さて、今回はなんのことについて書いたらいいでしょうか
ええと、↓の本文とはまったく何も関係ないんですけど……最近、「星の王子さま」を再読しました
というのも、某古本屋さんで、新品としか思えない状態の文庫本が100円で売ってまして、それで、これも新品としか思えない状態の昔読んだ「ソフィーの世界」が200円で売ってたもので、一緒に連れて帰ってきたというか
たまーに古本屋さんでこういう出会いがあると、ちょっと大袈裟な言い方をすると「おお、可愛いおまえ(本☆)よ。おまえはわたしに買われるためにここへ売られてきたんだね?」といったような気持ちになります(アホ!笑)。
さて、「星の王子さま」のことなんですけど……久しぶりに読んでまた、感動に胸がじーんと震えました
わたし、実は「ピーターパン」もそうだったんですけど、「星の王子さま」も読んだのが結構いい年になった大人になってからで……「星の王子さま」の「大切なものは目に見えない」も、ピーターパンの「妖精なんかいない!っていうと、妖精がどこかでひとり死んでしまうんだ」っていうのにも、何か同じ種類の透明な悲しみがあるような気がします。
でもわたし、一応「星の王子さま」って、高校生くらいの時に英語の授業でちょっと習ったことがありまして……その時、たぶん英語に訳されたものを勉強しつつ読んだというのがいけなかったらしく……その時わたし「世界の名作」とか言われてる割に、そんなに面白くもねーなー☆といったようにしか思わなかったというか
いえ、しかもこの時全文訳されたものを読んだとかでもなく、英語の教科書に載ってたのは確か、薔薇の花のエピソードくらいまでだったように記憶してます。なので、その後ちゃんと本を最後まで読んだ時にはかなりのところべっくらしましたこんなに素晴らしい、胸がじーんと震える物語だったのかと……。
そんでもって、この最初は「そんなにおもしゃくもねえな☆」と思わされることになった「星の王子さま」を再び読むきっかけをくれたのが実は、薔薇の花のモデルだと言われているコンスエロさんなんですよね(笑)
>>こうして花はすぐに、やや気むずかしい見栄をはっては、王子さまを困らせるようになった。たとえばある日、自分の四つのトゲの話をしながら、こんなふうに言った。
「トラたちが、爪を光らせて、来るかもしれないでしょ!」
「ぼくの星にトラはいないよ」
王子さまは異議をとなえた。
「それにトラは草を食べない」
「わたし、草じゃありません」
花は静かに答えた。
「ごめん……」
「トラなんかぜんぜんこわくないけど、風が吹きこむのは大きらい。ついたてはないのかしら?」
<風が吹きこむのは大きらいって……植物なのに、困ったものだな>
王子さまは、また気がついた。
<この花は、なかなか厄介だ……>
「夕方になったら、ガラスのおおいをかぶせてね。あなたのところ、とても寒いわ。設備が悪いのね。わたしが前にいたところは……」
そして口をつぐんだ。花は種の状態でやってきたのだ。ほかの世界のことなど知っているはずがない。こんなにすぐわかるうそを、思わずついてしまったことがきまり悪くて、花は二、三度咳をし、悪いのは王子さまのほうにしようとした。
「それで、ついたては?……」
「さがしに行こうとしたら、あなたが話しかけてきたんでしょ!」
花はまたわざと咳をして、王子さまに、やっぱりすまなかったと思わせた。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ著、河野万里子さん訳/新潮文庫)
>>王子さまのバラの花は、前述のルイーズや、祖国フランスの象徴という見方もあるようだが、モデルの中心となったのは、やはりこのコンスエロだろう。喘息の持病があってしょっちゅう咳をし、すきま風が大きらい。故郷の中米とフランスを比べては「わたしが前にいたところは……」などと言う。気むずかしくて見栄っぱりだが、おしゃれで芸術的な才能にも恵まれている――。
結婚生活は三年目ぐらいから早くも不安定になり、別居したり、またよりを戻したりのくり返しとなったらしい。もっとも、コンスエロだけに非があったわけではないようだ。アントワーヌは彼女を束縛しようとする一方、飛行士という職業柄、家をあけることも多く、またコンスエロが「ミニョンヌ(かわいい人)」と呼んだ親しい女性たちの存在もあったという。
ふたりとも芸術家肌だったために、気持ちがぴったり合っているときは熱く求めあわずにいられないが、なにかズレが生じると、たがいにその熱さのままに衝突してしまったのかもしれない。生涯、離婚に至らなかったところを見ると、やはり「あれこれ言うかげには愛情があった」にちがいなく、そんな関係は、つらくないわけがなかっただろう。そういうふたりを思いながら、バラの花と王子さまの別れの場面を読むと、思わず胸がしめつけられる。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ著、河野万里子さん訳/新潮文庫より)
いえ、「星の王子さま」をわたしに読むきっかけをくれたのが、コンスエロさんの書いた本の書評を新聞か何かで読んだことでした。
相当昔のことなもので、その書評の内容の細かい言い回しなどは覚えてないものの、大体のところ、意味としては次のようなことだったと思います。>>この本を読むと、「星の王子さま」のバラのモデルとして有名なコンスエロの側の言い分がよくわかる。彼女はあのバラの花と同じように軽薄で頭が悪く、サン=テグジュぺリに対しても忠実でなかった……といったイメージで捉えられがちだが、どうやらその点については間違いなようである。コンスエロが実は聡明な女性であったことがこの本を読めばわかるし、どうやらサン=テグジュペリのほうにも非難すべきところは多々あり……なんかこんなよーなことが書いてあった気がするんですよね(^^;)
ここでわたし、バラのモデルだったというコンスエロさんに非常に興味がわきまして、この本を図書館で借りてきたあと、「星の王子さま」を読むことにしてみたわけです。
コンスエロさんの本のほうは、実は軽く斜め読みするような感じで、今では本の内容についてほとんど覚えてないのですが(汗)、それでも漠然と覚えてるのは、こうした文章を書ける女性が「頭悪い」といったことは絶対にないな……ということだったでしょうか(他に、コンスエロさんは中米出身の方なので、言語の壁ということもあり、まわりの人に誤解されるといった面もあったようです^^;)
なんにしても、「星の王子さま」を読んだことで再びこのあたりのことにも興味が出てきたので、コンスエロさんの本など、そのうち機会があればまた読んでみたいな~と思っていたり♪
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【19】-
