こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

不倫小説。-【8】-

2019年02月14日 | 不倫小説。
(とてもいい本です♪


 ええと、今回は本当に本文のほうが長すぎて、ここの前文について使える文字数がほとんどありませんで

 ちなみに、↓に出てくるパニック障害に関連した脳細胞のことについては、またしても例によって(?)アトゥール・ガワンデ先生の「コード・ブルー~外科研修医、救急コール~」(医学評論社)の本に書いてあったことを参考にさせていただきましたm(_ _)m

 そして、この「痛みシステム」理論というのがわたし的にとても画期的だったもので、こちらで紹介しようと思ってたものの――引用文のほうがどうしても長くなってしまうため、次回以降、本文がもっと短かった時に……と思うんですけど、とりあえず今回は「痛み」というものについて、従来的に言われているモデルの描写のみ、ちょっと抜粋させていただきたいと思います(^^;)


 >>痛みの原理については、三百年以上前にルネ・デカルトが最初に唱えた説が長い間信じられてきた。

 デカルトは、痛みは純粋に身体的な現象であり、組織の損傷が特定の神経を刺激し、その神経が脳にインパルスを伝えるために、人が痛みを知覚すると考えた。そして、この現象を紐を引っ張って脳の中でベルを鳴らす、という例で説明した。

 この説は非常に深く浸透していた。

 痛みに関する二十世紀の研究は、もっぱら痛みに特化した神経線維(現代はAデルタとC繊維と名付けられている)とその伝導路を発見することに費やされた。

 日々の診療でも、医者はデカルトの説に従って痛みをとらえている。すなわち、痛みを身体の変化、組織が傷ついたサインと考えるのだ。そして、椎間板の裂け目やひびや感染や腫瘍を見つけ、異常な部位を治療しようとする。

 ところがかなり前から、この器質論の限界が明らかになっている。

(「コード・ブルー~外科研修医 救急コール~」アトゥール・ガワンデ先生著、小田嶋由美子さん訳/医学評論社より)


 ではでは、次回は確か再び奥さんの小百合さんのターンだったような気がします(^^;)

 それではまた~!!



       不倫小説。-【8】-

 奏汰と明日香はその後、互いに忙しくすれ違いの日々が続いた。けれど、言葉など一切交わさなかったとしても、ただ廊下をすれ違った時に、目と目が合っただけでわかる……彼は彼女に「愛している」と言い、彼女のほうでも「愛しています」と語るでもなく彼に伝えていたのだから。

 また、奏汰は明日香に自分の悩みを隠さなかった。妻に「ふたり目を作らないか」と言われたことや、そのことで今はまだ「離婚したい」とは言い出せないこと、それだけでなく、悪性の神経膠腫(グリオーマ)の患者の予後がやはり悪く、本人や奥さんに話すのがつらいといった仕事上の悩みについてまで……。

「葛城さん御夫妻って、本当に仲がいいですよね。三度目の手術の時に、奥さん、旦那さんの手術が終わるまでの間に色々話してくださったんですよ。結婚して二十年目だっていうこととか、銀行員として真面目に務めてくれて感謝してるっていうことや、八年くらい不妊治療もしていたけれど、結局最後につらくなって中断したっていうこととか……だから、「自分にはあの人しかいない」って、何度も涙ぐんでおっしゃるんですよね。葛城さん本人も、桐生先生には感謝してもしきれないって言ってました。これで三度手術して、思った以上に障害も出ていない。他の先生ではとてもこうはいかなかっただろうって……」

「だけど、問題はここからなんだよ」

 そう言って奏汰は、明日香の部屋のベッドの上で、彼女の太腿に頭をのせたまま、弱音でももらすように話を続ける。

「次の手術適用はもうないからね。あとは放射線やガンマ線治療といったことになるが、最後には見当識のほうにも障害が出てきて死に至る場合が多いんだ。本当に、残酷な病気だよ。それと、何にも増して俺にとってつらいのは、あの奥さんに術後の経過なんかを話さなきゃいけない時なんだ。他の患者さんの場合は大抵、他にも娘さんとか息子さんとか、誰か仲のいい親戚なんかが一緒に来たりするだろ?ところが、あの奥さんはいつもひとりでやって来て、涙ぐみながら俺の話を聞いていくんだからね……で、「主人、絶対助かりますよね!?」とか、「わたしにはあの人しかいないんですっ!」なんて、繰り返し言われるたびに、なんだかつらいよ。再発する可能性が高くて、おそらく最後は――なんていう希望のない話をしなきゃならないのはね」

 もっとも奏汰は、葛城夫妻に悪性の神経膠腫(それもグレードⅢ)は予後が悪いこと、手術しても再発する可能性が高いことなど、最悪の事態については一応最初に告げてあった。だが、一度、二度、三度と手術が成功し、思った以上に術後に障害もなかったことから……葛城夫妻が「奇跡が起きる」と信じていることが、奏汰にはなんだかつらかった。何分、何十人もの悪性の神経膠腫(グリオーマ)の手術を手がけてきて、グレードⅢの患者で奇跡が起きたケースなど、奏汰自身はほとんど経験したことがないからだ。

「でも、あのおふたりを見てると思うんですよね。これが本当の夫婦愛っていうものなんだろうなって……葛城さん本人はとてもおつらそうに見えますけど、でも奥さんのためになんとしても生き延びたいって願っていて、奥さんのほうでは旦那さんにどんな障害が出てもいいから、生きてさえいてくれたらって……奥さま、いつでも旦那さんの体のことばかり気遣ってますし、旦那さんのほうではまた奥さんに対してすごく優しいんですよね。葛城さんも病気でとてもつらいはずなのに、ほとんど八つ当たりっぽいことをおっしゃったりすることもなくて。もしそうなさっても誰も責められないんじゃないかって思うくらいなんですけど」

 この時奏汰は思わず、明日香の太腿の上から体を起こしていた。「本当の夫婦愛」とか、妻と夫とで互いに気遣い合っているといった言葉を聞くうちに、なんだか居心地が悪くなってきたのだ。

「ごほっ。明日香、俺は本当に……君と結婚しようと思ってる。でも、今は時期が悪いっていう、本当にそれだけなんだ」

 明日香のほうでは(ああ、その話ですか)というように、特段何か顔の表情に変化があるでもなかった。そして、ただ優しく微笑む。

「べつにわたし、先生に何かあてこすったってわけじゃないんですよ?ただ、運命ってどうしてこんなに皮肉なんだろうと思って。葛城さんみたいに心から愛しあってるご夫婦が、こんなにつらいことで悩んで、相手を憎んでいても、かといって離婚もできないっていうご夫婦が病気もせずお互いピンピンしてたり……何かそんなことをちらっと思ったっていうそれだけなんです」

「う、うん。わかってる。それに、小百合のお姉さん、画家の鷹橋陽一郎と今離婚のことで揉めててね。一時期マスコミを賑わせたことがあったから、明日香も知ってるかもしれないな。これで俺もまた小百合と離婚のことで揉めるってなったら、なんだか野間家の義理のお父さんやお母さんに申し訳ない気がしてね……俺も、まさか離婚っていうのがこんなに大変なことだとは思ってもみなかったんだ」

「そりゃそうですよ。先生、わたしに悪いと思うお気持ちはわかりますけど、あんまりそう考えたり悩んだりされなくて大丈夫ですから。ところで、奥さまにはふたり目のお子さんのこと、どうおっしゃったんですか?」

「う、うん……」

 奏汰は再び、明日香の太腿の上にごろりと横になって言った。

「何より、高齢出産だし、俺は子供なら七海ひとりで十分だって、そんなようなことを繰り返し言って、小百合には納得してもらったんだ。そしたら彼女のほうでも案外すんなり引いてくれてね……たぶんあれは俺に対して、『浮気のことはわかってる。でもこれ以上続ける気なら』っていう、一種の脅しのカードだったんだと思う。それより、明日香は平気かい?離婚っていうことになったら、俺は今持ってる預貯金の大半を小百合に渡した上、七海が成人するまで養育費を払ってかなきゃならないから……医者ってのはもっと稼いでるもんだと思ったのに、実際はショボいもんなのね、みたいになると思うけど」

