さて、今回の言い訳事項はww
内頚動脈狭窄:頚動脈内膜剥離術について、です。。。
いえ、描写等ものっそ☆テキトーですので、間違いなく間違った描写で間違った書き方をしてると思いますが(汗)、そのあたりはとにかくすみませんすみません、スミマセンSumimasenenっ!!ということで(←殴☆)
そんな感じで、よろしくお願いしますm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
なんていうか、この状態で運ばれて来て意識がなかったとしたら、どのくらいの狭窄なのかとか、またその場合の血圧は……といったことが、実はさっぱりわかっていませんで
いえ、一過性脳虚血発作を起こしたものの、意識のほうは病院到着時もなんとか清明――といった設定にすれば良かったんですけど、患者に意識あると医師・患者・看護師間のやりとりの会話を書くのが面倒だ……といった部分がありまして(オマエは)
それで、なんかもう書いちゃったからとりあえずこれでいいやみたいな感じにww(殴☆)
わたしがこの首に出来るタイプの脳梗塞がある、みたいなことを知ったのは、確かHKのテレビで見て、だったと思います
なんでも最近(というかもう何年も前から)、この首にプラークの塊が出来るタイプの脳梗塞……正確には脳血栓でしょうか。みたいのが増えているということで。
んで、原因としては食の欧米化というか、ようするに高血圧とか糖尿病になるような食生活を送ってる人は要注意だよね、ということらしいのですが、そのテレビでちらっと見た患者さんの首から大きなプラークが出てきてですね、よくあんなのが首に詰まってて生きてられるものだなーというか、そのあたりが自分的にすごく驚きだったのです。。。
確か、番組の流れとしては(これも見たの相当前なので、記憶あやふや☆なんですけど・汗)、人間が塩というものを求めるようになってから、それが現代という時代においては摂取量が最大になったと言っていいってことなんじゃないかなって思ったんですよね。
人類の歴史全体から見ると、地上の人間たちのうち、<食>というものに困らない人たちがこれほど広く分布している時代というのは、比較的最近といっていいわけだったり(^^;)
塩の味というものを一度舌を通して脳が覚えると、やっぱりより美味しいものは塩とかスパイスが効いてたりするわけで、それを「もっともっと」と求めていくと、塩分の量って自然増えていくのが当たり前であり、薄い味つけのものよりより濃い味のものを人は欲するようになり――今は本当にその究極の時代といっていいということなのだと思います。
動脈硬化っていうのはたぶん、その弊害として表われてくる症状っていうことでもあるんでしょうけれど、自分的に<塩>ってほんとに不思議な存在だな、なんて思ったりします
昔はこの<塩>のために戦争が起きたこともあり、ウユニ塩湖からはほぼ永遠的に塩をとることが可能だって言いますよね。そして、聖書では、イエスさまがこうおっしゃっていたりもします。
>>あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
(マタイの福音書、第5章13節)
取りすぎると病気の原因にもなる塩ですが、比喩としては、塩気のない生活なんて絶対的につまらなくもあり……聖書の解釈としては、この塩気を保つというのは、世の腐敗から守る力ということらしいのですが、確かに手術などで切除されるプラークなんていうものは、>>何の役にも立たず、外に投げ捨てられるだけのものといった感じがします。。。
なんにしても、今回も文章入りきらなかったので、変なところでちょん切って、次回へ>>続く。ということになってるっていうことで、よろしくお願いしますm(_ _)m
それではまた~!!
不倫小説。-【6】-
もっとも、小百合は知らなかった。「夫は実家の両親の手前もあって、離婚することだけは考えまい」とほぼ確信していた小百合だが、彼はそのことを真剣に考えていればこそ、家庭内でゾンビのようにうだうだ繰り返し悩んでいるのだということなどは……。
その後、季節のほうは秋から冬へと移り変わり、その年も暮れようかという日のこと――12月31日から1月1日にかけて、奏汰は宿直の当番が入っていると、妻に告げていた。
「例の、外科部長にも月に一度は回ってくるという宿直の当番だよ」
まるで、(これがその証拠)とでも言いたげに、この時奏汰は宿直当番について記された表まで小百合に見せていた。
(この、嘘つきっ!あなた仮にも外科部長のひとりなんだから、その日は宿直になんて入れないっていうことで、十分調整は取れたはずよ。これはもう、浮気してる女は絶対病院の看護師ね。よくはわからないけど、とにかくその日、ふたりで約束した何かがあるってことだけは間違いない……)
「どうしてよ。あなた、自分の実家に年始の挨拶に帰るのは気が重いけど、うちに来るのは好きだってよく言ってたじゃない。むしろ、自分の実家より心が安らぐって……今年に限っては何かあるとでも言うわけ?」
「そんなこと関係ないさ。単に、大晦日は他の誰もたまたま都合がつかなかったんだ。今年に限ってね。まあ、強いていえば、今年……というか、正確には来年か。小百合の実家には今あのお姉さんがいるだろ?もちろん、いたって俺にとってはどうということもないにしても、俺、あのお姉さん、ちょっと苦手だからね」
この言葉に多少気をよくした小百合は、夫に対する追求の手を緩めた。わざわざ宿直でもないのに宿直だと言い張っているというわけでもない。本当に、その日は誰も当直に当たれる医師がいなかったのかもしれない。もちろん、そんなのは医局の下っ派の医師にでもやらせればいいとも、小百合は思う。けれど、彼女はこの時もどうにか物事のよい側面を見ようとしたのだ。
(そうだわ。大晦日から元旦にかけて、病院のほうで何事もなければ、確かに通常業務よりも体のほうは楽かもしれない。だけど、患者が急変したり、急患が運ばれてきたりする可能性のほうが高いわけだから、そんな中でこっそりよろしくやるってこともないでしょうし……)
「パパー、今年のおーみそかとお正月、パパ、おうちにいないの?七海、さびしいな……」
しょんぼりしている娘のことを見るのは、奏汰としても胸が痛んだ。だが、「そのかわり、二日と三日はお休みだから、パパも七海やママとゆっくり過ごせるよ」と言って慰めることで、彼の良心はどうにかうまく釣合を取っていたのである。
「パパ、ほんとー?じゃあ、そういうことならしゃあないっかー」
奏汰が娘の頭を愛しげにぽんぽんしているのを見ながら、小百合もまた微笑む。
「確かにね、あなたの実家のほうは桐生家の親戚の多くが本家に集まるみたいな、そんな重苦しい雰囲気だから……今年は二日か三日にちょっと顔出すってくらいでいいかしら。わたしも、そのほうが絶対的に気が楽だし」
「そうだな。あんな、親戚が雁首揃えてるところにいったって、気ばかり遣って疲れるだけだからな。父さんには、俺のほうからそう連絡しておくよ」
「そうしてくれると、わたしも助かるわ」
小百合は、奏汰の両親も、彼の兄夫婦も苦手だった。初めて、自分の両親と夫の両親とが顔を合わせた時のことは今も忘れられない。まるで、自分たちが圧倒的に格上で、息子は相当に格下家庭の女性を妻に迎えるようだが、まあ、それも仕方ない……とでも言いたげな雰囲気だった。もし前もって奏汰が「うちの両親は頭がおかしいから、まあ、普通じゃないんだと思って、どうか見逃してください」と小百合の父と母に謝ってなかったら――いくら温厚な自分の両親も、あの態度には流石に切れただろうと思われるほどだった。
