さて、今回はわたしがクオレで感動した場面などについて、ちょっと書いてみようかなって思います♪(^^)
実をいうとですね、わたしが一番感動してちょっと涙でそうになったのが……物語の間に挟まっている(1月につき一編☆)お話で、下巻の3月のところにある「ロマーニャの血」という物語
でも、ここにあらすじとか書いてしまうと、これから「クオレ」を読む人がいた場合、せっかくのその感動が台無しになってしまう気がするので――本編のほうについて少し触れてみたほうがいいのかなって思ったりします
あと、他に1月に一編ずつ収められているお話としては、「母をたずねて三千里」や「難破船」などもありますし……上巻の一番最初のところに、物語のはじめの言葉として「この本は、九歳から十三歳までのみなさんにささげたもので、『イタリアの町立小学校四年生のひとりが書いた、一年間の物語』という題をつけてもいいのです」――とあるとおり、イタリアはミラノの小学校に通う小学四年生のエンリーコという少年の視点を通して、お話のほうは進んでいきます。
主人公のエンリーコは割と平均的というか、平均よりもちょっと上といった感じのする、でも「普通のどこにでもいる男の子」かなといった印象の子で、同じクラスにはとても成績のいい優等生のデロッシや、ミラノから八百キロ離れたカラブリアからの転校生、体の大きな心優しいガルローネ、彼からよく庇ってもらっているネッリ、他に、家庭の貧しいクロッシや、薪屋の家の手伝いと勉強の両方をよく頑張っているコレッティ、ひょっとこづらをして周りのみんなを笑わさせる左官屋くん、この歳にしてすでに商売上手なガロッフィ……などなど、今の小学校のクラスにもちょっとこんな子いるかな、みたいに思ったりもします
それと、クラスの嫌われ者のフランティという子もいるのですが、この子、学校でのおいたがすぎて、学校から追い出されてしまうのですが、お母さんが担任の先生に泣いて頼んで、「どうかこの子をお願いします!後生ですから……」みたいに言ったことで、再び復学することになるんですよね。今の学級崩壊の芽のようなことは、昔の学校にもあって、やっぱりひとりこういう素行が悪く勉強もやる気がなく、クラスで騒いだりする子っていつの時代もいるもので、忍耐強い担任の先生も、とうとう堪忍袋の緒が切れ、一度は学校から出ていかされてしまうという。。。
>>「ああ、校長先生、おねがいでございますから、どうかこの子をもう一度学校へかよわしてくださいまし!この子は、三日ほど家におりました。わたくしは、この子をかくしておいたんでございます。でも、ほんとうにどうしましょう。もしこの子の父親にこのことが知れましたら、この子はころされてしまいます。お慈悲でございます。わたくしには、もうどうしていいのかわかりません!どうか、どうかおねがいいたします!」
校長先生は、その女の人をそとへつれていこうとした。けれども、女の人はそれにさからって、なおもねがったり、ないたりしていた。
「ああ、この子がわたくしにかけてまいりました苦労を、もし先生がごぞんじでございましたら、きっと同情していただけますでしょう!どうかお慈悲でございます!この子は、きっとよくなると思います。わたくしは、もう長く生きてはおられないと思います。校長先生、わたくしはこの子のために死んでしまいます。でも死ぬまえに、この子がよくなったところを見たいのでございます。なぜかともうしますと……」
と、女の人はいって、わっとなきだした。
「わたくしのむすこでございますもの。わたくしにとっては、それはかわいいんでございます。わたくしは絶望のあまり死んでしまいますでしょう。この子をもう一度いれてくださいまし、校長先生。おそろしい不幸が家におこらないようにするために、そしてこのあわれな女にお慈悲をかけてくださるとおぼしめして、どうかそうしてくださいまし!」
こういって、女の人はすすりなきながら、両手で顔をおおった。ところが、フランティのやつはけろっとして、下をむいていた。校長先生はフランティをじっと見て、ちょっと考えこんでいたが、やがてこういった。
「フランティ、きみの席につきなさい」
すると、女の人はすっかり安心して、両手を顔からはなすと、ありがとうございます、ありがとうございます、といいだして、校長先生に口をひらくひまもあたえなかった。そして、目をふきふき、出口のほうへあるきだしながら、口ばやにいった。
「いいかい、おまえ、たのんだよ。みなさん、我慢してやってください。ありがとうございます。校長先生。ほんとに人だすけをなさいました。いい子になるんだよ、いいかい、おまえ。さようなら、みなさん。ありがとうございます、校長先生。いずれまたお目にかかりまして。みなさん、どうかこのあわれな母親をおゆるしください」
女の人は出口のところで、もう一度むすこのほうを、たのみこむような目つきで見てから、うしろにひきずっていたショールをもちあげると、青ざめた顔をして、背中をまるくして、頭をふるわせながら、でていった。階段をおりていくあいだも、まだ咳をするのが聞こえていた。校長先生は、クラスじゅうがしーんとしずまりかえっているなかで、フランティをじっと見つめていたが、やがて、ふるえあがらせるような調子でいった。
「フランティ!おまえはお母さんをころしてしまうぞ!」
みんなフランティのほうをふりむいて見た。ところが、あの恥知らずのやつはにやにやしていた。
(『クオレ~愛の学校~』アミーチス作、矢崎源九郎訳/偕成社文庫より)
ああ、本当に涙が出てしまいますねいつの時代も子を思う母の心は同じもの……と思いますし、この担任の先生もとても良い先生で、昼間はこうして小学校の普通のクラスを教え、夜は夜で労働者の人などが通う夜学のほうでも教えているという……もちろん、その合間に小学校の子供たちの授業の準備ですとか、色々しなくてはいけないことを思うと、体を壊さないほうが不思議というくらいで、実際このペルボーニ先生はのちに体を壊されてしまいます。
それで、確かお父さんの手紙だったと思うんですけど、「こうした先生たちにおまえは敬意を払いなさい」みたいに息子のエンリーコに書いてるんですね。この「先生に敬意を払わなければいけない」というのは、今も当然同じことなはずなんですけど、現代の風潮としてはなかなか難しいところがある……という、一抹の悲しみも読んでいて覚えてしまうというか(^^;)
