとって、君貴とレオンの関係というのは、恋人として熱烈に愛しあいつつ、ピアノという共通点ではこの上もなく尊敬しあっているのだろうという、そうしたイメージだったからだ。
「レオンが今、貴史に夢中で、気味が悪いくらい愛に溢れて見えるのが何故か、マキにわかるか?そりゃ、あいつがピアノから離れてるからさ。いや、自分ひとりで手慰み程度に弾く分には構わんだろうよ。だが、たとえば今から三週間後にコンサートがあるとするわな。そしたらもう、精神のピリピリ感がすごいんだ。ちょっとしたことでヒステリーを起こしたりなんだりな……それがあいつの天才としての秘密というか、表で見せてる謙遜な笑顔の裏にある顔ってことだ。だから、あいつとつきあってくのは結構大変だぞ。本人もピアノから離れてさえいれば、マキに当たったりなんだりしなくて済むって、俺で経験済みなだけによくわかってんだよ。だから、ここで俺が言いたいのはだな、あいつにこのままでいて欲しいと思ったら『あなたのピアノが聴きたいわ』なんて言葉は、絶対禁句だってことだ。もちろん一曲か二曲、おまえのオンボロピアノで弾いてくれってんならいい。ただ、『世界のレオン・ウォンは、絶対第一線に戻るべきよ』とか、『そのためなら、わたしがどんなことをしてでもレオンを支えるから』なんてことは、言わないほうが絶対いいって話なんだ」
「でも……それがわたしが今一番思ってることなのよ!ううん、わたしが支えるとかなんとか、そんな大それたことは思ってないけど……そもそも、こんなところで子育てでくすぶってていい人じゃないでしょう?それに、もし仮に何年かピアノは休むつもりなんだとしても――いずれ、貴史だって少しずつ大きくなって手がかからなくなるでしょうし、そしたらレオンだって自然と……」
今度は、君貴が溜息を着く番だった。自分の言いたいことが、今までの会話でまるきり伝わってないらしい。
「つまりだな、あいつの今の一番の関心事は、マキと貴史のことなんだよ。だから……なんというか、マキにも大局で物を見て欲しいんだ。たとえば、レオン・ウォンという孤児として育ったひとりの男に、今何が一番大切で必要なのかってことと……将来的に、またあいつがピアノを弾きたくなったとして、マキと貴史からもらった愛のパワーっていうのか?何かそんなことがあって、あいつは人間としても一回り成長し、さらに素晴らしいピアノ弾きになる可能性だってある。どう言ったらいいか……ようするに、もし仮にレオンとおまえが寝て、マキにふたり目の子供が出来たとするな?で、その二番目の子も、貴史同様、あいつは盲目なくらい心から愛するだろう。そうすることでしかあいつの心にぽっかり空いてる穴は埋められないって話を、今俺はおまえにしているんだ」
「そんな……無理よ。わたしじゃレオンの相手になんてなれないわ。君貴さんくらいの人じゃないと……」
「いや、これは俺じゃ無理だったってことなんだ。俺は無神経にもあいつの前で、『ガキは大嫌いだ』なんて話をよくしてたもんだ。てっきりレオンのほうでもそうに違いないなんていう、的外れな思い込みからな。だが、あいつはたぶん、カールみたいなタイプの奴と結婚して、どこかから養子でももらって育てるべきだったんだ。そもそもレオンは、自分からゲイになったわけじゃないというか、何分あの美貌だからな。そういう性向にある奴から手を出されたってだけの話なんだ。たぶん、そんなことでもなかったら、普通に女と恋愛して、今ごろは何人女を泣かせたかわからない、ドン・ファンみたいになってたかもわからん」
この時マキは一瞬、『ドン・ジョバンニ』のカタログの歌のことを思いだしたが、今はそんなことをあれこれ考えている場合ではない。
「ほら、マキはたぶん今、レオンと寝るだなんて、そんな軽はずみなことは出来ないとかなんとか思ってるんだろ?だから、この場合軽はずみでいいんだよ。で、俺はおまえらが何か言う前から、おそらくはそのことを感じとる。いいか、この三人の中で今、一番惨めで可哀想な奴は俺だぞ。だが、俺はそれがレオンのためになるなら、そういう犠牲を払ってもいいと言ってるんだ」
