こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

惑星シェイクスピア。-【56】-

2024年05月25日 | 惑星シェイクスピア。

【岐路に立つ騎士】ヴィクトル・ヴァスネツォフ

 

 さて、今回は前回の前文のほうに書いたとおり……本文が長いせいでここに文章を使えません

 

 なので、なんのことについて書こうかなと思ったんですけど――今回は【54】の前文の続きにあたるようなことでも何か……と思いました

 

 ネット情報としても、人が一日に移動できる距離、馬や馬車などで移動できる距離……といったことは、ググると出てくると思います。もちろん、天候や地形にも影響されるとは思うものの――それでも、大体の目やすとして参考になると思うわけです

 

 それで、今回前文に使える文章のほうが本当に短いもので……本当は本から少し長めに引用させていただこうと思ってたものの、どうやら無理っぽかったので、わたしのほうで簡単に要約してみようと思いましたm(_ _)m

 

 そのですね、「ヨーロッパの中世④旅する人びと」によれば、パリからサンティアゴまで巡礼の旅に出るのに、片道1600キロメートル、ピレネー山中の都市パンプローナからでも、800キロメートルを超える――ということだったんですよね。ついでに、この巡礼路は難所がいくつもあるため、もちろん平地を徒歩で進んだ場合そんくらいかかる……といったことではないのですが(汗)、巡礼行に要した日数は、移動時期や移動手段にもよるとはいえ、パリからでも往復3~4か月以上かかったそうです。また、>>これは徒歩巡礼者の一日の踏破距離を30~40キロとした場合の日数、とのことでした。

 

 >>巡礼路は多くの難所を含んでいた。ピレネー北麓のオーブラック高原、シャルルマーニュ伝説で有名なピレネー山中のロンスヴォー峠やソンポール峠、ガリシア地方のセブレーロ峠などの難所では、雪や霧で遭難する巡礼者が後を絶たず、逆に炎天下の北部スペインのメセタ(中央台地)の踏破は、巡礼者にとって過酷な試練を意味した。赤茶けたメセタの中を地平線まで続く単調な巡礼路は、巡礼者の疲労を倍加させたに違いない。

 

(「ヨーロッパの中世④旅する人びと」関哲行先生著/岩波書店)

 

 他に、お馬さんに乗った場合でも、ピレネー山中の難所越えや川越えといったことがあるためでしょうか、馬で移動した場合でも一日の走破距離は40キロメートル強、とのことで、>>健脚の徒歩巡礼者と大差はなかった、ということなんですよね

 

ウィキペディアさまよりm(_ _)m)

 

 まあ、地図見てもらえれば一目瞭然とはいえ、スペイン領とはいえ、大体のところパリからポルトガルの端っこまで行くようなイメーじというか、何かそんな感じ(^^;)

 

 他に、「中世ヨーロッパの都市の生活」には、>>平地なら、荷を運ぶ動物たちは、130~180キロにもなる荷物を背負って一日に25~40キロ進む。早馬ならもっと速い。フランドルの毛織物商人たちは、シャンパーニュ大市が開かれる各都市とベルギー北西部の都市ヘント間およそ320キロを四日で結ぶ便を運行していた。一方、フレンチェからシャンパーニュ地方まで荷物を運んでくるには、途中で何事もなくても三週間はかかった。雨の多い気候のせいで、荷車が泥沼にはまり、馬やロバが立往生してしまうからだ……といったように書いてあったり。。。

 

 あと、この本か、あるいは別の本かもしれないんですけど(汗)、「フランスの端から端まで移動するには(中世時代)徒歩でこのくらいかかった」みたいにどこかに書いてあった気がするんですよね。それで、そこ読んだ時には「おお、大体フランスの端から端までそのくらいかかるんだ~!!」なんて思ってた気がするものの、今探したらどのあたりに記述があったかさっぱりわからなくなってました。すみません

 

 まあ、何やら「余計よくわかんなくなったやんけ!」という気がしなくもないものの――あくまで、何かの参考程度の小話ということにしていただければと思います

 

 それではまた~!!

 

 

       惑星シェイクスピア。-【56】-

 

 フランツ・ボドリネールは、親友だったサイラス・フォン・モントーヴァンの葬式があって以降、塞ぎがちな日々を送っていた。今も彼は、次の騎士団長を決定するという馬上試合があった時、サイラスが毒にやられ、落馬する瞬間のことを――夢に見てハッと目覚めることさえあるほどだった。

 

『ダメだ、サイラス!そんな体じゃ、フランソワ・ボードゥリアン相手に勝てるはずがない!!』

 

『いや、問題は勝てぬ勝てないではない。騎士たるもの、負けるとわかっていても戦うべき時には戦わねばならない。かのローラン・ル=ジノワールのように!!』

 

 ローラン・ル=ジノワールとは、騎士を守ると言い伝えられる聖人のひとりで、今より七百年もの昔のこととなるが、東王朝がメルガレス城砦までもを攻囲したことがあった。この時、西王朝は時の東王朝の大軍に劣勢を強いられたが、騎士ローランは勇気を失うことなくたったの三百騎の手勢によって敵軍へ斬り込んでいった。ローラン自身は東王朝の軍に取り囲まれ、悲惨な死を遂げたが、彼の勇気に鼓舞された西王朝軍は気運を盛り返し、辛くも勝利したと言い伝えられている。

 

 とはいえ、サイラスの場合はフランソワ・ボードゥリアンとそう長く剣を交えずして毒が回ったことにより落馬していたのである。彼の悪巧みによってサイラスは死んだのであったが、ボードゥリアンの態度は堂々としており、試合の時から実に男らしいものだった。「無理はしないほうがいい」とか「先ほどの試合で負った傷が痛むのではないか?」など、剣で打ちあう合間もサイラスのことを気遣っているほどだった。むしろ、「抜かせ!」とか「たわ言を!!」と、怒り狂ったように血走った目をしているサイラスのほうが――何やら勝ちに焦っているかのようで、無様に見えるほどだったのである。