お話の割と最初のところで、ロベッティという少年が、自分よりも小さな子を庇い、馬車に足を轢かれてしまうのですか、物語全体を通して「自己犠牲の精神」ということが貫かれているといっていいと思います。ただ、こう書くといかにもお説教くさく感じるところを、「クオレ」は巧みに描いていると思うんですよね
それから、社会の弱い人に対して優しくしてあげなさい、優しい眼差しを持って接しなさいということにも言及されており、エンリーコは盲学校をお父さんと一緒に訪ねたりしていますし、他に「愛国心」について教える箇所もとても多いです。
なんていうか、すごく人の心の微妙さというか、そういうことは今の時代もまったく同じようにありえる……ということについて、物凄く巧みに描かれていると思うのです。
その例として、ちょっと文章の一部を再び抜粋しようと思ったんだすけど、長くなると思ったので、フランティが学校を追い出された場面を抜粋してみようかなって思いますm(_ _)m
>>先生は、ときには、あいつのわるさを見ないふりをしている。するとあいつは、図にのってもっとひどいことをやる。先生がやさしくおしえようとすれば、あいつは先生を小ばかにする。先生がつよくいうと、両手で顔をおおって、ないているようなふりをしているが、そのじつ、わらっている。フランティは、学校から三日間の停学をくったことがあるが、ふたたびでてきたときには、まえよりもいっそうわるく、いっそうごうまんになっていた。
ある日、デロッシがあいつにむかって、
「もうよしたまえ。先生があんなにこまっていらっしゃるじゃないか」
といった。すると、フランティのやつは、横っぱらにくぎをお見まいするぞ、といって、デロッシをおどかした。
けれども、けさは、とうとう、犬のようにおいだされてしまった。先生が、毎月のお話の一月の分の、『サルデーニャの少年鼓手』の下書きを清書するようにと、ガルローネにおわたしになっていたとき、フランティのやつが床にかんしゃく玉をたたきつけたので、それが破裂して、まるで鉄砲でもうったように、教室じゅうにひびきわたった。クラスのものは、みんなびっくりぎょうてんした。と、先生はすっとたちあがって、さけんだ。
「フランティ!学校からでていきなさい」
フランティはこたえた。
「ぼくじゃありません!」
しかも、あいつはわらっていた。
先生はくりかえしていった。
「でていきなさい!」
「ぼくはいきません!」
と、フランティがこたえた。
とたんに、先生はかっとなって、いきなりフランティにとびかかると、両腕をつかんで、席からひきはなした。フランティは歯をむきだしにして、けんめいにもがいた。しかし、先生はたいへんな力でひきずりだしてしまった。それから先生は、まるで、おもたいものでもひきずるようにして、フランティを校長先生のところへつれていった。が、まもなく、ひとりで教室にかえってきて、机にむかって腰をおろすと、両手で頭をかかえこんで、いきをせいせいやりながら、いかにもつかれきった、くるしそうなようすをなさった。見ているのも、ほんとうにお気のどくなくらいだった。
「三十年も、学校でおしえてきたのに!」
と、先生は頭をふりながら、かなしそうにさけばれた。
ひとりとして、いきをするものもなかった。先生の手はいかりにふるえていた。ひたいのまんなかにある、まっすぐのしわはふかくなって、まるで傷のように見えた。お気のどくな先生!みんな先生をお気の毒に思った!デロッシはたちあがって、いった。
「先生、かなしがらないでください。ぼくたちはみんな、先生を愛しています」
すると、先生はいくらかあかるい顔になって、そしていった。
「授業をつづけましょう、みなさん」
(『クオレ~愛の学校~』アミーチス作、矢崎源九郎訳/偕成社文庫より)
いえ、ペルボーニ先生の心中を思うと……本当に悲しいですね
でも、生徒の割合としてまだ主人公のエンリーコたち、「まともで真面目」な生徒のほうが多いからいいとしても……なかなか今の時代は難しいような気がします(^^;)
「先生の言うことは聞かなくちゃいけません!」で昔は済んでいたところが、「え?先生が先生だからっていう理由だけで、なんで先生の言うこと聞かなくちゃなんないのー?(ニヤニヤ☆)」みたいな生徒が半数を越えると、もうそれは先生ひとりの責任だけでどうにかしろって言うのは……そもそも無理なんじゃないかなという気が、わたしなどはしています
ではでは、次回もまた『クオレ』のお話でもいいんですけど……またこれから小説の続きを読んで、前文に何を書くかはそのあと決めようかな~なんて(^^;)
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【29】-
ココはその後も、ケイティとは仲違いしたまま、同じクラスの他の女子たちとそれなりにうまくやっていくということになった。この状態というのは結局、ふたりが五年生になってそれぞれ別のクラスに別れる時まで続くということになる。
「ケイティとはお互い同じクラスにいないみたいに振るまってる」とココから聞いた時、最初は心配したマリーだったが、「心配することないのよ、おねえさん」と言われて、少しだけ安心したかもしれない。「っていうかね、わたし、あれから一度もあの子と話してないけど、わかるんだー。ケイティってもともと優等生でしょ?だから、本当はあの子も今じゃ後悔してるのよ。でもあの時は一時的な激情からそうすることしか出来なかったんでしょうね。しかも、どう考えても自分のほうが悪いわけじゃない?わたしは言ってみれば被害者なわけだから、むしろ目が合いそうになったら、ケイティのことをじっと見つめてやんのよ。でも少し罰が悪そうに逸らすのはいつも向こうだからね。おねえさん、わたしはもうこのパワーゲームに勝ったのよ。だから、何も心配しないで。ケイティとはああいうことになっても、今はもう他の子たちと仲良くやってるから」
実際、その言葉のとおり、ココは毎日元気に学校へ通い、夕食の席でも相変わらず誰それがどうしただの、なんとかいう先生が馬鹿みたいなことを言っただの、彼女がかまびすしく話すことに何も変わりはない。ただ、そこにケイティの名前だけがないという、それだけだった。ゆえに、マリーもだんだん心配しなくなっていったのである。
