あ、今回は珍しく本文のほうが短かったり
ただ、次回が1章分入れたら「あともうちょっと」っていうところで全文入りきらなかったので、次の章の冒頭部分だけ今回の【5】に入れるっていうことになりました(^^;)
毎度のことながら、gooブログは30000文字以上入らないので、今後とも変なところでぶちっ☆と切れて>>続く。っていうことになってたら、そうした事情ということでよろしくですm(_ _)m
そんなわけで、前文に何書こうかな~と思ったりしたんですけど……今回、トップ画のほうがオラフ・ステープルドンの『スターメイカー』ということで、実はこの本がわたしが前に書いた「壮大すぎて読むのに時間がかかった」という、その小説ということになります
本当はもっとお話のほうが進んでから取り上げようと思ってたのですが、「ま、いっか☆」ということで、軽くその内容について触れてみようかな~と思ったりm(_ _)m
>>肉体を離脱した主人公は、時間と空間を超え、宇宙の彼方へと探索の旅に出る。訪れた世界で出会った独自の進化を遂げた奇妙な人類と諸文明の興亡、宇宙の生命の生成と流転を、壮大なスケールと驚くべきイマジネーションで描いた幻想の宇宙誌。
(『スターメイカー』オラフ・ステープルドン著、浜口稔先生訳/ちくま文庫より)
ちなみに、発表されたのは1937年のことなので、こんな昔にこれほどまでに完璧にして精緻なSFが描かれていたということに、まず驚きました
ちょっとこの本にあるあらすじのコピペ☆だと、「そいでその小説、ほんとに面白いんかい?」といった感じなのですが、もう少し詳しく書くとですね、主人公がまず「もしかしてステープルドンさん自身がモデルなのかしら?」といったように思われる中年のおじさんで、このおじさんが奥さんや子供さんと暮らす家の近くの丘で――ある経験をするというところから、物語ははじまります。
こうしたある意味、奥さんがいて子供がいて……そのために一生懸命働かなくちゃいけないだとか、そんなのがイヤってわけでもないんだけど(意訳☆笑)……みたいに、この中年のおじさんが丘の上から自分の人生について色々考え、星空を眺めていると、彼の霊魂は肉体を離れて遥か遠くまで旅立っていきました。
こう書くと「宇宙メルヘンポエム?」みたいに思われるかも、なのですが、とにかく描写のほうが細かいところまでリアル重視といった感じでして、このおじさん、地球を離れ、さらには太陽系を離れ、また次の銀河系、そのまた次の銀河系と霊魂のみの姿によってものすご~くながああい宇宙の旅をするわけです。
もちろん、本人も地球を離れたのみならず、地球の属する太陽系も離れ、銀河系も離れ……と、元いた地球から距離的に離れすぎてしまったことに不安を覚えはじめます。自分は本当に元いた地球のイギリスの、妻や子供たちのいる家へ戻れるだろうか――といったように。
でも、そうは思いながらも主人公のおじさんは、他の銀河系を次々旅して地球と同じような知性を持つ人種がいる星がないかどうかと探しに探し、最初なかなかめっかんないものの、とうとう見つけるわけです。ところが地球人の価値観からすると異星人である彼らは、我々の美意識からすれば醜いものの、ある程度地球人に体つきなども似ており、精神的にも大体気持ちわかる……的な、十分共感できる生命体でした。そこで、いまや霊魂だけの姿になってるおじさんは、この惑星の中のある人物に憑依し、その後、お互いの中にある記憶等を交換しあうという仲に。もちろん、この彼にしてもおじさんに「そこらへん、あんまし知られたくないんだけど」という記憶や習慣、内に隠した思いなどがあるわけで、なかなかこのことに「慣れる」までにはお互い時間がかかった模様。
そしてこののち、このふたりは霊魂だけの姿になって、さらに他にもあるだろう知的生命体のいそうな惑星へと旅立ちます。もちろん、主人公のおじさんが、最初に異星人のいる惑星を発見するまでとても時間がかかったように――次の銀河系、次の銀河系と探して、その中でようやくいくつか見つかる……みたいな、普通に考えたらそれは、本当に気の遠くなりそうな宇宙の旅でした。
