さて、今回の前文はww(次回のサ○゛エさんは、的な・笑)
ええとですね、懸案事項は残っているものの(汗)、今回は手術室の外回り看護師さんについて、アトゥール・ガワンデ先生の『医師は最善を尽くしているか』という本より、一部文章を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>手術室の歴史を思い起こすと、センメルヴェイス後とリスター後の間で大きく変わったことに驚く。
リスター後の手術室では、手洗い尊守率90%で満足する者は一人もいない。医師や看護師のたった一人でも、手を洗わずに手術台の側に立ったことを知ったならば、スタッフ全員が不安におののくだろうし、数日後に患者が感染症を起こしたとしても驚かないだろう。
リスター後、医療は予想を超えた先に進んでいる。滅菌した手袋とガウンを使い、口をマスクで覆い、頭には手術用キャップを被る。患者の皮膚には消毒薬を塗り、滅菌シーツをかぶせる。手術器具はオートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)に通す。熱に耐えられないものは化学薬品で滅菌する。手術室の構造から器具まであらゆるものが滅菌のために昔と変わってしまった。ものだけではたりずに、とうとう「外回り看護師」という役職もつくってしまった。外回り看護師のメインの仕事は術場のスタッフを無菌状態に保つことだけである。
手術室である器具が必要になったとき、そのたびに手術中のスタッフの一人が手術着を脱いで、棚からも器具を取り出し、それを持って戻ってくるときには再度、手洗いと消毒をするというのでは大変である。それで外回り看護師という職種が発明された。
不足しているガーゼや手術器具を倉庫から持ってきたり、電話に受け答えしたり、書類の記入をしたり、必要が生じれば応援を呼んできたりすることが仕事である。
外回り看護師が手術室を出入りするのは、手術が円滑に進むようにするためだけではない。患者に感染症を起こさないためである。彼らのおかげで、どんな手術であっても、無菌状態保持を最優先にして進めることができる。
(『医師は最善を尽くしているか~医療現場の常識を変えた11のエピソード~』アトゥール・ガワンデ著/原井宏明さん訳、みすず書房)
アトゥール・ガワンデ先生の本については、【3】のところでも『コード・ブルー~外科研修医救急コール~』という本で触れたのですが、この二冊の本は本当に超がつくほど面白かったです♪(^^)
それで、このことは第1章の「手洗い」というところで触れられていて……院内の感染症問題がいかに深刻か、ということに関連しての文章なんですけれども、実際本当に「感染症の深刻さ」を病院のスタッフさんたちに徹底させるっていうのは難しいことなんだろうなって思います(^^;)
わたしがその昔、看護助手として働いていた某病院では、MRSAというのがふたつくらいの病室で発生していて、入室と退室時に必ず絶対消毒することや、またその病室から持ち出したもの(使用済みのオムツ類やシーツ類など)は他の物と分けて処理する――ということが徹底していたと思います。
今はノロウイルスの問題などが深刻で、病院のスタッフさんの意識も変わったんじゃないかな……と想像したりするのですが、アトゥール・ガワンデ先生が書かれているとおり、もしなんらかの感染症が病院で発生した場合、誰しもが「わたし以外の誰かが移したに違いない」と考えるっていうの、すごくよくわかるんですよね
でもそうではなく――「わたしが移したのかもしれない。いや、他でもないこのわたしが移したのだ」と意識を変えること、そのように病院のスタッフさんの一人一人が危機意識を持たないことには、院内の感染症問題は決してなくすことは出来ないんだろうな……と、ガワンデ先生のこの本を読んでいて思いました(^^;)
なんにしても、前文にあんまし書くことない気がするので、こうした本で読んだ医療的小ネタ☆について、また何か書いてみようかな~って思います♪
それではまた~!!
不倫小説。-【5】-
この世に出世を望まぬ男はいないというのとほぼ同じ意味合いにおいて、奏汰はこの世界に結婚願望のない女性はいないと思っていた。
明日香とのつきあいが深く長いものになるにつれ……こうした事柄について根が真面目な奏汰は、(このままでいいのだろうか)と思いはじめるようになっていたのである。何故といって、明日香のほうでは時々彼に対し、半分冗談めいたような口調で「先生、だーいすき!」と言うことはあっても、「愛している」とまで口にしたことはない。また、奏汰のほうでももしその言葉を口にするなら、彼女とのこれからのことをよく考えなくてはならないと思っていた。彼にしても軽い気持ちで結婚の約束をすることは出来ない。また、その場合には最低でも妻に離婚を切り出してからだといったように考えていたのである。
「明日香は、大体いつぐらいまでに結婚したいとか、そういうのはないのかい?」
彼女のことを抱きながら、「愛している」ともう言ってしまいたい衝動をその夜も堪え、奏汰はそう聞いていた。けれども、彼の腕の下にいる女性は、彼が思ってもみなかったことを口にしていた。
「そうねえ。先生、きっとわたしとのこと、真面目に考えてくださってるんでしょう?でもね、そんなに難しく考えることないのよ。だってわたし、今まで結婚したいなんて思ったこと、一度もないんだもの」
「えっ!?本当に、一度もかい?」
奏汰が驚いていると、明日香は笑った。
「今だって、仕事も充実してるし、仕事で溜まったストレスなんかは、こうして時々先生が会ってくださることですっかり解消できるでしょう?だから今、わたしとーっても幸せなの。だけどね、自分の幸せが誰かの不幸の上に成り立っているとしたら……そんなのひどい矛盾だものね。先生の奥さま、時々何か言ったりされないの?「あなた、浮気してるんじゃない?」ってズバッと聞くかわりに、それとなく探りを入れる、みたいな感じのことだけど」
「まあ、今のところはね……」
まったく不審に思ってないはずはない――それは奏汰にしても確かなことだった。けれど、妻が何も言わないのをいいことに、彼にしても最近ではかなり大胆な嘘までつくようになっていた。だがいずれ、破局的場面の訪れが来るだろうことは避けられぬであろうし、奏汰としてはその前に明日香の希望を聞いておきたかったのである。
「たぶんね、わたし……先生の奥さまのこと、何も存じあげないけれど、それでもひとつだけはっきりわかってることがあるの。仮に今わたしと先生の奥さまが同じ歳だったとしたら、先生、わたしに対してなんてきっとなんの興味も感じなかったんじゃないかしら。家柄や学歴その他のことを取ってみても、お医者さんの奥さんとしてどこへ出しても恥かしくないっていう人を求めるんだとしたら、わたしなんて本当に全然、お話にもならないような子だもの」