ミミも大体同じように、毎日元気に幼稚園のバスに揺られて通っていた。唯一休んだのは、風疹になった時くらいで、それ以外では特にどうということもなく、小さい子供なりにこのことを自分の義務のように考えて幼稚園へ行き、帰ってきてからは大体のところ楽しそうにしていることが多かった。ランディも毎日のように友達を家に連れてくるし、四人兄妹のうち、三人は大体のところ学校でうまくいっているらしい……といったようにマリーもイーサンも認識していた。
けれど、ロンから「クラスにひとり大嫌いな奴がいる」と聞いて以来――イーサンはともかくとして、マリーはロンのことを少し心配していた。ジョン・テイラーというその少年は、毎日クラスの立場の弱そうな子を攻撃しては喜んでいるといったような、そうした生徒だということだったからだ。
一応、マリーはこのことをイーサンにも話しておいた。だが、彼の答えというのは「そりゃもう仕方がないな」というものだったのである。
「だって、そうだろう?これから先、どこへ行ったって自分にとって嫌な奴、気に入らない奴ってのは必ず出てくる。その都度逃げだしていたら、あいつ自身の生き場は最後、この屋敷の自分の部屋だけってことになるぞ。嫌々ながらもその環境に耐えるなり適応するなりするってのも、ある程度は必要なんじゃないか?まあ、あんたはお優しいからな、俺の言ってる言葉がおそらくは冷たく突き放しているように感じられるだろうが……とりあえず、アメフトで活躍したことのある俺が兄貴だっていうんで、あいつ自身はいじめられたりしないんだろ?まあ、自分以外の生徒が弱い者いじめに合っているのが忍びないってのもわかるが、何分、俺がそのガキ大将の奴をぶん殴って始末をつけるってわけにもいかないからな」
もちろんマリーはこの時、ロンの担任がいかに頼りないかについても言及した。ジョンが誰かにプロレス技をかけたり、柔道の技をかけるのを直接止めるのは、副担任のケリー・ローズという女性の先生で、彼女もジョンの扱いにはほとほと困り果てているらしいということも……。
「ああ。ココの言ってたとおり、そのローズ先生ってのはぼんやりマクドナルドのお目付けみたいになって支えてるっていう実に御苦労な先生らしいな。だが、基本的にガキ同士の間で起きた問題ってのは、ガキ同士でどうにかするしかないもんだ。ロンの奴、新しい学年になってから随分熱心に勉強するようになったと思ったら、ジョン・テイラーのような奴がいない世界に行きたいから、なるべくいい私学校に入りたいんだとさ。ま、これはある意味、俺にとってはいい傾向だ」
マリーはイーサンのこうした意見を、冷たいとは思わなかったし、むしろ一理あるとも思っていた。子供同士の間で起きた問題は、子供たちの間で解決できるのが一番いい道ではある。けれど、自分は攻撃されないまでも、あんな顔を見ただけで反吐の出そうな奴と同じクラスだというだけで、精神的に参りそうだとロンが言うのを聞いて――マリーはやはり繊細な我が家の三男のことが心配なのだった。
とはいえ、ロンもまた特に何か嫌がったり仮病を使うといったこともなく、毎日学校には通っていたし、確かに成績のほうはテストの点数自体はとても良かった。同じクラス内での一番の仲良しはショーンであり、その後何人かの親しい友人も出来、マリーはロンが連れてきたその子供たちの顔と名前をすぐに覚えたほどだった。けれど、感謝祭が過ぎ、十二月に入りすっかり寒くなった頃……ロンが顔に青痣を作ってきたことに、マリーは驚いた。
「なんでもないよ。大したことじゃないんだ」
「なんでもないってことないでしょ!?ジョンがやったのね?向こうが突然喧嘩を仕掛けてきたの!?」
ランディとココもすでに帰宅しており、それぞれホットチョコレートやココアを飲んでいるところだった。そこへ最後にやや遅くなってロンが帰ってきたのだ。
「うっわ。ロン、いたそ~!」と、ココ。「でも、随分うまく青痣が目のまわりにまあるくついたもんね。まるっきりパンダみたいよ、あんた」
「へええ。ロンにも誰かと喧嘩する気概があったとはなあ。兄ちゃん、びっくりだ」
ココとランディは自分の兄弟に大して同情もしてない様子で、それぞれクッキーをぼりぼり頬張っていた。唯一、ミミだけが「ロンにいたん、いたそうね。かわいそ、かわいそ!」と、自分の目のまわりを擦っていたものである。
「それで、一体何があったの?」
マリーはリビングのほうにロンのことを連れだすと、彼からカバンを受けとり、隣に座った彼の手をぎゅっと握ってさすった。今日、気温のほうは零度しかなく、手袋をはいてなかったロンの手はすっかり冷え切っていたからだ。
「あのね、おねえさん」
マリーにはよくわからなかったが、ロンはこの時何故か顔を赤くしていた。
「このことはぼく、イーサン兄ちゃんに話したいんだ。ほら、何分、男同士の話なもんだから」
「えっと、でも今日イーサンは確か……お友達と出かける予定だとかって。帰りは何時になるかわからないし、夕食もいらないってことだったんだけど……」
「そうなんだ。でもいいんだ、明日にでもイーサン兄ちゃんに喧嘩になった原因とか、そういうことを全部話す。それでいいでしょ?」
ロンはそう言い残して、マリーから逃れ去るように部屋にカバンを置きにいき――そこから戻ってきた時には、ロンはいつものロンだった。むしろいつも以上に元気そうに見えるくらいだったかもしれない。
マリーはそのことを不思議に思いながらも、ロンが無理に元気そうに振る舞っているようにも見えず、とりあえずそのことについては安心したかもしれない。むしろ(どうしてこういう時に限ってイーサンはいないのかしら)と、少しばかり彼に苛立ちを覚えたほどだった。もし彼がいれば、ロンから速やかに話を聞き、どういうことなのか、その事情をマリーも聞かせてもらえるからだ。
この日、イーサンは大学の寮のほうで例によってラリーやルーディとポーカーをしつつ、色々と面白おかしい話を酒を飲みながらし――それでも十二時を少し過ぎた頃には帰宅していた。そして、家族全員がすっかり就寝したあとだったようなので、足音を忍ばせながらキッチンへ行き、夕食のおこぼれが何かないかとまずは冷蔵庫のほうを漁ったのだった。
「……イーサン兄ちゃん」
別に悪いことをしていたわけでもないのだが、イーサンは一瞬びくっとして後ろを振り返った。生ハムのアスパラチーズ巻きがあったので、それを摘みにビールでも飲み直すかと、彼はそんなふうに思っていた。
「なんだ、ロンか。どうした?眠れないのか?」
「ううん。兄ちゃんが帰ってくるの、ずっと待ってたんだ。ちょっと今日、学校で色々あったもんだから」