 

 その後もボードゥリアンはフランツや、サイラスに近い者の目には癪に触る態度で、聖ウルスラ騎士団の騎士たちを順に抱きこんでいった。彼はサイラスの葬式では騎士団長として弔辞まで読んでみせたものである。だが、その内容が実に切々と人の心に訴えかけるものであったため、詳しい事情を知らぬ人間にしてみれば、彼こそ騎士団長になるべくしてなった立派な人格者……そんなふうに感じたとしてもまったく不思議はなかったことだろう。

 

 フランソワはフランツにも優しい気遣いすら見せていたが、彼はあえてこの新しい騎士団長とは距離を置くことにしていた。だが、それでも騎士の武術稽古には忠実に日参していたフランツの元にも、ボードゥリアンの魔の手が迫ってきたのである。

 

『兄のレイモンドは今も元気かい?』

 

 フランソワの涼しげな眼差しは、いつものようにどこか同情的だった。

 

『僕にはもう、兄など存在しません。それでも、誰もあえて口にはしませんが、ボドリネール家には騎士として僕以上に有望だった人物がいたことは、周知の事実です。ですが、そんなことを今さら蒸し返してどうしようっていうんです?』

 

『まあ、フランツ、君の気持ちはわかるよ。だが、勘当したとはいえ、今は裏町に出入りするような男が兄だなどとは、厳しい君のお父上が聞いたとしたらどう思うかね?レイモンドは今はもうひとりの人間としても男としても、堕落するところまで落ちきっているのだ。実にけしからんことには、白昼堂々娼館経営に汗を流し、夜は夜で邪宗教ネクロスティアの集まりに馳せ参じているというね。俺はね、人間は知らないほうがいい真実もあるということをよく理解しているつもりだよ。だが、かつてこの聖ウルスラ騎士団にて、ともに剣を交えたこともある友がよりにもよって……』

 

『僕が副騎士団長に相応しくないという話ならば、はっきりそうおしゃっていただけませんか。そういうことであれば、僕はすぐにも辞退するつもりでいますから……』

 

 そもそも最初から、フランツには副騎士団長の地位は荷の重いものだった。にも関わらず何故その任に就くことになったかといえば、サイラス派の騎士たちを抱え込むためだということは、彼にしても最初からわかっていたことである。だが、騎士団内における実力においてナンバースリーと見られるアンドレ=ルロワはフランソワの腹心であるという今の環境は、フランツにとって決して居心地の良いものとは言えない。いや、はっきり言おう。針のむしろに座らされているようだと感じることさえあるが、なお悪いことには、そうしたフランツの立場をフランソワ派の騎士らは面白がって見物していることさえあるということだった。まるで、何かの芝居見物でもする時のように。

 

『ほう?異母兄弟のレイモンドがあろうことか邪宗教の信徒ですらあるというのに、君は今、まるで驚きすらしなかったね?ということはもともと知っていたのかな?お兄さんがこの城砦都市にて娼館をいくつも経営していることや、その他裏町で起きるゴタゴタなんかをその自慢の剣の腕によって解決することすらあるということを?』

 

『関係ありません。レイモンドはもうすでにボドリネール家からは絶縁された身です。また、父の兄に対する立派な騎士として育てようという教育法が厳しすぎたことが……レイモンドが徹底して堕落しようと決意するに至ったということも、僕は知っています。邪宗教ネクロスティアなるものがどのような集団かはわかりません。ですが、レイモンドが本当にそのような邪なる神を崇めているとは僕には思えませんね。おそらくそれもまた、父に対する「自分はおまえのせいでここまで堕落した者になったのだぞ」という一種の復讐だろうといったようにしか思えません』

 

『ふう~ん……なるほどねえ。それで、君はお兄さんがそのような形で自分の魂を汚し、死後に天使に受け容れられないような存在に成り果てていても、少しも良心が痛まないわけか?』

 

 フランツはもちろん知っていた。彼らはともに二十七歳であり、幼い頃より互いに剣や槍の腕を切磋琢磨しあった親友同士なのだ。また、親友のレイモンドが徐々に歪み、堕ちてゆくのを最後までどうにか救い、騎士団に留めようと彼が努力していたことも……フランツはよく知っている。

 

『僕だって、僕なりに兄さんのことでは責任を感じています。もし、レイモンドのお母さんの死後、僕の母がお父さんと再婚しなかったとしたら……普段、あんなに厳しく騎士道精神なるものを自分に叩き込んできたその人が外では愛人を囲っていたと知らずにいたら――兄さんもあんなにひねくれ曲がることはなかったでしょう。そのことには同情しています。ですが、だからといって何故それが裏町の人間として悪さを働く原因になるんですか!?兄はただの甘ったれなんだ。そんなことでグレてどうせならとことんまで落ちてやろうだなんて……父さんの言うことにも一理ありますよ。レイモンドはもともと性根が腐っていたから、些細なことがきっかけであのように一直線に堕落していったのだろうというね』

 

 実際には、フランツは兄に対しここまでのことは思っていなかった。というより、彼は兄のレイモンドのことがひとりの人間として好きだった。今も、時々会うと屈託なく冗談を飛ばしたり、面白い話をして食事を奢ってくれたりする。だが、貴族街にあるボドリネール家に家族が四人揃って食卓を囲むと、何故か途端に何かがうまくいかなくなる……彼らの家はそのような家庭だった。そのことに対し、フランツは兄に対して(自分たちのせいで悪いな)と感じ続けてきたのであったし、そのことはレイモンドにしてもよくわかっていることなのである。

 

『それが弟としての君の本音か。そのこと、レイモンドに伝えておくよ。今夜、ちょうど会う予定があるものでね』

 

『お好きにどうぞ』

 