静かにこっそりと足音を忍ばせ、ラリーが寮の自分の部屋へ戻っていくと、途端にパッと照明がついた。二段ベッドの上段で横になっていたルーディが、そのようなことをして親友のことを驚かせたのだ。
「よう、色男。守備のほうはどうだったかね?」
「ふふっふー。守備は上々とまでは言えないがね、そう悪くもなかったよ」
ラリーの様子が、今彼に無麻酔で開頭手術をしたとしても、まるで気づかぬほど浮かれているように見えたため――ルーディは(ははあ。きっとこれはうまくいったんだな)と、勝手ながらそう察した。
ところが、ヴェルサーチの高級スーツを脱ぎながら、ラリーは肩を落として耳を疑うようなことを言ったのだ。
「残念ながら振られたよ」
絹のネクタイも外し、ワイシャツも脱ぐと、いつものだらしのないスエット姿になって、ラリーはベッドの中へごろりと横になる。
「振られただってえっ!?だっておまえ、廊下の向こうからずっと鼻歌を歌ってここまで歩いてきたんじゃないか。だから俺はちょっとからかってやれと思って、一旦照明を消したんだぞ。それなのに……」
「無駄なサプライズをさせて悪かったな、ルーディ。だが、べつに彼女は俺が物凄い赤毛だからとか、しゃべってて性格つまんなさそうとか、そういうことが理由で俺とつきあえないってわけじゃないんだ。俺は今日、彼女と至福のひとときを過ごした。だがまあ、これをそう何度も繰り返して俺に気をもたせたりしたくなかったのさ。けど……いや、この話はもう明日にしてくれないか。とにかく、俺は振られたことには振られたが、同時にこの上もなく幸せな男でもあるんだ。そして実際、そのことに俺自身が戸惑ってる」
(わけがわからない……)
ルーディはそう思ったが、とにかく、明日にでも彼本人から詳しく話を聞かないことにはまるで意味がわからない。そこで翌日、朝起きるなりスペシャルな朝食をルーディは用意して、ラリーに話を聞こうと待ち構えていた。
そして以下は、昨夜のラリーの記憶を頼りにした回想といったところである。
* * * * *
運転手付きのリムジンでマリー・ルイスを迎えにいった時、彼女の装いがいつも以上に華やかであったため、ラリーは目が覚める思いだった。もともと、地味な格好をしていることの多い女性ではあるが、それでももっと年相応に明るい色のドレスなどを着れば――どれほど美しくなるだろうというのは、ラリーにしても想像はしていたことである。
(俺に感謝しろよ)というようにイーサンからウィンクされ、ラリーもまた眼差しだけで感謝の意を伝えたわけだが、当のマリーの顔の表情は実にくすんだものだった。最後、彼女はミミがぐずってくれないかとそのことに望みをかけたらしいのだが、「おねえさん、でえと、いってらっしゃ~い!」と、にっぱーと微笑みかけられては、最早マリーも出かける以外に選択肢は残っていないとようやく諦めがついたようである。
リムジンの車内でふたりきりになると、ラリーは(まるで夢のようだ)と、そのようにあらためて感じた。ココに「香水をしない女に未来はないのよ」と言われ、最後にジミー・チュウの香水を吹きかけられたマリーは、この時(少し匂いがきつすぎやしないかしら)と気にしていたのだが、ラリーはその甘い香りにすっかり酔っていたといっていい。
「クラシックはお好きですか?」と、今更ながらのことを彼は聞き、マリーの反応を窺った。
「いえ、好きとか嫌いという以前に……あまり聞いたことがないので、よくわかりません」
マリーの態度は率直なものであり、ラリーはそのことにも好感を持った。相手は女性ではないが、彼は自称クラシック通やオペラ通を名乗る連中に、これまでの人生で悩まされたことがとても多かったからだ。
「ユトレイシア交響楽団には、俺とイーサンの共通の友人が所属してるんですが、本当にとてもいいオケですよ。今夜のプログラムはすべてブラームスなんですが、マリーさんはブラームスは嫌いでしたか?」
「ブラームス自体、よくわかりません」
「そうですか……」
ここでラリーは少しばかり首を捻った。(実は自分は嫌われているのだろうか?)との疑念すら持つが、イーサンが『あの女は頭がおかしいから、受け答えが多少変でも男に慣れてないせいだと思って受け流せ』と言っていた言葉に勇気づけられ、あえて気にしないことにする。
今夜はドレスコードのあるコンサートだったため、コンサートホールへ辿り着いた時点で、その場自体がまるで一夜限りのシャンパンの泡……夢の情景の一場面でもあるかのようにとても華やかだった。ラリーは二、三の顔見知りに出会い、意味ありげに口笛を吹かれたり、「あの令嬢はどこの貴族の娘だ?」とからかわれたりしたが、彼は至極真面目な顔つきで「俺の大事な人なんだ」としか答えなかったものである。
オペラの時には特に見晴らしのいい最上階にある個室で、軽い飲み物を楽しみながら、ラリーはオーケストラが音合わせをするのを眺め、やがて指揮者が登場するのを待った。マリーが酒は飲まないというので、彼もまた彼女に合わせてレモンの炭酸水を飲んでいた。狭い室内には間に小さなテーブルを挟んで座り心地のいいソファがふたつ配されている。
ラリーは妙に姿勢よく座っているマリーのことを足を組みながら眺め、この時点で特に会話などなくても十二分に満足だった。
やがてユトレイシア・オーケストラの客演指揮者のひとりであるレジナルド・オーマンディが現れると、かなり激しい拍手の嵐となる。眼鏡をかけた、総白髪の頭髪の前部がかなりあやしい男だが、曲の解釈の大胆さと指揮する時の熱意に定評のある男で、ラリーも彼が何かのプログラムを振る時には唯一聞きにきているくらい、彼のファンだった。
今日のプログラムにしても、実際のところあまり派手さはない。一曲目がブラームスの交響曲の第三番で、二曲目がハンガリー舞曲集の第四番、そして三曲目が「運命の歌」で、これですべてである。
実際のところ、この約一時間ほどの間に、ラリーは魂の奥底からの歓喜を感じたといっても過言ではない。自分の好きなブラームスの音楽を聞きながら、隣にいる憧れの女性のことを眼差しで捉えることが出来るのは、目と耳とからやって来る両方の至福であり、実際のところ、彼女の手にまで触れてこの上触覚までも喜ばせようものなら、ラリーはおそらく頭のほうがどうかしてしまったに違いない。
そして、曲と曲の合間の休憩の時に、ラリーは何か二、三彼女に話しかけ、マリーはまるでお義理のように返事しただけであったにも関わらず、その過程でラリーは彼女の心の一部を理解した。マリーの音楽に対する傾聴の仕方は、まるで全身耳のようにして聴くといった、非常に真面目なもので、その間一瞬たりとも彼のほうに視線を向けることはなかった。その状態にある程度慣れるとラリーのほうでは、彼女が自分のことを決して振り返らないとわかっているために、安心してマリーのことをじっと見ていられるのだった。
