こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

不倫小説。-【4】-

2019年02月06日 | 不倫小説。


 さて、今回も本文に関して言い訳事項がたくさんあるんですけど(汗)、聴神経腫瘍を摘出する手術については、描写がものっそ☆テキトーだっていうことで、よろしくお願いしますww

 一応、手許に「術中看護マニュアル 脳神経外科」っていう本があるんですけど、参考にしたのはこの本と、「Neurosurgery脳神経外科医、Akio Morita,MD」先生のHPのほうを見て、何か適当に書いた……といったよーな次第ですm(_ _)m

 前回の緊急気管切開についても、ちょっとまだ書かなきゃいけないことがと思いつつ、今回は山崎豊子先生の「白い巨塔」について、これも前回、明日香がどこを読んで「エロい☆」って思ったのか、ちょっと引用してみたいと思いました


 >>「あの医事新報にも、五郎ちゃんの食道外科のこと載っているけど、そんなに食道・胃吻合手術って難しいの?」

 そういう時だけ、ケイ子の切れ長の眼に、かつて女子医大生であったらしい怜悧な輝きが漲った。

「そうだな、普通の胃体にある癌なら、その患部を切除してしまえばいいのだが、胃の噴門部に癌が広がっている場合は、その部分を切除したあと、食道に繋がねばならないから、その繋ぎ方が分秒単位のスピードと、しかも手際のよさと、絶対の確実さを要求されるから、難しいのだよ、おそらく、この手術が出来るのは、千葉大学の小山教授と、俺ぐらいのものだろう、また来週の火曜日も、九州からわざわざ、俺にと云って来ている大きな手術があるのだよ」

 と云い、財前は、火曜日の食道癌の手術のことを思い出すと、激しい欲情を催して来た。

「おい、ベッドへ行けよ」

 四畳半にあるベッドへ、露骨に誘った。

「まあ、いやね、また手術(オペ)があるの」

 そう応えながら、ケイ子は、財前の逞しい体を受け止めるために、下着を脱ぎ、放恣な肢体で、ベッドに横たわった。

(『白い巨塔』山崎豊子先生著/新潮文庫より)


 前回、明日香が奏汰先生に対して「エロくてびっくりしちゃうからっ!」みたいに言ってたのは、「白い巨塔」のこの部分です(笑)。

 で、対する奏汰さんのほうでは、どこがそんなにエロいのかよくわからない……と首を傾げていたわけですが、わたし、最初にここ読んだ時、「うっわ、えろ!何これ」って思った記憶があります(いえ、結構いい歳した大人になってから読んだんですけども^^;)

 この財前先生の愛人であるケイ子さんというのはお美しい方で、しかも>>放恣な肢体をしてらっしゃるという。最初読んだ時、放恣ってわたし、意味わかりませんでしたねえ(馬鹿だから・笑)。でもまあ、放埓な肢体っていうのと同じ意味なのかな、なんて思ってまして。。。


【放恣】=勝手気ままで、乱れていること(さま)。

【放埓】=勝手気ままで、しまりのないこと。また、そのさま。
     身持ちの悪いこと。


 ……いえ、言葉選びって大切ですよね(^^;)

 そして、最初読んだ時には大してエロいとも思ってなかったのに、今回最初のほうパラパラ読み返してみて、「むしろこっちのほうがエロいのかしら?」と思ったのが、財前五郎先生と奥さまの杏子さんの関係。。。


 >>今日も帰りが遅いのではないかと思うと、杏子は手持無沙汰に、マガジン・ラックに手を伸ばし、夫の財前五郎の写真が載っている週刊誌を出して、広げた。

 夫の精悍な顔が画面一杯に広がり、メスを持った美しく厳しい手が大写しになっていた。手はゴム手袋に蔽われていたが、杏子だけは、その手が毛深い節太の男らしい手であることを知っていた。そして、その毛深い手に抱かれて、激しく愛撫されるのが、夜の杏子の娯しみであった。それを思うと、三十六歳の杏子の体は、俄かに熱っぽい湿りと昂りを覚え、求めるように籐椅子の上で眼を閉じた。