でも、やっぱり肉体のない霊魂だけの姿に慣れると、ある種のコツ☆っていうんですかね。そんなものも彼らは掴み、他にも魚状人類ですとか甲殻人類ですとか、オウム貝状船人類や棘皮人類など……色々な異星人のいる惑星へ滞在し、その文化や歴史などを眺めます。そして、そうこうするうち、この霊魂の姿のみによって宇宙を旅する<目覚めた仲間>といった存在も増えていき――長いので端折りますが、最終的に、主人公のおじさん含めたこれらの人々は『スターメイカー』という、そもそもこの宇宙を創造した存在がいるのではないか……という、そのことに気づきはじめるという。
最後のラストのほうで、この『スターメイカー』とは全宇宙の神なのかどうか、その正体が明かされる――という、面白いものの、ひとつひとつの異星人の歴史や文化などについての細かな描写、さらにはそのことに対するおじさんの考察があんまり長くて……正直、わたしなどは読むのがすごく骨でした(笑)。
ええとですね。何故かここで突然手塚治虫先生のお話なのですが、「小説というよりも、何かの論文でも読んでいるかの如く読むのに時間かかる」と感じつつ、それでもわたしがなんとか読もうと思えたのは――主人公が宇宙を旅して暫くすると、ある瞬間にふとこう感じたからなんです。「あ、この小説、絶対手塚先生読んでるだろうな」みたいに。その~、前々回、わたしがいかにSFを知らないか列伝について書きましたが、そこに手塚先生の『鉄腕アトム』をちゃんと読んだことがない……というのを加えるのを忘れてました(殴☆)。
そのかわり、テレビでやってた『あの漫画・アニメの最終回特集』みたいので、アトムの最終回については見て知ってたりはするんですけど……わたしにとって手塚先生と言えばやっぱり『火の鳥』なんですよね(いや、これはただの焼き鳥・笑)。で、中学生くらいの時に友達の部屋で『未来編』を読んですごく衝撃を受けたわけです。でもその時は「手塚先生は天才だから、こうした凄いお話を思いついて描けてしまうんだ」と思ったというだけで――「そもそも手塚先生だって影響受けたSF作品があるに違いない!」とはまったく思わなかったというか。
でもたぶん、このステープルドンさんの『スターメイカー』とか、あと、わたしまだ読んでませんけど(笑)、『最後にして最初の人類』とか、『火の鳥』に与えた影響っていうのがすごくあったんじゃないかなって感じたわけです。何分、中学生の頃に「どうやったらこんなに壮大なすごいお話を思いつけるんだろう!」と衝撃を受けた作品の、多少元ネタになってそうな小説に出会えたことで――「手塚先生が読んでるなら、なんとか頑張って読まなきゃ!」と思えたことで、どうにかこうにかある程度読めた……『スターメイカー』はわたしにとってそんな作品だったかもしれません。
いえ、面白いんですけど、すごーく読みにくいんですよわたし、今まで割と色んな小説について「この本読んで、こー思いました」的なことを書いたりしてるので、わたしのことを読書家と間違われる方がいるかもしれないんですけど――まあ、わたしなどは到底ほんとの読書家などではなく、ただの怠けものの本好きといったところなのです(時々気が向いた時だけ本を読む、ナマケモノを想像してください・笑)。
なんていうか、わたし『カラマーゾフの兄弟』とか大好きですけど、それでも最初、上巻を手に持ってぱらぱら読んだだけでもこう思いますよね。「わたし、果たして1ページにこんなに文字埋まってる本、ほんとに最後まで読めるのかな……」みたいに。でも、カラマを読めるのはやっぱり、人物の相関図がわかってるくると面白くなってくるからだし、あとは何より、人同士のセリフのやりとりの多さによっても、1ページ文字ばっかでもお話が面白くなってくるにつれ、それがだんだん気にならなくなってくる――みたいなところがあるわけです。