「そんな……でもわたし、絶対無理よ。っていうか、レオンが女性で、わたしが男だったら良かったんだわ。そしたらこんなコンプレックス、感じなくて済んだかもしれないのに……」
この時、君貴は初めて、マキが弱りきったような、ぐったりした様子をしているのに気づいた。目尻にはうっすら涙さえ浮かんでいる。どうやら、彼女には週に六日働くこと以外にも、何か悩みがありそうだった。
「なんだ?言いたいことがあるんだったら、はっきり言え。俺はどんなひどい真実でも、単刀直入に言われるのには耐えられるが、遠まわしに色々言って当てっこクイズをしようなんていうのはまるで不向きなんでな」
「だって……レオンったら、女のわたしが嫉妬しちゃうくらい、綺麗すぎるんですもの。それで、わたしの知らない君貴さんのことも色々知ってるし……もちろんそんなの、つきあいが長い分当然だって言ったら当然なのかもしれないわ。だけど、あなたの子供を生んだりしたわたしより、レオンと君貴さんの絆のほうがより深いのよ。こんなこと、とても言いづらいんだけど……わたし、貴史のことを生んでから、前以上に醜くなったの」
君貴には、マキの言っていることがすぐにはわからなかった。彼は普段から自分は頭の回転が速いほうだと自惚れているが、その彼をして、マキが何を言わんとしているのかがさっぱりわからない。
対するマキはといえば、エプロンの裾で目尻から零れた涙を拭いてさえいる。
「なんだ?マキはべつにそんなに大して変わってないだろ?というより、前より綺麗になったんじゃないか?レオンも言ってたぞ。子供を生んでから前以上に艶っぽくなっただか、セクシーになっただかって。まあそりゃあ、東洋人の美人と西洋人の美人を比べたら、一般的には西洋人のほうが勝つのかもしれんが……レオンはな、普段あんまりキャーキャー言われすぎてるせいか、並の美人には目をくれることさえないんだぞ。そのレオンがそう言ってるってことは……」
「いいのよ。レオンは自分が綺麗だから、美に恵まれなかった人間に寛容だっていう、それだけなのよ。わたし、貴史のこと生んでから、おっぱいも張ってきて、確かに前よりちょっと大きくなったの。でも、あんまり形もよくないし、乳首の色も悪いし……ウエストだって、前はくびれてたのに、今はそのくびれもないしね。妊娠線のほうはクリームとマッサージでどうにか消えたけど、今も風呂上がりに鏡を見るたびに思うの。『子供を生むってようするに、女として老いるっていうことなんだわ』って。でもいいのよ。あの子さえいてくれたら、仮に君貴さんとレオンが元のような関係に戻ったとしても、貴史のことを生き甲斐にして、わたしのほうでは十分生きていけるものね」
「…………………」
思ってもみなかった答えが返ってきて、君貴は一旦黙り込んだ。この場合、『いや、マキは綺麗だって!』だの、『俺たち以外にも言い寄ってこようとする男がいるのを忘れたのか?』だの言っても、おそらくはまるで無意味なのだろう。コンプレックスというのは、そういうものだ。
というより、レオンがもしいなかったら――君貴にしても、マキのことをベッドに連れていって、そのことをわからせてやったに違いないのだが。
「だからね、わたし、レオンがゲイとかなんとかいうより……彼が仮にストレートだったとしても無理だと思うの。それで、仮にもしそうなったとして――彼、女の体にどん引きして終わるってだけなんじゃないかしら。なんていうか、貴史の面倒はこれからも見たいけど、わたしとは別れたいみたいな?そんなことになったら、ただお互い気まずくて嫌な思いをするってだけでしょ?だからわたし……このままなのが一番な気がするの。それで、レオンにはレオンで、超一流のピアニストとしての生き方があると思うし……」