ストライプのパジャマを着たロンはダイニングテーブルの、兄の向かい側に腰掛けた。兄の食べているものが美味しそうに見えて仕方ないが、(もう歯も磨いちゃったしな……)とぼんやり考える。
この時、イーサンは不思議とロンの目の痣には気づかなかった。部屋の照明を一番弱くしか点けていなかった、そのせいかもしれない。
「今日……あ、もう十二時過ぎちゃったから、きのうか。ぼく、喧嘩しちゃったんだよ。で、目に痣こさえちゃったもんだから、おねえさんがすごく心配して……」
「ほほう」と、イーサンは缶ビールを片手に、むしろ感心したように言った。彼の持論によれば、十代を通して一度も殴りあいの喧嘩をしたことのない男の子など、将来ろくなものにならないのだった。「そりゃ良かったな。まあ、マリーおねえさんはお優しくていらっしゃるから、きっとその話を聞いて真っ青になったことだろうがな。よくやったぞ、ロン。それでこそ俺の弟だ。で、その相手ってのは例のテコンドー野郎か?」
「う、うん。ぼくもね、面倒なことにならないよう、一応注意はしてるつもりだったんだ。だけど、あいつが……ジョンの奴が、おねえさんのこと、侮辱するようなこと言ったもんだから……」
イーサンはここで、ロンに気づかれないように内心で溜息を着いた。確か、ココもおねえさんのことを色々悪く言われたと前に言っていたことがある。そういう意味で、いくら家族がまとまって幸せに暮らしていようとも――「父と母が何者なのか」ということは、やはり運命として子供にはついてまわるものなのだと、そう思った。
「なんだ?何を言われた?おまえ、それはおねえさんに言えないことだから俺を待ってたんだろう。そういや、そいつは俺が元有名な大学のフットボウラーなもんで、ロンには手出ししなかったんだよな?ということはあれか。一度喧嘩しちまった以上、明日からはもう容赦してもらえないってんで、眠れないほどビビッてたのか、おまえ」
「そんなんじゃないよ」
ロンは憮然としてそう言った。
「だってあいつ、おねえさんのこと、元は娼婦で、財産目当てに五十以上も年の離れた男と結婚したんだなんて言うんだもの。だからさ、ついカッとなってお互いとっ掴み合いの喧嘩になったわけ。こんなことになったあとでどんなことになるかってぼくも思ったけど、後悔はしてない。でね、今じゃあいつの味方ってのも随分数が少ないんだよ。むしろ友達っていうより、脅しつけて一緒にいるようにさせてるだけっていうか……そんなわけで、クラスの八割はぼくの味方なんだ。だけどこれからどうなるかはわかんない。ぼくはまた明日、喧嘩なんて何もなかったみたいな顔して、あいつのことを無視するだろう。あいつのほうでもこのまま、ぼくのことを放っておいてくれるといいんだけど……」
「ふうむ。そりゃ確かにマリーの言うとおり、担任がクソの役にも立たず、副担が女の先生だってのは、ちょっと面倒なシチュエーションだな。ランディの担任の先生みたいに、そういう乱暴な生徒のことは首根っこ押えるような感じじゃないとなあ。それで、おまえ何か俺に相談したいことがあって待ってたんだろ?」
ロンはここで、(歯、磨いちゃったけど食べちゃえ)と思い、生ハムのアスパラチーズ巻きをひとつ食べた。すると、何故かイーサンがラムネを一本取りだしてきて、ロンの前に置いてくれる。とても美味しかった。
「うん。イーサン兄ちゃんならこういう時、どうするのかなと思って……あのね、ぼく、今クラスの中で一番の優等生みたいにみんなから思われてるんだ。で、たまにちょっとあいつの弱い者いじめから他の子を守ってやったりとかさ。だから急に人から頼られるような立場になって困ってるっていうか。ぼくのほうは相も変わらずの弱虫なんだけど、なんかこう……みんなが期待してる役割を演じなくちゃいけないのかな、みたいな」
(なるほど。確かにこりゃ、マリーの手には余る相談だな)
ぐびっとビールを飲み、生ハムのアスパラチーズ巻きをぺろりと食べると、何故かロンも兄の真似をして、ラムネをぐびっと飲んでいる。
「そうだなあ。その相談はあれだ、ラリーが一番の適任かもしれんな。あいつも、これはあくまで本人が言うにはということだが――元は実に内気で繊細な性格なんだと。ところがあの物凄い赤毛だろ?となると、昔からクラスの変な奴らに睨まれやすかったらしい。ラリーはそれを自分に課せられた呪われた運命みたいに思い、とにかくクラスのでかくて強いような奴と常に対等に渡りあうか、あるいは自らの軍門に下した。ロン、おまえもそのテコンドー野郎に勝ちたきゃ、ラリーと同じようにするしかないな。つまりは、『本当はぼく、内気で繊細なのに』と思いながらも、周囲の求めのとおりに行動しているうちに……何故かいつの間にか本当に強い男になってるっていう、そんなふうにする以外、今おまえのいるクラスで生き延びる手はないんじゃないか?」
「そ、そうかな。ぼく、なれるかな。ラリーさんみたいに……」
マリーに振られて以来、とんとマクフィールド邸にやって来なくなったラリー・カーライルだが、ロンはこの赤毛にエメラルドのように澄んだ瞳の、兄の親友のことが大好きだった。尊敬という言葉では足りず、兄のイーサンに対するのと同様、崇敬しているといってもいいくらいに。
「そこのところは、これからおまえがうまくやっていけばいい。なんにしても、一度ぶつかっていく勇気がおまえにはあった。あとは二度、三度と同じことを繰り返せばいい。この場合はな、勝つか負けるかじゃないんだ。ロン、おまえがその……ジョン・テイラーとかいうガキ大将に立ち向かっていくことで、まわりの生徒にもあいつなんか本当は怖くないみたいに思わせることが大事だな。どうせそいつ、力だけで頭のほうはそんなによくないんだろ?」
「うん。たぶん、成績は一番下か、下から数えたほうが早いくらいじゃないかな。で、なんかカンニングペーパーとか自分の手下を脅して作らせたりとかして……でも、みんな答えが一緒だったりしたらやっぱりバレるよね?ああいうの見てるとほんと、『あ、コイツほんとに馬鹿なんだなあ』って思ったり」
ここでイーサンは、いかにも愉快そうに笑った。
「そうだ。その意気だ。虎の威を借る狐って言葉の意味とは違うがな、キツネがずっと虎の毛皮を着てるうちに、本当に虎みたいになるってのは、実際よくある話さ。ま、俺が兄として可愛い弟にしてやれるアドバイスってのは、そんなところだな」