だが、もちろん彼女は知らない。奏汰がわざわざそのように申し出て、大晦日と元旦に月に一度ある当直を自らそう割り振ったのだということは。そして、小百合自身がそう思っていたとおり、奏汰が宿直にあたった大晦日は患者が急変して突然呼ばれたりと、紅白歌合戦すら見る暇のない忙しさであり、元日は元日で、脳梗塞の患者の緊急オペまであった。けれど彼は、そうした業務のひとつひとつを舌打ちするでもなく、落ち着いて冷静に、かつ、時には喜びさえもって上機嫌にこなしていったのである。
こうした医師本人の気分や雰囲気全般といったものは周囲にも伝播するもので、運悪くというべきか、その日、夜勤にあたっていた救急科の看護師らは奏汰のことが神のように見えたといっても過言でなかったに違いない。
彼女たちはナースの休憩室で「あーあ。なんだってこんな日に夜勤なのよー」とか「だって、師長が「他に誰もいないから、このとーりっ!お願いっ」なんて言うんだものねえ」、「やれやれ。なんだって病院なんかでカウントダウンを迎えなきゃなんないんだか」……などと、ブチブチ文句を言いながらテレビを見ていたものだった。さらには、脳梗塞の急患がやって来るということになり、「もう、サイアクー!」、「せっかくテレビいいとこだったのに!」と、バタバタ急患受け入れのための準備をしはじめ――ところが、上から奏汰が下りてくるなり、彼女たちの忙しい手は一瞬止まっていたかもしれない。
(えっ、こんな格好いい人、うちの病院にいたっけ!?)と驚き、(いや、今それどこじゃないわっ!)と、早速リーダーの看護師が搬送されてくる患者について桐生医師に申し送りをした。
そして、他の残り二名の看護師は、もう五分もしないうちに患者がやって来るにも関わらず「ねえ、たまたま今日の当直、脳外科の先生だから診てくれるってことだったけど……」、「まさか、こんなイケメン先生が来てくれるなんて、わたしたちもしかしてツイてるんじゃない?」などと小声で話していたものだった。
奏汰は救急救命士より、患者が六十二歳の男性であり、ゆく年くる年を見たあと就寝し、午前三時頃一度目が覚め、トイレへ行ったきり夫が戻ってこないのを不審に思った妻が様子を見に行くと……夫がトイレで倒れているのを発見したという経緯について聞いた。
「バイタルは血圧が140の90、脈拍90。何分、この巨漢ですからね。私たち救急救命士でも運ぶのが大変でした。移動のほう、お手伝いします」
ところが、救急外来の看護師たちは慣れたもので、キリッとした顔で今晩の夜勤のリーダーである松原が他の看護師たちにサインを送ると、ひとりが奏汰の脇につき、またもうひとりが別の側につくと、一、二の三ですぐに百キロはありそうな患者を病院側のストレッチャーへ移動させていた。
「やれやれ。重いじさまだな。子泣きじじいでもこんなに重くはないだろうに」
奏汰が独り言のようにそう呟くと、看護師たちはマスクの下で微笑んだ。救急科での勤務というのは、慣れてくると時にユーモアが非常に大切になってくるものなのだ。
「お~い、安藤さん、起きてるかーい?」
と、今一度意識の呼びかけをし、ペンライトで対抗反射を確認する。看護師たちは手早く、心電図モニターに繋ぎ、抹消を取り、導尿カテーテルを入れ……と、出来ることから順に行動を起こしていく。
「GCS(意識レベル)は3点といったところか」
松原が胸からボールペンを取りだし、その横の部分で患者の手足を刺激するも、相手から反応は一切なかったのを見て、奏汰はそう判断した。挿管と人工呼吸器の手配を看護師らに指示するより早く、彼女たちは心得たもので、すでにその準備をはじめている。
奏汰はスムーズに挿管すると、移動用の人工呼吸器に繋いで、まずはCTを撮ることにした。脳梗塞、あるいはクモ膜下出血を疑っていたが、その後、安藤正彦の内頚動脈にはプラークが詰まっていることが判明していたのである。
「三階のオペ室に連絡して、準備のほうを頼むと伝えてくれ」
「はいっ!」と、若い看護師の江夏が答え、すぐに電話に取りつくと、内線の手術室の番号を押している。
安藤正彦が手術室へ搬送され、麻酔その他の準備が済むまでの間に、奏汰はいまだ取り乱したままの安藤の妻に会い、あらためて患者のことを聞いていた。「頚動脈にプラークが詰まっているので、これからそれを取り除く手術をする」と伝えると、安藤の妻はオロオロしながらも「そんなことだろうと思いましたよっ!」と、泣きながら叫んでいた。
なんでも、安藤正彦の職業は土木作業員で、毎日煙草はスパスパ、酒のほうは放っておけばいくらでも飲み、コーヒーと肉汁したたるステーキが大好きで、野菜や魚などはほとんど食べない……といった食習慣だということだった。
「そうですよ、先生っ。先生のおっしゃるとおり、主人は年に一度の健康診断で、高血圧やら肝臓病の疑いがあるやらで、さらにもっと詳しく調べてもらうようにってずっと言われてきたんです。だけどあの人と来たら、その検査結果を見ながら『病いは気からだ!』とかおかしなこと言って、その紙をビリビリに破いちまったんですからねっ!」
ああもう、言わんこっちゃない……そう言って泣き崩れる安藤の妻を、急いで駆けつけた息子夫妻に任せると、奏汰はすぐに手術室のほうへ向かい、医師控え室で術着に着替えると、手洗いを開始したわけである。
救急科の松原と江夏とは、手術室のオペ看に申し送りを済ませると、元の持ち場のほうへ戻ってきたわけだが、ふたりとも急患がやって来る前と来た後とでは態度が打って変わっていたものである。「ちょっとお。何よ、あの目の保養ーっ!」、「うちの救急に上から先生が下りてくる時って、大抵がブチブチ文句言ってたり、不機嫌だったりするのに、なんかもう、一陣の爽やかな風が吹いてきたみたいな感じっ」と話しては、その後は日勤の看護師たちがやって来るまで、実にパワフルに働いていたものである。
一方、この日、手術室に控えていた三浦と遠藤という女性看護師ふたりは、奏汰は初めて見る顔だと思った。もっとも、麻酔科医の寺田が一度「遠藤さん」と名前で呼んでいたため、奏汰としては「ああ、彼女があの……」と思ったりしたわけだが、何分事は急を要するため、余計なことなど考えている暇はない。
頚動脈が心臓から脳へ血液を送るための重要な血管であることは、誰もが知るところであろう。ところが、血管の老化現象である動脈硬化により、頚動脈の血管壁が厚くなると、プラークのカスや血栓が脳へ流れたり、狭窄の程度が強いと脳への血流が低下することで、脳梗塞が起きる。
奏汰は頚動脈エコーで、安藤の首の厚くなった血管壁(プラーク)を見ると、思わず「今まで見たプラークの中で一番大きいかもしれないな」と言ってしまっていたものだ。
手術のほうは比較的簡単であり――頚動脈の血流を遮断し、頚動脈を切開後、血管内にたまったアテローム病巣を摘出、そして再び血管を縫う、といった流れ――だが、この手術自体のほうは一時間とかからず終了していたものの、彼は「成功して良かった」などと、楽観的にはまるで考えていなかった。