(そんなことないよ)と言いかけて、奏汰は黙りこんだ。明日香がこの話の続きとして、どんなことを言おうとしているのか、先に聞いておきたかったからだ。
「先生、わたし……孤児なんですよ。孤児なんて言っても、父の顔も母の顔も知らないっていうんじゃなく、まず、母がね、小さい頃に今のわたしみたいに不倫の恋をして、家から出ていったの。随分大きくなってから親戚から聞いた話だと――まあ、色々とややこしい事情があったみたいで。母が父以上に好きだった人は、最初から結婚してたのね。で、どんなに愛しあっていても奥さんとは別れられない事情があったらしくて、母は他の人とお見合い結婚することにして。それで、それがわたしのお父さんだったの。でも母がお父さんと結婚したあと、元の不倫関係にあった心から愛してた人がどうにか奥さんと離婚して……お母さんはね、その人と逃げることにしたっていう、そういうこと。お父さんはそのことがあんまりショックで、放心状態で暫く仕事も手につかなかったみたい。その時、確かわたし五歳くらいだったんだけど、お父さんがそんな状態なもので、暫く親戚の家に預けられるっていうことになったの。その後、三か月もしないうちにお父さんは迎えにきてくれたんだけど……たぶん、このあとこんな小さな娘をひとりで育てていく自信がなかったんでしょうね。ある日突然、わたしの手からすり抜けるようにして、いなくなってしまったの」
「それがもしかして……明日香が俺に相応しくないとかって考える理由?」
(この娘には、まだ深い何かがある)というのは、奏汰にしてもずっと感じ続けてきたことではあった。けれどそれが、あまりにも思いもかけないことだったため……彼としてはただ、恋人の華奢な腰を自分のほうに引き寄せるということしか出来なかった。
「うん……もちろんそれもあるけど、わたし、学歴なんて高卒だもの。ほんと、普通に考えたら、先生がまずもって相手になんてしそうもない子だもん。きっとあの時、先生、相当酔ってたんでしょう?もし、先生がいつも通り理性的にものを考えられる感じだったら、絶対今みたいになってないと思うし……」
「確かに酔ってはいたよ。だけど、今だから言うけど、それでも量としてはそんなに大したことはなかったはずなんだ。それに、明日香のこの部屋に君を送り届けるその瞬間まで、(自分にはやましい下心なぞはない)って、自信をもって言える状態でもあった。だけど、男なんて本当に家へ上げるもんじゃないな。この部屋の雰囲気とか、突然の訪問にも関わらず、割と片付いてる感じとか……女性の部屋に特有の匂いとかね。そういうのが全部合わさって、もう少しどうにかすれば理性が勝利するっていうところを、あえて勝たせなかったんだと思う」
「そうだったの?わたし、次の日、箪笥の上にブラジャーとかそんなのが置いてあって、顔から火が出そうなくらい恥かしかった。こんなのを色々、桐生先生に見られたっ、もう生きていけない、うわーんっ!とか思って」
それも性的な刺激になったのは確かだ、とは言わないで、奏汰は明日香の頭のてっぺんにキスした。彼は身長が179センチあり、明日香は160センチだった。抱きあっていてちょうどいいくらいの身長差だと、いつも彼はそう感じている。
「可愛い、明日香。ほんとに……」
奏汰は何より、こんなにも自分の心の癒しとなってくれる彼女のことを、もう決して手放すことは出来ないと感じていた。ただ病院と自宅を往復するだけなら、それはもう桐生奏汰という名のゾンビが習慣的に働いているというそれだけにしか過ぎないように感じられてならない。実をいうと、奏汰は妻との離婚は困難を伴うが、それでも小百合は十分な慰謝料と養育費を保証しさえすれば、逞しく生きていけるタイプの女性だと思っていた。また、娘のことは心底可愛いが、それでも父親というのは時々会うことさえ出来れば、娘の成長をサポートすることは十分可能だろうと考えていたのである。
「だからね、先生……」
奏汰のキスを額や頬や首筋に受けながら、明日香は話を続けた。
「わたし、自分が結婚してるところって、あんまりイメージがわかないの。もちろん、すごい面白い海ドラの結婚シーンとか見た時にはね、「素敵だな~」みたいには思うけど、それもあくまで一時的なものっていうか。まずお母さんが家からいなくなって、次にお父さんが蒸発しちゃったでしょ?お父さんがいなくなったのは七歳の頃なんだけど、わたし、じょうはつってまだ漢字で書けなかったの。それで、親戚のおばさんなんかが「伸博さん、じょうはつしちゃったんですって、じょうはつ」なんて言ってるのを聞くと、なんだかすごく不思議だった。じょうはつっていう言葉の意味が、まだ全然わからなかったから……」
「そっか。それで、そのあとはどうしたの?親戚の誰かの家でお世話になっていたっていうことなのかい?」
明日香が想像していた以上の苦労人だとわかり、奏汰のほうでは彼女のことがますます愛しくなっていた。彼女のほうではこうした自分の過去について瑕疵のように感じ、自分に話すのをためらっていたらしいとわかるだけに、その思いは一層強かったかもしれない。
「んー、まあ、最初はね。でも、あんまり居心地いいって感じじゃなかったから、そのあとは施設にご厄介になるってことになって。そこはね、わたしみたいに突然お父さんとかお母さんが蒸発していなくなっちゃったとか、両親が虐待をするとか、そうした子の多い施設で……かなり古くからあるキリスト教系の慈善施設だったものだから、一応名称には孤児院ってついてるんだけど、実際には本当に天涯孤独の子供っていうのは少なくて、親のどっちかはいるんだけど問題があったり、あとは刑務所に入ってるとか……そういう子ばっかりが集まってたの。で、わたしにはそこに親友が三人くらいいて、その中の子のひとりは孤児院を出た二年後くらいに自殺しちゃった。先生、わたしのこと、若い割に随分本を読む子だな、なんて言ってたけど、そこの本棚にある半分以上は、瑠璃香の残してくれたものなの」
奏汰の位置からでは、顔を反対側に向けなければならなかったが、彼はやはり少しばかり振り返って、床から天井までびっしりと本の詰まっている本棚のほうを見た。おそらく、ざっと見て六百冊くらいは活字の本が詰まっているように思われる。