このあとイーサンは、ビールの缶をゴミ箱に捨てると、ロンの頭を「よくやった」と言ってぐりぐり撫でてから、自分の寝室へ行った。ラリーやルーディと寮のほうで楽しく話してきたこととも相まって、彼はこの時実に上機嫌だった。
『でさあ、その編集者の奴、俺になんて言ったと思う!?「君はもしかして童貞でもあるのかね?」とまあ、こうきたもんだ』
酒を飲みながら三人でジェンガをはじめた時に、ルーディは怒り心頭に発した様子で開口一番そう言った。
『童貞かあ。そこは冗談で、「まったくそのとおりでございます」って言ってみちゃどうだったんだ?』
三人でテーブルを囲み、インスタントヌードルを食べながら、イーサンは笑った。ラリーは当然、この話についてはとっくに知っている。
『ルーディの小説はイーサンも読んだだろ?女が色仕掛けで男のことを骨抜きにしたり騙したりするっていうのに、セックスの描写がいまいち盛り上がりに欠けるって、そう言われたんだってさ』
『そうかな。俺が読んだ限り、そうでもないと思ったがな。というより、あれ以上詳しく描写したらむしろ下品になるってーか、それが目的ならポルノ小説でも読んじゃどうなんだっていう、そういう話だよな』
以前、イーサンが寮にいた頃もよくそうしていたように、三人はずるずると日本製のインスタントヌードルをすする。毎日マリーの栄養満点の美味しい食事を食べているイーサンだが、たまにこうしたジャンクフードを食べたくなることがあるのだ。
『ま、事は俺が童貞かどうかとか、結局関係ねーんだよな。ようするに俺の書いた小説が全体として面白くなかったっていう、そういう話さ』
またしても自分の書いた作品を正統に評価してもらえなかったことで、ルーディは落ち込んでいた。ちなみに彼の恋愛遍歴というのは次のようなものである。フェザーライル校に入る前から、彼には手を握ってキスを交わしたというくらいの<彼女>がいた。だが、フェザーライル校入学後、友人のグループ交際のようなものにつきあわされた結果(フェザーライル校自体は男子校である)、その時点で二股をかけるということになった。結局のところ、こうした関係をふたりのガールフレンドと数年続け、それはルーディがユトレイシア大学へ進んでからも続いた。ところが、ずっと男子校に通っていて、抑圧されていた何かがここで一気に解放され――彼はつきあえそうな女性には無制限にいくらでも声をかけ、自分でも一体何股かけているのかがわからないほどになった。
ルーディ自身も(こんなことではいけない)と思い、まずは古いガールフレンド二人から順に切っていったわけだが、ここである事件が起きる。<ルーディ・ガルブレイスは何股もかけている最低のカス野郎だから、女性は騙されないように気をつけて!>といった言葉が大学の掲示板に貼られた結果、彼はもう学内ではナンパ出来ないようになったわけである。
それでも、学内が駄目ならば学外ということで、ルーディが声をかけて気のない素振りを見せる女性というのは少なかったといってよい。彼は背のほうはそれほど高くないが(160センチ)、整った顔立ちをしており、何より頭がよく機転が利き、口がうまかったのである。
『そうか?俺、あの小説はミステリーとして面白いと思ったがな。結局、その原稿を見せた編集者の奴と嗜好が合わなかったっていう、それだけの話なんじゃないのか』
イーサンがそう言って隣のルーディを慰めると、ラリーも同調した。
『そうさ。どこか別の小説の賞にでも応募したらいい。それにしてもおまえも頑固だよな。自分の親父さんが出版社なんてのを経営してるんだから、そこから本を出してもらえばいいだけの話なのに……あくまでも実力で認められたいだなんてさ』
『ふん!将来になんの悩みもないくらいの資産がすでにある男と、弁護士先生になる予定の夢のない男に言われたかないね。俺は自分が作家としてもしある程度成功できたとしたら、そのあとでならガルブレイス出版から本を出すっていうのでも構わないとは思ってる。でも、最初から親のコネ頼みっていうのだけは、この俺のプライドが絶対に許さん』
ここで、ラリーとイーサンはほとんど同時にげらげらと笑いだした。
『それでこそ、ルーディだ』と、イーサン。
『ああ、まったくな。まあ、あれだ。もしおまえの小説の中に弁護士先生なんてのが出てきて、その種の知識が必要ってなったら、俺に相談しろよ。ただし、「そいつは物凄い赤毛の弁護士で……」なんて描写するのだけは勘弁してくれよ。「その弁護士は物凄い赤毛で、女性にも振られてばかりでいまだに童貞だった」とかなんとか、そんなことを書かないってんなら、まあ俺の知ってることはなんでもおまえに教えてやるよ』
『ふふん。何を言ってる。ラリーが振られたことがあるのなんか、マリー・ルイスひとりきりじゃないか。そういや彼女、今も相変わらずなのか?』
イーサンはここで、少しばかりギクッとした。直感的な反応によるもので、彼自身、何故そんなふうに感じたのかはわからない。
『相変わらずってのは?』
『だからさ、相も変わらずおまえの四人の弟妹の面倒を見て、孤閨をかこってんのかって話さ』
『マリーさんに対して、そういう失礼な言い方はよせ』
ラリーは少しばかり頬を赤らめてそう言った。彼は例外的にマリー・ルイスのことでだけは、いまだにムキになる態度を取るのだった。
『だから、わざわざ孤閨なんて言葉を使ってんだろうが。俺はべつに彼女のことを侮辱したいわけじゃない。ただ、ひとりの男として不思議なのさ。すぐそばには誘惑の塊みたいな色男がいて、こいつは割と最近元つきあってた美人のガールフレンドと別れてフリーになった。ところがだな、この男のことは一切無視して四人のガキどもの面倒を甲斐甲斐しく見てるとなったら……女としてたまには男とデートしたいとか、そんなふうに思うことはないのかどうか、不思議でしょうがないわけだ』
『まあ、あいつはいわゆる古風な女というやつなんだろうよ』
実に答えにくい質問だったため、イーサンはラリーとルーディの双方が納得できるよう、無難な言い方を選んだ。
『親父との間には間違いなく何もなかったと思うがな、言ってみればあいつは今、未亡人なわけだろ?死んだ夫に操を立てて、残された子供たちを精一杯育てていく……そんなことを毎日考えてたら、男とデートすることなんか、これっぽっちも思い浮かびもしないんだろうよ』
ラリーは(マリーさんはまったくそのような、立派な心がけの女性だ)とばかり、うんうん頷いていたが、ルーディのほうはイーサンのこの答えではまるで納得できなかったようである。