ところがですね、『スターメイカー』は惑星や異星人の説明描写などが長くて、わたしなんかは一度にそんなにたくさん文章読めないのです。それでやっったら読むのに時間かかったというか。。。
ただわたし、この一冊でオラフ・ステープルドンさんのことが一発で大好きになりましたもちろん、作品自体のすごさということもあるのですが、どっちかっていうと、オラフ・ステープルドンさんという作家、彼というひとりの人間のファンになったというのに近いかもしれません。
なんでかっていうと、このお話が発表になったのが1937年で、ステープルドンさんが奥さんや子供さんがいる……といった意味では孤独でないと思うものの、そうしたことではなく、人間存在なんぞというものは、この宇宙と同じく透徹して孤独なものだ――みたいな、そうした領域にご自身を置いて小説書いてるっていうんでしょうか
そしてそんな、ある限られた一握りの人間が気づくかどうかというくらいの高所に精神/心/魂といったものを置くことが出来る、ステープルドンさんはとても稀有な方だったのだろうと思うのに……まあ、なんというか、実際には肉体を備えているがゆえに「そんなにすごい人だ」みたいに、ステープルドンさんの小説を読んだ人以外は気づかないと言いますか、そうした他者からは本当の意味で<魂の本質>というのはなかなか理解されない――という孤独についても、よくわかってる作家さんなのではないか……みたいに、想像されるからなんです。
その~、ステープルドンさんは間違いなく稀有な、物凄く素晴らしい作家さんなのですが、この当時で「ここまで進んだ精神」を持っていたら、周囲の人にどのくらい理解されたのだろうか……と思ったりするわけです。ただ、これもわたしの想像なのですが、奥さまはきっとすごく理解のある方だったんじゃないかと思うんですよね。なんていうか、もしそうじゃなかったら、「あなた、家庭の生活ってものも考えて、もっとお金になりそうな大衆小説でもお書きになったら!?ぷんぷん」みたいになると思うのですよ(笑)。でもたぶん、奥さまが旦那さんのステープルドンさんの作品について、すごく理解しておられたのではないか……何かそんなふうに想像されるというか(あと、このあたりのことについて、結婚する前に交わしていたおふたりの書簡などがあるそうなので、そういうのも出版されてたら是非読みたいです)。
なんにしても、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだあと、「この小説を読んでるのと読んでないのでは、人生観が変わってくる」と多くの方が感じるように――読むのに苦労するけれど、ステープルドンさんの『スターメイカー』もまた、「この本読んでるのと読んでないのでは、以下略☆」という、そちら側に属する本であるのは間違いないというお話でした
それではまた~!!
惑星パルミラ。-【5】-
ダリオスティン=アースティルナーダ・メセスシュトゥックは、非常な迷いの中にあった。実際に、冬至の前日にアストラシェス僧院へ到着する前までは、彼の頭はゼンディラへの邪な恋心で占められていたと言ってよい。だが、僧院へ到着し、その日から毎日続く陰鬱な――(確かにこりゃ、メディナが来たがらんわけだよな)と、彼にしても深く頷く以外にない、退屈な祈祷の時間をやり過ごす間、少しずつ考えが変わっていったのである。
僧ではない王族の彼は、僧院の起床時間に縛られる必要はなかったが、しかしそれでもである。朝の五時には窓の外から殷々たる鐘の音が鳴り響くのが聞こえ、廊下や壁伝いに階段を上がったり下がったりする僧たちの足の音や衣ずれの音がしてくるのだ。ダリオスの王宮付き従者たちは「朝の祈祷時間まで王族のあなたが守る必要はないのですよ」と言ったが、彼は目がすっかり覚めたということもあり、やはり礼拝堂のほうへ向かった。するとそこでは、何十人もの僧たちが床に跪き、神に向かい真剣に祈っているのであった。