「瑠璃香はね、わたしよりも、孤児院にいた他の誰より、頭のいい子だった。でも、孤児院をでたあと、バイト先の人間関係なんかに悩んで苦しんで……それで、死ぬことを選んだみたいなの。わたしはね、先生、あの子に比べたら、ずっと頭の軽い馬鹿な子だった。本なんて、漫画の他には軽いエッセイとか、そういうものしか読んだことがないようなタイプのね。瑠璃香にはなりたいものや夢があって、それはたぶん、彼女に両親が揃ってて、それが普通の家庭でさえあったら、十分叶うようなものだった。わたし、瑠璃香が会うたびに暗い顔をしてるってわかってたけど、当時、わたしのほうでは窮屈な孤児院からやっと出られて、生活がすごく楽しかったの。お金のほうはいつもギリギリだったけど、それでも生きてるっていう充実感があった。でも、あの子が自殺したって聞いてからわかったの。本当は、わたしは薄々瑠璃香の苦しみに気づいていながら、そうしたあの子の重い問題につきあうのが嫌で無視したんじゃないかって……だけど、瑠璃香が死んでからわかったの。あの子はわたしの分身みたいなもので、もしあの子がああいう苦しみを負わなかったら、きっとわたしがそうなってたっていうことに……」
胸の上を温かいものが触れて、奏汰は驚いた。奏汰は、明日香が泣いているところを見るのは、これが初めてだった。交通事故で三か月後に奇跡的に意識の戻ってきた患者が――彼女が随分献身的にケアしていた患者が、リハビリに特化した施設へ移るため転院するという時にも、明日香は確かに少し涙をこぼしていた。けれど、それは嬉し涙のようなものであり、いい意味での涙といって良かった。けれど、今……奏汰は初めてこの愛人の心深くに自分の手が届いた気がしていた。(この娘は、普通の娘とは違う)というのは、彼にしても漠然と感じてはいたことだった。そして今、何かが前以上に理解できた気がする。
(つまりは、そういうことか。明日香が普通の介護士や看護師以上に何かと患者に対して熱心なのは、両親に見捨てられた自分に対して優しくするということでもあり、助けられなかった親友のかわりに支えになってあげるということでもあり……そうすることでしか自分の心を救えないという領域がどこかにあるという、そのせいなんだろう)
随分昔のことになるが、奏汰も病院主催のセミナーで聞いたことがある。それは確か、病院職員の燃え尽きシンドロームに関する話だったが、たとえば「何故これほどまでに彼女は患者に熱意を傾けられるのか」といった看護師の中には、小さい頃に親から虐待を受けるなどして、患者に献身的になることによってしかアイデンティティーを保てない人がいる……といったような、そんな話が一部に含まれていたように記憶している。
奏汰はてっきり、明日香は両親から深い愛情を受けて育ったから、今のような天真爛漫で優しい性格になったのだろうとばかり勘違いしていた。けれど今、明日香の心の核心の一部に初めて触れた気がして、少しばかり恥かしかったかもしれない。四十も過ぎているというのに、もしかしたら十八も年下の彼女のほうが、人生経験としてはより深いものを持っているのかもしれないと、そんな気がして。
「その瑠璃香っていう子が自殺したのは、明日香のせいじゃないよ」
(しかもこんな、ありきたりの言葉しか言えないとは……四十一年も生きてきたっていうのに、俺も随分薄っぺらな人間だな)
何かそんなふうにも思い、奏汰は胸が苦しくなった。
「うん。わかってる……だってあの子、瑠璃香は自殺する前に手紙を書いてたんだもの。自分が死ぬのは明日香のせいじゃないし、自分が自殺したってわかったあと、自分を責めるのだけはやめて欲しいって。だけど、あんまり苦しくってつらくって、まずはね、瑠璃香が本当はどんなこと考えてたんだろうって思って、あの子が部屋に残していった本を順番に読むことにしたの。そしたらね、時間はかかったけど少しずつ、心が癒されるのを感じることが出来たの。「この本を読んで、瑠璃香は何をどんなふうに思ったんだろう。わたしはこんなふうに感じたけど、そう言ったら瑠璃香はどう思ったかな」とか……そういうことを考えているうちに、最後には本を読むのがすごく楽しくなって、瑠璃香の残してくれた本の最後の一冊を読み終わる頃には、もう彼女と同じ立派な活字ジャンキーになってたっていうわけ」
明日香にいつもの明るい調子が戻ってきて、奏汰もほっとした。明日香はいつでも、何かちょっとしたことに面白い点やおかしい点を見つけて笑っていることが多い。けれどそれはたぶん……そうした悲しみや苦しみに裏打ちされているからこそ、「ほんの小さなこと」の中にかけがえのない何かを見出すことが出来るということなのだろう。
「先生、だからね」
奏汰が優しく愛人の体を慰めるように撫でていると、明日香はこう結んだ。
「わたし、よくわからないの。わたしのいた孤児院には、家庭に問題のある子がものすごく多くて……自分が結婚しても、そんな家庭しか築けなかったら、結婚しないほうがいいんじゃないかって思ってしまうし。もちろんね、一応わかってはいるのよ。「わたしだけはそんなふうにならない」とか、そんなふうに思って一時的にのぼせた状態で結婚しちゃって、それがうまくいく場合もあれば、本人が思っていた以上に惨憺たる結果になる場合もあるっていうことなんだろうなっていうことは……ねえ、先生。結婚して女が幸せになれる確率って、わたしは50/50くらいじゃないかと思ってるんだけど、先生はどう思う?」
「どうって……俺は男だからね。女性が並べる結婚の条件とか、そんなのは今もよくわからないよ。ただ、なんとなく結婚したっていうだけじゃ、相手がよっほど相性のいい心から愛する相手でもない限り、確かに幸せの度合いは50%もあればいいほうかもしれないね。お互いに努力する必要っていうのが、ある程度はあるのが当たり前じゃないかとも思うし」
「そっかあ。先生、わたしにとっては結婚ってね、仕事のつけ足しみたいなものなの。だからね、わたしにとっては結婚って、女の人的にじゃなく、たぶん男の人的に考えてるところが強いと思う。今みたいに介護の仕事をしてて、精神的に満たされる循環や充実感があって、これ以上のことを求めるのは自分的にちょっと贅沢っていうか……つまり、わたしはお父さんにもお母さんにも捨てられた子だったから、そんなわたしでも誰かの役に立ててるって思えることが一番重要で、その感覚が今もわたしをまともにしてくれてると思うのね。それで、わたしの場合もしこれがなかったら、恋愛に同じものを求めてたと思う。何より、自分のアイデンティティーを保つためには、誰かと愛しあって結婚して子供が出来て、その子たちに心からの愛を注いで……そこまで出来て自分をようやく褒めてあげられる、よし、よかった。わたしは両親に捨てられたけど、こんなにちゃんと子育てしてるっていうことで、ようやく自分のことをまともな人として認めてあげられるみたいな……先生、奥さんともう結婚して十年にもなるんでしょう?もう毎日、お互い慣れっこの普通の生活みたいになってるかもしれないけど、やっぱりそれも、わたしなんかからしたら奇跡ですよ。そのフツーってことがものすごく奇跡的。だから、本当に……家庭を大切にされたほうがいいです。奥さんや娘さんから忙しいパパの時間を奪っちゃってるわたしが言うのもなんですけど」