 フランツは自分の防具箱に冑や鎧、鎖靴などをしまいこむと、騎士たちが武術稽古に励む聖ウルスラ闘技場にある控え室をあとにした。彼は今、胴着姿の上にガウンをかけていたが、これはむしろ外の暑さから身を守る素材で出来た軽やかなものである。

 

 異母兄であるレイモンドは会うたびごと、「ただでいい女の相手をさせやるぞ」と誘惑的なことを口にするのだったが、フランツとしてはそのつもりはない。というのも、騎士聖典には次のように書いてあるからである。騎士には僧の如き貞潔が求められる、と。もっともこれは結婚を禁じているわけではなく、乱れた性関係を戒める言葉である。また、一度結婚した者は妻を裏切り、不貞によって寝床を汚してはならない、ともある。さらには、同じ騎士の妻を欲するなどとは以ての外である……等々。だが、実際には騎士という身分の者は女性に大変もてるため、結婚するまでの間は二股さえかけなければかなりのところ自由な恋愛が許され、こっそり娼館などに出入りしていても大目に見られる場合のほうが多かったに違いない(これは、その時の騎士団長の性格にもよる)。また、結婚後も愛人を持ったからといって即除籍にされるということも――まず滅多になかったといって良い。

 

 レイモンドは、騎士として実に前途有望な若者だった。父のオリヴィエは非常に厳しい人間ではあったが、彼には優しく甘やかしてくれる母親がいた。ところが、十二歳の時母のベアトリーチェが亡くなると、この父が一年と経たずしてフランツの母フランチェスカと再婚したことから……レイモンドの性格は除々に歪んでいくことになった。このことはおそらく、多感な思春期の若者であった彼自身にしか説明することは不可能だったに違いない。レイモンドはまず、生前の母の姿と若い後妻の姿を見比べて――自分たち母子が本当には父に愛されていなかったことを知った。もちろん、言うまでもなくレイモンドは母のことを心から愛していたが、父はそうでなかったのだろうことをはっきり悟ったのである。

 

 貴族として高い身分と財産を持つベアトリーチェとの結婚は、その当時は父にとって『条件的に』望ましいものだったに違いない。だが、レイモンドの母は痩せてほっそりしている上、病気がちであり……レイモンドにとってはこの上もなく美しい母だったが、一般的な基準として決して美人とまでは言えない女性であったろう。そのことを、レイモンドは父の再婚によって嫌というほど思い知らされていた。というのも、オリヴィエの再婚したフランチェスカという女性は、ベアトリーチェよりも若く、薔薇色の頬をした可愛らしい女性であり、さらにはまるで牝牛のように立派な乳房をしていたからである。

 

 再婚当時、フランチェスカは無邪気そのものの妖精のような優しさによってレイモンドの心を深く傷つけた。彼女はその大きな胸で生き埋めにでもするかのようにレイモンドのことを包み込み、『これから家族として仲良くしましょうね』と言ったり、『実のお母さんほどには無理でも、出来る限りあなたにとっていい母親になりたいの』と言ったりしたものだ。

 

 レイモンドにとってはなんともおぞましいことだったが、(母さんはこの女に負けたんだ!)と思うのと同時、賢く勘の鋭い彼にはすぐわかったのである。母のベアトリーチェと同じく、自分も決してこの父の愛人には勝てぬだろうということが……。

 

 というのも、フランチェスカは『平民出の女のくせして!』といったような暴言にも、まったく動じるところがなかった。彼女は牝牛のように立派な乳房をしていたのみならず、精神のほうも牛のように鈍重であるか、あるいはそのように見せかけていた。レイモンドはやがて、反抗的な態度を取ってもフランチェスカがまったくもってどこ吹く風、といった態度なのが何故かを理解した。彼女には、心から愛するひとり息子がいるのだ。この息子のためであるならば、義理の息子の反抗的な態度など、彼女にとっては蚊が刺したほどにも痛痒を感じないということなのだろう。むしろ、平民の愛人として終わったところが、うまく本妻が死んでくれて、貴族の瀟洒な館に息子ともども転がりこめてラッキーだった――そのことを思えば、夫の先妻の残した息子など、時に応じて適当にあしらっておけばいい。そのうち騎士として立派に成長すれば、しかるべき家柄の娘とでも結婚し、この家からも出ていくだろう……おそらくこの女の腹の算段としてはそんなところなのだと、レイモンド少年はそう確信した。

 

 また、妖精のように無邪気な魅力をふりまくフランチェスカのことを、父が年甲斐もなく甘やかす姿を見るのも、レイモンドには苦痛だった。あの厳しい父は一体どこへ行ってしまったのだろう、母さんに対しても自分に対しても(仕方ないから義理でそれなりに優しくしてやっている)といった風情さえ時に見せることのあった父。今ならばレイモンドにもよくわかる。母ベアトリーチェが帰らぬ父のことを夜遅くまで待っては、時に涙を流していたのが何故だったかということが……。

 

 こうしてレイモンドは父親からも義母からも目を背け、十六歳になる頃からはだんだん貴族街にある屋敷のほうへは帰らないようになっていった。だが、彼は騎士団に見習い従者として入ってきたこの異母弟のことを決していじめたりすることはなかった。父のオリヴィエは、騎士として厳しく教育しようというのは自分に対してだけであり、弟のフランツには甘かった。とはいえ、『あれはおまえと違い、騎士には向くまいよ』と父が口にする時、レイモンドとしては複雑だった。それは、『おまえは立派な騎士になると思ったから、目をかけて厳しくしたのだ。そのこと、わかっておるな?』といったようには、彼にはとても思えぬことだったからだ。どちらかというと、名門騎士の家系のひとつであるボドリネール家からは、最低でもひとりは素晴らしい騎士としての跡取りを生みださねばならぬ。そのために心を鬼にして厳しくしたが、わしの愛情のほうはすべて、弟のフランツとその母親にそっくり捧げることにしよう……レイモンドにはそうとしか感じられぬことだったのである。

 

(何が騎士だ!!馬鹿らしい)

