(※竹宮惠子先生の漫画『アンドロメダ・ストーリーズ』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
さて、今回は寄り道せずになるべくちゃんとした(?)感想をと思います(^^;)
前回【1】のほうで、物語の核心に当たる部分を先に書いてしまったのですが、一応順を追って簡単にそこへ至るまでのストーリーについて、なるべく簡潔にまとめたいと思います
舞台は、アンドロメダ星雲の中の星のひとつ、惑星アストゥリアス。その中にあるコスモラリア帝国に、アヨドーヤ国の王女リリアが嫁ぐところから物語は始まります。そして、コスモラリア帝国の王イタカとリリアの間に、双子の子供ジムサとアフルが誕生します。
コスモラリアでは、双子は凶兆とされていることから、ひとりは乳母の手に託され、さらには乳母の手から剣闘士バルガの手へ渡され、バルガは訳あって娼婦の女性に双子の片割れを預けるということになります。
ところがこの頃すでに、コスモラリア帝国は墜落してきた隕石から発生した、機械コウモリや機械昆虫などが入りこみ、国の中枢である城のほうはこうした<コンピューターシステム>の手に落ちていました。元は優しかったイタカ王もすっかり人が変わったようになり、妻のリリアもそのことに気づき恐れています。
不思議なことですが、リリアはこの機械昆虫にやられませんでした。それは彼女の持つアヨドーヤ国の血筋が関係しています。前回書いた老師が、滅んだミュラトから今度はその生き残りとともにアストゥリアスへやって来て、王家の血筋にミュラトの人間を送り込むことに成功したのでした(医師として功労のあった人物が、アヨドーヤ王国の姫と結婚した)。
そして、イタカ王とリリアの双子の子供たちは、そこから数えて八代目となり、そこが血としてもっとも濃くなる……という、そういうことなようです。イタカ王も、コスモラリアの政治を司る政治家も軍人もみな、機械昆虫に支配されてしまい、その惨状を見たアヨドーヤ国の王子であり、リリアの兄でもあるミランは、妹とその赤ん坊を連れて逃亡します。
この機械生命体に追われる逃亡中、リリアの兄ミランは、海中で機械魚に食べられて死んだのかと思いましたが、乗船した船ごとマザー・マシンに拘束されたということのようです(ウィキ調べ☆笑)。一方、サイボーグ戦士イルに助けられたリリアと超能力を持つ赤ん坊ジムサは砂漠へ身を隠して生き延びるということになるのでした……。
このあたりから2巻の内容となり、リリアの子供のジムサは随分大きくなっています(たぶん14歳とか、そのくらい?)。老師は、ジムサをミュラトの生き残りの王としようとしますが、その時、世界中の隠れ基地にいる人々の祝賀に沸く通信を、コスモラリアに本拠地のある例のコンピューターシステムは傍受していたのでしょう。彼らはうまく隠れて通信していたつもりでしたが、その後これらの隠れ基地のすべてが敵の攻撃にあって殲滅されてしまいます。
その惨状を順に見てまわり、愕然とする老師とジムサでしたが、そんな中、グローヴ星から1万年も昔にこの惑星へやって来たという2台のロボット、アークとベスをジムサは救います。彼らの持つ宇宙船は大きな助けになりそうでしたが、老師はこれまでの苦い経験から「コンピューターなぞ信頼できない」と、ジムサとの間で意見が対立。結果、ふたりの関係は決裂してしまいます。
と、同時にジムサの他にもうひとり逃れた双子の弟王子がいると知った老師は、そちらのアフル王子こそ、運命の選んだ王かもしれない考え、僅かな生き残りの人々とともに、今度はそちらへ向かいます。
ところがこの王子、実は女の子で、ずっとそのことを隠して薄汚い格好をして今の今まで男として周囲の人間すらも騙して生きてきたのでした。ジムサにもアフルにも超能力があるのですが、それはふたりが心を合わせる時、もっとも強い力で現れます。岩をも砕くその念動力によって、果たして機械生命に食い尽くされつつある惑星を救えるかどうかはわかりませんが、アフル王子がいればきっとなんとなる……!といったように、人々は彼に期待を寄せるようになっていきます。
とはいえ、コンピューターシステムとの戦いは絶望的なものでした。最初はコスモラリアからはじまった機械化は、すでに惑星の70%にも達し、物語の最後のほうでは90%にもなっている残り10%に人類はどうにかして住みついている……といった状態です。また、ジムサは以前、コスモラリアのかつての首都で、父親のイタカやリリアの兄ミランに、リリアとともに再会していますが、彼らは肉体と精神(心・魂)を分離された形でカプセル内で眠っており――そのようにして数千人の人々が幸福で安楽な、夢のような理想郷に生きていたのでした。のちにジムサたちの母、リリアもまた、彼らの仲間に加わりたいとの誘惑に屈し、迎えにきたイタカ王についていってしまいます。