もちろん、彼女にしてもラリーの視線には気づいているはずである。だが、マリーはそのことに気づいていない振りをし続け、非常に真面目に――イーサンがこの場にいたらば、「馬鹿真面目に」と形容する態度で音楽を聞いており、ほとんど会話など交わしていないのに、ラリーは魂の世界で色々と観想することで、ますます彼女のことが好きになっていた。言いすぎでなかったとすれば、この時点ですでに愛しはじめていたといってもいい。
そして、「運命の歌」を我がユトレイシア合唱団が切々と美しく歌いあげる間……マリーの魂にも何かの感動を伴う深い変化が訪れたようだった。隣の彼女を眺めているうちに、ラリーにはそのことがはっきりとわかった。そして曲の途中で彼女の黒曜石のような瞳が涙に濡れはじめ、バッグの中を彼女がハンカチを探す間も、そんな様子のマリーにラリーは見とれ続けていたわけである。
もちろん、マリーはドイツ語を解さなかったため、歌われている歌詞の内容についてはまるで理解していなかった。そこで感動に胸を震わせながら、しきりと拍手したのち――魂の興奮が静まったあたりで、初めて自分から質問したわけである。
「あの、今の曲はどういったことが歌われていたのでしょうか?」
「そうですね。フリードリヒ・ヘルダーリンというドイツの詩人の書いた詩が歌われているんですが……ほら、プログラムのここのところに英語の訳詞が載っているはずですよ」
ラリーはここで、テーブルの上に置かれたプログラムのページをめくり、指揮者のレジナルド・オーマンディの書いたそれぞれの曲の紹介文と、「運命の歌」についてはドイツ語の訳詞が載っているところを指差した。
>>光を浴びて天上の
やわらかな床をあゆむ浄福の霊よ。
神々の輝くそよ風は
あなたがたに軽やかにふれる、
聖なる弦をかなでる
乙女の指のように。
眠っている乳のみ子のように、運命もなく、
天上のものたちは息づく。
つつましい蕾に
きよらかにまもられ
永遠に花咲く
その霊のいぶき。
浄福の眼は静かな
永遠の明るさのうちに
輝く。
だが、われらのさだめは、
いずこにも安らえぬこと。
消えてゆく、落ちてゆく、
悩みを負う人間は
ゆくえも知らず
刻々と。
岩から岩へ投げつけられる
水さながらに、
はてもなく闇のなかへと。
(『ヒュぺーリオン~ギリシアの隠者~』へルダリーン著、青木誠之さん訳/ちくま文庫より)
「わたしてっきり、宗教歌か何かかと思っていたのですけど……正直、これだけだとあの素晴らしい歌のことがよくわかりません。『運命の歌』ということは、何か悲劇的な運命について歌われているような気がするんですけど……」
「この詩は、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』という小説の中に出てくるんですよ。ブラームスだけでなく、ニーチェやハイデガーなどもヘルダーリンの作品を好んだようですね。ブラームスはこの本の内容のことを驚くほどうまく音楽として表現していると思います。『ヒュペーリオン』は書簡体の文章なんですが、ヒュペーリオンという夢想家の若者が成長したのち、戦争といった世の中の有様に絶望して、最後は心から愛した女性、ディオティーマの死によっても痛手を受けるといった内容なんです」
「そうですか……でもわたし、難しいことはよくわかりませんけど、この歌……というか、音楽の中には何か救いのようなものがあると思います。調和した美しい世界が一度崩壊して、でもまた再びこの調和した美の世界へ戻っていくというような……」
この瞬間、ラリーはまるで心臓を鷲掴みにでもされたようにドキドキした。(そうだ。彼女こそ俺にとってのディオティーマだ!ベアトリーチェでもグレートヒェンでもない。ディオティーマこそ、マリーさんにもっとも相応しい魂の名だ)とさえ心に直感され、ラリーは数瞬ぼうっとするあまり、何か言葉を口にするということが出来ないほどだった。
それでも、緊張からくる喉の渇きから炭酸水を飲んだ時、ごくりという音がし――その音でラリーは再び現実に戻っていた。
「……その、マリーさんのおっしゃっていることは当たっています。ちょうど、ヘルダーリンの小説もそのようなんですよ。ヒュペーリオンはギリシャの自然の美を強く感覚している若者なんですが、ディオティーマという女性を愛し、人の世界でも美の頂点を味わいます。でも戦争といった人の世の醜い有様によってそれらは破壊され、彼は人生、また人間の悲劇の頂点を味わいます。けれど、最終的に恋人の死もすべて、彼は肯定と調和の世界へ持ち込み……再びすべては小説の最初の美の世界へ戻っていくんです。これは俺の想像ですが、最初の完璧な調和の世界と、愛の頂点と悲劇の頂点を味わってのち、再びそこへ戻っていく時の調和というのは、まったく違うものだと思うんです。その、俺にもこれ以上はうまく表現できませんが……」
「いえ、よくわかりました。ありがとうございます」
マリーはもう一度、感嘆の吐息を洩らすと、このままここにもう暫く座っていたいというような様子さえ見せていたが、何分、行きつけのフランス料理店の予約が待っていたため、ラリーは彼女のことをそろそろ連れださねばならなかった。無論、そのためには彼自身こそが、このまま彼女とこうしていたいと感じる誘惑をはねのけなくてはならなかったのだが……。
「そろそろ、場所を変えませんか?話の続きのほうは、またそちらのほうで……」
「はい。よろしくお願いします」
運命の歌に対する感動のためか、マリーが突然従順になったように感じられ、ラリーは胸の内の興奮を抑えられなかったといえる。自分のリムジンがコンサートホールの正面までやって来ると、彼は初めてマリーから「脈のある」態度を取られたと思い、見た目はどうあれ、内心では終始落ち着いていなかったといっていい。
予約したフランス料理店のほうでも、クロークへコートを預けたあとは個室へ通された。その雰囲気のある素敵な個室へ通されなかったとしても、約二十席ほどある落ち着いていると同時に華やかな店内を一渡り見回しただけで、マリーはその場所がすっかり気に入っていた。クラシカルな装飾の施された店内は、照明の落とす影や反射も壁紙の色とともによく調和しており、その明かりの合間合間に絵画や鏡や、何がしかのアンティークな飾りがあって、そのひとつひとつにマリーはすっかり魅了される思いだった。
個室の入口には意趣の凝らされた生け花が飾られてあったため、テーブル席に着いてからも、マリーはそちらをちらちらと眺めずにはいられなかった。もちろん、そうした自分の態度がこうした場所にそぐわない気がしたため、すぐにそんなことはやめにしなくてはと思いはしたものの……。