 

 だが、そう思って以後も、レイモンドはなかなか騎士団からは離れられなかった。そこには共に剣技や槍術、馬術や体術を磨いてきた仲間がおり、そこで生まれた友情という名の特別な絆は、彼にとって並の力によってでは到底絶ち切り難いものだった。ところが、レイモンドが娼婦の女性に入れあげ、彼女の家のほうから帰って来ないようになると……ボドリネール家では、父と息子の深刻な対立がさらに激化していったのである。

 

『汚れた女との多少の火遊びくらいは大目に見てやろう!だが、娼婦上がりの女と結婚などとは、一体おまえは何を考えておるのだ。我がボドリネール家の血筋の者が売女と結婚だと!?馬鹿も休み休み言え!!』

 

『俺はそうは思いませんね、父上』

 

 激昂した父親に殴られたことで、奥歯が一本折れたレイモンドは、血の混じった唾液とともに、それをぺっと床に吐き捨てた。

 

『騎士聖典にもありますよ。騎士ナシルが東王朝軍討伐へ出かけた際、当地の汚れた女を妊娠させてしまった。彼には愛する妻との間に跡取りがなかったことから、彼女を連れ帰って来たのです。戯れに遊びで抱いた女との間に子供が出来たという、たったそれだけの理由で……だが、この娘は出産の際に男児を生んですぐにも息を引き取ったから良かったでしょう。本妻のほうでも、そうと事情を聞かされても、自分が不妊の女であるという負い目から、この子供を自分の子のように育てることが出来たのかもしれません。ですが、当の娼婦の女が愛人として生きていたとしたらどうです?なかなかそう上手くはいかなかったことでしょう』

 

『屁理屈を……!!』

 

 レイモンドの言葉の中に、いくつもの自分に対するあてこすりがあるのを感じて、オリヴィエは再び頭に血が上った。もっとも、騎士ナシルの息子ロリスの物語に関していえば――のちに彼は父と同じく東王朝討伐へ出かけるに当たり、自分は実は同胞の人間を刺し殺そうとしているのだ……ということで苦悩することと、また彼のそうした懊悩が時の西王朝と東王朝が一時的にせよ和を結ぶ結果を生むのが大切なのだが、このことはこの時の彼らの親子喧嘩と一切関係がない。

 

 父親が再び拳を振り上げるのを見て、レイモンドは殴られる痛みを覚悟したが、数秒しても何も起きなかった。『やめてください、お父さん!!』と言って、フランツがオリヴィエとレイモンドの間に立ち塞がっていたのである。そして次の瞬間、キッチンのほうからやって来たフランチェスカの姿を見て、レイモンドはその場から逃げるように出ていった。オリヴィエの怒声や暴力が怖かったからではない。レイモンドの立場からすれば、彼女こそ母親から父のことを奪った売女だった。そして義母は、血の繋がらぬ息子がいくら夫から怒鳴られようと殴られようと、「心配そうな振り」をするだけで、心の中では鋼のように一向平気だということを彼はよく知っていた。何故なら、彼女が心底心配しているのは実の息子のことだけで、フランツが喧嘩の仲裁に入ったればこそ、こわごわ居間のほうへ顔をだしたに過ぎないのだから。

 

(こうなっては、あとに起きることはただの茶番だ)

 

 そうわかっていればこそ、レイモンドはすぐに自分の生まれた家を出た。彼は自分の母親の後釜となった愛人が、母の愛用の品を無神経にもそのまま使っていたり、ドレスを作り変えて新しくしたりする姿を見るのも我慢がならなかった。何より、そうしたフランチェスカの女としての贅沢や我が儘について、父親が何も言わないことにも腹が立って仕方なかったのである。

 

 だが、レイモンドは唯一、腹違いの弟のことだけは可愛がっていた。何故かといえば、この弟のほうは繊細で感受性が豊かだったからである。ゆえに、言葉数のほうは決して多くなかったにせよ、レイモンドには彼の深く澄んだ緑の瞳を見ただけですぐわかった。フランツにだけは、実の父にさえわからぬことが、細かくわかって胸を痛めているのだろうということが……。

 

 もっとも、見習い騎士として聖ウルスラ騎士団に入ってきたフランツのことを過剰にいじめたりしなかったのには、また別に理由がある。三つ子の魂百までというべきか、そもそもレイモンドには父オリヴィエから授けられた騎士道精神が骨の髄まで沁み込んでいた。それでも、フランツが騎士としてまったく不向きであり、男としても臆病で、真の勇気を持ちえぬ腑抜けであったとすれば――おそらく目にかけるということはなかっただろう。だが、フランツはレイモンドの見たところ、勇敢な父オリヴィエの血を引く者として騎士の適性があるように思えた。そこで、時に厳しく訓練することはあった。だが、それは血の繋がりなどは関係なく、共に騎士を目指す先輩格の兄貴分として、ということであった。また、その気持ちはフランツにも十分通じていたはずである。

 

 だが、レイモンドは結局のところ、例の娼婦の女性とは結婚しなかったにせよ、貴族街の自分の屋敷へ帰ってくるたび、父親と大喧嘩するといったことを何度となく繰り返し……とうとう、彼は騎士になることはなかったのである。というのも、とうとう騎士に叙任される式典が行われるというその日、彼は円形闘技場へは姿を現さなかったのだ。と同時に、レイモンドはボドリネール家とは完全に縁を切り、自分の母が残してくれた遺産によって商売をはじめ、その後八年ほどもした今では、裏町のちょっとした顔にまで成り果てていたのである。

 

 ――この日、フランツは第十四区にあるレイモンドの屋敷、というよりもアジトとも呼ぶべき場所まで出かけることに心を決めた。そこはメルガレス城砦内でも相当にいかがわしい場所として知られており、巡察隊士や守備隊士ですらも出入りするのを嫌がるような界隈だった。というのも、近くに安酒の蒸留所があるのみならず、アヘン中毒者の巣窟になっているような場所まであり、売春宿の隣には堕胎と梅毒を専門にしているような闇医者が酔っ払ったまま治療に当たる……といったような、レイモンドが住んでいるのは生活困窮者の吹き溜まりのような場所だったからである。