狭窄を起こしていた箇所については以前と同じように血液が流れるようになったとはいえ……取り除いたプラークのほうは驚くほど大きなものであり、術後の感染症が心配されるだけでなく、頚動脈にこれだけ大きなプラークが出来ていたということは、心臓などでも同じように動脈硬化が進んでいる可能性があり――ようするに、安藤正彦はこれを機会に生活習慣を根本的に変えないことには、今度は脳のどこかで梗塞をきたすか、あるいは心臓疾患により再び救急車の厄介になる可能性大だったのである。
(あの奥さんから聞いた話の感じだと……この巨漢のおっさんは、人の言うことに耳を貸すタイプではないらしいからな。そんな患者でも、一度病いに倒れたことをきっかけに人生を見つめ直すこともあるが、好きな煙草や酒をやめ、肉食中心の生活を変えられるかどうか……)
奏汰が最後、「やれやれ。よくこんな大きなプラークがあって、今までなんともなかったものだな」と感心したように呟き、剥離した内頚動脈を縫っていると、横から器械出し担当の遠藤看護師が声をかけてくる。
「珍しいですね、先生。年末のこの時期って大体、若い使えない研修医なんかが医局の仮眠室で待機ってことが多い気がするんですけど。奥さま、何もおっしゃらなかったんですか?」
麻酔科医の寺田は「ベッドにどうにかギリギリ収まるかどうかの患者なんて、俺、初めてだよ」と、外回りの三浦看護師と話しており、彼ら三人はいかにも「知った仲」といった雰囲気だった。また、連携のほうも阿吽の呼吸といった感じで、とても良かったように奏汰は感じている。
「ハハッ。まあ、ちょっと事情があってね。大晦日は誰も宿直なんてやりたがらないだろうから、自分からその日は当直に入ってもいいって言ったんだよ。妻も、俺の実家に行かなくていいんで、二日と三日が休みだっていうんなら、まあいいわって感じだったかな」
「そうなんですか」と、使った手術器具やガーゼの数を数えながら、遠藤美里はキビキビした口調で言った。彼女の器械出しもまた「キビキビした」という表現がぴったりで、奏汰としては正直かなりのところ驚いていた。今、脳外科の手術に入っている誰よりも首尾がいいと思ったし、人を選べるのであれば、次の手術から彼女に来て欲しいくらいだった。
「それより、遠藤さん。脳外の手術に入ったのはこれが初めてじゃないだろう?なんで俺が遠藤さんのことを脳外の手術で見かけないのか、不思議で仕方ないんだけど……」
「ハハハッ」と、今度は遠藤のほうが笑う番だった。すでに閉創作業も済み、麻酔科医の寺田と外回りの三浦看護師とは、患者の安藤を回復室のほうへ移動させるべく、準備をはじめ――やがて、手術室には奏汰と遠藤だけが残されるということになる。
「先生が院内の人間関係について、どこまでご存じか知りませんけどね、脳外の手術に入る看護師の中に、気に入らない女がひとりいるんですよ。わたし、ここじゃない別の総合病院で、脳外の手術によく入ってたんです。でも、今度は脳外じゃない他の手術についても勉強したいって、そう思いましてね」
おそらく、年齢的には彼女は奏汰と同じくらいか、少し上か下かのどちらかだろうと思われた。口調がキビキビしていて、もし本人が自覚していなかったとしても、「デキる看護師」としてのオーラが自然と漂ってくる、そうしたプロフェッショナルとしての意識の高さを感じさせる女性だった。
「まあ、オペ室のナースたちの人間関係についてはわからないけど、たまにでいいから、脳外の手術にも来てくれないかな。今、紺野くんっていう男のナースくんがいて勉強中なんだけど……」
ここで、遠藤はマスクの下でブッと吹きだしていた。理由のほうは奏汰にはよくわからない。
「あー、あいつね。あいつ、使いものになります?なんでも、白石の奴が紺野に張りついて、色々教えてるってことでしたけど……永井師長の話じゃ、そのうちふたりを離そうと思うけど、白石をどこに飛ばすのかが問題だってことなんですよね」
「へえ」と、この時も奏汰は何も知らない振りを装った。「紺野くんは勉強熱心だし、それは俺だけじゃなく、他の脳外の先生たちもそう言ってるよ。このまま育っていってくれれば、十分いいオペ室付きのナースマンになるんじゃないかって。俺が言いたかったのはね、遠藤さんみたいな人が紺野くんに厳しくあたってくれたら、紺野くんの技量はさらに伸びるんじゃないかってことだったんだ」
「やめてくださいよ」
さも(ケッ)とでも言いたげに、遠藤は笑った。はっきりした性格なのだろう。
「わたしも噂で聞いただけですけどね、あいつ、脳外のナースたちの人間関係に疲れてこっちに飛ばされたって話じゃないですか。わたし、嫌ですよ。こっちは愛情から厳しくしてるのに、『ぼく、こんなに頑張ってるのに、しくしく』なんていううじうじしたタイプ、一番大っキライなんです。っていうか、そういう奴と一緒にいるだけでイライラしてくるんで、たぶん紺野、わたしが指導にあたったりしたら、三日で潰れて、今度こそ本当に病院に辞表だすんじゃないですか?」
(確かに一理ある)と思い、奏汰もまた笑った。それから、「まあ、気が向いたら今度、是非とも俺の手術の器械出ししてくれ」と言い残し、奏汰が第三手術室をあとにしようとした時のことだった。
「桐生先生、お疲れさま!あと、遅ればせながらあけましておめでとうございますって、一応言っときますね」
遠藤が最後、キビキビした快活な声で新年の挨拶について述べる。
「ああ、そうだったな」奏汰も思わず、振り返って言った。「あけましておめでとう。正月早々手術なんかして、何がめでたいんだかって気もするけどね」
「いえ、新年早々めでたいですよ。手術のほうは失敗したんじゃなく、無事成功したんですから」
――奏汰はこの時、この遠藤美里という看護師に対して、相当高い好感度を持った。といっても、女性としてとか、恋愛云々といったことは関係なく、プロフェッショナルな看護師としての態度が素晴らしいと思ったのである。それに、何か奏汰に気に入られようとして同僚を悪く言わないというのではなく、ズバッと自分の思っていることを吐露したことについても、むしろ清々しいと感じていた。
(あの人はたぶん、病棟だろうとオペ室だろうと関係なく、あの器械出しと同じようなキビキビした感じで仕事をするんだろうな。で、相手が自分の上司だろうと若い部下だろうと関係なく、自分の思ったことをハッキリ言うっていうタイプだ……)
そして、妻の作ってくれた年越しのための弁当をなんの罪悪感もなく食べ、奏汰が部長室のソファベッドを倒し、少しばかり仮眠を取っているうちに、気づけば間もなく彼の宿直も終わろうとしていたのである。
「うわっ。ヤバいな……手術の記録とか色々やんなきゃいけないってのに。あと、病院自体は閉まってるにしても、今日は誰が日直なんだっけな……」
そんな独り言を半分寝ぼけたまま呟き、奏汰は窓のブラインドを上げた。そこからはちょっとした病院の裏庭と、それから病院職員専用の広い駐車場などが見える。
手術着の下の腹のあたりをぼりぼりかき、奏汰は欠伸した。窓からは冬の空に特有の冷たいような青い空が見え、そこには白い雲が寒い風に千切られたとでもいうように、ぽつぽつ散在している。
「さて、と。コーヒーを一杯だけ飲んだら、残ってる仕事を片付けなきゃな」
六畳ほどの狭い部長室には、小さいながらも一応、隅のほうに洗面台がある。そこからコーヒーを入れるための水を取り、コーヒーペーパーをセットしたあとは、そこに二杯ほど気に入りのメーカーのコーヒー豆を入れた。