「そんなこと、わたしは気にしないって、先生もご存じのくせに」

 そう言って明日香は奏汰の髪に手を入れて撫でた。

「なんだったら、わたしも働いたって全然いいわけですし。でも問題はたぶん、そうした金銭的なことじゃなくて……ううん。やっぱりそれもありますよ。先生、今までずっと一生懸命働いてらして、そうして貯めた貯金のほとんどを奥さんに持ってかれてしまうんですもの。『俺の人生は一体なんだったんだ』みたいに、先生が離婚後にそう思われるんだとしたら……」

「いや、それはない」

 そう言って奏汰は笑った。それが妙に確信に満ちた言い方なのが、明日香にも少し不思議に感じられる気のするほど。

「俺は金ってものには比較的執着心が少ない。なんでかっていうとさ、葛城さんみたいにね、ああした患者さんが治るためなら、金なんかまるで意味がないって本当にそう思うからね。何より、俺が悩むのは、妻との離婚とか、金だけじゃどうにもならないことによってだよ」

 このあと、奏汰は重い溜息をついて、それから明日香が髪をすいてくれるのがあんまり気持ちよくて、暫くの間目を閉じ、彼女の指の存在と太腿の柔らかさだけを感じていた。そして、そのあとでぽつりと思い出したように言う。

「そういえば明日香、例のパニック障害のお友達は大丈夫なのかい?」

「ああ。玲花のことですか?あのあと一度一緒に病院にいって、一晩精神科の救急外来のほうで様子を見て、それからまた帰ってきたんですよ。玲花は生活保護も受けてるので、そういう意味では少し安心なんです。何かあったら市役所のほうでも担当の方が来てくれますから」

「そうか……」

 如月玲花は、実をいうと奏汰が明日香とつきあいはじめた極初期の頃より、デートをよく邪魔してきた存在である。というのも、パニック発作が起きた時、他に頼れる人が誰もいないと、明日香に電話をかけてくるようだったからだ。そして明日香のほうでも、同じ主張を何度も繰り返す相手の話を、実に辛抱強く聞いていたものだった。

(俺が明日香なら、おそらく話の途中で相手を疎ましいと感じて切ってしまうだろうな。それで、その次からはもう相手のその番号には絶対出なかったかもしれない……)

 だが、如月玲香は明日香が孤児院にいた頃の親友のひとりで――奏汰の聞いたところ、明日香はその孤児院に親友が三人いたということだから、そのうちのひとりの瑠璃香が亡くなったということは、彼女にとっての孤児院時代の親友は、残りふたりということになる。そして、そのうちのひとりは九重綾音と言って、高校卒業後、学校の先生と結婚し、今ではすでに三人の子持ちだという。それから最後が如月玲花。彼女は両親とも今も生きているが、幼少時に受けたひどい虐待から、その後パニック発作を起こすようになったという。

「パニック発作っていうと、一般的に精神的な病いって思わるだろうけど……すでに頭の中にね、そのパニック発作を起こす脳細胞があって、なかなかに複雑な仕組みを構築しているっていうことがわかってるらしいんだよ」

「えっ。先生それ、本当ですか!?」

 明日香が驚きのあまり大きく体を動かしたため、それで奏汰は完全に体を起こすことにしていた。

「ごめん。言い方が悪かったかな。ただ俺は、人の体の痛みや心の不安や恐怖っていうのは頭の中で密接に結びついてるっていうことを言いたかっただけなんだ。これはアメリカの症例報告なんだけど、日常生活に支障をきたすほどのひどい手の震えから、これを治すのに脳外科手術を受ける決断をした患者がいた。何分、パソコンのキィボードを打つといった仕事が出来ないし、手に持っているコップを意図せずして落としたり、仕事や日常生活に大きな支障が出ていたからなんだね。そして、この患者が持っていた症状はこれのみならず、深刻なパニック障害にも長く悩んできた。この手術は非常に難しいもので、日本国内では、俺の兄貴くらいしかこんな手術はやってないんじゃないかと思うけど……手術は覚醒下で行なうんだが、手に過剰な刺激を与えることで知られる脳の「視床」の小さな機構の細胞を破壊するというものなんだ。こう聞いただけでも、明日香にもこれがどれほど難しい手術かがわかるだろう?」

 はい、というように頷く明日香の隣で、奏汰は英語で書かれたその論文を思い出しつつ話を続ける。

「術者は、震えに関わる視床細胞に至るまで、慎重な手順で手術を進めていく必要がある。何故といって、1ミリしか離れていないところに感覚や運動に必須な正常細胞があるわけだから、それらを一切傷つけることなく、目的の視床細胞を破壊しなくてはならないんだからね……微弱な電気パルスを流して、局所麻酔を受けた患者に色々質問しながら目的の場所を探らなくてはならない。そして、このドクターが「第23領域」と名づけた隣の部分に低電圧でプローブにより電気刺激を与えると、患者は普通では考えられないほどの激痛を訴えた。普通の患者はみな、そこを刺激されると胸にヒリヒリと軽い痛みを覚えるはずなんだが、その患者の激痛は、彼がいつもパニック発作を起こした時の、死への恐怖や呼吸困難の不安までもを伴っていた。手術のほうは、問題の手の震えを制御する細胞を特定すると、その部分を焼却して無事成功したわけだが……」

「そ、それですよ、先生っ。玲花も、自分の脳を手術して、パニック発作に関係する脳細胞を切除することで治るなら、自分は一も二もなくその手術を受けるだろうって……」

 如月玲花が悩まされているのは、過呼吸やこのまま自分は死ぬのではないかというくらいの胸の痛み、また、人が多くいるところでこうした発作が起きたらどうしようといった強い不安と恐怖から、今では外出もままならないということだったのである。

「いや、残念だけどね、明日香。俺が言いたかったのはそういうことじゃないんだ。確かに、脳の中にはパニック発作に関わる脳細胞が間違いなくあるんだろう。だけど、それを特定することは難しいし、そのために犯す危険というのはあまりにも大きい。それに、俺はただ人間の脳と心と呼ばれるものの結びつきっていうのは複雑なものだっていうことを言いたかっただけなんだよ。それと、この症例論文はパニック障害に関するものじゃないんだ。つまり、腰痛などの慢性痛を訴える患者の中には、手術を受けてレントゲン上は完治したように見えるのに、なお痛みを訴える患者がいる……この痛みシステムがどういうことかといえば、もう腰のほうに実際には痛みなどなくても――この繰り返された痛みをすっかり完全に覚えている脳細胞があって、この脳細胞から痛みが体にダウンロードされると、実際には完治している部位に人は前にあったのと同じか、あるいはそれ以上の本物の痛みを感じることがあるっていうことなんだ。言ってる意味、わかるかい?つまり、「またあの痛みがやってきたらどうしよう」という強い不安が誘発材料となってダウンロードがはじまる……この悪循環に嵌まっている、「どこも悪くないはずなのに、実際に痛みを感じて病院へやって来る患者」というのがいるっていうことなんだよ」

 実際には、心の不安のみならず、その日の当人の気分や気候、以前痛みを覚えた時と似たシチュエーションとの遭遇など、この<痛みのダウンロード>には複雑な心理的・身体的要因が絡んでいるとされているが、奏汰はわかりやすいように、そう説明していた。

「わ、わかります。じゃあやっぱり……玲花は心理的なアプローチや心療内科から出されるお薬なんかで治療するしかないっていうことですよね……」

 この時、明日香はすっかりがっかりした、というように、肩を落としていた。実際、奏汰にしても、会ったこともない如月玲花という女性に、今後一切デートを邪魔されないためにも――彼女には治ってほしいと心から願っているのだが。

「でもいつか」と、奏汰は、溜息を着いている明日香を慰めるように言った。「今以上に医療技術っていうものが進んだら、脳の中のすべてが本当にわかる時が来るかもしれない。今はある程度のところ大体わかっているといったレベルで、細かいところでは人の脳はまだ謎が多いからね」