 

 フランツとしてもまったくもって気が進まなかったが、それでもレイモンドが邪宗教とまで関りあっていると聞いては、流石に会わないわけにもいかなかった。レイモンドは、自分の父親が何をすればもっとも傷つくか、熟知していたといっていい。そこで、明日は騎士としてとうとう叙任されるという晴れの日に欠席し、完全にボドリネール家とは縁を切る道を選んだのである。そのことを思うとフランツとしても複雑だった。何故なら、のちの騎士団長選びということまで視野に入れた場合、総合的な実力、さらには人望といったことも含め、今騎士団長であったのはサイラス・フォン・モントーヴァンでもなければフランソワ・ボードゥリアンでもなく、レイモンド・ボドリネールであった可能性は極めて高かったろう。つまり、もしそうであったとすれば、サイラスは馬上試合で落馬して首の骨を折ることなく、今も生きていたに違いない……つまりはそういうことだった。

 

 しかも、フランツは今フランソワ・ボードゥリアンにある弱味まで握られている。レイモンドと自分とおまえの三人で話したいことがある――などと言われ、とある時軽食屋へ出かけていって見ると、実際にいたのはフランソワひとりだけだった。その後、軽く食事をしながら今後の聖ウルスラ騎士団のことなど、他愛のない話をするうち、彼は急激な眠気に襲われた。いや、ここまでであれば良い。だが、問題なのは翌日この軽食屋の二階にある宿で目覚めてみると、彼は裸であり、さらには隣に同じように裸の女性がいたということだった。

 

 フランツはこの日以降、恋人のフランシスの顔をまともに見れないようになっていた。その後、フランツは「あれはどういうことだったのか」と、フランソワに問いただした。彼の答えは「一流の騎士たるもの、女の扱いも一流でなくてはな」というものだった。「レイモンドも俺も、可愛い弟分のおまえのことを心配していたのさ。あの平民出のフランシスとかいう娘と結婚するのも悪くはないだろう。だが、結婚前に少しくらい遊んでおかないと、結局おまえの親父と同じく結婚後に不貞を働くということになってしまうぞ」と。

 

 この時、珍しくフランツは怒った。相手の女性は手練手管のこの種のことに慣れた娼婦といったわけでもなく――騎士という存在に憧れを抱いているただの年若い女性だった。彼は「自分には恋人がいて」、「こうした関係を続けるのはよくない」ということをこのアイリスという女性に伝えもしたのだが、「ただの愛人でいいのよ」と彼女は健気にも言うのだった。「時々、あなたの気が向いた時にここへ来て、色々おしゃべりしたりして、楽しく過ごせたらそれでいいの」と……。

 

 フランツは結局、フランシスとは別れることを決意したが、かといってアイリスの元に通い詰めるということもしなかった。フランツはこの件に関し、レイモンドに対しても珍しく荒々しい口調で「どういうつもりなんだ!?」と問い正した。だが、レイモンドが単純に(驚いた)という顔をしているのを見て、ハッとしたのだ。あれはおそらく、フランソワがレイモンドの名前を使って自分を呼びだしたというそれだけで――兄はおそらく何も知らなかったのだろうと。もっとも、このあとレイモンドは親友らしく、フランソワのことを庇うような発言しかしなかったわけだが……。

 

 フランツは近ごろとみに、(よく考えてみればあれもこれも兄さんのせいだ。兄さんがあのまま父さんの望み通り騎士として叙任されてさえいれば、騎士団内におけるのちの悲劇と混乱は避けられたんだ)と思うことが多い。そして、もしそうなっていたとすれば、自分の運命も今とはまったく違ったことだろうと考えるのだった。何故なら彼は今、父オリヴィエが勧めるあるやんごとなき貴族の女性との婚姻を考えているからだ。実はこの件に関していえば、フランツは自分の両親が大喧嘩するところを初めて見た。なんとなれば、父オリヴィエは息子がフランシスという娘と別れたと知るなり、まるで狂喜したようになり、「あんな平民の娘より、もっと良い縁談がおまえにはある」と、貴族のディディエ家の娘がどうこうとか、ヴァンセンヌ家の娘がどうこうとか、そんな話ばかりしていたからだった。母のフランチェスカは夫がそのような結婚によって不幸になったことを思い出させようと、「平民の娘の一体何がいけないんですの!?」と金切り声で叫び、オリヴィエはと言えば、「わしの話と大事な跡取り息子の件はまったくの別問題だ!!」と、詭弁を弄しては妻と言い争うのだった。

 

(そうだ……僕は今日、兄さんにこう言ってやろう。僕が母さんと同じ平民出の娘と別れたもんで、父さんが貴族の娘との見合い話を持ち出し、そのことで一日中口を聞かないことさえあるってことを。もちろん、今ごろそんな話を聞かされたところで、兄さんにしても嬉しくもないだろうし、どうでもいいことですらあるだろう。けど、兄さんが騎士に叙任されなかったことで、聖ウルスラ騎士団はバラバラになり、むしろ悪徳によってひとつに結びついている節さえあること、僕は僕で婚約していた女性と別れ、本来なら兄さんが結婚していたかもしれない貴族の女性と結婚しようとしていることとか……全部話してやろう。もしかして全部、兄さんが邪宗教ネクロなんとかに通い詰めて、呪いでもかけてるそのせいなんじゃないかなんて、そんなふうにね……)

 

 フランツがそんなことを考えつつ、この日も鬱々とした気分で重い溜息を着き、ボドリネール家へ戻った時のことだった。女中のアンヌが玄関ホールにて、来客のあることを告げたのだ。「騎士のランスロットさまとギネビアさまとおっしゃる方で……ええ。奥さまがサンルームのほうへお通しになって、自慢の蘭のお話なんかをされておられますわ。旦那さまはヴァンセンヌ家のほうへ狩猟のご相談へお出かけになられましたけれど」と。