美しい母のリリアと、妹のアフルを守ることだけが生きる意味、生きる使命と信じるジムサでしたが、次にもし母と会えたとしても、それは元の母親ではありません。こうして彼は、自分にはもう妹のアフルしか残されていないと思い、彼女のことを自分の命にかえても守り抜こうとします。
こうした中で、次第に血の繋がった双子の兄妹でありながら、愛しあうようになるふたり……けれど、運命は残酷にして非情でした。老師は、惑星から離れた場所に宇宙船を隠しており、最後はその月ほどもある自分の宇宙船を、コスモラリアにある敵の中枢へぶつけることで――この惑星もろとも、自分の生みだした狂ったコンピューターシステムを葬り去ろうとします。また、こうでもしなければ、どのみちこの星の人間たちも滅んでしまうわけですし、老師としては敵との相打ちを狙ったということなのでしょう。ですが、わたしがあとからウィキを読んでみたところによると……この時マザー・マシンの中枢部はこの老師の攻撃さえもかわし、宇宙へ逃れたということです(漫画を読む分にはそのあたりがはっきりしないように思ったので、わたしは自分の願望も含め、この時マザー・マシンは老師の宇宙船にぶっ潰されたと信じたかったのですが、残念ながらそういうことのようです)。
当然、月ほどもある宇宙船がぶつかってきて、惑星自体、平穏無事であるわけがありません。アストゥリアスはすでに人が住めない状態になっているだけでなく、人間自身も敵の攻撃によりそのほとんどが滅び去りました(サイボーグ戦士であるイルも、こうした最後の戦いの中で死力を尽くし、亡くなったものと思われます)。
一方、1万年前にグローヴからアストゥリアスへやって来たというアークとベスが操縦する宇宙船によって、ジムサとアフルは脱出し、他に人の住めそうな惑星へ行こうとしますが、そこへ辿り着くまでの間、ジムサとアフルも生きているかどうかわかりません(老師が探査できた範囲内でも、生命体のいる惑星は周囲にもはやひとつも残されていないということでした)。結局、ふたりは愛しあったままコールドスリープした状態で、そのまま朽ち果てた……ということになるようです。また、これもウィキを見てわかったことなのですが、最後、無人の惑星にジムサとアフルが辿り着いたからこそ――そこから微生物が発生し、その惑星には生命が芽生えることになり、そこから進化の長い物語が再びはじまるという、そうしたことのようでした。
でも、マザー・マシンが宇宙に逃れたのであれば、この惑星でも文明が築かれた頃、また同じことが繰り返されるのではないか……という、気の狂いそうなほどの時の流れと宇宙的恐怖、そして何よりジムサとアフルの深く心に残る愛の物語によって、『アンドロメダ・ストーリーズ』は幕を閉じる、ということになります。
―【完】―
壮大すぎて、気の遠くなるような物語です(^^;)。
『百億の昼と千億の夜』を読んだ時にも思いましたが、原作者である光瀬龍先生が「時の支配者」の異名を取っているというのも、「なるほど」という感じで、すごく頷けます。
これはあくまで個人的なことですが、『アンドロメダ・ストーリーズ』を読んでわたしが一番「良かった」と思ったのが実は、「人間ってほんとにチリにすぎないんだな~」と宇宙的実感(?)をもって感じることが出来たことでしょうか(´・ω・`)。
確かに人間、大きな海を前にすれば、「人間なんてちっぽけなものだ」と思ったり、大きな山に登ってみれば、己の人間存在としての矮小さを感じたりもしますでも、光瀬先生の原作はそもそもそんなこととも愕然とするまでにスケールが違いすぎる……そして、おそらく多くの方が「光瀬龍にやられた」と感じるのが、そうした点なのではないかと勝手ながら想像します。
なんと言いますか、わたしの場合特に、老師の宇宙船がアランシャンのマザー・マシン目がけてゴシャッ☆と突っ込んでいった瞬間のことでした。わたしの中の心というか脳の中の煩悩が、その瞬間ゴシャッ☆と同じように潰された感じがしたんですよね(^^;)
煩悩なんて言っても、ほんっっと日常生活の小さなくだらないことにイライラするとか、そんな程度のことではあるんですよ(笑)。でもほんと、人間なんて宇宙の広大な営みに比べれば、チリに過ぎない……ということが強く実感されて、「くっだらないことで悩んでるだけのことなんだろうなあ」と、大抵のことが大したことでないように感じられてくるほどでした。。。