やがて、馥郁としたコーヒーの香りが部屋に満ち、奏汰は「脳外科ジャーナル」の1月号を閉じると、一度そのコーヒーをカップに入れた。それからまた読書しつつコーヒーを飲み、飲み終わるのと同時、救急科のICUまで安藤正彦の様子を見に行ったのである。
奏汰が行った時、患者は目を閉じて眠っていたが、看護師の話によれば、手術後、一度目を覚まして暫く起きていたとのことで、その時に、本人の名前などを確認し、見当識のほうは問題なく、体に麻痺等のないことも確認済みだということだった。
「そうか。よかった……今ちょっと脳外のICUは満床なもんだから、ひとつ空いたら安藤さんに入ってもらおうかな。それまではこちらで診ていてもらえると助かるんだけど」
「了解です」と、松原看護師。「桐生先生、先生はお嫌でしょうけど、また何かあったら救急の外来患者を助けてくださると助かります」
「嫌だよ。それにこっちには、頭部の外傷やクモ膜下出血の患者さんをしょちゅう見て治療してる先生方がいるんだから、俺のでる幕なんてないよ。ただ、きのうは大晦日だってことでいつもより人がいなくて、脳外の先生がたまたま上で宿直だから、そいつに来てもらえーってなっただけだろ?」
「さっすが、先生。わかっていらっしゃる」
くふふ、とマスクの下で笑って松原は続けた。
「でもほんと、そういう時でも大抵、上から先生をお呼びする時は、どの先生も機嫌悪かったりなんだりして、無理ないのはわかっててもー、救急の看護師たちとしては、桐生先生みたいに迅速かつ爽やかに対応していただけると、もうっ、これ以上仕事してて士気が上がるってことはないわけですよっ」
「えっと……」
奏汰は、特に後半部分、松原が何を言っているのかわからなかった。(たぶん、彼女もそろそろ夜勤終わりで、自分でも何言ってるかわかってないんだろうな……)何かそんなふうに思い、他の看護師二名に「また救急に来てくださいねー」、「桐生先生、ラブですー!」と言われても、彼女たちもまた、夜勤が終わりに近く、多少頭がおかしくなっているのだろうとしか彼は思わなかったものである。
そして……奏汰がこの時上機嫌だったのには、実はある理由があった。奏汰は紅白歌合戦の最中に急変した患者の様子を脳外科病棟へもう一度見にいき、小康状態を保っているのを確かめ、その後手術室のほうで記録のほうを打ち込み、それから医局ほうへ顔をだすと、日直担当の医師に引き継ぎをした。
こうして、宿直業務から完全に解放されると、奏汰は部長室のほうへもう一度戻ってきた。すると、大晦日から元日にかけて同じように夜勤だった明日香がソファに座っている。
「先生、あけましておめでとうございます!」
「あ、ああ……」
これもまた二十四歳という若さのせいなのだろうか。明日香はまるでこれから出勤するのだろうかというくらい、まるで疲れてなどいないように見えた。
「新年早々、脳梗塞の急患が来たよ。救急の医師にも対応できるくらいの患者だったけど、たまたま上の宿直が脳外科医だってことで呼ばれたわけだ。君も、ごねる患者の相手をしていて疲れたんじゃないか?」
「まあ、慣れてますから」と言って、明日香はにっこりと笑う。「それに鐘崎さんはもう少ししたら転院するっていうことでしたよね?あんまり秋田弁がきつくて、わたしも時々何しゃべってるかわかんないんですけど、鐘崎さん自身が自分でも何しゃべってるかわかんないみたいな感じでお話してる感じですし。なんとなくうんうん言って話を聞いてたら、「あんたを嫁っこにしてえ」とか言って、最後にはガクッと落ちてました」
ははは、と奏汰は笑った。鐘崎幸人は、五十台の長距離トラックのドライバーて、秋田と東京を往復している。そして、その途中で事故に遭い、こちらの救急外来のほうへ急遽搬送されてきたというわけだった。
「そうだな。今月の半ばには秋田のほうの病院へ転院する予定だよ。鐘崎さん、奥さんもいればお孫さんもいるんだけど……どうもね、今の彼の中では結婚したという記憶自体ないらしい。だから、看護師さんたちにも誰かれ構わずプロポーズしちゃうんだろうな」
「ですよねえ。近藤さんなんて、「オラの大事なもんを見た以上、責任とって結婚してけれ」って言われたそうですよ。そしたらそれ聞いてた他の看護師さんが、「あの近藤さんにプロポーズするなんて、鐘崎さんもツワモノよねえ」なんて言って。あと、隣の寝たきりのおじいさんを指差しながら、「あいつとオラと、どっちがよりいい男だべ」とか……あとたまに、動く右手だけで宮尾すすむの物真似もしてくれるんですよ。病棟では、今ちょっとそれが流行ったりもしてるんです」
「宮尾すすむねえ」と言って、奏汰はげらげら笑った。どうやら彼も、救急の看護師たちのことは言えないようだった。宿直明けで、おそらく一時的に脳内がハイになっているのだ。「っていうか、俺でも年齢的にギリ知ってる感じなのに、よく明日香知ってたな。宮尾すすむなんて」
「ネットで調べれば一発ですよ。看護師さんたちも、「『きーちゃんは宮尾すすむなんて知らないでしょお?』なんて言って笑うんです。『クイズ、ヒントでピントなんて、聞いたこともないはずよ』って。そしたら鶴ちゃんが携帯でユーチューブのを見せてくれて、思わず爆笑しちゃいました。鐘崎さん、確かにちらっと似てるから……きっとそれが記憶のどこかに残ってたっていうことなんでしょうね」
鐘崎幸人は、脳座礁のほうは手術によって搬送後すぐに治療がなされたものの、体の一部に麻痺と記憶の混濁が見られる患者だった。その他の外傷などは良くなったため、近く、秋田市の病院のほうへ転院するという予定である。
「そうだな。だが、そうしたことは覚えているのに、肝心の奥さんの顔を見てもわからないっていうのがな……」
「ええ。鐘崎さんの奥さん、最初は鐘崎さんがふざけてると思ってたんですけど、本当にわからないってわかった時には……病室から飛び出して、少し泣いてらしたもの」
「そうか……」
ここで、奏汰は鐘崎幸人の脳の損傷部位について説明しようとして、慌ててやめた。いくらまだ病院にいるとはいえ、仕事の業務のほうは終わったのだ。ここからは恋人同士としての話をしようと思い、意識を切り替えることにする。
「それより、お腹がすいたんじゃないかい?きのう、病院に来る前に色々買っておいたんだ。ここには小型の冷蔵庫はあっても、電子レンジまではないから……医局の食堂のほうまでいって、このピザなんかはちょっとあっためてくるよ」
「あの、先生……」
奏汰がピザの他に、スーパーかどこかで買ったらしい惣菜類を手にして出ていこうとすると、明日香が言う。
「やっぱり、いつも通り、わたしのマンションのほうへ来ていただいたほうが……いくらお正月で、いつもの土日以上に病院スタッフがいないとはいえ、やっぱりちょっと大丈夫かなっていうか」
「心配いらないよ。俺の右隣は内科の垣谷先生の部長室、左は精神科医の坂下先生の部長室だからね。ふたりとも、この正月になんて病院には戻ってきっこないよ。で、他の一般の医師たちは医局のほうに自分の机があるから、よほど重要な用でもない限りは、こっちの部長室が並ぶ一角までは来ない。さらに医局の横は手術室、また一方の先には総務課と事務局長の局長室、医療図書室の向こうの奥が院長室、副院長室、総師長室といったところかな。仮にもし明日香がひとりでそっちまで行っても何も問題ないよ。だって、元日の今日は人っ子ひとりいないからね」
「でも……」