『ふうん。でもそれは絶対おかしいだろ。だって、あの人は結局、ケネス・マクフィールドとは肉体関係なんぞなかったわけだ。じゃあ夫に操を立てるだのなんだの、そんなこと自体必要ないわけだろ?しかも、イーサンの弟や妹たちと血の繋がりがあるわけでもない継母なんだぞ。そんなの、絶対変だろ』
もちろんイーサンも、この場にラリーがもしいなかったら、こんな言い方はしてない。それどころか、『マリーとどうにか関係を持てないかどうか、毎日そんなことばかり考えてる』と、そう本心を吐露して相談に乗ってもらっていたことだろう。だが、今この場所ではそういうわけにもいかなかった。
『俺も、あいつの過去のことについては特に何も聞いてないんだ。一度男に騙されてこっぴどい目に遭い、もう男なんかこりごりだと思ってるのかどうか……そんなこともまるでわからんしな。ただ、あいつが男に興味ないっていうか、興味が薄いっていうのは確かだな。俺がこんなことを言うのも変な話だが、見ていてたまに面白いと思うぜ。男に興味のない女こそが、実はこんなにモテるっていうのはな』
『ということはだ、ようするにマリー・ルイスはレズビアンなのか?』
ルーディがそんなデリカシーのないことを言ったため、ラリーは容赦なく彼の額をはたいたものである。
『いってえな。ラリー、おまえあの女のことじゃ絶対俺たちに何か隠してるだろ?ったく、渾身の小説がまたしてもこきおろされるわ、親友の奴は何か隠しごとしてるわ、まったく世の中何ひとつとしていいことなんかありゃしねえな』
――以前ならばこういう時、三人で(あるいはマーティンやサイモンも含めて)街へ繰り出していってパーッと騒ぐということが多かった。だが、イーサンはマリーのことがあるため、ルーディのために誰か女性に声をかけようという気にもなれず、もともとラリーはそうしたことについてはそう積極的でないのだった。
そしてこの時、『男に興味のない女こそがモテる』というマリーと、ラリーの間にある共通点のあることにイーサンは気づいたかもしれない。ラリーもまた、もともと女性に興味がないわけではないが、どちらかというと興味の薄いほうなのに、彼もまた女性の注目の的になりやすい、という意味あいにおいて。
『そういや、孤閨で思いだしたが』と、イーサンはルーディのことを喜ばせるために、別の話を持ちだした。『昔……俺が十代の頃だな。学校の図書室で本を読んでたら、「閨房」とか「閨房術」なんて言葉が出てきてな、俺はその閨房術っていうのがどんなすごい技なのかがわかんなくて、辞書で調べたっていうことがある。なんか中国人が出てくる話でさ、「その男は閨房術を極めていた」だのいうもんだから、俺はそれ、中国武術の一種か何かなんじゃないかと思って、すごく興奮してたんだ。言っとくが、決してエロい意味じゃないぜ。その頃はまだ俺も初心なもんだったからな』
イーサンがそう言うと、思ったとおり、ルーディもラリーも「閨房術」の意味がわかって、げらげら笑いだした。
『すごいな。精力絶倫の中国人か!』と、ラリー。『中国四千年の神秘だな』
『なんだっけな……その小説自体、べつにエロいことを主体にしたような小説じゃないんだ。何分、学校の図書室に置いてあったくらいだからな。でもそのあとの文章に、「その男は射精を遅らせるようにして女を悦ばせた」だのいう文章は出てきてたと思う』
『そうか。すげえもんだな、中国人ってのは。俺なんか、女が背中の出来ものを引っかいた拍子にすぐ出ちまったことがあるが……閨房術を極めれば、そんなこともなくなるんだろうな』
ルーディはそう言って、なおもげらげら笑っている。
『そういやさ、ルーディはモーツァルトがなんでコンスタンツェと結婚したか知ってるか?』
今度はラリーが彼を慰めるのに、そんな話をはじめる。
『いや……まあ、以前は世界の三悪妻といえば、ソクラテスの妻のクサンチッペとモーツァルトの妻コンスタンツェとトルストイの妻のソフィアって言われたらしいが、俺はそんなふうにはあんまり思ってない感じだな。第一、モーツァルトの場合は、姉が駄目だったから妹ってちょっとどうなんだって部分もあるだろ?クサンチッペは後世になって作られた話も多いだろうし、トルストイの妻については、俺はトルストイにも悪いところが結構あったと思うぜ』
『まあ、なんにしてもだ。モーツァルトはどうやら、自分のピンテスが机をぶつから、何がどうでも自分は結婚しなきゃならんと考えていたらしい』
『ピンテスってのは一体なんだ?』
ルーディがそう聞き返した。
『ペニスのことさ』
ラリーが涼しげに答えると、今度はイーサンとルーディがどっと笑った。
『あー、そっか。昔はペニスのことをピンテスって言ったのか』
『俺も今度女をナンパする時にでも言ってみるか。俺のピンテスは結構な大きさだが、どうだい?ってな』
『ははは。じゃあその時は俺もルーディの隣で援護射撃してやるよ。こいつのピンテスは五十六メートルもあるから、一度は見ておくべきだってな』
『アホ!ペニスが五十六メートルもあったら、そもそもどうやって歩くってんだ』
『せ、性欲の化け物……』
最後にそう言ってラリーが床に転がって笑いだすと、その様子を見てイーサンとルーディはさらに笑った。
――まあ、こういった次第で、男同士でしょうもない話をして帰ってきたイーサンは、実に上機嫌だったわけである。さらに、気弱な弟が喧嘩してきたなどというので、イーサンはさらに喜んでいた。
(そうか。喧嘩か。だがまあ、テコンドーを本格的にやってるような体格のいい奴にロンが勝つのは難しいだろうからな……あいつにもキックボクシングか中国武術でも習わせたほうがいいかもしれんな。あるいは俺が軽く、ボクシングの稽古でもつけてやるとか……)
こういったわけで、この翌日からマリーには秘密で、イーサンは弟に少しばかり喧嘩の仕方を伝授してやることにした。もちろん、マリーからもロンがなんて言っていたかということを聞かれたが、「まあ、男同士の話さ」と言って、適当に濁しておいた。話としては、大切なおねえさんのことを娼婦呼ばわりされてカッとしたという部分さえ抜いておけばいいわけだが、ロンがクラス内でどんなことになるのかは、イーサンにも予想がつきかねたのである。