ダマスク織りのテーブル掛けのかかったテーブルには、光の加減によって青さの変わる燭台が飾られてあり、とても綺麗だった。テーブルにも鉢の中に花が活けてあって、そのピンクの百合の花の前にはレディ・マリー・ルイスと名前の入ったウェルカムカードまで置いてあった。壁にはフランス印象派の画家の絵が架けてあった上、マリーの座席からは窓を通してユトレイシアの街の蒼く沈んだ美しい夜景までが見渡せていたのである。
「あ、あのう……」
最初はまるで乗り気でなかったデートが、ここから俄然楽しくなってきたということもなく、マリーはむしろ気まずさに頬を赤らめていた。(なんていい人なのだろう)とわかればわかるほど、最終的に自分が無銭飲食を働いた上、相手に嫌な思いをさせる態度を取る結果になるとわかっているだけに――マリーとしては出来ればここで手短に話を済ませて、家まで歩いて帰りたいほどだった。
「ああ、まるでこけおどしのように水の入ったボウルやら、膝に敷くリネンやら、フォークやナイフやスプーンが並んでますがね、まあ気にする必要はないんです。どのナイフやフォークをいつ使うのかも、マリーさんの好きになさってください。そんなことをすると追い出される格式高い店もあるそうですが、ここはそうした堅苦しい店というわけでもないので……」
「は、はあ……」
それでもマリーは、慣れた手つきでリネンを敷くラリーのことを真似て彼と同じようにしたし、前菜の雲丹のテリーヌが運ばれてくると、やはり彼と同じようにフォークとナイフを使ってそれを食べることにした。
「マリーさんは俺のこの赤毛、どう思いますか?」
サラダからスープへと食事が進んだくらいに、沈黙に耐えかねて、ラリーはそう聞いていた。マリーは「正しいマナーで」食事することに気を取られていたせいもあり、突然まるで関係のないことを聞かれ、ほっとしたかもしれない。
「とても綺麗だと思います。光の加減でくるくる色が変わって……今、夜になってこうした照明の中で見る時と、昼の太陽の中で見る時とでも違いますし……光の加減でオレンジ色にも見えたり、金色にも見えたり。みんな誰でも、ラリーさんの髪の色を見ているだけでもまるで飽きないと思います」
「そう、ですか」
自分の髪に対して<綺麗>などという単語を使われたことがないため、ラリーは少しばかり戸惑った。それに、彼女は何も自分に同情してそんなことを言っているのでもなく、「心からそう思っている」というのが彼にもはっきりわかるのだった。
「俺はもともと……内気で無口な性質なんですよ。ところが、小学校へ上がった時に体の大きい同級生に毎日のように絡まれるのが嫌で嫌で。そいつ、学年は違うんですけど、一年D組の奴で、俺は一年A組なわけです。で、A組へ行く前には必ずD組の教室の前を通らなくてはならない。ところが、そいつとその取り巻きみたいな奴らが立ち塞がって、カバンを揺すぶったりしながら「赤毛頭」だの「このニンジン!」だのと囃し立ててくるわけです。正直、下手をしたら俺の人生はそこで終わるところでした。ところが俺の親父というのが、相手が小学一年であれなんであれ、学校へ行かない奴は死ね!と言いかねないくらい厳しい人で……だから、死なないためには俺は戦うしかなかったんです。そして、子供ながらにこれと同じことは学年が変わるごとに必ず起きるぞという予感もしていました。そこで、ある時心を決めてその体の大きい奴に挑んでいったんですよ。そしたら、反撃されるとまるで思ってなかったせいかどうか、そいつ、廊下に尻餅ついて泣きだして……それで決まりでした。これからも髪のことや容姿のことでからかってくる奴がいたらぶん殴って黙らせる、それ以外に自分が生きる道はないと思ったんです」
魚料理を食べている途中だったが、マリーは彼の話を熱心に聞くあまり、途中でフォークを動かす手を止めていたほどだった。ラリーの真似をして白身魚にソースをつけて食べていたのだが、彼のその手慣れた様子を見ただけでも、かなりのところいい家柄の生まれなのだろうとマリーにもわかる。
「大変、でしたでしょうね。元は繊細でお優しい質の方がこの世の強い勢力に打ち勝つというのは、とても大変なことですもの」
「え、ええ……」
自分の言いたいことが好きな女性にすぐ通じたことが嬉しく、ラリーは白ワインを何度も口にした。もちろん、マリーにも勧めたが、彼女はユトレイシア・ホールでと同じように、断っていた。
「それ以来、俺の中では――人格が少し分裂してるんです。本当は内気で大人しいタイプの人間なのに、これだと世間一般という定規に合わせて人並に生きていくのは難しい。だから、虚勢を張って自分を前に押し出していくよう心がけるわけですが、元の自分はそんな人間ではないとわかっている。俺は、だからその、なんていうか……あなたが表面的に見て思っているような、そうした立派な男ではないんです。俺は、あなたになら、そうしたことを話してもわかってもらえると思ったし、大丈夫だと思いました。だから、俺はマリーさんのことが好きなんです」
魚料理が終わると、次にライムのシャーベットが出てきた。マリーはこの時勘違いしていたが、彼女はこれがデザートなのだと思い、ここでラリーに本当のことを話さなくてはと思った。そこで、自分の生まれや育ちがどんなだったか、マクフィールド家へやって来るまでの間、どこでどんなふうに過ごしてきたかをかいつまんで彼に話して聞かせたのだった。そして最後に言った。
「ですから、わたしはラリーさんに相応しい人間でもないですし、きっと他にもっと家柄の釣り合った素晴らしい方が、ラリーさんにはいらっしゃると思うんです。本当はそのことだけお伝えしたかったのですけど……」
このあと、メインディッシュといっていい肉料理が出されて、マリーは当惑した。彼女はもうお腹が一杯だったし、これで食事のほうもすっかり終わりで解放されるものと、そう勘違いしていたのだ。
「あの、わたし、本当にもう……」
マリーは口許をナプキンでぬぐうと、必要な話については済んだと思い、その場から去ろうとした。このあとにまだ続く、チーズにフルーツにデザート、コーヒー……といったそのすべてを、ラリーはキャンセルしてくれるよう、担当だった給仕係に伝えた。
「送っていきますよ。俺にしても、今のあなたの話ですべて納得したというわけじゃない。というよりむしろ、ますますあなたのことが好きになりました。俺は……もしかしたら万が一にでもあなたが気を変えることがあるかもしれないと思って、待つことにしたいと思います。それでも構いませんか?」
馬鹿なことを聞いている、とはラリー自身思ってはいた。第一、こんなことで許可を求めるだなんて、単にしつこい重い男だと思われるだけだ。けれど、どうしてもラリーはそう言わずにはおれなかった。そのくらい、マリーが自分に心を開いて、色々なことを素直に話してくれたことが嬉しかった。