「先生、その頃先生はおいくつくらいだと思います?」

「さてね。もう死んでるかもしれない」

 そう言って奏汰は笑った。

「だけど俺は、明日香と結婚したら、自分の老後は安泰だと思ってるよ。もちろん、明日香が倒れた時には、俺が何を置いても面倒を見るから、何も心配しなくていいし」

 明日香は奏汰の肩に頭をのせると、彼に体をもたせかけたままで言った。

「わたしが心配なのはね、先生……玲花まで瑠璃香みたいに自殺しやしないかってことなの。この間、結構深刻なパニック発作が起きた時には、すぐに玲花の部屋までいって、それから精神科の救急外来で一日だけ預かってもらえることになって。鎮静剤とか、そういうのが効いたのかどうか、次の日には「きのうはごめんね」みたいにラインが来てたから良かったんだけど」

「そうか。日本でももっと、精神救急科っていうのが一般的になるといいんだけどな」

「あ、先生。ご存じなんですか?精神救急科」

(先生に知らないことなんてないみたい)と思い、明日香は奏汰に向かって微笑んだ。

「ああ。昔……まだ研修医だった頃ね、そこの大学病院では救急外来の隣に精神救急外来っていうのがあったから」

「たぶん、かなり進歩的な取り組みですよね、それって」

「そうだな。ほら、精神科っていうと、今も一度入ったら容易に退院できないとか、そういう古いイメージが強いけど……実際は、通院してる患者さんでもね、暴れて手がつけられないとか、そういう時に一時的に預かってもらったりとか、それだけでも随分違うと思うからね。俺が救急で研修受けてた間も、自殺未遂患者っていうのは月にひとりかふたり、多ければもっといたな。でも、救急の先生たちに自殺未遂患者は評判悪いんだ。なんでかっていうと、毎日過酷なケースばかり目にしてるもんだから、自分から命を捨てようなんて奴は知ったことか、みたいについなっちゃうんだね」

「でも……自殺する側の理由っていうのは、深刻なものですよ。命を絶つ一歩手前までなら誰でもいくと思いますけど、本当にそうすることとの間にはものすごい壁というか落差があって――そこを飛び越えるっていうのはやっぱり、とても勇気のいることだもの」

 明日香はこの時、カタタン、カタタン……という、市電の通る音を窓の外に聞いて、なんとなくそちらに目を向けた。三月上旬のこの日の夕方、空は薄い紫色に輝いて、そこからはちらほらと雪が降ってきていた。

「そうだな。でも俺も、自殺未遂した患者さんの受け持ちになった時には、正直、どうしたらいいかわからなかったよ。『借金返済のために自殺してその保険金が家族に下りる予定だったのに』って言われてね。その人、五十台も後半の、事業に失敗したっていう人だったんだけど、精神救急外来のほうの先生とじっくり話しあって、それで立ち直る見通しがついて退院したんだけど……中には、「先生、ありがとうございました」なんて青白い顔をしたまま礼だけ言って、その翌日には今度は確実に死ねる方法でって思ったんだろうな。そうして亡くなった人もいる」

 明日香はもう一度奏汰に抱きつくと、溜息を着いて言った。

「ほんっと、お医者の仕事ってハードですよね。うちの病棟にも昔、いたんですよ。先生がうちに来る前のことですけど、結構有名な陶芸家の方で、左半身麻痺になってしまったんですね。それで、仕事っていう生き甲斐がなくなるっていうことは、その方にとっては死を意味していたと思うんです。最初は『こんなことなら死にたかった』って言ってて、その後は取り乱した自分を恥かしいと思ったんでしょうね。礼儀正しい感じになったんですけど、でも心は固く閉ざしたまま退院したっていう感じの患者さんでした。それで、その一週間後に高いビルから飛び降り自殺したっていう話を聞いて……心の問題って本当に難しいと思います。表面上は「なんでもない」っていう顔をしてても、もう退院する時には金沢さん……きっともう自殺する方法や、いつどこでそれを行なうかって、心の中で決めてたんだと思うから」

「似た経験は、俺にもあるよ」

 奏汰も、明日香のことを抱いたままで言った。

「というか、脳外科医はみんなそうかな。時々……ほんの極たまにだけどね、禁断の領域にメスを入れたことに対する罰かというような、そうした苦しい決断を要する症例というのがあるからね」

 このあと、ふたりは暫く黙りこんだまま、ただ静かに抱きあったままでいた。それから再び市電の通る、カタタン、カタタン……という音がして、明日香はハッとしたように身を起こす。

「そろそろ、夕食の仕度しますね。それとも、家のほうに帰られますか?」

「いや……」と、奏汰は首を振る。彼は今、病院にいるということになっている。またしても緊急の呼びだしがあったと嘘をついたのだ。

「食べていくよ。それに、零時前くらいに家に帰れれば、今日はそれで大丈夫だと思うから」

「本当ですかっ?じゃあ、ちょっとご馳走作っちゃおうかなあ」

 奏汰も明日香も、ふたりで会っても特段何かするということもなく、ただふたりでいられれば、それだけで幸せだった。夕食後は一緒にゲームしたり、DVDを見たり……おそらくやっていることは、十代や二十代のカップルとなんの変わりもなかったに違いない。

 そして、別れ際には必ずキスをする。こうした、なかなか会えない不自由な制限のある逢瀬も、必ずいつか終わる――ふたりとも、心からそう信じていた。きっといつかは、と。また、そうした希望があればこそ、廊下ですれ違っても見知らぬ他人のような振りをするという関係性を続けていられたのだろう。

 けれど、実をいうと問題は奏汰と小百合の間のことではなく……小百合の姉の瑤子の側からとばっちりを食らうような形でやってきた。一応、示談ということで解決はついたのだが、それでも、瑤子のもらうことになった結婚生活における精神的苦痛の慰謝料が五億円ということになると……マスコミは再びこの件について一斉に報道をはじめたのである。

 実は、最初このことがワイドショーで報道されはじめた時――世間の街頭アンケートでは、離婚を申し立てた妻である瑤子のほうに同情が集まっていた。何分、瑤子は容貌のほうはまるでビッチという感じではなく、むしろ清楚な雰囲気すら漂わせている美人だったからである。

「常時、三四人のモデルの愛人がいるだなんて、絶対異常よねえ。しかも、そんな愛人たちとひとつ屋根の下で暮らすだなんて、誰だって耐えられませんよ」――というのが、一般の人々の反応だったのだが、その慰謝料が五億円というのは、ちょっといかがなものかという意見が反動のように返ってきたわけである。

 とはいえ、鷹橋陽一郎のほうでは「あれはそのくらい価値のある女だった」とか「むしろあのスキャンダルのせいで、海外ではわしの絵が高値で売れた」などと豪語し、男しての器の大きさ、画家として、彫刻家としての才能を見せつけたわけだった。しかも彼は最後、離婚の記念にと、瑤子の裸体を美しく彫刻し、これがマスコミの前で披露されるとまたも評判になったというわけである。

 奏汰はといえば、瑤子の本性についてはとっくに承知済みなため、こうしたテレビ報道を(やれやれ)などと思って眺めていたわけだが、まさか今度は野間家にではなく、自分に直接父親のほうから電話が来るとは思ってもみなかったといっていい。

『自宅のほうに何度電話しても、おまえはおらんことが多いようだからな。どうせあれじゃろ?嫁の破廉恥な姉が、あんな小っ恥かしいことになっておるもんで、わしがうるさく言うと思って正月も帰って来なかったんだろう?違うか?』

「違いますよ。それに、医者っていうのがどのくらい病院にいる時間が長いかは、父さんが一番ご存知のはずですよ。それに、大事な用なら俺の携帯に電話をくれたら良かったじゃないですか。小百合だって、そう言ったはずですよ」

 ここで、奏汰の父は『ふん!』と、電話の向こうで鼻を鳴らしていた。

『それこそ、自宅以外の場所におるということは、仕事の邪魔になるかもしれんということじゃろうが。それより奏汰、おまえの義理の破廉恥な姉な、ありゃどうなっとる。一応、実家のほうには電話して、あまり派手なことにならんようにと言っておいたはずなんだがな』

「父さん。もういいじゃないですか」

 この時奏汰は、論文執筆のための、データ調べをしていたところで、父親の無意味な説教に割く時間はないと思っていた。というより、明日香と会う時間を作るためには、どうしても他のところでしっかり集中し、医学的な研究をまとめる必要があるのだ。