 

「ありがとう、アンヌ」

 

 フランツは客に失礼のないよう室内着に着替えたが、どうやらその必要はなかったことがサンルームへ入るなりわかった。というのも、ふたりとも胴着姿であり、しかも旅人らしく衣服といったことにはあまり気を遣ってないことが見てとれた。もっともこれは、メルガレス城砦では礼儀を失したことでもあるが、フランツは騎士ランスロットの剣や槍の腕前を知っていたので、むしろ好感を持ったほどである。

 

「母さん、珍しい蘭の種類の説明なんかされたって、お客さまにとってもきっと退屈なだけだよ」

 

「あら、そうかしら」フランチェスカはこの日も、立派な乳を見せびらかすように、襟ぐりの大きなドレスを着ていたものである。「今もね、このチョコレート色の花弁が特に美しいと思いますだなんて、ランスロットさまは共感してくだすってたばかりなのよ。ねっ、ギネビアさん?」

 

「えーと、そうですね……わたしはフツーにデンドロビウムやシンビジウムなんかがいいと思いますがね。こいつはきっと、奥さまがお美しいので通ぶったところを見せたかったんじゃないですか」

 

「あらま、やだわも~。ギネビアさんたら~~」

 

 フランツはギネビアとは初めて会ったにも関わらず、(おまえのパイオツでかいおふくろ、どうにかしてくれ)といったような視線をビームのように強く感じ、母のことをサンルームから追いだしにかかった。

 

「ほら、母さん。ふたりは騎士である僕に大切な用があって来たんだよ。母さんの暇つぶしの蘭自慢なんかお呼びじゃないんだ。わかったら、さっさと席を外してくれ」

 

「何よ、もう!近ごろすっかりひとりで大きくなった顔して、この子ったら……母親なんて、つまらないものね。だって結局、結婚したら他の女のものになっちゃって、うちにも寄りつかなくなっちゃうかもしれないものね。小さな頃は「ママ、ママ」って言っては後ろをついて来て可愛いものだったのに……」

 

「母さんっ!!」

 

 はいはい、というように、フランチェスカはランスロットとギネビアに一礼して、サンルームから出ていった。フランツはそれまで母親の座っていた籐椅子に座り、ガラステーブルを挟み、ふたりと向きあう。部屋のほうは蘭の他にも、蔓性の薔薇が壁に這っていたりと、緑と花の匂いが入り混じり――どことなく独特な野生の香りで満ちていた。

 

「その、母が失礼致しました……」

 

 フランツは照れたようにごほん、と咳きついてから続けた。

 

「それで、今日は一体どのような御用向きで?」

 

「単刀直入に言おう」と、ランスロットはすぐ本題に入った。「我々はローゼンクランツ騎士団の者だが、ここメルガレス城砦へやって来てからというもの、聖ウルスラ騎士団について悪い噂しか聞いていない。そもそも、騎士団長のフランソワ・ボードゥリアンにしてからが、あまり良くない人物と聞く。そこで、副団長であるフランツ殿に騎士団内の内情について一度お聞きしておきたかったのだ」

 

 フランツは、陶磁器のピッチャーに入ったアイスティーをティーカップに注ごうとした手を止めた。彼らが一体どこまでのことを知っているのかと、探るような目で見る。だが、フランツは覚えていた。以前、ランスロットが円形闘技場にて、サイラスといかに素晴らしい剣技を披露してくれたかということを……。

 

「ランスロット殿が我が聖ウルスラ騎士団についてどのようなことをお聞きしたのかはわかりません。ですが、きっとご親友のサイラスが亡くなったことをお聞きになったことでしょう。僕は今、副騎士団長という立場にありますが、だからといって騎士団長であるフランソワ・ボードゥリアンの片腕だとか、そうしたことではないんです。そもそも、新しい騎士団長を選出するという時、騎士団内は二派に割れていました。すなわち、今は亡きサイラス・フォン・モントーヴァン派とフランソワ・ボードゥリアン派とにね。この中で、僕はサイラス派でした。ですが、今も騎士団内に多く存在するサイラス派の騎士たちをまとめるためにも、比較的操りやすいとフランソワが感じたのだろう僕が副騎士団長の座へ収まることになったわけです」

 

「それで、実力のほうは……?」

 

 ランスロットはあえてそうした無神経な聞き方をした。というのも、一年半ほど前にサイラスと馬上試合を演じた時、今目の前にいるフランツという青年のことはさっぱり記憶に残ってなかったからである。

 

「おっしゃることはわかります」フランツはサッと頬を赤らめて答えた。「騎士団長の選出法にも副騎士団長の選び方にも、いくつか方法がありますが、サイラスという実力者が不慮の死を遂げてしまったことで……僕が急遽フランソワの指名によって副騎士団長になることになったんですよ。また、そのことに誰も反対しませんでした。そのくらい、サイラスの死は騎士団内の誰にとっても衝撃で、深く悲嘆に暮れる出来事だったからなんです」

 

「それはおかしいな」

 

 ギネビアは男のように腕組みすると、厳しい視線をフランツに向けた。彼女は彼の容貌や物腰、話し方などに好もしい性格の柔和さを感じはしたが、騎士として、男としては剛毅さに欠けるようだと感じていたのである。

 

「我々が聞いたところによると、サイラス・フォン・モントーヴァンは、現騎士団長フランソワ・ボードゥリアンに毒殺された可能性が濃厚だとの話だったが?無論、彼自身が直接手を下したわけではなく、彼の配下の者がそのように計ったのだろう。同じ騎士団と名のつくものに所属する者として、そのような不正は断じて許しがたい。しかも、フランソワ・ボードゥリアンが騎士団長に就任して以降、色々と規律の乱れが生じてもいるとか……」