「うん……だけど俺は、やっぱり君のことも同じくらい大切だと思ってるんだ。身勝手な男の理屈なのはわかってるけど……」
――とりあえずその晩は、奏汰もそこまで言うのがやっとだった。翌日、出勤する明日香を見送ったあと、非番だった奏汰は家のほうへ戻った。妻の様子のほうは今まで通り変化はなく、娘の七海はパパが休日だと知っているため、上機嫌で玄関まで迎えに出てきた。
(家庭を大切に、か)
正直なところをいって、奏汰にはそんなことを口にする明日香の本心がわからなかった。彼はこれまで、本やドラマの中で不倫を扱った手合いのものを随分見てきたが、登場人物の愛人役の女性の中で、相手の男との結婚を望んでいなかった女性はひとりもなかったように記憶している。いても、妻、あるいは妻子のいる男の側の事情を考慮して、「結婚なんて望んでないわ」といった振りをしているというそれだけなのだ。しかもこの、いかにも男の理想のいい女が、やがて少しずつ狂った女の役どころを演じるようになり……といったドラマも、奏汰はよくあるような気がした。そして、その時彼はすでに結婚していたわけだが、「そりゃそうだ。美人の奥さんがいる上に、こんな若い部下にまで手を出すなんて、そんなうまい話あるわけがない」――といったように思ったものだった。
だが、奏汰は明日香の言葉を「だからわたしは先生の都合のいい女でいいのよ」といったようには解釈してなかった。明日香の言葉を何度思いだして考えてみても、「わたしは結婚願望がない」、「生活のほうは十分に満たされている」、「先生は家庭を大切になさってください」……奏汰はやはり、可愛い愛人の考えていることがわからなかった。ただ、手がかりがあるとすれば、明日香が一緒に朝食を食べている時に言った言葉かもしれない。
『先生、わたし、自分がちゃんとひとりの男の人を愛せるってわかっただけで、幸せなんです。一度も恋をしたことがないっていうことじゃなくて、もともとあんまり恋愛にも興味とかなくって……でも、ひとりの人とまともに向きあって愛情を交わしあえないっていうのは、わたしが欠陥のあるまともな人間じゃないからなんじゃないかって時々思うことがあって。でも、先生のことはちゃんとそう思えるっていうことは、わたし、女としても結構まともだったんだなっていう気がして、なんかほっとしたっていうか……』
きのうの夜から明日香は、何度も「まとも」という言葉を使っていたような気がする。そして、「そう確認できただけで、もう十分」といったようなことを。
(俺は、ただボンクラのように明日香の話を聞いてるだけだったけど、今にして思うとあれは、実は結構な愛の告白だったんじゃないか?ある程度心を許した相手にしか話さない生い立ち話をし、間接的な物言いではあるが、『先生のような人をちゃんと愛せてよかった』とか……でも俺は、何故か喉に石が詰まったみたいになって、「俺だって明日香を愛してる」みたいには、言うことが出来なかった。そんなふうに言うのは、なんだかずるいような気がして……)
病院のほうで軽く食事をしてきたということにして、奏汰はこの日もすぐ書斎のほうに閉じこもった。何分、学会の準備のために論文も仕上げなくてはならないし、本当は愛人に会っている暇があるなら、それをこうした時間にあてるべきだということも奏汰にはわかっている。けれど、パソコンで論文を打つ合間合間に時折よぎるのは明日香のことであり、彼女にきのうの夜自分がしたことやさせたこと、彼女の話してくれたことや、その言葉の裏に潜む真意といったことなど……奏汰の思考はやもすれば逸れていきがちだった。
そしてお昼には妻が作ってくれたものをどこか自動的に食べ、少し娘の相手をしてから再び論文に取りかかり、夕方にようやく時間が出来たので、今度はじっくり娘の話を聞いてあげるということが出来た。
「でね、パパ。ナナね、わんわんほしいの。この間、たっくんのママやミキちゃんのママたちなんかとね、ワンちゃんニャンちゃん大集合っていうペットショーを見に行った時にね、みんなあのあとネコちゃんやワンちゃんを買ってもらってたの。たっくんちではね、ちっちゃなかわいいチワワでしょー、ミキちゃんちでは、んーっと、んーっと……」
猫の品種を思いだせなくて、七海がしきりと首をひねっていると、小百合が助け舟をだした。
「アメリカンショートヘアでしょ。わたしも、失敗だったわ。犬や猫が芸を行なうショーだと思ってたんだけど、それにかこつけて犬や猫やうさぎやハムスターなんかを売るっていう催事場だったのよね。あんなの見たら、子供が犬や猫を欲しいって言うのは当然なのに……他の子の家じゃ、何故か割合「いいわよー」なんて感じだったの。だから、パパに聞いてから決めましょうねって言ったんだけど……」
妻の小百合から『わたしは努力して感情を一定に保っています』といった強張りが一時的に消え、奏汰はほっとした。自分が悪いのは間違いないこととはいえ、こうなるとなおいっそう家に帰りたくなくなるという悪循環が生まれるものなのだ。
「そうか。ワンワンねえ。だが、パパは犬の世話なんて全然してやれないし、結局はママが……」
ここで小百合から(犬を飼うなんてありえない)というサインがしきりと送られて来、奏汰は悟った。「犬は飼ってあげたいけど飼えない」という話を、ママはパパに丸投げすることにしたのだということに。
「ナナ、犬は飼ってあげたいけど、今はまだ無理だ。ナナがもっと大きくなって、自分でちゃんと面倒を見れるようになるまではね」
「大きくっていつ?ナナ、今でもちゃんとワンちゃんのお世話できるよ。毎日お散歩にも連れていくし、うんことおしっこの始末もちゃんとする。だから、いいでしょ?パパやママにはぜったい迷惑かけないから!」
大きな瞳を潤ませて懇願されると、奏汰としてもつらかった。だが、無理なものは無理だというのは自明の理である。
「ナナはピアノとバレエの教室にも通ってるし、それ以外に犬の面倒も見るだなんて、ほぼ絶対に無理だよ。そうだな。たとえば、ママの望む高校の志望校に合格したら、そのご褒美としてとか、そういうことなら……」
「もういいよ!パパなんか嫌いっ!!最近、家にいてもずーっと自分の部屋に篭もってるか、ぼんやりしてるかのどっちかなんだもの。パパはもうナナのことなんかどーだっていいんでしょっ」
わーっと泣きながら七海が子供部屋へ駆けていくと、流石に奏汰も狼狽した。明日の朝あたりにでもなれば、きっと機嫌のほうはまたすぐ直るだろうとわかってはいても。