「今度の義姉さんの離婚のことだって、世間の人はみんなすぐ忘れますよ。もちろん、義姉さんに会う人は名前を聞いた途端『慰謝料五億の女』みたいに思うのかもしれませんが」

『ふん!何が慰謝料五億だ。くだらん週刊誌にも書いてあったぞ。最初からその五億が目的で、鷹橋陽一郎の性癖についても知った上で結婚したんだろうとな。夫の異常なセックスに我慢ができんとは聞いて呆れる。わしはな、そんな何人の男に跨ったか知れん女と親戚だというだけで、十分恥かしいわい』

 ここで奏汰は、電話の送話口を手で塞ぎ、どうにか笑いを堪えた。彼の父の桐生総一郎は堅苦しい人間ではあるが、ユーモアセンスがないわけではない。

「それは、申し訳ありませんでした。妻の小百合にはそういうところが一切ないもので、俺も彼女の姉のことまでは、とても考えつきもしませんでしたから。妹がこうも貞淑なら、姉もそうに違いないくらいにしか結婚前は想像ができなくて」

 電話の向こうでも、総一郎の笑っている気配が感じられ、奏汰も肩の力が抜けた。用件がそれだけのことなら、比較的早くこの無用な電話からも解放されるだろうと、そう思った。

『確かに、わしも小百合さんにケチをつける気はない。ところで奏汰よ、おまえ、東京にあるうちの系列病院に勤める気はないか?』

「いえ、ないですよ」

 奏汰は即答した。この種の誘いというのは、昔からなかったわけではない。同じ地方でも、最低、どこかの大学病院に連なる勤務医であるべきだと、この父は主張して譲らなかったから。

『何故だ?まさかとは思うが、その年でまだわしや出来のいい兄貴に反抗しているというわけではあるまい?』

「そんな気持ちはとっくの昔にありませんよ。ただ、俺は今の自分の身分が分相応だと思っているというそれだけです。それに、今の病院に勤務してもう十数年ですか。俺はすでにここに自分の骨を埋めるつもりでいますから」

『じゃあ、自分で開院する気は?』

「父さん……」

(話にならないな)というように、奏汰は遠慮なく深い溜息を着いた。

「電話の用向きはなんです?小百合の姉のことなら……俺にもどうにも出来ませんよ。俺は父さんの息のかかった病院には勤めたくないし、自分で開院して切り盛りしていくほどの器用さがあるとも思えません。これでも昔よりはよくなりましたが、俺は口下手ですし、愛想のほうもよくありません。それに人づきあいまで苦手ときてる。自分で開業するとなったら、病院だって客商売ですからね。そういう部分で自信がないんです」

『四十も過ぎたいい大人が何を言っとる。というか、そんなんでよく地方とはいえ総合病院の外科部長とやらが務まるな。ま、いい。わしはただ……まさかとは思うが、おまえが妻に隠れてあの淫売と一度でもそうした関係になったことがあるんじゃないかと、そのことが心配でな』

「父さん!」

(いいかげん怒りますよ)と言いかけて、奏汰は何かが腑に落ちなかった。奏汰の父という人は、明確な用のある時以外、連絡してこようという人ではない。(結局、何が言いたいのだ?)そう思うと、奏汰の中で違和感がこみあげてくる。

「……確かに、あの小百合の姉は顔を合わせるたびに何気なく誘惑してくるようなところのある女ですよ。でも俺は小百合からそうした姉の性格についても聞いていたので、最低限の礼儀を尽くした世間話をするっていうような程度の関係です」

『その言葉、信じるぞ』

 ここでブツリと電話のほうは切れた。何分、父自身がいかに忙しいかということを知っている奏汰は、これが他の用件のことであれば、(なんなんだ、一体)と思っただけで、すぐに忘れていただろう。

 奏汰の父の桐生総一郎は、某有名大学病院の教授職にまで登り詰めた人物で、今はもう七十になるが、大学の教授職を退いてのちは、都内にある私立の大病院で院長をしている。院長職などというと聞こえはいいが、奏汰は父が朝は八時までに出勤し、毎日院内で行なわれる色々な会議に出席したり、病院とつきあいのある業者と会ったり、決済書類を片付けたり……休日は休日で、様々な方面とのつきあいのゴルフやら食事会、慈善団体のチャリティへの参加やら――とにかく、一年365日、忙しくないことのない人なのである。

 そんな人がわざわざ電話してきて、あまり実りのない会話をしていったということは――(これは絶対何かあるな)と直感的に感じていた。

(まさか小百合が……夫には誰か浮気している相手がいると、母さんにでも何かの拍子に話したのか?いや、ないとはいえない。お宅のお姉さんも大したものねえなんて、母さんなら言いかねないからな。小百合も流石にカチンときて、俺の浮気のことをそれとなく匂わせたのかもしれない)

 奏汰はこうなるともう、論文の下書きにすっかり集中出来なくなった。そして、確かにこの時、因果応報とはこのことだなと身に沁みて感じてもいたのである。

 小百合は夫の浮気については疑いつつも、同時に、そのことをはっきりさせるのを恐れているようであった。つまり、夫である奏汰と正面から衝突するような形でこの問題とは向き合いたくないのである。だが、夫は今日も遅くなるというが、それは口実であって愛人と会っているのではないか?……そう毎日疑い続ける日々というのは、つらくないはずがない。そしてこの時奏汰はこの「はっきり知ることの出来ない苦しみ」がどういうことか、わかる気がしたのである。

(俺だって今、親父が一体何を言いたかったのかと勘繰っている。もちろん、あの親父が俺に電話してきた以上、何かあるのは間違いない。この場合、一番考えられるのは、「おまえも身辺をクリーンにしとけよ」ということだと思うが……なんだ?俺をどこかの病院の役職に推薦する場合に、そうしたスキャンダルがあったらまずいということか?)

 このあと、奏汰は小百合が「お父さんなんて?」と聞いてきたその反応で、妻が自分の実家に何か言ったのでないことだけははっきり確信できたといっていい。

「いや……よくわからなかったよ。小百合の姉さんのことは言われたけど、何人の男と関係を持ってるかわからないような女だから、おまえはまさか嫁の姉とそんなことになったことなどなかろうなとか、何かそんなくだらないことだった。あとは、東京の病院に戻ってくる気はないかだの……実際、よくわからない電話だったよ」

 けれどこの時、小百合が一瞬ギクッとしたことで、奏汰は妻が何か知っているとわかった。それで、妻が淹れてくれた茶を飲みながら、視線で小百合に話の先を促す。この日曜という休日、七海は友達の家へ遊びにいっていて、午後四時というこの時間にも、まだ帰ってきていなかった。

「あの……姉さんね、どうも本を出版するみたいなの」

「!?」

(間違いない、それだ!)と思いあたり、奏汰は茶を飲みながら思わず笑った。

「一応、その……言ってはあるのよ。わたしのこととか、わたしの夫の桐生奏汰はあのテレビで有名な脳外科医先生の弟だとか、そういうこと書くのだけはやめてねって。でも、姉さんのあの性格でしょう?一度本が出版されて読んでみたら、びっくりするようなことが書いてあった――なんていうことになるかもしれないじゃない?」

「だけど、俺たちには関係ないんじゃないか?まあ、あの人がどういう内容のことを書くのか知らないけど、でも売れる内容の線としては、やっぱり画家の鷹橋陽一郎との間にあったことだろうし。まあ、義姉さんだって五億も慰謝料としてもらってるんだ。その本のせいで逆に訴訟を起こされるようなことは……」

 ここまで言ってから、奏汰は頭が痛くなってきた。義姉の瑤子と鷹橋陽一郎との関係については、マスコミが随分センセーショナルな取り上げ方をしていたため、そんな本が出版されたとなれば、本にどんなことが書いてあるか、再びワイドショーで取り上げられるのは間違いない。

「そうなのよ。姉さん、どうやらマスコミの人たちにちやほやされて、かなりのとこいい気分だったらしいのよね。五億のお金の使い道はね、なんかまずは化粧品会社を興すつもりみたい。そのためには今のうちからマスコミに顔を売っておくことも大事みたいに思ってるみたいで……」