「そうか。参ったな。まさか、マキがあいつを受け容れない理由が、そんなコンプレックス云々だったとは……必ずしも色男が最後に勝つとは限らないという、驚くべき展開だな。そのこと、あいつに話してもいいか?」
「ダメよ。そんなこと言ったら、レオンはますますわたしのことを可哀想がって、僕が抱いてあげなきゃみたいに思うかもしれないでしょ?いいのよ。きっと何もかもすべて、時間が解決してくれるわ。貴史がどんどん大きくなって物心もついてきたら、だんだんに何かが変わってくるんじゃないかと思うしね」
「…………………」
君貴は再び黙り込んだ。レオンとのつきあいが、マキよりもずっと長いだけに、彼にはわかっている。この場合の時間の解決というのはおそらく――マキがレオンに口説き落とされるかほだされるか何かして、結局のところ彼に抱かれることになる……といった意味での解決であるとしか、彼には思えない。
「君貴さん、わたしがあなたとつきあいはじめた最初の頃、わたしが真っ先に何をしたか知ってる?」
「いや……」
確か、自分のことをインターネットで調べて、阿藤君貴のCDをネットのオークションサイトで落札したとは聞いた気がするものの――おそらくそのことではないのだろう。
「脇毛をね、永久脱毛したの」
君貴は今後こそ笑いそうになったが、どうにか堪えた。
「たぶんあの日も――脇毛をたまたま剃ってた日だったから、そう決断できたっていう部分もあった気がするのね。もしそうじゃなかったら……『そんなつもりでついて来たんじゃありませんっ!』とか言って逃げだしてたんじゃないかなっていうか」
「ああ、なるほど。男のほうがどんなにその気でも、女にはどうしても同意できない日があるってことだな。それも、相手の男が気に入らないとかいう以前に、彼女自身の問題として」
「そうなの。わたし、レオンのことはもちろん好きよ。ほんと、わたしなんかのために家のことも全部やってくれちゃって、天使みたいな人。でも、そんな天使みたいな心の綺麗な人と、あんなことやこんなことをしたりするなんて、とても想像できないっていうか……」
ここで、君貴は流石に堪えきれなくなって、笑いだしてしまった。確かに、レオンは二年前の大晦日の夜以降、ヒステリックな面を彼女に見せてはいないのだろう。だが、今となっては君貴には別のことがなんだか心配になってきた。マキがもし本当にあれほどの男のことを拒むつもりだというなら――その時にこそ、受け容れてもらえないことを悲しみ、天使は意地の悪い面を見せはじめるかもしれなかったからだ。
「確かにそうかもな。そういう意味じゃおそらく、俺は適度に汚れていて薄汚く、純真なマキの相手としては手頃だったんだろうな。そういや脇毛のことでたった今、自分の初恋の相手のことを思いだしたよ」
「そんなことないわよ。君貴さんは……」
「いや、無駄なフォローはいい。それより、俺の初恋の女の話を聞けって。とにかく、すごい女だったんだ。俺の親父のやつ、フランスのオケの常任指揮者をやってて、小学生から中学生くらいの頃まで、夏休みはフランスの片田舎で別荘を借りて過ごしたことがあるんだ。おふくろも、その時期だけコンサートの仕事だのなんだの入れないで、家族水入らずで過ごすっていうような時間だった。でな、その頃俺のフランス語は実に拙かったが、日本から自分たちと同じ年ごろのガキめらがやって来たってことで、そこではちょっとした注目を浴びることになったんだ。で、俺に対してちょっとばかりキャーキャー言ってくる女の子もいて、俺はニキビ面のフランス小僧なんかに意地悪されたり、喧嘩を吹っかけられることがあった。その時、そのガキ大将みたいな奴をぶん殴って倒してくれたのが――マリオンって名前の女の子だったんだ」
「その子が、君貴さんの初恋の相手?」
マキはくすりと笑って言った。レオンから、初めて交際した女性のことは聞いていたが、やはり彼は初恋の相手も女の子だったのだと、そう思う。