「その、わたしの決心が変わることはないと思います。ですから……というより今は、ラリーさんは最後までお食事なさっていってください。わたしは本当にもうお腹がいっぱいなので、失礼させていただくだけですから。あと、いつでも気兼ねなく屋敷のほうへは遊びにいらしてくださいね。子供たちもみんなラリーさんのことが大好きなんです。わたしのことは気にせず、どうかそのことだけ、よろしくお願いします」
そう言ってラリーにぺこりと頭を下げると、マリーはその場を去っていった。自分が追っていっても彼女は言うことを聞くまいと思い、ラリーはメートルドテールのフランソワ・キアラに頼んで、マリーがリムジンで自宅まで帰れるように手配した。運転手のジェームズ・スミスが戻ってくるまでの間、自分はここで残りの食事を続けつつ、マリー・ルイスのことに思いを馳せようと、そう心に決める。
そして彼は果てしなくやるせない思いとともに、天国へも昇るような至福の両方を抱え、寮まで戻ってきたというわけだった。
* * * * *
「おまえ、一体そりゃあなんだ?」
まるで納得がいかないとでもいうように、ルーディは机の前で食事するラリーの顔を睨みつけた。何より、この親友は自分がもっとも知りたいと思っている、マリー・ルイスの過去についての部分を省いて昨日のあらましについて語っている。
そこでルーディは、せっかく用意してやったフレンチトーストやベーコンエッグ、鶏の胸肉のステーキ、サラダにコーヒーといったプレートを、ラリーから取り去ってやりたくて仕方なかった。
「だって、しょうがないじゃないか、ルーディ。確かに彼女は、俺に『誰にも言わないでくださいね』とは言わなかったさ。だけど、それは口に出してそう言わなかっただけで、人間の良識として考えた場合、そうしないのが立派な男のすることといったものだろう。頼むから俺を、彼女から振られただけでなく、人間としても落ちぶれたようにはさせないでくれ」
「ふうん、そうか。だがまあ、今のおまえの口振りからでも、いくらかわかることはあるぜ。こう言うからって何も俺は、おまえの愛するマリーさんを貶めようっていうんじゃない。確かに彼女は立派な女性さ。おまえが寝言でマリーさんとマリッジしたいと言うだけのことはあると言っていいだろう。だが、貴族の血統のおまえとは違って、ようするに下町の娼婦の娘であるとか、何かそういう身分差のある生まれだってことなんだな?で、おまえの父親や兄さんが探偵でも使って過去を調べたらば、色々とまずい事実が出てくるといった過去でもあるんだろう?違うか?」
ラリーは鶏の軟らかい胸肉を食しながら、ナイフを動かす手を止めて言った。
「マリーさんは下町の娼婦の娘なんかじゃない。第一、もし仮にそうであったとしても、俺にはどうでもいいよ。親父から勘当されたって構わない。俺はあの人さえ承知してくれたら、その条件でだって結婚するさ。だが……」
ここでラリーは再び、甘く苦しい溜息を着いてみせる。
「なんていうか彼女、相手が俺じゃなくても、他の誰とも結婚したりする気はないらしいんだ。その上、マクフィールド家のあの子供たちが大きくなるまでは――絶対にこの世的な幸福を求めることはないだろう。つまりさ、ルーディ。俺が悩ましいのはそこだよ。マリーさんはイーサンの言ってたような教会の男やもめとだって、マクフィールド家の子供たちと同じように彼の子供をも幸福にする必要があるという理由からでも結婚することはないってことさ。そうしたら俺はどうなる?いつまでも永遠に彼女のことを諦めきれなくて愛し続けるってことになってしまうじゃないか。そのことを思うと、俺はとても苦しい。だが同時に、彼女が誰のものにもならないと思うと嬉しくもあるんだ。いや、もうまったく天国と地獄がいっぺんにやって来て、身も世もないという感じさ。それでいて、俺には彼女だけが現実であって、他のことは全部夢みたいに思える」
「ふむ。マクベスの登場人物みたいなことを言うな、今日のおまえは。だがな、ラリー。俺によくわらんのは、何よりもそこさ。彼女がもし博愛主義的精神でマクフィールド家の子供たちの面倒を見ているというのなら、他の、彼らよりももっと惨めな境遇にある子らは一体どうなる?マリーさんは結局、遺産の一部をもらえるといった利得が多少なりともあるから、まあ、俺はそうは思わんが、イーサン言うところの豚児四人の面倒を引き受けることにしたわけだろう。しかも、最初はイーサンも彼女と自分たちに半分血の繋がりがあるのかもしれないと考えたらしいが、そんなこともないんだ。俺にはやっぱり、彼女があの屋敷にいるのは何か特別な理由や目的があるとしか思えんな」
食事の手を止め、ぼんやり恋する女性のことを夢想しているラリーをよそに、ルーディはデザートのフルーツの盛り合わせに手を出した。失恋したというので同情してやってみればこれである。ほとほと頭が痛いと、ルーディはそう思った。
そして、ルーディはキウイやイチゴといった果物を食べながら――自分は何故こんなにも苛立ったり腹を立てたりしているのか、その理由の根源的なことに思い至ると、ラリー同様ぶどうをひとつ口に入れたあとは、ものを食べる手を止めていた。
(そうか、わかったぞ。あのマリー・ルイスって女は、自分じゃ特に大したことは何もしてなくても、この時点で最低でも男三人以上の心を波立たせているといっていい。第一にはイーサン、第二にラリー、そして第三にはこの俺だ。何も俺はあの人に恋してるってわけでもなんでもないが、心から称賛に値すると思っている親友ふたり……彼らの恋心をそれぞれ知っていることで、このふたりが今後どうなるのかと、そんなことで俺がどんなに気を揉んだりしているか、あの人はこれっぽっちも知りはしないというわけだ……)
実際、マリー・ルイスの過去については謎のままでも、ラリーの今のぼんやりした様子を見ただけでルーディにはわかる。もし彼が昨夜こっぴどくマリーに振られたとでも言うのなら、ルーディにもいくらでも慰めようはあるのだ。「あんなど地味な女よりもっといい女を紹介してやる」と言って実際にそうするとか、その手の女性を相手に一緒に気晴らしをするとか……だが今、ラリーは清らかな恋に身を投じる修行僧のような顔をして、頬を微かに上気すらさせているのだ。ルーディの恋の医者としての見立てが「救いようがない」というものでも、彼はヤブ医者とは言えないだろう。
(第一、これでイーサンは一体どうするつもりなんだ?マリー・ルイスが正式に親友のことを振ったから、それじゃあキャサリンと別れた暁には、俺がこの女をものにしようだなんて、ラリーの気持ちを考えたらとてもそんなことは出来ないだろう。だがイーサンの、無二の親友に彼女のことを「譲る」と言った時の、なんらかの勝算があり気な顔つきは……もしかして、もともとあいつにはこうなることがわかっていたということなんだろうか?)