 そう言って小百合は溜息をついた。奏汰もまた、(そういうことか)と思い、我知らず溜息が洩れる。もちろん、そんな心配は必要ないとわかってはいるものの――それでも義姉の瑤子がその本の中に、妹の夫とも関係を持ったことがある。少しばかり誘惑したらすぐに乗ってきた。けれど、彼はセックスのほうはイマイチで、妹が可哀想だと思った……などと書いたとすれば、まるでそれが事実の如く世間に流布してしまうのだ。そして、そうした恐ろしさのことを思うと、奏汰としても漠然と何かが心配だったかもしれない。

「その、さ。実際に本になる前に、それを一度読ませてもらえないかな。俺の親父がまたうるさく電話してきて、本の中に桐生家の名前をだすなと言ってきている、とかなんとか理由をつけてさ。俺も、なんかうまく言えないけど嫌な予感がする。ようするに、義姉さんの過去の華麗なる男性遍歴に触れたのち、最後に鷹橋陽一郎と出会って結婚した……が、その五年に渡る結婚生活は耐え難いものだった的な、たぶん本の内容はそんなところなんだろう。まあ、もちろん無理だったらそうしつこく頼む必要はないけど」

「ううん。わたしもそう思ってたのよ。わたしや母さんはともかく、少なくとも父さんは読まないほうがいいような内容の本だろうなっていうのは、わたしにもわかってるし。この間姉さんから電話がかかってきた時、なんとかいう有名な写真家の先生に、本の表紙を撮影してもらったとかで、すごく舞い上がってたの。本自体のほうはまだ書き上がってないはずなんだけどね」

「まさか、多額の金を支払ってゴーストライターを雇ってるんじゃないよな?」

 奏汰はダイニングテーブルの上の豆大福を手にすると、ひとつ食べることにした。ここらで一度小休止しておかないと、論文の下書きに集中できそうにない。

「まあ、その可能性もなくはないけど……姉さん、ああ見えて確かに結構文章書くのうまいのよ。あと、美大に合格しただけあって絵も上手だし。大体、男の人は姉さんにこういう印象を持つんじゃない?こんなに美しくて、芸術的才能もあるだなんて、君は才色兼備のミューズだ的にね。これで姉さんがせめても「いかにも」って容姿のビッチだったらよかったんだけど、見た目は清楚でおしとやかな雰囲気なんだものねえ。あれ、絶対詐欺よ」

「ははっ。俺も確かに、誘惑されたことはあるんだぜ。でも小百合に色々聞かされていたから、「そういう女」だって思ったら、嫌悪感しかわいてこない。「おいおい、俺はあんたの妹の旦那だぞ」って会うたびに思うな。正直、全然好きなタイプじゃない。そのことは、最初に会った時からずっとそうだった」

 小百合のほうでも、イチゴ大福を食べながら笑った。

「わたしも、姉さんのあの魅力に屈しなかった男の人を見たのは、あなたが初めてだったわ。正直、前もって姉さんのことを色々悪く吹きこんでおいたけど、会った瞬間目がハートマークとかね、過去にも一度あったから……あなたが姉さんの本性をすぐに見抜いて「ありゃ相当なビッチだな」って言った時には、お腹が壊れるかっていうくらい大笑いしたものよ」

「そんなこともあったっけな」

 奏汰が微笑むのを見て、小百合はほっと心が和むのを感じた。今日は日曜日で、そして夫は家にいる……実際この日、明日香は日勤業務だったわけだが、何分日曜では夕方から出かけるのは難しいと思い、奏汰は論文に集中しようとしていたわけだった。

 けれど、小百合はこの時、これからも長い人生の時間の中で、夫と今のような時間を共有できるなら、最低でも愛人とはいずれ別れるはずなのだから、そのことを待てる気がした。

(そうよ。わたしにとってこの人と離婚するのは……それこそ、この人が実はわたしに隠れて姉さんと寝てたとか、そんな事実が発覚した時だけよ)

「でもね、あなた」

 小百合は夫専用の湯呑みに緑茶を注ぎ足しながら言った。

「実はわたし、ひとつだけ心配でもないのよ。あなたって実は、姉さんの好みにドンピシャな容姿してるから、妹のわたしと結婚してるってんじゃなきゃ、絶対振り向かせようとやっきになったはずなのよ。だからね、本の中にあなたに対して事実無根のことを書いて、軽く復讐してやろう……なんてね。たぶん大丈夫とは思うけど、身近に作家とか芸術家なんて、持つもんじゃないわね。だって、わたしだって姉さんが本にわたしのことをなんて書くか、少し心配だもの。『妹は地味で大人しい性格だった』くらいならともかく、『妹もブスではないが、美しい姉のわたしを嫉みながら成長したようだ』とかね。すごい腹立つ書き方されたら、頭にくるじゃない?それに読んだ人はみんな、『実際本当にそのとおりなんだろう』みたいに思うんでしょうし、一度そんなのが活字になったら、その事実を消すっていうことはまずもって出来なくなるんですもの」

「確かにな。だけど、義姉さんが今度の離婚騒ぎで実家に戻ってからは、関係が前よりもずっとよくなったって言ってなかったか?」

「そうね。確かにそりゃそうなんだけど……」

 まさか、あなたの浮気のことで連帯したから一時的に仲良くなったのよ、とも言えず、小百合は言葉を濁した。

「とにかく、姉さんには実際に出版する前に本を見せてもらうことにするわ。あと、桐生家の名前も出さないようにって、念押ししとく」

「ああ。よろしく頼むよ。俺もまた父さんから電話がかってきて、そんなことで煩わされたくないからな」

 奏汰は、台所の上におでんの具材がのっているのを見て、「今日はおでんか」と呟いてから、肩をまわしながら廊下を歩き、再び書斎に閉じこもりきりになった。

 おでんと言えば、奏汰にとってそれは明日香の得意料理だった。しかもそのおでんの味が何より彼にとって忘れられないのは――去年あった脳外科学会のあと、急いでとんぼ帰りし、明日香のマンションへ行った時に食べたものだったからだ。

 その日、妻の小百合には、そのまま東京へ泊まって翌日帰宅すると伝えてあったから、これ以上完璧なアリバイはないわけである。だが彼は、明日香にそのことを約束してはいなかった。脳外科学会には大学時代からの顔馴染みも多く参加するから、それらの誘いを到底断りきれないように感じたら、彼も明日香の部屋へは行けないと思っていたからだ。

 けれど奏汰はその年のみ、何やかやと言い訳を作ってS市のほうへ急いで帰らなくてはならない理由を述べ、そうしてお世話になった恩師やかつて同僚だった医師らのことをどうにか煙に巻き、ようやく最後、明日香に電話したわけだった。

『どうしたんですか、先生。今日は学会だって……』

「ああ、そうなんだ。俺も、まさかこんなに早く解放してもらえるとは思わなかった。これから急いで帰るから、待っててもらえるかな」

『もちろん……わたし、今日はお休みですし、先生が前に面白かったって言ってたDVDでもこれから見ようかなって思ってたところなんです』

 そんな健気なことを言う愛人が可愛らしくてならず、奏汰は新幹線で急いでS市へ戻ってくると、駅前からタクシーに乗って明日香のマンションまで行った。

 その時、ドアを開けた明日香の驚いた顔といったら……。

「せ、先生……!」

 明日香は奏汰の頭のてっぺんから足の爪先まで見て、目をぱちくりさせていたものだった。

「わたし、今一体どこの俳優がうちにやって来たのかと……」

「何言ってる。ただブランド物のスーツを着てるっていうだけだろうが」

 勝手知ったるなんとやらといった様子で、奏汰はこの日も明日香の部屋に上がりこんでいた。脱いだ靴はジョン・ロブの十数万するもので、スーツのほうはアルマーニだった。もちろん、これらが妻の見立てだなどとは、奏汰に言うつもりは毛頭ない。