「犬か。犬なんておまえ……」
奏汰が困ったように小百合のほうを見返すと、
「飼えるわけないでしょう」
と、彼女はきっぱり断言した。
「しかも、七海のほしいのはゴールデンレトリバーなのよ。ぜーったい無理。死んでも無理。それにわたし、飼うなら犬より断然猫派だしね。あなただってそうでしょう?」
「あ、ああ……だがまあ、犬だって飼ってしまえば可愛いもんだ」
この時小百合は、娘が言っていたとおり、夫がいつものぼんやりモードに入っているとわかっていた。最近の口癖は「学会が近い。学会が近い。だから論文を早く仕上げないと」とそればっかりだった。対する小百合は(愛人に会ってる時間はあるくせして)と、冷ややかに思うというそれだけだ。
もちろん、唯一仕事をしている時だけは夫も医者としてマトモに業務を行なってはいるのだろう。けれどそれ以外では、愛人にタマを抜かれているとでも言えばいいのか、とにかく家庭で夫はそんなふうにしか見えなかった。
(ふふん。ザマーミロだわ。わたしが「あなたのことなんか大っ嫌い!この浮気者」なんて言っても、この人は大して傷つきやしないだろうけど、七海がそう言ってくれて、ほんとすっきりよ。この人は娘にだけはほんと甘いんだから……)
もし夫のこのほんやりボンクラモードが、本当に病院での多忙な業務、学会が近くて論文の仕上げに追われている――というだけのことであったら、小百合にしても十分許せただろう。さっきだってもっとちゃんと娘にフォローもしてあげた。「パパはお仕事が大変なのよ。そんなパパに嫌いだなんて言っちゃ駄目でしょ!」といったくらいのことは。
けれどこの時も奏汰は、七海が泣きやむのを待って部屋に入っていき、慰めたということの他は、相変わらずぼんやりしていた。どこか自動的に食事をし、「美味しいよ、ママ」と言いながら、その言葉にはまったく真心が感じられず、夕食後はまたすぐに書斎のほうへ閉じこもりきりになった。
七海はまだ若干ふてくされていながらも、「パパー、あとで一緒にプリキュアのDVD見ようよ!」と言い、奏汰のほうでは「わかったよ」と生返事していた。そしてなかなか奏汰が書斎から出てこないと、その前を何度もうろついて「パパー、まだお仕事終わらないのー」と可愛い声で聞いていたものだ。
実をいうと小百合が夫の浮気に気づいたのは、彼が愛人の部屋へ通うようになった極めて初期の頃といっていい。「気になる患者がいるから今日は病院に泊まりこむ」……今までにも何度かなくはなかった。だがそれも、彼が外科部長という役職に就く前の話で、最近ではとんと聞いたことのない言葉だった。けれども小百合は奏汰の言葉や態度に若干の嘘を感じつつも、その理由を黙認した。またさらに、後輩から頼まれて面倒な講演云々といったことを聞いても、(まったくないことではない)と思い、その彼の嘘も容認した。けれどその後、「病院でカルテの整理をしていたら、そのまま部長室で寝てしまった」だの、こちらが彼の嘘を許容しているのをいいことに、夫の嘘はどんどんエスカレートしていった。まるで、どこまでの嘘だったら妻は許してくれるのだろう……と、こちらの忍耐度を試してでもいるかのように。
小百合は夫の携帯を調べたが、証拠は出てこなかった。これは用心深く奏汰が明日香専用といっていい携帯を用意していたからだが、そんなことをしなくてもほどなく彼女にとっての決定的といっていい証拠が出てきた。夫のワイシャツやズボンなどをクリーニングへ出す際に、女の長い髪が一度ならず見つかったのだ。
もしそれが黒髪なら、小百合も大体同じくらいの長さの髪をしているし、そう納得することで、彼女も自分の心を騙せたかもしれない。けれど、その髪の毛はいかにも染めたような茶色というのではなかったが、若干茶色く、小百合自身のものでは絶対ありえなかったのである。
(まさか、飲み屋の女に入れあげてるってわけじゃないでしょうね!?)
実をいうと小百合は、夫が浮気しているとしたら看護師だと、ほぼ確信的にそう信じていた。夫は童顔で、四十一の今も外見は三十四くらいにしか見えない。しかも、切れ長の瞳に白い肌という、いかにも理系にいそうなタイプのハンサムだった。その上、口許にあるあのほくろ……小百合もそうだったが、彼女は今も夫のあれにやられる女性は多いだろうと感じている。つまり、本人はあまり自覚がないらしいのだが、口許が笑んだ時、どうしてもそのほくろのほうに目がいってしまうのだ。そして、このことのうちには、うまく説明できない、この男の言うことならなんでも信じようといったように思える、ある種の魔術的趣きがあるのだった。
(そうよ。だからわたしは今の今まで……夫か浮気をしてないことを神に感謝すらしてきたのよ。なんでって、夫にのぼせあがって当直の時に仮眠室までやって来る若い看護師なんか、今まで五六人いたって不思議はないって思ったからだし、ありもしない浮気の妄想で苦しんだことさえある。もっとも夫のほうでは、「そんなの、海外の医療ドラマの見すぎだよ」なんて言ってまるきりとりあいもしなかったわけだけど……)
その夫が、最近ではすっかり愛人らしき女に骨抜きにされ、家ではゾンビとして夫の役割を演じているといったような始末――小百合は「こんなこと、もう我慢できない」と思いながらも、まだ限界の時は来ていないと思い、どうにか毎日夫と接する苦行に耐えていた。
まず、小百合が時折夫の衣服に付着しているうっすらと茶色い髪を見て思ったのは、(これは何も知らなかった、見なかったという振りをすべきだ)ということだったかもしれない。こういう種類の髪の女ということは、おそらく軽い遊び相手に違いないと小百合は思ったからだ。もちろん、これは彼女自身の誤解と偏見に満ちた判断だっただろうが、飲み屋の女、あるいは病院の髪が茶色い尻軽女と夫が何かをきっかけにうっかり寝てしまったということなら……これは自分の中でも「なかったこと」にするしかないと思っていた。
けれど、夫の奏汰はもともと根が真面目な人間だった。それであればこそ、これまでにも浮気のチャンスはあっただろうに、誰かとそのような関係を持つでもなく妻に不信感ひとつ、疑いひとつ持たせないようないい夫であり続けてくれたのだ。ところが、その夫がとうとう浮気の誘惑に負けたということは――もしやそれは、短い期間の火遊び以上の何かを意味しているのかもしれないと、このごろになってようやく小百合は気づいていたかもしれない。
(わたしは夫を愛しているし、娘にも彼は絶対に必要な存在だもの。離婚なんて死んでも絶対するつもりはない。じゃあ、この着地点から考えた場合、わたしはどう振るまうのが一番賢いということになる?)