もし、ロンがそのジョン・テイラーという奴にこてんぱんに打ちのめされたとしたら、なんて惨めな奴だろうとばかり、他の生徒もパッと離れていく感じなのかどうか……なんにしても、翌日イーサンが夕食後、会員制ジムのほうへロンを連れだすと、ランディもココもぶーぶー文句を言った。だが、このことをイーサンは「成績の上がったことに対するご褒美だ」と称して、そちらのジムのほうで弟を少しばかり鍛えてやることにしたのである。
もっとも、一度殴りあいになってからのちは、ロンとジョンは互いに用心しあって、また同じようなことにならないようにしていたため――その後、暫くの間はある種の緊張状態が続き、直接対決するといったようなことにはならなかった。
だがロンはその間も兄に稽古をつけてもらって体を鍛え続けた。彼はもう何も失えないと自分で思っていたし、そのような追い詰められた精神状態だった。それに、ジョン・テイラーの生贄になっている可哀想な子たちを助けてやりたいとの気持ちもあり……喧嘩はしたくないが、それでも万一のことが起きた時のための保険として、トレーニングだけはずっと続けるということにしたのである。
実をいうとこの時、ランディは少し落ち着かない気分になっていたかもしれない。今の今まで、弟のロンと兄のランディとの間で、長兄のイーサンはその扱いといったものに大して差をつけたことはなかった。確かに成績のほうはもともとロンのほうが良くはあった。けれど、急に兄のイーサンが弟のことのほうを贔屓にしだしたように感じて――ランディは少し複雑な気持ちだった。
なんにしても、その後クリスマス休暇も過ぎ、お正月も過ぎて学校がはじまっても、ロンとジョン・テイラーの間に変化はなかった。だがその後、二月になってから、男子グループが二手に分かれて雪合戦をするということがあった。これはちょっとした偶然だったかもしれないが、自然この対決はロン・マクフィールド対ジョン・テイラーといった構図になった。
もっとも、他の生徒はあとから因縁をつけられたくないため、ジョンのことを直接攻撃したりはしなかった。だが、ジョン・テイラー側は人数的に不利であり、だんだんに追いつめられつつあった彼は、雪に石を詰めて投げるということをはじめた。そしてこの攻撃は最初のうち、確かに功を奏したのであるが、途中、「こんなのは反則だ!誰か怪我人が出る前に――」と、仲裁に入ろうとしたショーンの頭に石玉が直撃し、彼はその場にぶっ倒れてしまった。
旗色が悪くなった途端、ジョンとその手下とは逃げだし、他の子たちはショーンのまわりにわっと集まった。彼は保健室で手当てしてもらい、随分大きなコブが出来て腫れ上がってはいたが、本人は「大丈夫だよ、このくらい」と言って、元気そうに笑っていた。
この翌日、よすべきだったのかもしれないが、ロンはジョンに対し、ショーンに謝罪するよう求めた。ところが、ジョンはニヤリといつもの嫌な笑い方をして、こう言ったものである。
「ふん。俺が投げた球がショーンに当たったとは限らないだろ。それなのに人を犯人扱いして謝れってんなら、俺とサシで勝負して勝ってからにしやがれ」
この時ショーンは実に気弱そうに、「い、いいよ。ロン。こんなの怪我したうちにも入らないしさ」と小声で言ったが、ロンはもうジョンに対し容赦できないと思った。もしこの時石入りの雪玉の命中したのが他の生徒だったら、また少し事情も違ったかもしれない。けれど、ショーンはロンにとって一番仲のいい親友である。それなのに、見て見ぬ振りはもう出来ないと思った。
「じゃあ、近くの空き地で決闘しよう」
ロンがあまりに冷静にそう言ったため、クラス中がどよめいた。先生はマクドナルド先生もローズ先生も教室にいなかった時のことである。一応、雪合戦の時には雪玉に石を入れたりしないようにという注意のほうは、マクドナルド先生のほうであった。だが、それだけだった。事なかれ主義のマクドナルド先生は、ジョン・テイラーにショーンにあやまるよう強制したりはしなかったのである。
もちろん、ロンにしても勝つ自信があったからジョンに決闘を申しこんだわけではない。だが、話の流れとしてもう後には引けなくなっていた。
「へええ。おまえ、本当に俺に勝てると思ってんのか。生意気だが、まあいいだろう。そのかわりハンデをやるよ。まともに組み合ったとしたら俺が勝つのは当然だからな。ウェザビーさんちの塀の上で掴みあって、先に下に落ちた奴の負けだ。それならある程度公平だろ?」
「…………………」
ジョンが何故こういう譲歩をしたのか、ロンにもよくわからなかった。ウェザビーさんの家というのは、学校近くの空き地にある隣の家で、高い板塀に囲まれた古い木造家屋である。その空き地というのも、以前はある銀行の社宅が三棟ほど建っていた場所で、建物の老朽化により一年ほど前に取り壊されてからは、「社有地」と書かれた看板がひとつ立ったきりの更地となっていた。本当はそんなことをしてはいけないのだろうが、子供たちはそれ以来たまにここでサッカーをしたり野球したりすることがあり――その際、野球のボール、あるいはラジコンカー、あるいはオモチャのヘリコプターや凧などを隣のウェザビーさんの家に喪失してしまうということがあった。
子供たちはこの顔もよく知らないウェザビー氏及びウェザビー夫人が住んでいるであろう木造住宅の建つ敷地のことを、<魔のトライアングル地帯>のように呼んでいた。ウェザビー夫妻がエジプトのピラミッドのような家に住んでいたとか、敷地が三角形をしているとか、そうした奇妙なことではない。何故かわからないが、ウェザビー家には目に見えないなんらかの磁力的なものが働いており、野球のボールや凧など、そうしたものが吸いこまれていく運命にあると子供たちは見なしていたのである。
ゆえに、このジョン・テイラーのロンに対する奇妙な申し出も、そうした何か不思議な運命の磁力が働いてのことなのかもしれなかったが――もちろん、ロンはそんなふうには考えなかった。決闘の日時が翌日の金曜日の放課後に決まると、ロンは自分で言い出したことであるにも関わらず、その日の夕方からはもう食事が喉を通らないほどになった。
「具合が悪いんだ」とロンが言って部屋に引き下がり、ベッドで布団を被っていると、マリーは彼の部屋まで食事を運んだ。風邪かもしれないと思ったため、軟らかい鶏肉や玉ねぎの入った生姜スープと、緑黄色野菜のスムージー、オレンジゼリーやりんごをすったのやイチゴなど、そんなものをお盆にのせて彼の部屋へ運んだ。
「熱はないような気がするけど……」
マリーはロンの額に触れてみたが、一応念のためと思い、体温計を渡した。一分後にピピッと音が鳴ると、37.5分だった。