(今日からのち、十日くらいの期間と区切られていればこそ……俺も我慢してこんなことにつきあうことが出来るが、俺の忍耐力を総動員しても、こんな日々が三か月以上続いたとすれば――もうそれ自体が地獄としか思えんな)
ダリオスも礼拝堂の祭壇の上部に安置されたアスラ像に向かい、この時ばかりは流石に周囲の僧たちと同じく、真剣に祈りを捧げた。そしてその後、僧たちがそれぞれの役割を果たすのに三々五々分かれてゆくと……再び王族にあてがわれた部屋のほうへ戻った。するとそこには彼専用のたっぷりした朝食が用意されていたわけだが、彼は僧たちが食堂で食べる質素なそれを見た時もやはり、何か恥かしいものを感じたわけである。
一応、女王陛下代理の務めとして、夕方からはじまり夜通し続く連祷へは参加したが、それは彼にとって苦痛以外の何ものでもなかったと言ってよい。ほとんど呪いの呪文のようにしか聞こえぬ、僧たちの低いさざめきのような祈りの朗誦は、アスラ聖典に書かれたのと同じ聞き慣れぬ古い言葉の連なりであり――いや、仮にそれらの言葉の意味がすべてわかったにせよ、ダリオスティンの眠気を払うことまでは決して出来なかったことであろう。だが、彼はメディナ=メディアラ女王陛下の代わりにここへ来て良かったとは思っていた。ゼンディラのことは別にしても、ダリオスにはわかったのだ。大伽藍に集まる僧たちにはだらけたようなところは少しもなく、本当に偽善などではなく『心の底から祈っている』という空気感が常にあった。それも、王族である自分が来ている間は特別にそうした雰囲気を醸さねばならないというのでもなく……ここでは「毎日がそのように過ぎていくのが当たり前なのだ」ということが、不信心者の彼にもよくよく理解できたのである。
一度そうしたことに気づいて周囲を眺めまわして見ると、何も特別なのはゼンディラひとりだけというわけではなかった。自分に対して敬礼しつつ通りすぎていく僧たちみな、目がとても澄んでいた。ダリオスの価値観としては(こんな退屈な毎日を送っていて飽き飽きしないのだろうか)、(時には神に対する疑念にも悩まされように)、(そしてそんな時にも彼らの行動自体には表面上、変化などないのだろう)としか思えなかったが、祈りと瞑想に専心する生活というのは、そうした神に対する疑念をも超える――ある透徹した精神状態を得るということなのかもしれなかった。
ダリオスが僧たちの生活態度を見ていて、地味ながら驚かされたことは他にもある。食事を用意する者、掃除する者、聖具類を磨く者など……こうした事柄についても、ダリオスとしては(いかな高僧といえども、時々は手を抜いたりすることだってあるのではないか)と思いつつ、彼らの様子を通りすがりに眺めていたものである。だがそこでも、彼らは本当に互いに和合して暮らしているのがよくわかったというそれだけだった。食事を作ったりする時や掃除する時も、僧たちは業務以外のことでは無言の行でも積んでいるかのようにほとんど話はしない。それでもやはり、何かの拍子に会話を交わすことはあるわけで、それは大抵が主に<神>に関することだった。たとえば、アスラ聖典のある箇所に関する解釈についてのことや、あるいは村の出入りの者が食材を届けたに来たといった場合でも――彼らは実に感じよくそれらの村人と話し、優しく笑っていたものだった。
それらは、首都メセシュナのどこでも、まったく同じものはふたつと見られないであろう、ある種の清らかさに満たされていたのである。アストラシェス僧院の廊下のあちこちに、信仰深い聖人たちの彫刻や、彼らを描いた絵画が飾られていたが、そうした歴史上の聖人たちの頭の上には後光が差していたり、あるいは光輪が浮かんでいたりしたものである。だが、ダリオスはアストラシェス僧院のそこここで、大体似たような薄い清らかな精神波のようなものが僧たちひとりひとりから発されているようにすら感じていた。