「そうだ。マリオン・ジュアン。今も俺がその衝撃とともに、なかなか忘れることの出来ない女だ。彼女はテコンドーを習ってて、そりゃあもう男顔負けの強さだった。ところが、俺が練習の様子を見にいってみると、最初は相手の少年を強烈なキックでほとんど倒しかかってたのに――俺が見てると気づくなり、マリオンは突然相手に攻撃を許し、最後にはもうよよよとばかり、倒れ込んでいた。その様子を見て、俺は思ったもんだ。彼女、俺に強いところを見られるのが嫌なんだなって。むしろ俺は、鋭い弁舌で、ミカのことからも俺を守ってくれた彼女を尊敬し、『一生マリオンについていこう』と思ってたくらいなのに……彼女もやっぱり女の子だったんだなと思った。その後、マリオンは防具なんかを外して俺のほうにやって来て、『明日デートしない?』と聞いてきた。俺は一も二もなくオッケーした。近所のガキ大将も怯えるほどの、あのマリオンとデート……俺はすっかり天にも昇る心地だった。ところがだな、彼女、翌日待ち合わせ場所にノースリーブのワンピースを着てきたんだ。で、脇のところからちょっと、脇毛がはみ出てた」
(なるほど。そこに繋がってくるのね)と思ったマキは、「それで、そのあとどうしたの?」と、微笑みつつ聞いた。
「俺は、とりあえず見て見ない振りをしようと思った。彼女だってたぶん、その日はおしとやかにして、手を大きく広げたりだのなんだの、しないつもりなんだろうし……そんなことを見咎めて色々言ったりするだなんて、小さい男のすることだと思った。ところがだな、この場合逆だったんだ。マリオンときたら、通りを歩いてて――人が向こうからやって来るたんびに、両手を上に大きく上げるんだ。しかも、そこからは十二かそこらの少女とはとても思えない、大人顔負けの縮れた脇毛がボーボーだったんだよ」
「えっ?どういうこと?」
マキは笑っていいものかわからず、君貴に話の先を促した。
「つまりさ、俺とマリオンはその時、映画館とかちょっとしたシャレたカフェなんかのある場所へ向かう途中だったんだ。その間、人がまわりに誰もいない時、マリオンは両手を下げてて、向こうから人がやって来ると、自分の脇毛を見せびらかすために手を大きく上に上げるんだよ。まるで、伸びでもするみたいに。俺は度肝を抜かれるあまり、どうしていいかわからなかった。『もしかして、俺は何かを試されてるのか?』と思った。俺にはマリオンに、『やめなよ、そんなこと』と言う勇気さえなかったんだ。それで彼女が手旗信号よろしく、人と通りすがるたび、色々なポージングで脇毛を見せつけ続けるのを――黙って見ているしかなかった」
「周りの人の反応はどうだったの?」
マキは笑いたいのを堪えてそう聞いた。おそらく、オチのほうはまだこの先にあるのだろう。
「それがな、全然なのさ。いい年したおっさんやおばさん、ちょっとイケてる姉ちゃんあんちゃんと通りすがっても、彼らは何も見なかったみたいに、極普通の態度なんだ。『フランス人と日本人では、脇毛に対する考え方が違うのか?』と、俺は疑問になったほどだった。そんなこんなで、外にテラス席のあるキャッフェのほうにマリオンと俺は辿り着き、彼女がやたら甘えた声で、「喉かわいたー」なんて言うので、俺は「なんでも奢るよ」って気前よく言った。それでな、その時の彼女の態度を見て、なんとなくわかったんだ。ああこりゃ、マリオンは日本の男がどの程度キンタマがでかいか試してるんだなと……だから、俺はもうそのあとは、とにかくひたすらマリオンの好きにさせておいた。カフェの店内で破廉恥にぶっちゅーとキスしてるカップルに向かって、自分の脇気を一生懸命アピールして見せようが、そのカップルがその後も気づかない振りをしてイチャイチャしてようが、ひたすらげらげら笑っていたというそれだけだ」
「それで、そのマリオンさんとの初恋のゆくえはどうなったの?」
マキはくすくす笑いながら、一番気になるその結末について聞いた。