わからない、とルーディは思った。何より、人の恋心というものは、人智の及ぶところではない。下手に外野の第三者が動いてお節介を焼いたりすると、むしろそのことでうまくいかなかったり、取り返しのつかない事態へ至ってしまうということがよくあるものだ。ゆえに、ルーディとしてもマリー・ルイス本人に好奇心から色々訊ねたりするつもりは一切なかった。
(だが、この事態は明らかに奇妙だ)
ラリーにどうやら食べる気がないらしいので、ルーディはマフィンにブルーベリージャムを塗って食べた。それから自分の分のコーヒーを啜る。
(ラリーに聞いた限りにおいては、マリー・ルイスはラリー以外の他の誰とも結婚する気がないという。ということは、だ。女どもがそばに寄っただけで子宮が疼いて妊娠しそうだのいう、イケメンイーサンのことも眼中にないということだよな。もし本当にそうなのだとしたら……ラリーとイーサンが親友同士とわかっており、だからどちらも選べないとか、そこまで気を回したということか?まあ、この場合教会の男やもめなんかは論外ということになるが……)
なんにせよ、今の段階でルーディには情報が足りなかった。そしてこの日曜の午前中、イーサンがなんの連絡もせずに突然、寮を訪ねてきたのだった。ルーディがこれぞ僥倖と思ったのは、言うまでもないことである。
しかも、イーサンの物の聞き方は、ルーディの好奇心を満たしてあまりあるほど、直接的だった。
「おい、ラリー。マリーの奴とは一体どうなってるんだ?あいつは今ちょうど教会の日曜礼拝にでも出席して、神とやらを讃美していることだろう。そちらの男やもめどもの動向については捜査員Cが当たっているから何も心配はいらない。なんにしても俺はおまえとあいつの間で何が起きたのかを知りたいんだ。あの女ときたら、俺が買ってやった八百ドルもするドレスにまでケチをつけやがって……今朝も俺が教会へ行かないとわかるなり、そんな不信心者は地獄へ落ちろと言わんばかりの態度だったからな。あいつの貝のような口を割れない以上、俺はおまえに事情を聞くしかない。それで、実際のところデートのほうはどうだったんだ?」
「いや、まあ、その、な……」
ラリーはその時ヘルダーリンの詩集を読んでいたわけだが、ルーディに話した時とは違い、うまく話せず口ごもっていた。確かに、イーサンには色々と協力してもらったという恩もあるし、何より一緒に暮らしているという事情から見ても、マリーの過去について話さなくてはならない義務があるような気がした。だが、ラリーはマリー・ルイスが「貝のように口を閉ざしている」と聞き、やはり自分も話すわけにはいかないと心に決めたわけである。
「簡単にいえば、俺は振られたっていうことさ、イーサン。いや、このことで彼女のことを責めないでやってくれ。デートのほうは俺にとって最高に素晴らしいものだった。それに、マリーさんは俺のことを侮辱したってわけでもない。むしろ、自分のようなものが俺のような良い人間とつきあうことは出来ないみたいな言い方で、とても丁寧に俺のプライドを傷つけないよう気を遣ってくれてる感じだったんだ。心の優しい良い人だよ、彼女は実際。俺は振られはしたものの、むしろそのことで彼女に惚れ直してしまったほどさ」
ヘルダーリンの詩を読む、その行間の合間合間に、ラリーはマリーの面影を追っていたわけだが、この時も夢想を解かれて間もなかったせいもあり、どこかまだぼんやりしていた。イーサンにしても、彼がうっすら頬をピンク色に染めているのを見て、それだけでもある程度のことは理解した。それに、今の話でマリーがどんなふうにしてラリーの申し出を断ったのかも、察することが出来たといえる。
イーサンはいかにも「疲れきった」というように、ベッドの下段にドサリと座りこんだ。ちなみにルーディは自分用の机の前で、例の小説の続きを執筆しているところだった。
「イーサン、聞いてくれよ。こいつ、俺にもデートのあらましについては大体のところ話してはくれたんだぜ。おまえんちの屋敷にマリー・ルイスを迎えにいった時がどんなで、コンサートホールでの彼女がどんなふうだったか、また食事中にどんな話をしたかとか……だが、それでいて肝心なところを言わないんだ。どういう言葉を言われて彼女に交際を断られたのかとか、そういうことをさ。その代わりに妙に謎めいたことばっかり言って、さっきみたいに振られはしたが、自分はそのことでマリーさんに惚れ直しただのなんだの、俺にもさっぱりわけがわからない」
「ふん。俺のほうはな、あいつがデートから戻ってくるなり……もう二度とこういうことはないだのほざいたもんで、問い詰めてやったぜ。おまえは自分が何をしたのかわかってない、ラリー・カーライルこそは、世が世ならなんとか赤毛公とか、勇猛エメラルド公だの呼ばれて、臣民に慕われる領主か何かだったろうってことをな。ようするに、おまえはユトランド中でこれ以上もなく条件のいい最高の男を振ったんだということを教えてやった。ところがあいつときたら、だからこそラリーさんのような方と自分はつきあえないとかほざいてたぞ。自分じゃなくても、もっと家柄の釣り合ったいい相手がいるはずだってな。俺もつい頭にカッと血が上っちまったもんで、そんなんでもし教会の男やもめなんかと結婚してみろみたいに言ったら――」
「言ったら?」と、ルーディが先を促し、ラリーのほうでもイーサンのことを凝視する。
「なんか急に怒っちまった。教会は神の家であるべきなのに、婦人会の人たちもくだらない噂話なんかしてとか、なんかそんなことを言ってた気がする。で、俺が買ってやったドレスについてまで最後にはケチをつけたわけだ。こんなドレスが八百ドルもするだなんて馬鹿げてるってな」