そして、こうしたことに一度思い至ると――相対的に自分がいかに世俗の穢れに満たされた人間であるかがわかり、せめても夜の連祷の間くらいは同じように祈りの姿勢くらいとらなくては……と、そのように心がけるのであったが、やはり低いつぶやきの漣のような僧たちの呪文の魔法にかけられるように、恐ろしいばかりの眠気がダリオスの精神を襲ってくるのだった。また、彼の横に常に数人控えている従者らは、ダリオスが何度もこっくりこっくりやってはハッとして頭を振る――というのを見かけると、「そろそろお休みになったほうがよろしいでは?」とか、「僧たちも交代で夜通し祈るのであって、ひとりの人間が一晩ぶっ通しで祈るというわけでもないのですから」と言って、彼に寝室へ戻るよう促したものである。
つまり、こうした毎日を澄んだ眼差しの僧たちに囲まれて三、四日も過ごすうち、流石のダリオスティンの当初あった煩悩も、だんだんに薄れてきたわけである。だが、冬至から数えて七日目にあった僧院に伝わる伝統劇にゼンディラがアスラ=レイソル役で登場すると、彼はやはり再び煩悩の炎がめらめらと魂の淵を焦がすのを感じずにはおれなかった。
無論、その場にいた者は誰ひとりとして与り知らぬことであったろうが、その伝統劇は地球に昔あった中国という国の京劇に似たところがあり――ここでもやはり舞台裏で歌われるのは、アスラ=レイソルその人が生きた時代使われた古い言語によるものであり、そもそも歌われている内容自体、歌詞の現代語訳を見なければ理解不能ですらあった。だが、アスラ聖典をとりあえず一通りなり読み通した者であれば、舞台上のアスラ神が錫杖を振り回し、この世の悪という悪を一掃する場面が描かれているのがわかったろう(この場合の悪とは、メトシェラ大陸でしのぎを削る諸国、その統一事業を邪魔する者すべてということになる)。そうした背後には常にバスラ=ギリヤークが見え隠れして暗躍しているわけである。舞台終盤にて、バスラ=ギリヤークの巧妙なそそのかしにあい、アスラ=レイソルがもっとも信頼する将軍、ナハティ=ターンシトラが彼を裏切るが……アスラ=レイソルは彼の背後にバスラ=ギリヤークの存在を感じとり、ナハティ=ターンシトラのことを心から赦すのであった。
こうして、裏切りの絶望ではなくむしろ、死にゆく友との間により強い信愛を得たアスラ=レイソルはバスラ=ギリヤークを追い詰めてゆく。これまでの間、アスラ=レイソルはバスラ=ギリヤークにいかに行く手を邪魔されようとも、彼の息の根を止めようとまではしなかった。彼の他の配下の将たちが、「諸悪の根源であるその者にとどめを刺しましょう」と進言してきた時でさえもである。そしてその時にアスラ=レイソルは、「あのような者であっても、この世界を構成する一要素なのだ。また、あの異形の者を殺そうとも、再び第二第三のバスラ=ギリヤークが現れるという、ただそれだけのことなのだ」と、そのように言ってバスラ=ギリヤークのことをたびたび見逃してきたのである。
だが、信頼する親友であり第一の将でもあった男の裏切りと死により、配下の他の将軍らの言葉に従い、バスラ=ギリヤークの首を刎ねなかったことを心底後悔したアスラ=レイソルは、闇深い山の麓の森の中、とうとうバスラ=ギリヤークと一対一で対峙する。ゼンディラ自身はこの時、自分の役柄のことに集中しつつも――どちらかというと、バスラ=ギリヤーク役のゴーティマ老の巧みな動きのほうにこそ、内心で感嘆を禁じえなかったといえる。