 そしてこの時、奏汰がすぐに着替えようとすると、明日香は「ちょっと待ってくださーいっ!」と、奏汰が濃紺の上着を脱ごうとするのを止めた。

「写真っ!一枚でいいですから、撮影させてくださいっ」

 明日香はそう言って、携帯電話で一枚と言わず、色々な角度から何枚も奏汰のことを撮影していた。

「ふふふっ。これから先生がいない時にはこれ、わたしのおかずにしようと思います」

「おかずっておまえ……」

「あ、そーいう変な意味じゃないんですよっ。この写真をテーブルのところに置いて、先生とふたりでごはん食べた気になるとか、そういう意味です」

「なんか俺、死んだ人みたいだな」

「遺影って意味ですか?先生、まだ四十二なんですから、死ぬのは全然早いですよ」

 このあと奏汰は(こいつっ)というように明日香のことを後ろから捕まえようとし、明日香は「きゃーっ!」と言って逃げた。けれど、結局最後は奏汰に捕まり、ベッドの上に倒れこむということになる。

「先生、駄目ですよ……ほら、せっかく高そうなスーツなんですから、皺にならないようにしないと……」

「どうでもいいよ、こんなの」

 そう言って奏汰は、上着についでベストも脱ぎ、水色のネクタイのほうも緩めた。それからふと、あることを思いつく。

「明日香、軽く縛られるのとか、嫌か?」

「嫌っていうか……してみたことないので、わかりません」

 明日香が、彼から顔を背けたため、奏汰はその隙に、彼女の手をベッドの柵に繋いで縛った。それから明日香の首筋から始めて、胸や下腹部へと順に責めていく。そして時間をかけて彼女の体の隅々まで探索したあと、彼はもどかしくベルトを引き抜き、ズボンを脱いだのだった。

(あの時のセックスは、明日香も相当よかったはずだ)

 その確信が、彼にはある。奏汰は今でも、明日香と初めてした夜のことを思いだすと、彼女と会ってすぐにも寝たい衝動に駆られる。今でも時々思う……明日香の部屋のタンスの上にブラジャーがあって、(見た目以上に結構あるな)と思ったり、部屋全体の雰囲気が彼の好みにあっていたり、あるいは女性の部屋に特有の匂いがあたりを包んでいなかったら、自分は最後まで理性を保ち、彼女の部屋をあとにすることが出来たのだろうか、と。

(だけど、そんなことにならなくて良かった。明日香のような娘は、他を探したってそういない。これがただ体だけの関係だっていうなら、彼女と別れても他を探せばいいかもしれない。でも俺の場合はそういうわけにもいかないし、俺には明日香しかいないんだ……)

 それに彼は、明日香が仮に自分と別れでもして、他の男のものになると想像しただけでも血圧が上がり、そのような架空の想像にすら強い苛立ちと嫉妬を覚えるくらいに彼女のことを愛していた。

(そうだ。俺は明日香と別れられない。あの日の夜のことは運命だったんだ……)

 一歩間違えばただのレイプ犯という都合の悪い事実は忘れ、奏汰は携帯を開くと明日香の写真を見た。といっても、ロックをかけていても何かの拍子に小百合が見ないとも限らない。ゆえに、彼は明日香専用の携帯電話にさえ、明日香の写真を保存していない。だからこの時彼が見ていたのは、ある患者が退院する時、病棟のスタッフ数人で撮影したという、そんな写真だった。

(愛してる、明日香……)

 けれどこの時、奏汰は離婚について、妻にはまだ当分切り出せそうにないとわかっていた。しかも、少し前に父親と電話で話してみて、『小百合とは別れることにしたんだ、父さん』と言えるだけの勇気が果たして自分にあるのかどうか、そうした確信が揺らいでもいた。

(いや、俺がこんなふうに思うのは、幼少時に経験した父の剣道のしごきがあったからだ。だから俺は父の声を聞いただけで、脊髄反射的に何か怯えの気持ちを持つんだろう。だが、明日香のことだけは何がどうあっても譲れない。そうだ。桐生家と絶縁してでも、俺は必ず明日香と結婚するぞ)

 とはいえ、当面はまず、小百合の姉瑤子の本出版に纏わる嵐が通りすぎるのを待つしかないようだった。ところが、この『聖なる芸術のエクスタシーとしての妻~鷹橋陽一郎が最後にもっとも愛した女~』という長ったらしいタイトルの本は、初版で軽く五十万部も売れ、絵の才能だけでなく文才までも認められた瑤子は、ワイドショー以外でも作家兼画家としてテレビに出演するようにまでなっていたのである。

 幸い、本の内容のほうに桐生家の名はなく、本の最初のほうに瑤子の家族や家庭環境についても記されているが、それはとても思いやりのある好意的な描き方であり、小百合としてもほっと胸を撫で下ろしていたものだった。もっとも、このあたりは第一章の部分であり、第二章以降は彼女が初めてつきあった彼の話にはじまり、ロストバージンの相手は自分と二十以上も年の離れた精神科医だったなど、性に関して赤裸々な描写が連綿と続き、ようやく第五章からが鷹橋陽一郎との結婚生活について……といったところだった。

「実は、俺が妻に離婚をまだ切り出せない理由がこれなんだ」

 家で夕食がおでんだった翌日、明日香の家でもおでんだったことから――何か奏汰は良心が痛み、カバンの中から某週刊誌を取りだしていた。

「先生でもこういうの、お読みになるんですね」

「俺だって週刊誌くらい読むさ。それに、家のほうが厳しかったからな。こういうのの女性のグラビア見たり、性に関する何かしらの記事を読むくらいしか、おかずに出来るものがなくてね」

 奏汰はおでんの鍋のかかったテーブルの椅子に座り、明日香がごはんをよそってくれたり味噌汁を入れたりして、もう一度自分の向かい側に落ち着くのを待った。

「おお……!これは女のわたしでも鼻血のでそうな、綺麗な女の人ですねー」

「そうじゃなくてさ、とりあえず軽くざっとでいいから、記事のほう読んでみてくれ」

 明日香はもぐもぐとちくわなどを食べつつ、暫くの間、全裸の女性が上目遣いにベッドに横たわっている写真の下――そこに書かれた文章をゆっくり読んでいった。ちなみに、太字の記事タイトルには、<五億の女の性生活>などとある。

 けれど、明日香の中ではこの野間瑤子という女性の体験男性が軽く五十人を越えていたり、彼女とつきあった男性が「瑤子の名器に鷹橋陽一郎が惚れこんだのだろう」だのインタビューで答えていることと、奏汰が妻と離婚できない理由とがうまく繋がらないのだった。

 もっとも、明日香は奏汰が一分一秒でも速く離婚してくれればいい……とまでは思っていなかったし、彼の医師という職業からしても、よく時期を見定めて時間をかける必要があるとわかっていたのである。

「つまりさ、前にも言ったけど、野間家では、上の姉がこんな形で離婚して、今また俺も妹の小百合と別れるっていうのは……古くさい言い方だけど、世間体が悪いっていうのもあるし、なんていうか、今はまだ義姉さんも本を出版したばかりでテレビにも出演したりしてて……ああ、そうだ。今度は写真集だすんだっけ。くっそ。頭痛いな、あのクソビッチ」

 奏汰はここで、疲れたような溜息をつき、だが腹が減っていたため、すぐおでんにがっついた。妻の小百合のおでんも美味しいのだが、なんといっても明日香の作るおでんは絶品だった。そして、例の学会から戻って激しいセックスをしたあと……明日香が作ってくれたのもおでんだったため、それで彼はおでんを見ると反射的にあの時のことを思いだすというわけなのだった。

「そんな、クソビッチだなんて」

 そう言って明日香は箸を手にしたまま笑った。

「先生でも、そんなふうにおっしゃることあるんですね。でも、奥さまのお姉さんの瑤子さんって、わたし、普通に凄い人だなって思いますよ?入るのが難しい美大に一発で合格してたり、ほら、この週刊誌にも載ってますけど、絵のほうも上手いし、バレエでも結構いいところまでいってたり……画家の鷹橋陽一郎さんがのめりこむのもわかるなあっていうか」

「ふふん。まあ、明日香は本人に会ったことがないからな。あの人、俺が妹の旦那だってのに、よく誘惑してくるんだぜ。普通、考えられないだろ?この間、正月に実家のほうへいったら、まあ、居間にこうこたつがあってだな、そしたら……」