この翌日、ゾンビのような心ここにあらずの夫を病院へ送りだし、娘が小学校へ行くのを見送ったあと、小百合はがらんとしたように感じられる家の中で泣いた。夫の浮気が発覚するまでは、主婦の仕事を虚しいとまで感じたことはない。それなのに、彼女は(浮気している夫の)クリーニングを出し、(浮気している夫の)食事を作り、(浮気している夫の)部屋の掃除をし……何をするにもいつでもこの、(浮気している夫の)と頭に言葉のつく今の生活から、小百合は一日も早く解放されたかった。
最近では本当に、心ここにあらずのゾンビ夫の所作や仕種や態度の小さな点についてまで、本当にイライラして仕方がなかった。時々、「あ゛ーっもう、あなた浮気してるんでしょおっ!?」と発作的に叫びだしたくなることすらあるほどだ。
(でも、そこまでやったら全部が壊れるわ……最後の最後まで、わたしは被害者、こんなに頑張って毎日主婦の仕事して、子供の面倒もきちんと見てるのに、どうしてあなたは浮気なんてしたのよっ!?って正当に責められる側の立場に立っていなきゃ。それがせめてもの妻としての矜持ってものだもの……)
もちろん、世間には夫の浮気及び浮気の疑いが発覚した時点で夫に対しプロレス技(これは精神的なものも含まれる)をかける勇敢な細君もいらっしゃることだろう。けれど、小百合が夫に折を見て仕掛けようとしているのは、この場合かなり高度で難度の高い精神的なプロレス技だったと言えよう。
というのも、たとえば、興信所を使って夫の行動を徹底的に洗ってもらい、言い逃れできない浮気の証拠を突きつけるというのでは駄目なのだ。小百合の夫の奏汰は何かそうした種類の潔癖さを持っており、「そんなところに頼んで俺を調べたのか」と、むしろ逆ギレされる可能性が高い。「だったら正面きって、なんでも俺に聞いたらよかっただろう」と、向こうが悪いのに何故かこちらより精神的上位の立場にこの方法では彼を上げるということになる。ではどうすればいいのか?とにかく自分は耐える妻というのを最後まで演じきり、浮気に気づいているけど無視してあげてる心優しい妻の元へと、必ず彼は帰ってくるはずだと、信じて待つしかないということだった。
(そうすれば、きっとあの人もいつかは目が覚めて……自分の愚かな過ちを悔い、そのあとはずっと、わたしと七海のことだけ、大切にしてくれるはずだもの)
けれど、現状小百合にとって問題なのは、結婚して以来かつてない苛立ちを日々夫に感じているということと、そのイライラする感情に競り勝ちながら、いつも通りの主婦の仕事をこなさなくてはならないということだった。おそらく、彼女の夫の職業が医者ではなく、たとえば証券マンその他、一般のサラリーマンだったとしたら、自分はとっくにぶち切れていたのは間違いないと小百合は思っている。けれど、医者、という夫の人命に関わる誇り高い仕事のことを思うと、小百合はどうにかギリギリ理性を保つことが出来た。つまり、(腹は立つけど、でもこの人が仕事に支障をきたさない程度に怒りのほうは小出しにしなきゃならない)という、これはそうしたことだった。いくら本人が悪いとはいえ、変に後を引く喧嘩の仕方をしてしまうと、夫が手術ミスや誤診をしないとも限らない……そう思うと、小百合はどうにか『愛人のことはともかくして、この人が仕事で毎日大変なのは間違いないことなんだから』と、自分の感情を抑えることが出来たのである。
けれどこの日、何故だかとうとう小百合は散らかっている部屋を見回して、何もする気が起きなくなった。いつもなら、洗濯機をまわしながら掃除機をかけ、次に食事の仕度をしたり、娘のおやつの用意をしたり……それに、今は七海のバレエの発表会が近いので、衣装のほうを縫っている途中でもあった。
小百合はまず、夫の浮気を疑いはじめてから何度開いたか知れない電話帳をこの時も開いた。『探偵業~興信所』の欄のあたりだ。そこには「夫の素行調査」だの「浮気の証拠掴みます!」といった言葉が並び、「信用ナンバーワン!」、「離婚裁判の証拠写真、自信あり!」などなど……小百合はこのページを開くたびに、自分が夫の浮気に悩む、そこらへんにいくらでもいる安っぽい女に成り下がった気がして情けなくなったものだ。
もちろん、彼女には夫と離婚するつもりはないのだから、離婚裁判のための証拠写真などは必要なく、探偵社に夫のことを尾行してもらい、何日の何時何分頃からいついつまで夫は愛人宅で過ごした――といったことも詳細に知りたいわけではない。小百合の知りたいのは、相手の女の容貌や職業や年齢、また愛人の女性の経歴などだった。そうすれば、おそらく夫がどの程度その女に入れあげているかがわかるだろうと思ったのである。
でも結局、この日も小百合は重い溜息をひとつ着いて、電話帳を閉じていた。(こんなことをするだなんて、わたしのプライドが許さない)という思いがギリギリのところで勝ったからでもあり、かといって家事仕事をする気にもなれず、彼女はこの日、ぼりぼり煎餅を食べながら、映画と海外ドラマを見るということにした。
一本目は、小百合のお気に入りで、夫の浮気を疑うようになってから、この映画のあるシーンを小百合は何度も繰り返しピンポイントで見てばかりいる。
『あなたたち、よくもそんなことが出来るわね』
主人公の女性は、画家の夫が多情で、女にモテることはよくわかっていた。けれど、その夫が自分の妹と浮気している場面を――それも、自分たち夫婦の寝室で――見た瞬間、怒りをこめてこの言葉をつぶやくのだ。
(本当にそうだわ。『よくもあなたたち、そんなことが出来るわね』……まったく、ゲス不倫とはよく言ったものだわ。わたしも夫にまったく同じように言ってやりたい)
小百合は映画のお気に入りシーンを見て少しばかりスッとすると、次は別の海外ドラマの、これも気に入りのシーンを見た。こちらのほうは見るのに先ほどの映画よりも少々時間がかかる。広告会社に勤める主人公の上司――精力的に仕事をこなし、人にも取り入るのがうまいタイプ――は、この種のデキる男にありがちなことだが、結婚後も機会さえあれば浮気を何度となく繰り返していた。ところがそんなある日、心臓発作を起こして生死の境をさまよい、そんな彼のことを妻が献身的に支える。そして彼のほうでも、妻に今までの自分の行状を詫び、彼女と結婚していかに良かったか、それなのに自分はどれほど悪い夫だったかと悔い改めの言葉を述べてあやまるのである……ところが、再び健康を回復してゴルフにも行けるようになると、彼は部下の主人公にしゃあしゃあとこう語るのだった。「前にも言ったと思うがね、妻とは離婚して、愛人と結婚することにしたよ」――このドラマのどこが小百合の気に入りかというと、彼女の夫はこの本物のゲスである男よりは、遥かにマシだという点だった。