これもまた彼らのまったく与り知らぬことであったが……バスラ=ギリヤークの動きというのは、地球のバリ島に伝わる民族舞踊を思わせるところがあった。ゴーティマ老は、茶色に近い赤黒い肌をし、その上にその肌と同色の、胸のあたりに金糸による模様の描かれた衣装をまとい、顔には頬まで裂けた口に牙、八つある大きな目玉がある仮面を着け――アスラ=レイソルと相見えるのである。最初は、アスラ=レイソルのいくつもの金の輪のついた錫杖による攻撃をかわし続けるバスラ=ギリヤークであるが、だんだんに祈りの朗誦による歌唱が大きくなり、その盛り上がりを迎えるとともに力を弱めていき、ついには地にひれ伏す。そこへアスラ神はとどめを刺すべく近寄っていき、バスラ=ギリヤークの右脇の下、左脇の下、太腿の横、頭の上………といったように、錫杖によってドン、ドン、ドン、ドン!!と地面を打ち叩く。そのたびに、この国ではジャンと呼ばれる、銅鑼によく似た音が打ち鳴らされ――バスラ=ギリヤークは実際に脇や太腿をアスラ神の正義の理力によって打ち貫かれたとでもいうように、ビク、ビク、ビクーン!!と体を打ち震わせ、最後には絶命したかの如くまったく動かなくなるのだった。こうして、この宗教劇はアスラ神の悪に対する勝利によって幕が下ろされるのである。
実際のところ、臙脂色の緞帳が下ろされた時……ダリオスティンは立ち上がり、思わず拍手してしまったほどだった。ところが、劇を見ていた僧たちのうち、そんなことをする者は一人もいない。ダリオスは微かな羞恥とともに再び椅子に腰を下ろしたが、いたく感動したらしい王族の彼に恥をかかせるのもどうかと思ったのだろう。僧たちの幾人かもまた、慣例を破って立ち上がり拍手をしていたものである。
とはいえ、ダリオスティンはこの瞬間、深い感動とともに心にこう決めていた。清らかな僧たちの間にあって、何か罪を犯そうというのではなく……せめても彼はゼンディラとそば近くで何か話をしてみたいと望んだのである。だが、それが夕食後の就寝前であったことを考えると――やはりダリオスティンの心のどこかには、色欲という名の葬り切れないバスラ=ギリヤークがなんらかの形で潜んでいたものと思われる。
* * * * * * *
毎年恒例の宗教劇のあった翌日の夜、ゼンディラは昼の連祷には当たっていたが、夜の当番には当たっていなかったため、ダリオスティンの従者に呼ばれると、そのまま彼のあとについていった。一応、カリーリャ老に報告しておこうかとも思ったが、ちょうど長老が夕方から連祷の任に当たっていたことを思いだし――(何も問題はないだろう)と判断したわけである。
王族の従者たちは、黒絹やラシャの上等な制服を身にまとっていたが、そうしたチュニックやズボンをちらと横から見て……ゼンディラはどういった作りになっているのだろうかと、頭の中で製図を引いていたくらい、カリーリャ老が前もって注意したことは念頭になかったといえる。というのも、ダリオスティンは僧院へやって来てからというもの、すっかり恥じ入っていたこともあり、遠くから王族の彼の姿を見かけたゼンディラは、むしろ好感を持っていたほどだったのである。これは他の僧たちにしても同様で、彼が女王陛下とは違い、毎日眠気に襲われながらも夕方からの祈祷の席に連なっていたことや、またある時など僧たちと一緒に粗末な食事をしてみたりなど――ゼンディラも、仲間の僧たちが「偉ぶってない、感じのいい人だね」と言うのを聞いたことがあったほどである。
ゆえに、カリーリャ老が懸念していたことなどは、この頃には想像するのも恥かしいこととして、ゼンディラの心からは追い払われてしまっていた。実際、彼はアストラナーグ王朝の王紋が刻まれたロイヤルブルーの絨毯や、同じ色の繻子のソファや袖椅子、高級な家具・調度品類に囲まれた部屋へ通された時も……すっかりそうした警戒や用心を解いていた。従者がすぐに下がり、ソファに座っていたダリオスティンとふたりきりにされても――ゼンディラがまず最初に思ったことは、(やはりヴィランに似ている……!)という、それだけのことであった。
だが無論、そんな気持ちは心の奥深くに即座に沈め、ゼンディラはダリオスティンの前に跪くと、深く頭を下げ礼をした。
「第七至高僧院の僧、ゼンディラにございます」
>>続く。