イーサンは、ラリーに対する思いやりの気持ちから、マリーが「デートになんか行きたくないって言ったのに」と文句を言った部分についてはあえてカットした。そして最後に「わけがわからない」というジェスチャーをしてみせると、訳をわかっているラリーのほうではおかしくて、この時大爆笑したわけだった。
「あっはっはっ!!彼女、サイコーじゃないか。流石は俺が惚れただけのことはある女性だ。それに、イーサン。やっぱりおまえは俺にとって最高の親友だよ。いやいや、本当にありがとう。俺が傷心のあまり食事も喉を通らずげっそりしてるんじゃないかと思って、この日曜も早くに訪ねてくれたってわけだろ?俺は……あの人のことを諦めるってわけじゃないんだ。今のこの段階ではまだね。ただ、ロースクールを卒業するまでにもまだ三年ある俺は半人前だ。だからさ、もし俺が弁護士になってバリバリ働いて金も稼いで、その方面じゃいっぱしの人間だって認められる頃にもまだ彼女が独り身で、ある程度子供の手も離れて落ち着いてたら、もう一度アタックしようかと思ってるんだ」
「そりゃまた随分気の遠くなる話だな」
この時、まったく同じ科白を同じタイミングで言ってしまい、イーサンとルーディは顔を見合わせて笑った。
――なんにしても、事態はこれで一件落着とまではいかないが、一応一旦の解決は見たわけだった。とりあえず、イーサンとしては親友のラリーの様子がプライドをずたずたに傷つけられたということもなく、元気そうでほっとした。そして、男という生き物がいかに繊細かという話をマリーに説教したりしなくて良かったとも思った。
こののち三人は、街の中心地のほうへ出かけていくと、ボーリングやビリヤードをして気晴らしをした。そしてバーで酒を飲んで盛り上がってから、寮の門限内の時間にルーディとラリーは戻り、イーサンは屋敷のほうへ帰ったわけだった。
『それで、おまえ、どうすんの?』
レストランでラリーが席を外した時に、ルーディはイーサンにそう聞いていた。
『どうって……』
『いや、イーサン。おまえはとてもいい奴さ。親友のラリーに好きな女のことを譲ってやって、しかもマリー・ルイスがそんな相手のことを振ったというんで、本気で怒ってる。そのことも全部嘘じゃないって俺にはわかってるさ。だが、ひとつ屋根の下に暮らしてるとなると――俺個人の意見としては、あとは時間の問題だと思うわけだ』
『俺だって、今はまだどうにも出来ないよ。何分、物事には順序ってものがある。俺はキャサリンともまだ別れてないし、もう二か月後には院の進学試験もある。ラリーの言い種じゃないが、今はまだ他に優先すべきことや片付けるべきことがあって、何かをどうかするっていう段階じゃないと思ってるんだ』
イーサンがそう言って苦しげな吐息を洩らしていると、隣に座っていたルーディは、彼の腕のあたりを親しげに叩いて寄こしたものだった。
『まあさ、俺はラリーの味方でもイーサンの味方でもないって思っておいてくれ。だから、おまえがもし……近いうちにマリー・ルイスとそうなったとしても、親友を裏切っただのなんだの言うつもりはないんだ。そのこと、覚えておいて欲しい』
――正直、ルーディにそう言われたことで、イーサンはかなりのところ気が楽になった。もちろん、イーサンもまだ今の段階では動けない。それに、ラリーの話していた言葉の中に、彼は引っかかりを覚えてもいた。つまり、マリー・ルイスは自分に語ってもいないことを何か、ラリーには話したということをイーサンは察したのだった。
うまく説明できないものの、イーサンの持っていない何かをラリーは所有していたからこそ、マリーは初めてのデートで相手におそらくは敬意をこめてそのような話をしたものと思われた。そのことを思うとイーサンは何故か、ふたりと別れた帰り道で気持ちの腐るものを感じたかもしれない。
ユトレイシアの歓楽街からイーサンの自宅までは、バイクでそう大した時間がかかるわけではない。だがこの時彼はマリーのことで考えごとをしていたせいで、危うく接触事故を起こすところだった。横転まではしなかったものの、大学生活最後の屈辱の試合で怪我を負った脇腹に負担がかかったことで……そこに再び痛みを覚えていた。
それでバイクをガレージに収めると、何も言わずにリビングへ入っていき、上着をすべて脱ぐと、救急箱から取った湿布を脇腹に貼ることにした。奥のダイニングのほうからは夕食のいい匂いが漂ってきており、イーサンは一気に気の抜けるものを感じたものである。
「あ、あの……」
玄関のドアが閉まる音がしたため、イーサンが帰宅したのだろうと、マリーにはわかっていた。そこで、今朝とは違い、自分はもう何もどうとも思っていないということを態度で示そうとして――彼女はイーサンが苦痛に顔を歪め、痣のある脇腹に湿布を貼る姿を見たわけだった。
「ああ、これか。べつにどうってこともない、試合でタックルくらった時の打ち身だよ。もうほとんど治ってたんだが、ちょっと痛みがぶり返してな」
この時、マリーは「いつも通りの普通の態度で」と思いながら、イーサンが帰ってくるのを待っていたため――暫くの間彼のまわりをうろうろしていた。何より、怪我の具合が心配だったというのがある。
「大丈夫なんですか?ほんとに……」
「ああ。べつに心配はいらん。それより、ラリーに会ってきた。あいつ、一度デートして振られたくらいじゃ、あんたのことを諦めるつもりはないらしい。これからロースクールを出て弁護士として一人前になるまでにも時間がかかるし、その頃にはうちの豚児どももある程度手がかからなくなってるだろうから、そしたらまた再アタックするとさ」
「…………………」
この話はもうしたくないと見えて、マリーは無言のまま、キッチンのほうへ戻っていった。そして、煮込み料理の火を止めると、子供たちに夕食の時間であることを知らせたわけだった。