明日香自身は地下にある病院スタッフの女性更衣室で、すでに着替えを済ませてあった。というのも、実は最初から奏汰の提案した夜勤のあと、彼の部長室で過ごすという案に彼女は賛成しかねており、仕事が終わった以上、なるべく早く病院の外へ出たいと思っていたのである。
けれど、奏汰のほうでは明日香のそうした気持ちがわかっているだけに、そそくさと自分の部長室をあとにして、手にした惣菜類をあたために、食堂のほうへ向かった。創医会系の総合病院では、医局に付属して、医師だけの利用できる食堂があり、月に三千五百円ほども支払えば(ちなみに一食、税抜きで三百円である)、栄養のバランスの取れた美味しいランチが食べられる。そして、ここの食堂には自動販売機が四台ほど並び、その他カップラーメンやお茶を飲むための電気ポッド、それに電子レンジも置いてあるのだった。
普段ならば、九時三十分というこの時間帯、平日はここの食堂を任されている賄いのおばさんがいる。けれど、今日は他の医師の姿もまったくなく、奏汰は口笛を吹きながらジュースを二本買い、電子レンジのスイッチを入れていた。
こうして、ジュースを白衣のポケットに一本ずつ入れ、手には温めた食材の入ったコンビニ袋を提げ、廊下で誰とすれ違うでもなく、奏汰は自分の部屋のほうまで戻ってきたわけである。
「ほら、俺も今、医局でレンチンして、手術室の脇を通ったけど、誰にも会わなかったよ。心配しなくても、誰もここへは来たりなんかしないから大丈夫だ」
「でも、先生……わたしが来るのに、わざと鍵を開けておいたんでしょう?カバンとかだって置いてあるのに、泥棒にでも入られたらどうするんですか?」
「まあ、細かいことは気にしない」
そう言って奏汰は、ポケットの中のカルピスを明日香に渡す。自分の分としてはコーラを買ってきた。
「基本的にこのあたりには、部長職の医師以外やって来ないし、そんな人たちが他の医師の物を盗んだりするかい?俺もよく、患者のことで頭がいっぱいで、ここから手術室に行く時なんかは鍵をかけ忘れたりするけど、ものを盗まれたってことは一度もないよ」
「だけど、誰かに論文のデータを盗まれるとか……」
ここでも奏汰は、いつも以上に陽気に笑った。
「誰の?俺の論文を?盗まれなきゃいけないほどの論文なんか、俺は書いてやしないよ。兄貴じゃあるまいし」
奏汰が兄の聡一に対し、コンプレックスを抱きながら育ったという話は、明日香も聞いたことがあり、彼女は一度黙りこんだ。かなり前に明日香が『どうやったら先生みたいな人が育つんでしょうね?先生のお父さんやお母さんはどんなふうに先生をお育てになったんですか?』と聞いたところ、『俺の両親なんか、精神的な殺人者みたいな人たちさ』などと言うので、明日香はまったく驚いたものだった。そしてそのことに関連して、兄の桐生聡一の話が出てきたのである。『つまり、そのようなゴリッパな兄が上にいたもんで、俺はずっと兄貴が故障した時のスペアみたいな扱いだったのさ』と。そのあと、明日香が『先生にもそんなご苦労が……』と口にすると、彼は『君ほどじゃないよ』と言い、それから彼女の唇を塞いだのだった。
「でもまあ、今は兄貴にも心から感謝してるよ。何分、脳外科の最先端のことについては兄貴に聞けば一発だし、何かツテが必要な時にはすぐに紹介もしてくれる。俺も、自分の手に余るような患者を兄貴に頼んで手術してもらったことがあるし……ま、コンプレックスなんて言っても、十代の頃の一過性のものだよ」
「そうなんですか。でもわたし、最初に先生の桐生っていう名前お聞きしても、たまーにテレビに出てる脳外科の桐生先生とは全然結びつかなくて……まあ、似てない兄弟なんて世の中にいくらでもいるとは思うんですけど」
「まあね」と言って、奏汰は缶コーラのフタを開け、それをビールのようにゴクゴク飲んだ。それからピザを一切れ摘む。「背のほうも今は俺のほうが四センチくらい高いんだったかな。仮に兄貴が醬油顔ってやつだとしたら、俺はいわゆる塩系男子ってやつなのかなとは思うけど」
「確かに!でもそれだと先生、暗に身長と顔だけは俺は兄貴に勝ってるって言ってるみたいで、若干嫌味ですよ」
「いやいや。十代の頃なんか兄貴はモテてモテて女性で足を踏み外さないのが不思議なくらいだったもんだよ。俺はどうも、人に言わせるとタラシ系の顔をしてるらしいが、兄貴は人徳の香り漂う品行方正な好青年ってやつだったんだ。俺なんか完全な日陰者だよ。だけどまあ、それで良かったんだろう。結局、兄貴の背中を追って、俺も脳外科医としてはそこそこのところまでやって来れたわけだから」
「そこそこだなんて……先生は本当にとても、立派な方です」
(君みたいな若い子と不倫してるのに?)そう言いかけて、もちろんそんなことは奏汰にも言えない。彼にとって、明日香を今日自分の部屋へ誘ったのは、理由あってのことだったから。
「そういえば、きのうの深夜にあった手術……内頚動脈狭窄症の患者だったんだけどね、器械出しが遠藤さんだった」
自分の心のやましさを誤魔化すために、奏汰はまた話を仕事のほうへ戻した。また、彼らはいつも『デート中なんだから、もう仕事の話はやめよう』と言いつつ、いつでも気がつくと病院に関連する何かの話をしていることが多かったかもしれない。
「どうでした?」
明日香もまた、ローストビーフののったピザにぱくりと齧りつきながらそう聞く。
「すごく良かったよ。俺は大体、手術が終わったあとは、ほなサイナラって感じなんだけどね、あんまり遠藤さんの器械出しがスムーズだったから、手術が終わったあと、彼女と少し話したくらい」
「性格がはっきりスッキリしてる感じの人ですよね、遠藤さんって」明日香は彼女が脳外科の病棟にいた頃のことを思いだして、思わず微笑んだ。「実際、つきあいやすい感じの人でもあるんですよ。近藤さんもそうなんですけど、ズバッと自分の言いたいことをハッキリ言ったあとは、ネチネチ何かお腹の中に残ってるって感じの人じゃないんです。ただ、わたしもすごく厳しくはされました。『介護士の給料の分の仕事くらいはしなさいよね』って言われたり、あとは寝たきりの患者さんのシーツ交換の時に、小さな皺がひとつあるのを見て、『こういうのが褥瘡の原因になるのよ』って言われたり……あとは、『あんたたち介護員の清拭の仕方はなってない』って言われて、一から指導されたり。嫌いな人はみんな『嫌いだ』とか『苦手だ』って言うんですけど、わたしは好きでした。実際、若い看護師さんなんかはよく泣かされたりしたんですけど……でも夜勤の時に一緒になったりすると、ざっくばらんに話す感じで面白い人なんですよね。ある程度仕事が出来るようになったあとは、割と仲良くしてくれるような感じにもなって。まあ、他の人に言わせると、わたしはちょっと珍しいってことだったんですけど。なんでかっていうと、遠藤さん、仕事の出来ない介護士や看護師は、その場にいないかのように無視することが時々あって……ちゃんと名前で呼んだ介護士なんて、わたしくらいじゃないかって」
「そっか。そういえば、遠藤さんに紺野くんを指導してもらえたら……みたいに言ったら、彼女速攻拒否してたよ。彼みたいに『ぼくだって一生懸命がんばってるのに。うじうじ』みたいな看護師は、一緒にいるだけでイライラするから無理だって」
ここで明日香はカルピスをブッと吹きそうになった。