村上春樹先生の『風の歌を聴け』でしたっけ?手元に本がないので引用間違ってる可能性高いですが(汗)、この大きな宇宙に比べたら、人間などミミズの脳味噌くらいの小さな存在に過ぎない的な……このあたりの文章、自分的にすごく好きだったのですが、宇宙の大きさとミミズの小ささを本当の意味で理解したりは出来ませんでした。
でも、今はわかります。そして、わたし中学生くらいの頃、『聖闘士星矢』に狂っていたのですが、アンドロメダ瞬のモデルはどうもアフルっぽい気がする(笑)。また、『聖闘士星矢』の「君はコスモを感じたことがあるか?」のコスモって――セブンセンシズ(人間の第六感をも越えた超感覚)に目覚めるって……つまりはこういうことなんじゃないかなと思ったりもしました(あ、簡単にいえば、車田正美先生は『アンドロメダ・ストーリーズ』に強い影響を受けられていたのではないかという話です^^;)。
この宇宙の壮大な時の流れを、もちろん完全に理解できる人間などいないとは思うのですが、「アレ」とか「コレ」としか呼びようのないこの感覚を理解しているのとしていないのでは、その後の生きる感覚すら変わってくるのではないかというくらい――光瀬先生のSFファンタジーは読者を宇宙的に酔わせる力を持っていると思ったというか。
もちろん、竹宮先生の作画もこの上もなく素晴らしいもので、第1巻の巻末のほうにも書いてあるとおり、先に完結した原稿があるわけではなく、光瀬先生・竹宮先生の相互作業だったということですから、「そうきたか……」、「じゃあ、次はこうしてみよう」といったように、原作者・漫画家双方でお互いに刺激を受けあいつつの、最高のコンビネーションによるキャッチボール、そうした影響しあう一連の流れがあったのではないかと、読者的にはそのように想像しました♪
「人間は星屑なんだ……」とかいうのは聞こえがいいですが、ほんと、「人間など塵に過ぎぬ」とわかっていたつもりがまったくわかってなくて、その宇宙的実感を与えられたことで――自分の悩みがくだらないものだと「悟った」とすら一瞬感じられたこの感覚というのは、本当に特殊なものだと思います(少なくともわたしは、他の作品を読んでいてこうした感覚に出会ったことは今まで一度もありません^^;)。
それで、萩尾先生も竹宮先生も光瀬先生の作品を通してか、あるいは他のSF作品を通してでも……当然わかってらっしゃるわけですよね。50年もの間、お互いに音信不通、没交渉。でも、そんなのはこの宇宙の広大さ、悠久なる時の流れに比べたら、瞬きほどの短い間であることなどは。でも、人間はほんの小さなことで悩む。そこまでのことがわかっていても、悟りなんて開けない。漫画家の村田順子先生がブログに、>>「どれだけ竹宮先生が悪者になるんだろう?」みたいに書いておられたと思うのですが、「どちらが悪いという話ではない」にしても――どちらかというとやっぱり、傷を負った萩尾先生側に人は同情してしまうと思うのです
また、それは何故かというと、やっぱり種類は違っても、似たタイプのことで誰かから傷つけられたとか、こんなに悩んだとか苦しんだ……といった経験を持ってる人は多くて(わたしもそうです)、萩尾先生の傷つかれたことに自分の傷を重ねあわせてしまうという、おそらくはそうしたせいなんだろうなあ、と思ったりするんですよね(^^;)
たとえば、ネットの中で自分の全然知らない人が自分のことを悪く書いてるのに落ち込んだりとか、一応頭の中の理屈ではわかってるんですよ。そんな、全然知りもしない人がテキトーなこと書いてよーがどうでもいいとか、そういうことは……でもやっぱり人ってそんな小さなことでも悩んでしまう。「この人は本当はどんな人なんだろう」とか、「こんなこといちいち書くなんて、一体どういうつもりなんだろう」とか、色々(笑)
「この宇宙でビッグバンが起きたのは今から約138億年前、その後地球が誕生したのが今から約46億年前で、現代ホモ・サピエンス(今のわたしたち☆笑)が地上に登場しだしたのなんか、ほんの4万年前くらいのことに過ぎないんだ。そして、人間が<神>なる存在を崇めはじめたのが約8千年前くらいらしい……つまり、<神>という存在を意識ある人間が認知しはじめたのなぞ、宇宙の中ではほんの瞬きの間、地球にとってだってほんの短い間にすぎない。ああ、それなのにそれなのに~、人間は何ゆえこんなに小さなことで色々悩むのか~!!」という(笑)。
いやいや、なんにしてもほんと、竹宮先生の漫画についてはまた何か読んだら、再び感想記事にしたいと思っています♪
それではまた~!!
(※本文の内容とはまったく関係ありません(´・ω・`)。