「俺はいいよ。ラリーたちと一緒にメシも食ってきたからな」
そう言ってイーサンはその場を去ろうとしたものの、捜査員Cことココの捜査報告のことが気になって、リビングでテレビを見つつ新聞を読むという振りをすることにした。彼の思っていたとおり、ココは同学年のメラニー・リードから色々と情報を仕入れてきたらしい。
「だからあ、おねえさんはラリーさんが駄目なら、どんな人がいいのよ?言っておくけど、魚みたいなギョロ目のフォードさんは絶対ダメよ。あと、学校で理科の教師してるっていうマクラウドさんもわたし、あんまし好きじゃないな。第一、学校の先生ってところが何より嫌よ。学校でだって先生には色々口うるさく言われるのに、家に帰ってきても先生がいるだなんて、うんざりどころかぞっとするわ。あと、ハゲで三人の子持ちのあの人……名前なんて言ったっけ?えっと、ええっと……」
「ウィル・エイブラハムさんだろ」
ロンが助け舟を出すと、ココは「そう!その人よっ!!」と言って、げらげら笑いだす。
「第一、おねえさんとは年が離れすぎよお。っていうか、身の程を知れっていうか、自分の太った腹、鏡で見たことあるの?みたいな……」
「ココちゃん、そんな言い方いけません」
暫く黙って話を聞いていたのに、マリーがそうたしなめると、ココは一応「はあ~い」という返事だけはしておいたようである。このあと、子供たちがそれぞれ教会学校であった話などをしだしたため、イーサンはそっと席を外して三階の書斎へ向かった。
そこで、ラリーが渡してくれた去年と一昨年の院の試験問題を順に解きはじめる。ここでイーサンにはひとつ、はっきりわかったことがあった。もしラリーがマリーのことをデートに誘い、振られてなかったとしたら――おそらく自分がそうなっていたということだった。キャサリンときちんと別れたあとに告白しようとどうしようと関係がない。自分はギョロ目のフォードや口うるさい学校の理科教師やハゲで三人の子持ちししゃもとも、実は大して存在に差がないのだ。
(そうだ。ラリーの奴がただ、偶然遊びにきた日にあいつが水着姿だったもんで、すっかり「これは運命だ」と思いこんじまったみたいに……俺だってそうなんだ。さっき、マリーが自分の腹筋のあたりに目を注ぐのを見て、彼女がそわそわしてるのを自分に都合よく勘違いしていた可能性というのは高い。俺のこの立派に割れた腹筋に見とれてたんじゃないかと思って、「この女も男の裸を意識したりするのか?」とでも勘違いしたに違いない)
ここでイーサンは、ユトランドの歴史問題を解くのがつらくなってきて、ひとり顔を赤くしながらマホガニーの机の上に突っ伏した。今では、イーサンにもマリーの性格がよくわかっているがゆえにわかる。彼女はただ自分の痣の様子が心配で、上半身裸の男のまわりを心配気にそわそわしていたに過ぎないのだ。ようするに、言わば善意のそうした行動を、自分はこれからも何か都合よく勘違いし続けることだろう。実はそれが何より問題なのだ。
(ようするに、ギョロ目や理科教師やハゲのししゃもも、おそらくはマリーが子供の様子を訊ねたりなんだりしたという、それだけのことを自分に都合よく勘違いしてるだけなんじゃないのか?そして俺は、そんな連中と自分だけは絶対に違うと思ってたんだ。だが、あの女の中じゃたぶん同じだ。つまり、恋ってのは……誤解と勘違いを運命と思いこんだりするってことの集積で成り立ってるんじゃないのか?しかも、こんなことをあんな、恋愛経験値の大してなさそうな女に、この俺が気づかされるとは……)
だがもちろん、そんなふうにしてお互いにお互いのことを<運命の相手>として勘違いしあうという奇跡的といっていい一致があるからこそ、恋愛というのは素晴らしいものでもあるのだろう。なんにしてもこの時、英文法の難題を解きながら、イーサンはマリー・ルイスとは距離を置くことに決めた。
何より、マリー・ルイスに関することで唯一彼が心配していたことは杞憂に終わったのだ。それはつまり、親友ラリー・カーライルと彼女が魂の一致したような親密な交わりを持つということであり、またその次には、彼のような立派な男では駄目だが、もっとみすぼらしくて自分が救ってでもやらなければどうにもならないシシャモ男と、自己犠牲的精神から彼女が結ばれるということであり――とにかくなんにせよ、それらの心配の多くは過ぎ去ったのである。
もちろん、これからも時々日曜礼拝には不本意ながらも出席して、イーサン自身が睨みをきかせる必要はあるし、ラリーがマリー・ルイスのためにも立派な男として成長しようとしているように、その用意はイーサンにも必要なものだった。そこで、まずは院の試験を突破する必要があると思い、こうして勉強しているわけだが――この過程でイーサンはシャープペンシルを無駄に何本もボキボキと折った。
彼は今まで、恋愛で無駄弾を撃ったことはないし、いつでも恋愛で主導権を握っているのは女性のほうではなく彼自身だった。何故といって、放っておいても他にいくらでもメスの対抗馬が出現してくれるからであり、だからこそ初めてわからなくなったのだ。
どうすれば男としてマリー・ルイスの気を引けるのかも、そもそも彼女にとって自分はまるで好みのタイプでないため、最初から論外視されている可能性があるのかどうかも……イーサンにはまるでわからなかった。
そしてこののち、イーサンが唯一取れた手段というのが、実に自爆的な方策としか言いようのないものだった。つまり、恋人のキャサリン・クルーガーを屋敷へ連れてきて、マリーが嫉妬するかどうか、その反応を窺おうという、女性のうちどちらに対しても大変失礼であり、最低な手段を取るくらいしか、彼には確実に意中の相手の本心を知る方法が残されていなかったのである。
>>続く。