そして、このゲス男が五十も過ぎてから、自分の年の半分くらいしかない若い娘と結婚式を挙げるというところで……小百合はDVDの電源を切った。
(やれやれ。こんなことしてる暇ないわ)
小百合はそう思い、洗濯機をまわすと、部屋の掃除を開始した。そして、彼女が娘のバレエの発表会の衣装にミシンをかけていた時――電話が鳴ったのだった。
「ああ、姉さん?どうしたの?」
小百合の声は意外にも明るい。というのも、家柄・職業・容貌など、自分が理想とする桐生奏汰という男と結婚して以来、もう彼女はこの姉・瑤子に対し、なんの脅威も感じていなかったからである。
むしろ、最近では夫の浮気の愚痴を聞いてもらっているくらいだった。というのも、この姉の瑤子は現在、画家兼彫刻家の夫と離婚調停中で、実家のほうへ帰ってきているのである。離婚の原因は夫の浮気であり、何分彼の場合はスケールが違う。同時に三~四人の女性と愛しあうことも普通だというから、いくら美大卒で奔放な性格をした姉でも、「わたしの我慢にも限界があるわよ」というわけだった。
小百合はプライドが高いだけでなく、仲のいい友達やママ友らにも「うちの夫は浮気だけは心配ないわ」と何度となく言っていたことがあるだけに……誰にもこのことを相談できなかった。けれど、その点姉なら、彼女はこのことで現在の小百合以上の思いをしているわけだから、話しても不思議と惨めさを感じずに済んだ。
『ほら、あんた、この間奏汰さんの浮気のことで随分悩んでるみたいだったじゃない?だから、その後どうしたかと思って』
「まあ、相変わらずよ」娘が学校から帰ってくるまで、あと一時間はあると思い、小百合はリビングのソファにどっかと座りこむことにした。「毎日、ゾンビみたいにぐてーっとして帰ってくるってだけのことよ。仕事のことでゾンビみたいになってるっていうんならともかく、愛人の家にいく元気はあるんですからね。まったく、毎日イライラしてしょうがないわよ」
『もちろん、小百合の気持ちはわかるわよ。だけど、前にも言ったでしょ?あんたのケースはわたしの場合のと比べたら、まだ全然可愛いほうだと思って、耐えなきゃダメだってば。第一、あんな条件の揃ったいい人、そう滅多にいるわけないんだから、見て見ぬ振りをして最後まで耐え抜けば、正妻であるあんたの勝ちってことよ。そう思ってとにかくじっと忍耐するの』
「まーねー。第一わたし、離婚する気だけは絶対ないんだもの。だけど、一体いつまで今みたいな状態が続くのかと思ったら、ほんとうんざりしちゃう。だって、世の中には愛人専門の女だっているっていうじゃない?べつに結婚なんかは望んでないけど、高スペックのいい男と恋愛するのが好きみたいな女。そんな女が相手だったら、夫のこの二重生活はもしかしてずっと続くんじゃないかって気がして……そんなこんなで気が滅入ってしょうがないのよ」
小百合はこの時不思議と、電話の向こうで瑤子が妙に共感的にうんうん頷いているのがわかっていた。
『だけど、わたしの夫なんて、いくら広いったって、同じ家の中でフツーにモデルといちゃついたり、その種の行為に平気で及ぶんですからね。で、それもこれも聖なる芸術のエクスタシーのためだとかなんとか……なーにがっ、聖なる芸術のエクスタシーよねえ。聞いて呆れるったら。でも、奏汰さんのお父さんからうちの父さんに電話が来て、例の離婚訴訟のほうは穏便に済ませて欲しいなんて言われたっていうじゃない?だからわたし、弁護士同席の上で、あいつと話しあいの場を持つことにしたのよ。かくかくしかじかというわけだから、あんたが離婚に応じてくれさえすれば、全然関係ない弟夫婦に迷惑かからなくて済むのよって。そしたらあいつも、最初の頭にカッと血の上ったのが今は少し冷めたんでしょうね。『自分も悪かった。だが、離婚するつもりはないというわしの主張は変わらん。だが、穏便にこのまま示談の方向で話を進めよう』ですって」
「そう。なんだかむしろ、こっちのほうこそ悪いわね、姉さん。うちの旦那は桐生の家のことに関してはとんと無頓着なんだけど……向こうは桐生っていうブランドを背負った医療一族じゃない?だから、その一門に傷のつくことはどうたらっていう、ようするにそういうことらしいのよ」
奏汰の父親は高名な脳外科医で、彼の祖父も曽祖父も外科医という家系だった。またそれだけでなく、親戚には桐生製薬など、とにかく医療関係に属する者が桐生家には多く、今回の姉のマスコミ沙汰は世間的に聞こえが悪いという、奏汰の父が言いたかったのはそういうことのようだった。
「まあね。うちの父さん、桐生製薬の販売部の係長だったのが、あんたが奏汰さんと結婚してから部長にまでなったんだものねえ。わたしとしてもそのあたりのことは考えが至らなくて悪かったと思ってるのよ」
画家としてだけでなく、彫刻家としても名をなしている鷹橋陽一郎は、今回の離婚沙汰がマスコミに取り上げられるようになると、ワイドショーのインタビュアーに対し、かなり奇妙なことを口走っていた。「あれは最高の名器だ。だから妻にしたんだ」とか、「わしのことを破廉恥だのセックス病だのいう奴は、そもそも自分だって一皮剥けばそんなものだということがわかってない」、「過去の妻や愛人がわしの性生活を暴露したことについてどう思うかだって?かつてはわしの上や下でよがっておった女どもが可愛く囀っておるとしか、思ってはおらんぞ」、「わしは絶対離婚なんぞせん。君らも、瑤子に会ったらそう伝えておいてくれ」などなど……もちろんマスコミは鷹橋陽一郎のこうした面白発言にすぐに飛びついたというわけだった。
そして、氏が過去に何人の女性と関係を持ち、かつて彼の愛人だった女性が日本を代表する画家であり彫刻家である彼についてどう語っているか、また氏の性生活のことなどについては、随分詳細に記事としてまとめられていたといっていい。また、瑤子自身についても、彼女の経歴やこれまでつきあった何人もの恋人たちがなんと言っているか……こちらもまた、ベッドサイドにまつわる寝物語について、かなり赤裸々な証言が飛び出していたと言える。「別れたあとは半年くらい立ち直れませんでしたね」、「確かに、向こうのほうは最高でしたよ。彼女はとにかく、普通の女性とは……何かが違うんです。テクニックだけじゃなく、色々なことを知っていましたし。僕も、彼女とつきあわなければ絶対知らなかったようなプレイに随分のめりこみました」、「彼女は男がAVで見るファンタジーをそのまま実現してくれる、女神のような女性だったんですよ」――などなど。