 

「あなた方は一体、どこからそのようなことを?」

 

 フランツは他州の騎士団の者に裁きの視線を向けられ、大いに恥じ入るとともに、その情報源を知りたかった。サイラス派の騎士たちをまとめているのは一応彼自身ではある。だが、フランツのことを結局は騎士になれなかった堕落した兄の弟、ボードゥリアン騎士団長の犬であるとして嘲笑する者がいることも、彼はよく承知していたのである。

 

「我々は今、サイラスの父上であるラウール・フォン・モントーヴァン卿の元に身を寄せている」と、ランスロットが答えた。「だが、貴公も知ってのとおり、ラウール殿は自分の息子だからとて、決して贔屓目に見たりはされない方だ。その方と従者のセドリックが、現在の騎士団内における事情を詳しくお話しくださったのだ。言うまでもなく我々は他州の騎士団に所属する者であるゆえ、聖ウルスラ騎士団内にいかな揉め事があろうとも、嘴を突っ込むような権利まではない。だが、話を聞けば聞くほど、同じ騎士として見過ごせぬと思ったのだ。騎士聖典に書かれたことを本当に信じているのだろうかと疑いたくなるような行動が聖ウルスラ騎士団内において横行しているらしいと聞いてはな」

 

「そうでしたか。ラウール殿とセドリックから話を聞いたということであれば、僕も認めましょう。おふたりがおっしゃったことは……そのほとんどにおいて真実であるか、極めてそれに近い問題が聖ウルスラ騎士団を蝕んでいるということを……」

 

 こう言って、フランツは羞恥の思いから顔を伏せた。と同時に、彼の心には何故か突然、光が差し込んできた。フランツ自身には現在、聖ウルスラ騎士団を内部から蝕んでいる悪病を救う手立てはない。だが、このように他の騎士団の騎士から諌められれば――それがランスロットのように勇敢な騎士であれば尚のこと、仲間たちも耳を貸し、心を入れ替えるのではないかと思ったのである。

 

「では、認めるのだな?」と、ギネビアがランスロットの重々しい口調を真似て言う。「そうであれば話は早い。これからわたしとこいつは、夜に聖ウルスラ騎士団の騎士が出没すると思しき場所を順にマークし、そのやり方がいかなるものかを確かめようと考えている。出来れば貴公にも協力していただきたいが、もし無理とあれば、我々だけでその恥ずべき現場を目撃し、それを証拠として突きつけようと思っているのだが、いかがかと?」

 

「そっ、そこまでのことをお考えだったのですか……」

 

 フランツは膝の上で両の拳をぎゅっと握りしめた。どのみち、彼には失うものなど何もなかった。正直、騎士などやめてしまいたいと思うことさえある。だが、父を失望させないためにも、名門騎士の家系であるボドリネール家の体面を保つためにも――彼は今後とも副騎士団長であり続けねばならないと考えていた。結局のところ愛する女性とも結ばれず、プライドの高い貴族の娘と結婚し、妻の御機嫌伺いをするような毎日を送ることになるのかもしれない。だが、そんなことも今のフランツにはどうでも良いことだった。自身もまた、彼らの悪癖に感染でもするように堕落してしまった今、フランツは騎士としての誇りを失い、惰性によって武術訓練するような日々を送っていたのである。だが、そうした底に落ちてしまった自分にも、まだ己の愛する騎士団のために出来ることがあると思った――それは自己犠牲という名の献身である!

 

「こうなってしまったからには、僕もあなた方に協力し、出来ることはなんでも致します。また、聖ウルスラ騎士団が腐った果実のように成り果てつつあるというのは事実ですが、それでもまだ我が騎士団には本物の騎士たちが残されてもいるのです。彼らの多くはそもそもがサイラス派の騎士たちで、このことを話せば快く承諾してくれる心意気も持ち合わせていることでしょう。僕のほうでもフランソワ派の騎士たちが行きつけにしている酒場や非公式の娼館といった場所についてはいくつか知っています。これで彼らが自分たちの行いを恥じ、悔い改めてくれるといいのですが……」

 

 ランスロットはフランツのことをじっと観察していたが、『彼ならば必ず聖ウルスラ騎士団の規律を正すのに、間違いなく協力してくれるでしょう』とセドリックが請け合っていたこともあり、思いきってこう切り出すことにしたのである。

 

「フランツ、あなたに先にひとつお話しておきたいことがあります。実は……騎士団長のフランソワ・ボードゥリアンはとんでもない大罪を犯している男なのです。彼の恋人の噂についてはご存知ですか?」

 

「い、いえ……ですが、彼もまた他の騎士仲間と同じく、時々娼館と言いますか、そうした女性を相手にしていると聞いているので、そうした中に愛人がひとりかふたりくらいはいるかもしれませんが……」

 

「フランソワ・ボードゥリアン、あいつはなあ」と、ギネビアがある意味一番美味しいところを引き取って言った。「のわーんと!聖ウルスラ神殿の巫女姫さまと恋人同士でいらっしゃるのだ。驚け、おののけーい!!もしこのことがわかったら即刻死罪だぞ!!いくら巫女姫さまとて決して無罪では済みますまい。そうしてふたりは罪の情欲に身を焦がしつつ、今も人目を忍んで逢瀬を重ねているのだ。このことがもし市民らに知れた日には……もがっ!!」

 

 ギネビアの芝居がかった物言いを、隣のランスロットが口を塞いで止めた。というのも、フランツ側のショックがあまりに大きいのを見て取ったからだ。

 

「そのこと、本当なのですか……?いや、だが、それが事実だとしても、俄かには信じがたい。だって、そうでしょう?巫女姫さまはいつも神殿にいらっしゃって、重厚な警備によって守られているのですから。誰にもわからないように恋人同士として何度も会うだなんて無理ですよ。ですが……」

 