「それは確かに……そうだったでしょうねえ。いえ、ほんと、紺野さん、近藤さんと遠藤さんのふたりが揃ってる時に脳外病棟にいなくてよかったですよ。あと、白石さんと三人いた時に病棟にいたら、紺野さんの繊細な精神ではとても耐えられなかったと思います。あ、紺野さんと言えば、先生……」
ここまで言いかけて、明日香は言い淀んだ。もう彼と彼女とは、つきあいはじめて一年にもなる。だから奏汰にもわかっていた。この微妙な間は『先生にここまで言っていいものかどうか』といった間なのだということは。
「いいから、さっさと言えよ。俺はこう見えて口が堅い。だから明日香の言ったことを、患者の手術中に他の人にべらべらしゃべったりもしないよ」
「そんなことはもちろんわかってますってば!ただこれ、手術室経由の情報なもんですから、ほんとわたしも、噂話以上に何か知ってるってわけでもなくて……」
「ふんふん。それで?」
奏汰はピザの次に、サンドイッチに手をつけながら明日香に先を促した。サンドイッチを専門にしているパン屋が病院の表通りの道を挟んだ向かいにあり――奏汰はそこで色々なサンドイッチを買いこんでいたのだった。
「なんかそのう……紺野さん、白石さんに対して、多大な勘違いをしてるんじゃないかっていう話なんですよね。先月、病棟も全体的に落ち着いてるし、たまたま出勤してきてる介護員の数も多かったので、ちょっと手術室のほうを手伝うってことになったんですよ。そしたら……」
「そしたら、なんだよ。焦らさずに早く言えって」
明日香の反応の中に、手術後に吹きだしていた遠藤看護師の笑いに通じるものがある気がして、奏汰は早く話の続きを聞きたかった。
「そのですね、これは御堂さん経由のお話なので、かなり信憑性高いとは思うんですけど……手術室の麻酔科医の先生なんかはみんな、とっくに白石さんがどういう人かって知ってる上で、それなりに職場上のおつきあいをしてるってことなんですよね。だから、『男であいつのパイオツに目が行く奴なんかいねーよ』みたいな、大体そんな反応らしいんです。あ、ちなみにこれはわたしの言葉じゃないですからね、麻酔科医の寺田先生のお言葉です。でも紺野さん、どうも白石さんの本性にまったく気づかず、『仕事を丁寧に教えてくれる、本当に素晴らしい、人格的にも優れた人だ』みたいに思いこんでるらしくて。だから、看護師の控え室なんかで白石さんのことをちらっとでも当てこすって悪く言ったりすると、突然『あんないい人に何故そんなことを言うんだ』みたいに怒ったらしくて。そのですね、もうみんな紺野さんの性格わかってますから、そのことで気を悪くした人は誰もいないんです。そしたら遠藤さんが寺田先生に、『あんたたち、男同士でちょっと話して、あの女の本性わからせなさいよ』みたいに言ったそうなんですね。まあ、忙しい麻酔科医の先生にしてみたら『なんで俺が』って話だと思うんですけど……このままいったら紺野さん、白石さんの毒牙にかかって酔っ払った時にでも既成事実作られて、結婚せざるをえなくなるんじゃないかって、みんなそのことを一番心配してるらしいんですよ」
ここで、奏汰もまたブッと吹きそうになった。(なるほど。これは遠藤さんが紺野くんの名前を聞いた途端、吹きだしたわけだ)と、今になってよくわかる。
「なるほどなあ。でもその件はたぶん……いずれ解決するんじゃないかな。俺も遠藤さんからチラっと聞いただけだけど、なんか手術室の永井師長が紺野くんと白石さんを離すのに、白石さんをどこの部署に飛ばすかが問題だとかってなんか言ってた気がするな」
「そうなんですよ」と、明日香もフルーツサンドイッチに手を伸ばして笑った。「うちの病院じゃ、白石さんちょっとした有名人なもんだから、どこの病棟でも恐れられてるんです。だから、内科系、外科系、どっちの科の看護師長さんたちも、「うちじゃなくて、別のところにまわしてよ」っていうことになるらしく……でも、白石さんがまだ脳外病棟にいた頃、夜勤で一緒になるとよく自慢してた「まーくん」っていう彼氏がいたと思うんですよね。そう考えたら、そんなに心配しなくてもって思ったり……」
「それはどうかな。だって、白石さんが脳外病棟にいたのは、もう三年も昔の話なんだから、もう別れたあとかもしれないよ。なるほどなあ。まさか、手術室では患者に次ぐ重要人物の準主人公くらいに思ってたのに、医師は案外蚊帳の外に置かれてるわけだな。そうした噂話全般については」
「ふふっ。特に先生はね、正直、他の先生以上に人の悪口とか言いにくいです。先生みたいな高貴な感じの人にチラっと軽蔑の目で見られただけで、大抵の女の人は耐えられませんもの」
「高貴ねえ。こんな四十過ぎのおっさんに対して、何言ってるやら。というか、俺もすっかり院内の噂話に感染しちゃってるな。明日香がそういう面白い話をいつでもしてくれるもんだからさ」
フローツサンドイッチのクリームが明日香の唇の端についているのを見て、奏汰はそれを指ですくってなめた。彼の中ではこれが限界だった。早足に歩いていき、部屋のブラインドを一気に閉めて暗くする。
「明日香……今、いい?」
「えっと……」
もちろん、明日香には奏汰が言っている意味自体はわかっていた。また、彼が必ず自分の部屋へやって来るのも、手術のあった日である場合が多い。奏汰曰く、「俺は『白い巨塔』の財前五郎とは逆なんだろうな。むしろ、手術の前に興奮するんじゃなくて、手術の終わったあとに明日香とは寝たくなる」ということだったから。
「でも、先生、ほら……ここ、一応職場ですし、まずいですよ。いくら誰も来ないって言っても、今しゃべってることだって、誰かドアの前にいて、耳をそば立てたら丸聞こえですもん。それなのに、そんなこと……」
「ああ。そういえば明日香は、職場では恋愛モードにならないんだっけ?でも、一度くらいいいだろ?俺だって、他の時にもここへ明日香のことを呼ぶほど馬鹿じゃないし」
「えっと……」
明日香は、生理の時以外で「今日はその気になれない」といった理由で、奏汰の求めを断ったことはない。けれど、今日は彼と交際するようになって初めて、自分の恋人のことを少し怖いと感じたかもしれない。
奏汰にキスされると、明日香はやはりこの時もまた、彼の要求を拒めなかった。ソファベッドが倒され、奏汰は緑色の術着を脱ぐと、すぐに裸になる。
実はこの時――いや、十一月に、クリスマス・イヴとクリスマス、それに大晦日と元旦は夜勤が入っていると明日香に聞かされた時から、奏汰はこのことを考えていた。クリスマス・イヴとクリスマスは娘の七海のことがあるため、彼としても明日香とは過ごせない。けれど、男の勝手な理屈なのは承知の上で、奏汰は大晦日と元日……いや、この場合正確には元日のみだが、その時だけは彼女と過ごしたいと思っていた。
そして、ふたりがつきあいはじめて一年目となるこの頃……彼は明日香に対して飽きるというでもなく、むしろますます彼女の存在が必要不可欠なものになっていた。きのう、ストーカーが別れた女性をつけまわした挙句殺したという事件の報道を奏汰は見た。以前までは(なんというやつだ)とか(ご両親や他の家族がどんなに悲しむか)といったように思うだけで、そのストーカー男と自分の間に、なんの接点も奏汰は見出せなかった。けれど、今はわかる……明日香が仮に突然「他に好きな人が出来たの」とでも言って別れを切りだしてきたとすれば――自分もまったく同じようになるだろうということが。
「明日香、一年前のこと、覚えてる?」