正直なところをいってこれまで、この、よくいえば「恋多き女」、悪くいえば「尻軽女」(別の言い方をすればヤリマンともいう)という姉のことを、小百合は軽蔑してきた。「中学生の時に初めて彼が出来てから、一度も男を途絶えさせたことはない」と豪語するこの姉のことが、小百合は小さい頃からはっきり言って嫌いだった。そこでずっと、姉が裏で悔しがるような男と絶対に結婚してやる、と小百合は心に誓ってきたわけだが……まさか、四十も過ぎた今になって、姉の瑤子となんのわだかまりもなく話せるような日がくるなどとは、これまで思ってみたこともなかったのである。
「それで、姉さんのほうは離婚に向けて、うまくいきそうなの?」
『どうかしらね。向こうはとにかく離婚だけはしないの一点ばりだし……今回のスキャンダルみたいな騒ぎも、本人はなんとも思ってやしないみたいよ。むしろ、海外なんかじゃ芸術家っていうのはこのくらいじゃなきゃいかんっていう感じで、この間も大きなオークションで、あの人の作品はかなりの高額で取引されたらしいわ』
「へえ……まあ、ひとつの作品が最低でも一千万を下ることはないって言われるくらいの人だものね。でも、離婚するとなったら姉さんとしては結構な額をせしめたいわけでしょう?」
『そりゃあね。だって、あいつとの結婚生活で一方的に精神的苦痛を受けたのはこっちなんですもの。そりゃ、女性関係が派手なのは知ってたし、わたしと結婚したからってモデルの何人かとはやるだろうなくらいの覚悟はわたしにもあったわ。だけど、性に関して奔放なわたしをして、あいつにはついていけないって思ったっていう、これはそういう話よ』
ここで小百合は、大声で笑いたいのをどうにか堪えた。(姉さんがそう太鼓判を押すってことは、鷹橋陽一郎っていうのは本物のセックスモンスターってことじゃないの!)と言ってやりたいが、もちろんそんな科白、口に出してはとても言えない。
「そうなの。じゃあ、確かにわたしも、夫がそこまでクレイジーな浮気野郎じゃないっていうことを、むしろ感謝しなきゃいけないかもしれないわね」
『あのあと、奏汰さんのお父さんからうちの父さんに電話がかかってきたって聞いて……ふと思ったんだけど、小百合にはそういう切り札もあるんじゃないの?ほら、たとえば義理のお母さんのほうにそれとなく夫の浮気をほのめかして、向こうから注意してもらうとか……』
「そんなの全然駄目よ。あの人はね、わたしがなんの相談もなく向こうに何か核心的なことを言ったって知ったら、次の日には愛人の家に行って、二度と帰ってこなくなるっていう、そういう人よ。だからね、わたしとしては今、どうやってそんな夫から言質をとってやろうかと思って算段してるところ。だって、そうでしょう?悪いのは百パーセント向こうなのに、あの人はね、やり方を間違えると『確かに悪いのは俺だ。だが、君がこんなやり方をする女とは思わなかったぞ』みたいに逆ギレして高圧的になるに決まってるんだもの。まるで、そのくらいの稼ぎはして、あたしにも七海にも、とりあえず不自由はさせてないはずだぞ、と言わんばかりにね」
『…………………』
妹が(百パーセント向こうが悪い)と言うのを聞いて、瑤子は一度黙りこんだ。正直なところを言って、一組の夫婦がいて、どちらか一方が百パーセント悪いということだけはないと、瑤子はそう思っている。そして、自分で自分の性格について「厚かましくて傲慢」と自覚している彼女であってさえ――今回の離婚騒ぎに関して、百パーセント夫が悪いといったようにだけは思っていないのだった。
『まあ、わたしとあの人の間に子供はいないけど……あんたには可愛い七海ちゃんがいるものね。子はかすがいとはよく言ったものよ。わたしが思うには、とにかく七海ちゃんのためにも、奏汰さんみたいな人は離婚するってことだけは考えないんじゃない?』
「まあね。っていうかあの人、離婚するなんて言ったら、例によってお父さんやお母さんなんかがうるさいじゃない?これでもしわたしのほうが不貞を働いたってことだったら、『そんな女とは離婚しろ』ってむしろ奨励してもらえるにしても……もちろん、ないとは思うんだけどね、それでももしあの人が離婚のリでも口にしようもんなら、それこそ伝家の宝刀とばかり、あの人の実家にしでも電話しようと思ってるわ」
――このあと、小百合は姉の瑤子と娘が学校から帰ってくるギリギリまで話をし……電話を切ったあとは、心が少しばかり整理されてスッキリしていることに気づいた。
(まさか、あの姉さんがわたしにとっての良き相談相手になる日がやって来るだなんてね)
そんなことを思いつつ、小百合はバルコニーに通じる窓を開けて、空気の入れ替えをした。バルコニーから下を見下ろすと、目の前に公園があり、そこの樹木がうっすら紅葉しているのが見える。去年、小百合は夫や娘と一緒に近くの山まで紅葉狩りに行った。けれど、今の夫にはそんな話をしても(心ここにあらず)とばかり、「そうだっけな」とでもぼんやり話すだけだろう。
(姉さんは知らないでしょうけど……あの人に見知らぬ女の愛人がいても、わたしにはそれでもまだ最悪中の最悪っていうところまではいってないのよ。どうしてって、姉さん、あなたはね、それが仮に妹の旦那でも、自分の気に入ったいい男となったら、見境なく寝るタイプの女だからよ。わたしにとって最悪のシナリオは、うちの寝室でわたしと七海の留守中にこっそりあの人と姉さんが寝てるところを発見して……『よくもあなたたち、そんなことが出来るわね』って唇を噛みしめながら言わなきゃならないってことだもの)
小百合はそんな奇妙な慰めを見出して、この日はどうにか感情的苦境を乗り越えた。何より、こうした大人の汚い世界のあれこれをまだ知らない七海のことを見ていると……そうしたすべてからこの可愛い娘のことを母である自分が守ってあげなくてはという気持ちが芽生え――その日の午後からは彼女は、久しぶりにすっかり気持ちを切り替えて、優しい母親として過ごすことが出来たのである。
>>続く。