「結果として、親父がフランスのオケからアメリカにあるオケのほうへ移ることになって――中二くらいの夏休みに会って以来、それきりだな。だけどそのデートのあと、マリオンは俺の口に真ん前からチュッてキスして、『また明日もデートしましょ』って言った。次の日、マリオンは半袖のブラウスにジーンズという格好だった。結局、脇毛ごっこをマリオンがしたのはその日きりだったというわけだ……だからな、マキ。実際のところ、俺にとって脇毛なんかどうってこともないのさ。マキが貴史に授乳してるところだって何度も見てる。妊娠線は消えたっていうか、消したってことだったが、あったって俺は、それでおまえに対してがっかりなんてしない。それはたぶんレオンだって同じだろうな。マキがそのことを自分で理解するかしないかは別として」
「…………………」
(じゃあ、どうして抱いてくれないの?)とまでは、マキはあえて聞かなかった。もちろん、口に出してそう言えば、彼が自分の願いどおりにしてくれることは彼女にもわかっている。けれど、マキにとっては君貴のほうにそう強く望む気持ちがあって欲しいという、これはそうした話だった。
そしてここで、レオンが貴史のことを抱っこして、テラスのほうから戻ってきた。貴史のほうでは、外の風に当たったり、土遊びをしたりしたせいか、とても上機嫌にきゃっきゃっと笑っている。
「何?一体なんの話?テラスのほうまで、ふたりが笑ってるのが聞こえたけど……」
「ああ、ちょっとな。俺の初恋の相手のマリオン・ジュアンの話をしてたところだ」
マリオンの名前を聞いただけで、レオンもまた笑っていた。
「ああ、あの子だろ?君貴と大人のキスの仕方の研究をしてて、タコみたいに君貴の舌を吸ってきて、危うく窒息しそうになったっていう……」
「違う、違う!そっちの話じゃない。脇毛の話のほうを俺はしてたんだ。マキが俺とつきあいはじめた頃、まず脇毛を永久脱毛したなんて言うもんでな」
「もう!わたしのことはいいわよ。ようするにあれね。君貴さんはわたしに、マリオンさんみたいに脇毛のことすら気にしない、大きい女になれってことを言いたかったわけね」
「簡単につづめて言えば、まあそういうことだな」
このあと、君貴とレオンとマキの三人は、声を合わせて笑った。マキがそろそろ昼食の調理を開始しようとすると、レオンが手を洗って、「僕がやるよ」と申し出る。
「ほら、マキは貴史の相手でもしてて。今日は鯛のアクアパッツァにペスカトーレね。君貴も好きだろ?」
「ああ。ところでレオン、マキがな、変なことを言うんだ。おまえが天使みたいにお綺麗なもんで、天使とセックスするような不敬なことは想像することも出来ないんだと」
「ちょっと!わたし、そんな言い方してないでしょ!」
マキが顔を赤らめているのを見て、レオンは微笑った。実をいうと、『マキの本心をうまく聞きだしてやるから、貴史を連れて公園かどっかでも散歩してこい』と言われたのだが、『大抵、マキも一緒に来るっていうから、それだったらテラスで土いじりでもしてるよ』と答えたのだった。
「ふうん、そっか。僕はてっきり、マキが僕になびいてくれないのは、君貴のことをそれだけ愛してるってことなんだろうなとばかり思ってたんだけどな」
「俺の自惚れでなければ、そういう部分も多少なくはないんじゃないのか?とにかく俺は、昼飯を食ったら空港のほうへ向かう。あとのことは、レオンとマキのふたりで話しあえよ」
ランチのひとときは、貴史がぐっすり眠っていたせいもあり、三人の大人たちにとって楽しい語らいの時間となった。君貴とレオンはワインを飲んでいたせいもあってか、終始陽気に笑ってばかりいたものだった。
マキとしては、このまま楽しい時間がずっと続いて欲しいと願い、君貴にも帰って欲しくなかった。それに、君貴と話したことで――初めて彼女は今まで感じたことのないことに気づきはじめていた。もしレオンが、(自分は本当に女性は駄目なのか?)と確かめるためだけであったにしても、彼にとっては一度確認を取ってみないことには、もしかしたらそれ以上先に進めないといったことがあるのかもしれない。