月一当直の時のために、奏汰は棚の下に毛布と枕をひとつしまいこんでいる。そして、奏汰はその枕をソファベッドに置き、可愛い愛人と白い毛布に一緒に包まれていたというわけだった。
「ええ、もちろん……最初は思いだしただけで恥かしかったけど、今はもう……」
「それ以上のことも色々しちゃったし?」
明日香は「もう!」というように、奏汰の胸のあたりを叩いた。
「冗談だよ。ただ……俺にとってもあの時のことは、本当に特別なことだったんだ。今まで、妻以外の誰かとなんて、道徳的にいけないことだと思ってた。だけど、俺は相手が明日香だったから、今もこうして関係が続いてるんだと思ってる。ずっと、親の敷いたレールの上を走ってきて、医師っていう職業柄からしても、世間の求める規範を外れるべきじゃないって、自分を戒めて生きてきたところがある。でも、そんな俺のことを唯一、明日香だけが解放してくれたんだ」
「そんな……先生。先生、前にわたしに、わたしが先生のこと、少し理想で飾って美化してるって言ってたけど、そんなこと言ったら先生だって……」
奏汰は明日香に背中を向かせると、今度は彼女の背中にキスをしはじめた。明日香にも、感覚として、さっきの一度だけでは彼の中で飢えが十分満たされなかったらしいとわかっていた。それに、今日はいつも以上に奏汰のほうで求め方が激しいということも……。
(えっと、場所がいつもと違うから?でもそんなこと言ったら、ホテルとかも色々行ったし……)
結局、明日香にはよくわからなかった。ただ、奏汰にとってはこのことに特別興奮する何かがあり、どうしてもこうせずにはいられなかったということだけは理解していたのである。
だが、明日香がそう感じていたとおり、奏汰にとってこの<タブーを犯す>ということは重要な意味を持っていた。口では愛人に「海外の医療ドラマみたいでいいだろ?」としか言わなかったとしても、彼は手術室から戻ってくると明日香と寝たくなり、この部長室という神聖な職場内で彼女と寝る想像を何度もした。そして、頭の中にあったことをそのままそっくり、今日初めて行なったというわけなのだ。
体位を変えて二度目のセックスをすると、明日香はそのあとですぐ服を着ようとした。けれど、明日香がパンティを身に着け、ブラジャーのホックを留めようとしていると、その手を奏汰が止める。
「一緒に、風呂に入らないか?すぐそこに、医師専用のバスルームがあるんだ。手術のあとなんかにシャワー浴びるとか、そういうことなんだろうけど、あんまり使ってる奴を見たことはないな。ましてや今日、風呂に入る奴なんて誰もいないよ」
「だ、駄目ですよ、先生っ。ほら、日直の先生もいるとかって……」
流石に明日香もこの時ばかりは奏汰の手を解いて、すぐに他のブラウスやスカートなどを着はじめた。シャワーなら、家に帰ってから浴びればいいとしか思えなかった。
「大森先生は、まだ医師としてはぺーぺーだからね。どう考えても、こっちの部長室が並ぶ区画になんて用があるとは思えない。大丈夫だよ、誰にも見られたりなんかしないから」
「あのっ、先生。わたし、前にも言ったと思うんです。もちろん、先生にはいくらでも誤魔化しようがあるのはわかるんですけど……わたしがこんなところうろついてるのをちらとでも誰かに見られたら、言い訳なんか通用しません」
「べつに、いいじゃないか。俺が清宮くんのことをちょっと部屋に呼んで、患者さんのことを聞いてたってことでも」
ソファの上で腰を抱き寄せられそうになり、明日香はもう一度、断固として拒んだ。今度は少し本気だった。
「先生、先生はおわかりじゃないんです。先生がおっしゃることなら、それはすごく力がありますよ。もし先生がちょっと変なこと言っても、「でも、桐生先生のおっしゃることだから」で、多くの人が納得すると思います。でも、わたしはそうじゃないんです。ほら、たとえば、可愛くて若い看護師さんが入ってきて、先生みたいな人が「おや、今度きた新しい子は可愛いね」って一言いっただけで……もうその瞬間からその看護師さんが遠まわしに意地悪されたりとか、そういうのもわたし、何度も見てきました。しかもそういうのって、表に絶対見えないような形でみんなやりますから……もしわたしが先生とちょっとでも何かあるって嗅ぎつけられたら、たぶんわたし、ここを辞めることになると思います。不倫云々とかじゃないんですよ。そういう種類の女の嫉妬って、先生みたいな方は、たぶんわからないと思いますけど……」
実際、確かに奏汰にはわからなかった。一応、話としてはそうした看護師の嫉妬云々といった噂については、彼も聞いたことはある。けれど、明日香が何故そんなにも人目を恐れるのかは、おしゃべりな看護師たちの噂話を聞きすぎたそのせいなのだろうくらいに思っていたのである。それに、一度や二度一緒にいるところを見られたところで、いくらでも誤魔化しようなどあるし、明日香が一度見られただけでも自分には致命傷だという意味がわからなかったのだ。
「そっか。ごめん。明日香には明日香の、俺にはわからない立場や事情があるよな。じゃあ、俺も着替えるよ。ちょっと待ってて。マンションまで送っていくからさ」
「いえ、今日はわたし……このままひとりで帰ります。先生だって、早く帰らないと奥さまが心配されますよ」
「……ああ」
ぼんやり返事をしながら、(どうして肝心なところでこの娘はこうなんだろうな)と思い、奏汰は溜息が洩れた。明日香はいつでも、今のような激しい情事のあとでさえ、割合奏汰の妻や娘のことを口にしたりする。たとえば、今年のクリスマスのことにしてもそうだった。自分は夜勤業務に就くというのに、「娘さんにはどんなサプライズを用意してるんですか?」と聞いてきたり……。
中途半端な形で明日香が本当に部屋を出ていってしまったため、奏汰は思わず彼女のあとを追った。これまで、奏汰は明日香が本気で怒っているようなところを見たことはない。けれど、今部屋を出ていこうとする時……彼女が少しばかり本気で怒っているように感じたのだ。
そしてこの時、奏汰は結局、自分が求めていたところのものを得た。何故といって、部長室の並ぶ区画と手術室とを隔てる廊下の部分に明日香が足を進めようとしているのを見て――ちょうど、その脇にあるバスルームへ彼女を引っ張りこむことに成功したからだ。
「ちょっと……先生っ!」
「明日香は怒った顔も可愛いよ。だけど、シャワーくらいほんとにいいだろ?」
結局、明日香はこの時も奏汰の言うなりになった。お互い、もう一度裸になり、シャワーを浴び、体を洗いあい――そして、もう一度部長室のほうへ戻る頃には、奏汰がこの背徳の歓びとも言うべきものに興奮しているのだと、明日香にも初めてわかったのである。
「先生みたいに社会的立場のある人がこんなことして……いけないんですよ、ほんとは!」
「ハハハ。言い換えればそれは、いい年したおっさんがってことだろ?それに、明日香わかってる?俺がこんなことまでするからには……もし、君が俺のことでここの病院を去るっていうなら、俺が必ず責任を取るから」
責任とって結婚するから、とまではもちろん奏汰にも言えない。また、こうしたはっきりしない文言というのは、妻子ある男と愛人の間では、お馴染みのものでもあったろう。けれど、奏汰の場合、彼は本気だった。たとえば、妻子がいながら脳外病棟の若い介護士に手を出したことが噂になり、自分のほうこそがこの職場を追われることになったとしても……奏汰は今はそれでも構わないとまで思うようになっていた。むしろ、そこまで追いこまれたほうが――最終的な決断を下すのが速まっていいのではないか、というようにすら……。