 ここまで独り言のようにブツブツ言いかけて、フランツはハッとした。確かに、そう頻繁ではなかったにしても、ふたりきりになれる可能性はゼロでないことに気づいたのだ。だが、フランツの脳裏に思い浮かんでいたのは、実際にマリアローザとフランソワが使っているのとはまるで別の方法ではあったが。

 

「いえ、おふたりがそこまでのことをおっしゃるからには、僕もそのお言葉を疑うことはしますまい。それに、情報源のほうはおそらくセドリックでしょう?主人であるサイラスが亡くなってから、彼がフランソワ一派の身辺を探っていたことは知っています……彼も気の毒な男です。もしあのままサイラスが騎士団長になっていたとしたら、セドリックもまた騎士に叙任される予定だったのですからね」

 

「今は、他人のことより自分のことを心配したほうがいいのではないか?」と、冷水でも浴びせるようにランスロットは突き放すように言った。「俺たちが今このことを思いきってあなたに話したことには理由がある。理由その一、貴公がこのことで騎士団長であるフランソワ・ボードゥリアンを脅さなかったにせよ、この彼にとっての弱味は貴公にとって最強のカードであることを理解しておいてもらいたい。理由その二、こちらのほうがより重要だが、今後、フランソワ・ボードゥリアンの騎士団長としてのスキャンダルが表に出た場合、当然次の聖ウルスラ騎士団の騎士団長になるのは貴公であることから……その心構えとともに、あなたには今以上にしっかりしてもらいたいと思ったというのがある」

 

「な、なんですって!?」

 

 フランツは驚きのあまり、その場に立ち上がった。サンルームは狭かったため、彼の長い足はテーブルにぶつかり――磁器製のピッチャーが揺れ、ランスロットとギネビアが飲んでいた茶碗も揺れたが、反射神経のいい彼らがほぼ同時にそれぞれ押さえ、床に落ちて割れることまではなかった。

 

「す、すみません……ですが、巫女姫マリアローザさまとフランソワの隠れた愛人関係がわかったとして……い、いや、駄目だ。そんなことは想像することさえ出来ない。確かに、巫女さま方の誰かが男性と通じていることが罰されることはあるが、それだって外部からの告発というよりも内部からの告発――つまり、嫉妬した他の巫女さまの誰かが手を回して処罰する場合がほとんどと聞く。それに、僕だって今はもう、彼と同じく穢れた身なんだ。そんな僕が、誰のことをも裁けはしない……っ!!」

 

 フランツの苦悩は深かった。そこで、ランスロットとギネビアはフランツの口から順に事情を聞いた。つまり、フランソワに誘われ軽食屋で食事をしたところ、眠気に襲われ、翌日には見知らぬ女性が裸で横たわっていたこと、しかも、その軽食屋兼宿屋の娘なのかと思いきや、実は彼女は――聖ウルスラ神殿の巫女であるとあとから告白してきたということを。

 

「きっと、だからだ」と、フランツは最後には涙すら流していた。「確かに以前からフランソワも兄も、少しくらいは女遊びを覚えたほうが度胸もついて、騎士としても洗練されて見えるとか、そんなことは言っていたんです。でも、僕はつきあっている女性もいたし、そんな形によって恋人を裏切るつもりはまるでなかった。彼女……アイリスという名でしたが、円形競技場で僕が騎士として戦う姿を見て一目惚れしたとかいうことでしたが、今にして思うと少々あやしいですね。ようするにフランソワは、僕を自分と同じ罪に墜とすことで、自分の身の安全をはかりたかったんだ。なんて卑怯な男だっ!!」

 

 ランスロットもギネビアも、悔恨の涙に暮れるフランツに対し、同情すればこそ、責めたりすることは出来なかった。また、彼が純情で初心な性質であり、正直に事を述べ、嘘をついたりしていないこともよくわかった。だが、逆にだからこそ、フランツは周囲の人間にとって騙しやすく利用しやすい男でもあったことだろう。

 

「貴公には心から同情はするが」と、ランスロットは先ほどよりも柔和な口振りになって言った。ここまで聖ウルスラ騎士団の病根が深いとは思ってもみなかったのである。「今は、お互いに罪の足枷を引っ張りあう時でないことは理解できるだろう?我々はこれから、協力して次のことを行なう必要がある。ひとつ目は、騎士団内でも誰と誰が夜警たちとグルになって不正を見逃しているかの調査と、ふたつ目はその者たちをいずれは公裁判によってか神明裁判によってでも裁かなければならないということだ。また、そうでもしない限り聖ウルスラ騎士団の悪を正すことは出来ない。一番いいのは、フランソワ・ボードゥリアンひとりのみが裁かれ、その余波によって騎士団内の秩序の回復がはかられるということかもしれない。だが、騎士としての実力が劣る弱い者に、強い者を統べ治めることは難しくもあるだろう。そこで、だ」

 

 ここで、ランスロットとギネビアはフランツにさらにある提案をした。フランツのほうでは、ふたりの話を聞き終わると、何度となく深刻に頷いたあとで――「やりましょう。僕のほうでも最善を尽くすことをお約束します」と覚悟を決めた。「それで最悪の場合、僕もまたフランソワ一派の悪の片棒を担いだとして逮捕され、裁きにかけられたとしても……聖ウルスラ騎士団の規律の乱れを正し、本来の騎士団としての働きをまっとうすることが出来るよう、最後まで戦い抜くことをここに誓います」

 

 ――こうしてランスロットとギネビアは、この時がほぼ初対面であったにも関わらず、フランツとがっしり握手して別れた。騎士というのは特に、戦時においては互いのことをすぐにも理解しあい、うまく連携して共同戦線を張るものだが、この時の彼らもまた同じだった。星神・星母に対する信仰、また、その信仰書と多く通じるところのある騎士聖典を土台に持つ者同士として、彼らはすでに同じ神の御名の元、絆を結んだ兄弟・姉妹といってまるで過言でなかったのである。

 

 

 >>続く。

 

 

 


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