(だからやっぱり、君貴さんはわたしの言いたかった肝心なところをわかってないのよ。もしわたしで仮に女の人でも大丈夫らしいとわかったとして……レオンが本当に子供を作ったりするのはたぶん、その次くらいに出来る女の人なんじゃないかしらっていう、そうしたことがね)
けれど、飛行機の時間に間に合うよう身支度して帰ろうとする君貴に対して、この時もやはりマキは『帰らないで』とも『行かないで』とも言うことは出来なかった。せめてもう少しくらい、君貴が初めて出来た自分の子を可愛がってくれるような男であったとしたら――マキも、貴史のことを連れて彼についていくことを考えなくもないのだが、そんなことをすればただの重たい子連れ女と思われるという、それだけの話だったろう。
君貴が玄関へ向かおうとすると、彼は「べつに見送りはいらないぞ」と言ったが、マキは廊下の彼の後ろをついていった。レオンは「じゃあまたね、パパ1号~!」と言って、貴史に手を振らせていたが、マキはどうしてもこの時、最後にもう一度君貴に縋りたかった。
「君貴さん、次はいつここに来れるの?」
「う~ん。そうだな……」
いつもは聞かれない質問であるだけに、君貴は考え込んだ。彼のスケジュールについては、秘書の岡田が管理しており、今回のように東京を中継地にして寄ってもいいかどうかについては、正確なところを知っているのは彼のほうなのだ。
「あのね、そういう意味じゃないの。早く会いに来てってせっついてるっていうより……本当に無理なのよ、わたし。レオンともだなんて……」
かといって、レオンがここにいて、完璧に家事をこなし、貴史の面倒も愛情こまやかに見てくれることに対し――マキには、その対価として支払えるものが他に何もないのだ。もちろん、レオンに出ていかれるのは寂しい。けれど、彼とそうした関係になってから君貴ともう一度会う時のことを思うと……自分たちの関係はこれが限界なのだと、マキは君貴の口からそれとなくレオンに言って欲しかった。
「ああ、そうか。そういうことなら……まあ、あいつはいじけてここから出ていくか何かするかもしれないが、突然出ていっても追いかけたりはしないことだ。で、まあそのまま出ていって帰ってこないパターンと、頭を冷やして戻ってくるパターンとがあるわな。とにかく、レオンがヒスってもおまえが慌てる必要はない。自分が悪いと思って罪悪感を覚える必要もないし……まあ、それでもまだ何かあって心配なら、俺に電話してこい」
「そんなことにならないといいんだけど……」
重たい溜息を着くマキのことを、君貴は廊下の壁のほうへ追い込むと、かなり強引な形で彼女の唇にキスした。それから、「この続きはまた今度な」と言って、マキの体からすぐに離れる。
「もうっ!君貴さんはほんっとに勝手なんだからっ!!」
「いや、レオンとうまくいったと連絡が来たって、俺はべつに驚かんさ。むしろそのことで嫉妬して、逆に燃えるかもな」
――こうして、おかしな捨て科白を残して君貴は帰っていったわけだが、彼は最後、廊下に蘭の花がいくつも並んでいるのを見て、そちらの対処についても、多少考えなくもなかった。
入江健がマキに近づいたのは、単なる偶然だという可能性のほうが高いだろうとは、君貴も思ってはいる。だがもし、自分の弱点を嗅ぎ回っているということなのであれば……何か手を打つ必要があったに違いない。
ケン・イリエはハーバード大学デザイン大学院建築学科修了の、非常に優秀な建築家である。君貴にしても、一目置いている世界的ライバルのひとりといって過言でないと思っている。だが、仕事のキャリア等について、相手がこれまで手がけた建築物に興味を持ったことはあるにせよ、離婚歴があって前妻との間に娘がいるといったプライヴェートなことなどは、これまで一度も意識したことがなかった。
>>続く。