 明日香は、テーブルの下で奏汰が足の先を使って膝の間に入れようとしてきたため、一瞬びくっとしてしまう。

「とまあ、こんなことをしてくるわけだ。あれで俺が足を開いてたら、絶対股間に足の指を押しつけてきてたぜ。いや、どっかのエロい親父が若い女にそんなことして、にも関わらずそのあとケロっとしてるってんなら、よくあるセクハラだ。けど、女がそういうことするか?しかも、すぐ隣に血の繋がった妹がいるってのに、本人はニコニコしながらみかんの皮なんか剥いちまってな。信じられねえクソビッチだ。俺に言わせたらな」

「で、でも、それがこんな綺麗な人だったら……」

 明日香がもう一度週刊誌に目を落とすのを見て、奏汰も言い方を間違えたらしいと気づく。

「男なら誰でも、悪い気はしないってか?冗談じゃない。俺はああいうタイプの女が一番嫌いだね。いや、そんなくだらないことはそもそもどうだっていい。とにかく、義姉さんがこんな派手なことをテレビまで通してやってるもんで、『野間瑤子?誰だっけ。ああ、画家の鷹橋陽一郎と離婚して慰謝料五億もらった女か』くらいになるまでは……明日香にはもう少し待っていてほしいんだ」

 奏汰としても、こんなことを言うのは心苦しかった。なんだか、妻と別れる別れると言いながら、実は離婚する気のない、薄汚い中年男が若い娘を騙しているようで……「いや、俺は世間一般にいるそんな男どもとは違う」と思いながらも、やっていることは表面上何も変わらないわけだった。

「いいんですよ、先生。先生は真面目な方だから、わたしに悪いと思ってくださってるのもよくわかってます。それより、今はおでん食べましょ?でも、ほんとびっくりですね。先生の奥さまのお姉さんがそんな有名人だなんて、わたし知りませんでした。あ、もちろん先生から話は聞いてましたけど、その時は少しピンと来てないところがあって……」

「そうだよな。正直、俺もあの人の顔をテレビで見るたび、ちょっと変な感じがする。兄貴がテレビに出はじめた頃でも、今みたいには思わなかったな。まあ、あっちは兄貴のやってる手術のほうに目がいってたそのせいもあるか」

「手術といえば、先生」

 ここで明日香は少し意味ありげに笑った。

「紺野さん、遠藤さんに随分しごかれてるみたいですね。この間食堂で御堂さんとたまたま一緒になったら、そう言って笑ってましたよ。本当は、『ここだけの話だからね』っていう前提で聞いたことなんですけど……先生は口が堅いから大丈夫と思って」

「確かにそうだな」

 奏汰ははんぺんを齧り、そして彼もやはり笑った。

「白石さんは今度、眼科のオペ室専属ってことになったらしい。で、脳外の手術のほうは、俺は遠藤さんが入ってくれて大助かりなんだが、彼女が器械出しで紺野くんが外回りだったりすると、なんというか、手術室で笑いが絶えなくてね。もちろん、遠藤さんもこっちが神経と集中力のいることやってるってわかってるから、そのあたりは注意してるんだが、『紺野っ、あんた何もさっとしてんの!もっとキビキビ動くっ!』とか彼女が言うと、何かこう爽快というか。紺野くんには悪いんだけど」

「遠藤さん&紺野さんコンビはそんな感じなんですか。永井師長が白石さんのことを眼科のオペ室専属したのは、それなりに理由があるそうで……白石さん、曲がりなりにもうちの病院の勤務自体は長いですし、わたしはよくわからないんですけど、眼科専用のオペ室は比較的楽だとかで、他の科の外科手術と違って、最初は五時間予定だったのが七時間になるとか、そういうこともないらしく……まあ、ある程度大体予定時間内に終わって、早く退勤できるらしいんです。つまりですね、ストレスが溜まって手術室内の噂話をコントロールしようとしたりとか、看護師控え室にいつまでも残って誰かしらから情報仕入れようとしたりとか……そういうこともなくなるんじゃないかって。今までは紺野くんとべったりすることで、そうしたことがなくなったらしいんですけど、そんなことのために紺野くんの一生が台無しになったら可哀想だってことで、永井師長の苦肉の策ってことでした。だから、眼科専属って手術室内では美味しいポジションらしいんですけど、『そういうことなら仕方ない』って、オペ看さんたちはみんな納得したとかって」

「まあなあ。うちの手術室には三十名ばかりもオペ看がいるんだっけ?でもみんな、大抵の場合はなるべく早く手術室なんか辞めて、他の病棟勤務なんかに戻りたいと思ってるんだよな。ほら、ただキツいってだけじゃなく、責任も重いし、優しい先生ばかりでもないからな。いや、普段患者に優しい先生でも、手術室じゃ豹変するってことがあるだろ?まあ、俺も人のことは言えないがな」

「え?先生でもそうなふうになったりするんですか?」

 明日香は糸こんにゃくにじゃがいも、天ぷらなどを皿に入れつつそう聞いた。奏汰もまた、卵や大根などを皿にとり、お玉でつゆを入れる。

「まあ、たまにな。最初予想してた以上にたれこみが多かったり、「チッ」って舌打ちしたくなる事態か起きると、俺も大体そんなもんだ。何分、こちとら0.1ミリずれたら顔面の神経を傷つける、左足に麻痺が出るだの、そんなところを回避しつつ手術してるもんでね。どうしても神経質にはなるさ。けど、俺は『もっとチャチャッとやれ!』とか、そういうことはよっぽどテンパってでもこないと言えないもんで、俺の口から乱暴な言葉が出たとしたら、それは相当術野がマズいことになってるってことだ」

「…………………」

 明日香がフッと箸を動かす手を止めたもので、奏汰のほうでも食事をやめて彼女のほうを見た。

「先生……あの、奥さまとの離婚とか、そういうことですけど……わたし、色んなことが落ち着くまで待ちますから、本当に気にしないでください。わたしと会うためだけでも、時間をやりくりするの大変だってわかってますし……」

「うん。俺としてはむしろ逆に、色んなことをはっきりさせて仕事に集中したいって気持ちなんだ。結局、いずれ妻にはそのことを話さなきゃいけない。だったら、そんなのなるべく早いほうがいいさ。ただ、なんというか……こんなこと、明日香に言うべきことじゃないけど、今妻のほうでは良妻賢母キャンペーンを実施中というか、言い方を変えるとしたら、「わたしは100%被害者です」的キャンペーンを張ってるもんで、なおのこと言いにくいというのは確かにある」

 明日香は急にごはんが喉を通らない感じがしたが、それではやはり不自然なので、じゃがいもを砕いて、それを口に入れた。

「あの、わたしはやっぱり……奥さまは正しいと思います。それに、娘さんのことを考えたらなおのことそうですもの。だから、本当は言いたいことも色々あるのに、黙ってらっしゃるんですよ。先生、わたし……そういう色々なことを思ったら……」

「まさか、俺と別れるべきだとか?」

(ありえない)という顔をしながら、奏汰は明日香の様子を伺った。彼にしても、若い愛人に対して、まったく不安がないというわけではない。こんな妻子持ちの十八も年上の中年男にかかずりあっていて、無駄に婚期を逃したというのでは明日香にしても堪ったものではないだろうとわかっている。今、彼女は二十四歳……そして一般に女性というのは二十七、あるいは三十歳前くらいには結婚したいと思うものだと聞く。つまり、奏汰のほうでもあまり長く離婚できないままだと、明日香に捨てられる可能性もあるということだ。

「そんな……別れたいだなんて」

 明日香は彼女にしては珍しく、弱々しく微笑んだ。

「先生もわかってらっしゃるでしょう?すべては先生次第なんだって。俺は妻とも別れないし、愛人ともつきあいたいって言うのなら、わたしはそれでも構わないんです。ただ、先生は奥さまの御機嫌も伺わなくちゃいけないし、わたしにも……なんていうか、さっきみたいに気を遣わなくちゃいけないとしたら、大変だなと思って」