「そんな、先生……わたしは………」
「わたしは、何?俺との結婚なんか心底からは望んでないってこと?正直、俺は明日香とこうなってから、ずっとそのことばかり考えてる。妻が俺の浮気に気づいてることもわかってるし、同時に彼女のほうでは何がどうでも俺と別れる気はないから、見て見ぬ振りをしてるっていうこともね。俺に離婚する意志や、明日香と結婚する気持ちがまるでないなら、職場でこんなこと、絶対しないよ。それとも、明日香がさっき少し怒ってるように見えたのは、こういうことか?妻と別れる気もないくせに、愛人を職場のこんな場所に引っ張りこんでセックスするだなんて何考えてるんだっていう、そういうこと?」
奏汰に横からじっと見つめられると、明日香は何かが恥かしくなって顔を伏せた。もうつきあいはじめて一年にもなるのに、明日香は彼と話す時、今でも最初の時のように、奏汰の口許のほくろを見ていることか多い。そして、彼女は彼が眠ってしまったあと、奏汰の長い睫毛や口許のほくろを見ているのが好きだった。その寝顔で見ているだけで、何もかも許せてしまう――だから、彼のことをずるいとも思ってきた。
「そんなふうには……思って、ません。先生には先生の、お立場があって……だから、わたしはなるべく、自分が傷つかないようにって、そう思って……」
ぐすっと鼻をすすって明日香が泣きはじめると、奏汰は自分の愛人のことが可愛くなって、着替えたセーターの胸のあたりに彼女のことを抱きとめた。明日香が泣くところを奏汰が見るのは、これが三度目だろうか。一度目は回復した患者に対する嬉し涙。二度目は、親友の自殺のことを話してくれた時。そして三度目のこの涙については、彼自身に間違いなく責任があった(正確には四度目であり、彼の忘れている一度目の涙についても、間違いなく奏汰に責任があったといっていい)。
「ごめん。ほんとは全部、俺が悪いのに……ただ、俺はきっともう末期なんだと思う。毎日、ここの部長室を出て帰る時に思うのは、明日香のことばっかりだ。それで、ほとんど自動的に君のマンションへ行きたいと思いながらも、家のほうにも帰らなきゃいけないから……自分でも、こういう矛盾は早く解消したほうがいいと思ってる。でも、忙しく医者の仕事をしながら妻とも離婚のことで揉めるっていうことになるとね。精神的にかなり厳しいことになるなってわかってるもんだから……」
奏汰のその言葉を聞くと、明日香もティッシュで目許の涙を拭った。彼がまさか、そこまで自分のために色々考えてくれていたとは、彼女は思ってみたこともなかったのだ。
「いえ、先生。わたし、もう全然平気ですし……ただ、わたしにとって病院って、すごく神聖な場所っていうイメージがあって。ちょうどここの階の上あたりにも病棟がありますよね。それで、どうしても頭の隅にベッドに横たわる患者さんのイメージとか、そういうのが思い浮かんじゃって……」
「そっか。流石にそれは俺も考えたことなかったな。えっと、ここの上っていうと……」
奏汰は病院の案内板を脳内に思いだそうとして、出来なかった。
「確か、心臓外科病棟ですよね。わたしの記憶に間違いがなければCCUだったと思います」
「やれやれ。心臓外科か。そりゃ聞かないほうが良かったかな」
「どうしてですか?」
奏汰は、明日香の顔にいつもの無邪気な笑顔が戻っているのを見て、自分でも優しく微笑んだ。
「だって、そうじゃないか。俺は今の今まで、自分の仕事から解放されてここへ戻ってきた時には、あとはもう明日香に会うことか、患者の治療のあれこれについてとか、そんなことしか考えてない。なのに、自分の真上には今この瞬間も苦しんでいる心臓病の患者がいるんだなんて思ったら……今まで以上に厳粛に仕事せざるをえない」
「ふふっ。そうなんですね。だから、そうした型にはまった真面目な自分を壊したくて、先生はこんなところにわたしを引っ張りこんだっていうことなんですか?」
「そうだよ!あとはただのエロい親父の妄想だ。いつも、俺は仕事が終わったら明日香のことを考えてて、出来ればここで君と寝たいなとすら考えてる。だから一度、自分の頭の中にある妄想を現実にしてみたかったんだ」
この時、明日香は自分から奏汰に抱きつくと、彼の口許のほくろのあたりにキスした。
「ねえ、先生。これ、黙ってようと思ってたんですけど、自分がどんなにエロいかっていうか、女の人の目にエロく見えるか、ご存じないでしょう?わたしも、先生の顔って先生と今みたいな関係になる前までちゃんと見たことありませんでした。もちろん、口許にほくろがあることくらいは気づいてましたけど……でも、病院で医師の桐生先生として会う分には、病院の先生みたいな立派な人にそんなこと思っちゃいけないっていうフィルターがきっとかかっちゃうんでしょうね。それで、ちょっとエロく見えなくなるんだと思います」
「何を言いたい?」
激しいセックスで体力を消耗したため、奏汰はテーブルの上の残りのものに順にがっついた。うま煮やこぶ巻きなど、パック惣菜の上には桜の絵に<新春>と書かれたシールが貼ってある。
「だってわたし……今も先生がごはん食べてる時とか、まともに先生の顔、ちゃんと見られませんもん。わたし、初めてでした。男の人が何かごはんとか食べてて「うっわー。この人、なんてエロい食べ方するんだろう」なんて思ったの」
ここで奏汰は少し咳き込んだ。奏汰は四十を過ぎた今の年になるまで、そんなことは考えてみたことすらない。女性が自分の食事するところを見てあれこれ思うなどということは。
「何言ってる。べつに、普通だろうが。ただ、いい年したおっさんが何かだらしなくメシ食ってるなっていうくらいなもんだ」
「そ・れ・が、先生に限ってはぜーんぜん違うんですよっ。たぶん、男の人が物凄い美人の女の人と食事してて、その口許見ながら「うわー、エロい」って感じるのの、たぶん逆バージョンですよ。きっと今まで先生とつきあった女性はみんなそう思ってると思います。それでね、先生が寝たあと……あーっ、これもバラすのなんか悔しいなあっ。わたし、先生の寝顔を見るのが好きなの。その時も、いつも口許のほくろを見てるの。そしたらね、どうしてかわからないけど、先生が結婚してて奥さんや娘さんがいるとか、そういうことも全部どっか飛んでいってしまうっていうか。で、最後にこう思うのね。「先生ってほーんと、ずるい男ー」みたいに」
「そうだな。確かに俺はずるくて悪い男だ」
もちろん、明日香がどういう種類の意味で自分を「ずるい」と言ったのか、奏汰にはわかっている。だから彼もまた、笑って冗談のようにそう答えていた。
「でも先生、今は道を外した悪い男っていう自分のポジションに満足してらっしゃるんでしょう?」
「まあな。何分、十八も年下の小悪魔みたいな娘が、俺のことを何かと誘惑してそそのかすもんでな」
「あ、わたしのせいですか?もー、ずるいな、先生はほんと。でも、その口許のほくろに免じて、全部許してさしあげます」
そう言って明日香はもう一度奏汰の口許のほくろにキスし、それから自分でも伊達巻きや高級かまぼこなどを食べた。お腹がすいているせいかどうか、どれもとても美味しい。
結局この日、ふたりは夕方の暗くなる時刻まで秘密の時間を過ごし……非常階段をこっそり下りて、それぞれ帰るということになった。
>>続く。