「でも、ロンは平熱がもともと低いほうだものね。もしかしたら風邪の前触れなのかもしれないわ。明日、学校休む?」
クラスに嫌な奴がいるせいで、精神的にとても疲れる、といったようにはマリーも以前より聞いていた。だから、精神的なものもあるのかもしれないと思い、そう聞いたのだった。
「ううん。明日は死んでも学校へ行くよ」
(そうだ。明日、あいつに勝つためにも、今はしっかり何か食べておかなきゃ)
スープのいい匂いをかぐと、自然食欲がわき、結局のところトレイの上にのっていたものを、ロンはすべて食べた。その様子を見てマリーはほっとし、今度は湯たんぽの用意をして、ロンの足許にそれを入れ、毛布をもう一枚持ってくると、その上に羽毛布団をかけてしっかりと彼の体を温めるようにした。
このお陰で、体だけでなく心のほうもぽかぽかしたロンは、まるで明日自分が死ぬかのような悲壮な顔をしたのち――「ありがとう、おねえさん」と言った。マリーはそんなロンの髪の毛を少しの間梳きすかすと、彼の額におやすみのキスをして出ていったが、彼女とてもちろん馬鹿ではない。学校のほうで何かあったのだろうというくらいのことは当然察していた。
この日、またも寮のほうでラリーやルーディと馬鹿騒ぎしてから帰ってきたイーサンに、マリーはロンのことをあらためて問い詰めていた。それは夜の十一時過ぎのことだったが、いつもなら彼女はこの時間、すでに就寝していることが多い。
「まあ、簡単に要点についてかいつまんで言うとしたらばだ、ロンはジョン・テイラーっていう洟垂れ小僧とクラスの覇権争いをしてるっていう、そういうことなんじゃないか?」
(やれやれ。『抱いて欲しくて待ってた』とかいう、色気のある話ならともなく、またしてもガキのこととはな)
イーサンは酔っていたせいもあり、マリーに対してぞんざいに応対した。『あんた、そんなことより孤閨をかこっててつらいと思うことはないのか?』という言葉が思い浮かぶが、イーサンは冷蔵庫からビールを出して飲み、そのことは忘れることにした。
「じゃあ、ジムに行って体を鍛えてるっていうのは……」
「そいつと万一また喧嘩になった場合の保険ってことだな。つまり、あいつのクラスにはそういう緊張する問題があるから、ロンもただ勉強して帰ってくるって以上に疲れるんだろう。そのことが原因で体の調子が悪くなってもおかしくはないな。もともとあいつは内気で繊細な質だし……なんにしても、俺やあんたがしてやれるのは、ただあいつのことをじっと見守るっていうことだけさ。もっとも、ロンが毎日ナイフをカバンに隠して通うようになったとしたら、その場合はまたちょっと考える必要があるだろうがな」
マリーが暫くの間、考えこむ仕種をしていたため、イーサンは缶ビールを片手に笑った。
「まあ、あんたがそんなに先まわりしてあれこれ心配したってどうにかなるってもんでもないだろう。クラスの八割方の生徒はロンの味方だって話だし、いよいよ切羽詰った事態ということになったら、あいつも俺かあんたに何かの形で相談するだろうしな」
ロンのことよりも――というより、イーサンはこの時自分が何をそんなに普段から不満に感じているかに気づき、ハッとした。
(そうか。この女は四人のガキどものことは始終心配しているが、おそらく俺がなんの連絡もなしに一日くらい留守にしてもどうとも思わないだろう。俺は他のガキどもにマリーがやってるのと同じことを自分にもして欲しいと思ってるわけだ。にも関わらず、そういう種類の愛情の示しは一切ゼロなのに、まるで父親よろしく色々相談されては煩わされる……そのことに腹立ちを覚えるわけだ)
簡単にいえば、マリーやランディ、あるいはロン、あるいはココやミミの間には、愛情を与え、また与えたものが相手から返ってくるといった循環があるが、イーサンとマリーの間にはそれがない。ところが、『あなたも当然弟や妹たちのことが可愛いでしょう?なら相談に乗ってくださって当然だわ』とばかり、何の得なところもなく愛情を引きだされる一方というのが、どうやらイーサンは気に入らないらしかった。
(ふうん。そういうことか)
イーサンはこの話はこれで終わり、とばかり、ビール片手にダイニングから去っていこうとした。けれど、マリーがそんな彼のことを呼びとめる。
「あの、あの子……わたしには詳しく話そうとしませんけど、あなたにならきっと色々話すと思うんです。たぶん学校で何かあったんだと思いますから、少し相談にのってあげてくれませんか?」
(そうすることで、俺には一体どんな見返りがあるんだ?)と言いかけて、イーサンは黙りこむ。というより、本来は彼が兄としてしなくてはいけないことをマリーは十分に肩代わりしてくれているのだから、イーサンは彼女に対し、本来的には文句など言えない立場なのだ。
けれど、彼はそのことがどうにもこの夜は気に入らなかった。
「あんた、何か勘違いしてるんじゃないか?俺は……こう見えて結構忙しいんだ。専業主婦のあんたと違って、やることも色々あるし、人とのつきあいってものもある。そういう中でガキどもが今日学校でああだったのこうだったの、いいかげん毎日言われることにはうんざりなんだ。あいつらは放っておいてもそれなりにうまくやってくだろうし、本当に困った時には俺のほうでも察するか、あいつらのほうで何か言ってくる。マリー、あんたがガキのことを先まわりして必要のない心配までするのは勝手だ。感謝もしてる。だが、あんまりくだらんことで俺のことをこれ以上煩わせないでくれ」
イーサンはマリーの顔を見なかったので、彼女が傷ついた顔をしているかどうかはわからなかった。だが、(いいかげんにもううんざりだ)との気持ちも彼にはあり、こうした怒りを抑えた物言いになってしまった。
(やれやれ。まったく俺も、サイテーな野郎だな。これじゃあいつを襲おうとしたスチュアートの奴と、大して差なんかない)
ドサリと寝室のベッドに倒れ込むと、そこにも彼は自己嫌悪の種を見出して、バツが悪かった。何故といって、机の上のものといった私物には一切触っていないが、ベッドは綺麗に整えられ、床の上だけは彼女が毎日掃除していると知っていたからだ。
(あーあ……マリーの奴とキスしてえな)
しかも、そうした種類の何がしかさえあれば、自分はロンの相談にも喜んでのっていたろうことを思うと、イーサンは自分の浅ましさに呆れつつ、かといってそのことを反省するでもなく、そのまま眠りに落ちていった。
>>続く。