「ああ、これのことか」

 そう言って奏汰は、自分が持ってきた週刊誌を屑篭に捨てた。

「あれは本当に、離婚を先延ばしにするための口実なんかじゃないよ。あのクソビッチのせいで、親父からも電話がかかってくるし、実際まったく迷惑な話なんだ。あの人が画家の夫と別れないでさえいてくれたら……いや、俺が小百合に離婚を切り出したあとで、ああした一連の騒ぎをやってくれりゃ良かったんだ。とにかく、俺のほうではそうした覚悟はとっくに出来てる。今いる病院も辞めて、もっと給料の下がる設備も一流じゃない病院で勤務医ってことになっても、それで後悔はない。いや、まあ、それはちょっと言いすぎか。俺もちょっとくらいは顔の利く脳外科の先生なんかがいるからね。それなりの待遇の、設備のほうもそれなりにいい病院で働けるとは思うんだ。ただ、明日香の希望も聞くよ。明日香がここから離れたくないっていうことなら、俺もこの市内で働き口を探すし、明日香が別の、自分が全然知らない場所でも構わないっていうなら……そういうふうに話を進めたいと思ってる」

「わたしは、ここの町と、自分が生まれたところしか知りませんけど、でも――先生がなるべく条件がいいって思われる病院のあるところなら、ついていきたいと思います。ただ、わたしに捨てるものが何もないのに対して、先生があんまり犠牲を払わなくちゃいけないっていうのが何か……とても心苦しくて……」

「そんなこと、明日香が気にするようなことじゃないよ」

 明日香の本心が確かめられて、奏汰はほっとした。彼は今も、時々話に出てくる中央材料室の御堂や、同僚介護士の飛鳥司や鶴見悟といった男のことを多少気にしている。特に、たまたま手術室で偶然、御堂崇人の姿を見かけてからは――明日香にさり気なく探りを入れてみたところによると、彼は結婚してない上、彼女もいないということだったから(ちなみに奏汰は「あの御堂っていう明日香の話にたまに出てくる人、ちょっと格好いいけど、彼女なんているのかい?」といった聞き方をした)――彼はもしや明日香に気があるのではないかと疑っていたのである。年もまだ三十四だというし、未婚で自分より年齢も近く、マスクを外すとなかなかのいい男……奏汰は明日香が自分と別れたあと、御堂に告白されて結婚するところまで想像し、想像上の出来ごとにも関わらす、強い嫉妬さえ覚えていたものである。

「隠しても仕方ないから、明日香には最初から言っておこうと思うけど……確かに俺は小百合と離婚したら、実家のほうには絶縁されるかもしれないとは思ってる。だけど、それだってこっちから縁を切りたいような親戚ばかりなんだし、そうなったらそうなったで、俺はむしろ清々するだろうと思ってるんだ。それに、今の病院を辞めることだってね、色んなしがらみから解放されて、自由になれるっていう面もあるからね。第一、医師としての出世云々ということを俺が一番大切にしてたら、親父の言うとおり最低でも大学病院の勤務医であろうとしてただろうな。まあ、俺は最初からそうした医者としての野心みたいのがあまりなかった。親父がほとんど家におらず、しかも教授という職を得るのに骨身を削ってるような姿を見て、自分はああはなりたくないと思ったし、兄貴が医者として比べものにならないくらいズバ抜けた才能を持った人だったから……」

「先生、わたしいつも思うんですけど、ご自分をちょっと卑下しすぎですよ。もっともわたし、自分が患者だったら、確かに先生みたいなお医者さんにはあまりかかりたくありませんけど……」

「ほう。それはまたなんでだ?」

 深刻な話をいつものように明日香が軽いほうへ飛ばしてくれて、奏汰はほっとした。だが、自分のような医者にはかかりたくないというのは聞き捨てならないような気がする。

「だって、先生ちょっと格好よすぎますもの。わたし、先生みたいな人よりは副院長先生くらいの初老の先生か、臼井先生とか、あと……先生がこちらに来る前にいた、ちょっと背が低くてずんぐりしてる五十嵐先生にでも診てもらいたいなって思います」

「ふーん」

 奏汰はわざと、いかにも不服そうに言った。

「明日香、自分で気づいてるか?それだって実は結構な差別なんだぜ。まあ、あの医者は若いから駄目だとか、雰囲気的に好きじゃないしなんか冷たそうだとか、患者にも思うところは色々あるだろう。だけど、初診であたる医者は選べないからな。患者がなんとかいう先生がいいって指定しない限りは……で、明日香は診察室に入ったら俺がいて、「あ、この医者は顔のエロい位置にほくろがあるから、まるで駄目だ」とかって思うんだろ?」

「そーは言ってませんよ、そーは!」

 明日香は慌てて弁解する。

「でもやっぱり、手術するってなったら、自分の言いたいことの半分も言えない気がするし、まあ、イケメンの先生だっていうことで、先生は女性のリピーターは多そうですよね。あと、男の人の場合は「なんかカッコよくてちょっとやな感じ」と思っても、腕がいいってことさえわかれば、またころっと態度が変わるんじゃないでしょうか」

「なんだ?明日香おまえ、俺に「先生は立派な方です」とか言いながら、本当はそんなふうに思ってたのか?」

 けしからんと思い、奏汰はテーブルの下で明日香の膝を足で叩き、それだけじゃなく、さらにその奥へと足の爪先を進める。

「ちょっ……先生!食事中ですよ」

 明日香は顔を赤くして、椅子を後ろに引いた。

「べつに、いいだろ。もう大体食べ終わってるし。それに、今の明日香の言った俺の評価だと、いかにも聴診器でいやらしいことしてきそうな医者って言われても、俺はもはや動じないね」

「なんですか、それ。そんなことしてたら、すぐ訴えられちゃいますよ、先生」

 明日香が立ち上がり、テーブルの上のものをある程度片付けようとすると、奏汰はキッチンで洗いものをする彼女の後ろに立った。それから後ろから抱きしめて、耳元から首筋にかけてキスする。

「先生。ちょっと……」

 太腿を撫でられ、先ほど奏汰の足の先があたったところに彼の手が達すると、明日香は肩から力が抜けて、手に持っていた皿を落としてしまった。

「明日香、今日はお医者さんごっこでもするか?」

「もう、この変態っ!変態中年っ!!」

 明日香は気を取り直すと、再び皿や茶碗などを洗い、それをすすいで水切りバスケットの中へ順に片していく。奏汰のほうでも「ははは」と笑いながら、一度彼女の体を離れた。

 けれど彼は、ベッドの上に座ってテレビを見ながら――明日香が自分の隣に座ると、早速診察を開始したのだった。

「ほら、重病患者さん、診察するから服を脱いでください」

(あーっもう、そういう設定ですかっ!?)というように、明日香は頬を赤らめつつも、着ていたセーターやブラウスを脱いだ。けれど、ブラジャーはまだつけたままだ。

「それで、どこが悪いんでしたっけ?」

「ええと……最近、ある人のことを思うと胸が苦しくなったり切なくなったりして……」

 もうつきあって一年以上になっても、明日香はこういう時、奏汰のことをきちんと見られない。というより、部屋が暗い時ならともかく、蛍光灯の明かりの下では、やはり何かが恥ずかしかった。

「じゃあ、胸を見ますから、ブラジャーを外してください」

「先生、ほんとにこの設定続ける気ですかっ!?」

 照れくさいあまり、明日香は一応そう聞いた。

「患者さんは、医者の言うことは聞いておいたほうがいいですよ。じゃないと、治療ができない……」

 奏汰のほうでも流石に馬鹿らしくなったのか、明日香の背中に手を回すと、いつものように自分でブラのホックを外した。それからベッドの上に彼女のことを押し倒し、まずは胸の治療を開始したというわけである。

「他にも、どこか悪いところがないか、調べておかないとな」

 じっくり時間をかけて丁寧に胸を診察すると、奏汰は明日香の他の部分にも舌と指による触診を執拗に繰り返した。下腹部、太腿、足の指まで……それから焦れた明日香の一番大事な部分に触れ、最後に根本的な治療を施したというわけである。

 ――こうしてこの日も結局、明日香は奏汰に足を開かれるがまま、彼の言うなりになっていた。唯一、電気だけは消してもらったものの、彼女としても思うところがないわけではないのだ。時々は断ったくらいのほうが、自分の女としての株は上がるのではないかと……けれど、奏汰は忙しい時間の合間を縫って会いに来ているのだし、彼の医師としての激務のことを思うと、明日香としても強く拒むということも出来ず、彼がそのたびに耳許に囁く「愛してる、明日香」という言葉だけをただ信じていた。



 >>続く。





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