 -【中略】-

「お夜食の用意をしときましたわ、一緒に召し上って――」

 甘えるような口調で云った。和歌山の病院へ出向する織田たちとバーで飲んだあと、ケイ子のアパートでも、ビールを飲み、情事のあとサンドイッチをつまんで満腹だったが、

「うん、ちょっと貰おうかな、送別会と二次会で腹一杯だが、杏子と向い合うと、やはり一口――」

 昼間の財前の顔には見られぬ、女の心を誘い込むような優男めいた甘い表情であった。

「まあ、いや、何度もその手で、わたしをまるめこみはるのやから――、でも、あなた、ほんとに、浮気なんかしないで、そんなことしはったら、私、黙ってないわ、それこそお父さんにも云いつけて、絶対、我慢しない――」

 杏子は、自分の方から、夫の胸に顔を寄せた。大きすぎるほど大きな眼を伏せ、花弁(はなびら)のようにくびれた紅い唇を突き出した。財前は、その厚い唇を吸い、杏子の体を抱きながら、不意に、もっと金が欲しいと思った。

(『白い巨塔』山崎豊子先生著/新潮文庫より)


 愛人のケイ子さんには、肉体的にだけでなく、精神的にも惹かれているらしいのに対し……奥さんの杏子さんに対しては、まあ、お義父さんがお金を持ってるとかそうした関係からの縁組だったらしいんですよね(^^;)

 そして、奥さんの口ぶりから見て、「浮気なんかしたら許さない」なんて言ってるにも関わらず、愛人のケイ子さんの存在にはまるで気づいていない様子であり――そしてこのケイ子さんという女性が実際なかなかすごい方で、財前先生の家庭を壊そうとかなんとかいう考えは最初からまるでないわけです。。。

 まあわたし、>>不意に金が欲しいと思った。というところで、思わず吹きだしちゃったんですけど(笑)、ドラマのイメージと原作の財前先生のイメージって、いい意味でちょっと違ってたりもして……2003年のドラマ版のほうはやっぱり、現代のがん事情などに話を寄せる必要があり、脚本家さんの方はそのあたりのことを調べてリメイクするのって大変だっただろうなって感じます

 もっとも、ドラマのほうは全部見たわけじゃなかったりするんですけど(汗)、この間「白い巨塔」で検索してたら、再び新しいキャストで五夜連続で放映されるとか!

 いえ、名作は滅びない……っていうのは、「白い巨塔」を一度でも読むと本当にそう思いますそんで、こうしたレベルの低いわたしの書いた小説に「白い巨塔」なんていう山崎豊子先生の素晴らしいお話を一部引用してしまい――「なんか恥かしいなー(*/ω\*)」と思ったいう、今回はそんなお話でした。。。

 それではまた~!!



       不倫小説。-【4】-

「へえ。だけど、なんでそれが急に手術室なんていう、激務部署への異動っていうことにまで、話が飛躍するんだい?」

 まるで、面白い話にオチでも期待するように、奏汰もまた笑って明日香のほうを見返した。彼はてっきり、あの紺野晶という看護師が、明日香に気でもあるのではないかと、少し疑っているところがあったのだ。だが、この話の展開でいくと、そうしたことは本当にまったくないらしい。

「つまりですね、紺野さんは看護師としての能力のほうはとても高い人なんです。もちろん、手術室へ行っても、看護師さんは女性ばかりですし、実際のとこ、体育会系的雰囲気の看護師さんが多いですよね。でも、紺野さんは一見そう見えない割に、そういうのは全然平気なんですって。それに、患者さんとの心の触れあいとか、そういうのが減るのは残念だけど、業務に忙殺されてたら、少なくとも同僚から患者さんの悪口聞かされたりとか、そういうことはなくなるわけでしょう?ようするに紺野さんはとても道徳観とか倫理観の強い人なんです。「きのう退院したジジイ、なんかうまい菓子おいていったわよ」とか、「あのババアの患者家族、色々いちゃもんつけてきたけど、だったらとっとと転院でもすりゃいいのに」とか……まあ、わたし的には会話としてべつにフツーかなって思います。みんな悪気はないわけですし、休憩室ではちょっと口悪くなるけど、仕事の時には患者さんと丁寧にちゃんと話してますしね。ただ、何かとストレスのかかる仕事なので、ナースの休憩室ってそういう話のオンパレードになるんですよ。だけど、紺野さんは真面目なもんだから、そういう場所でも患者さんやその家族のことをあれこれ言ったりすること自体、なんか耐えられないらしいんです」

「なるほどねえ」

 このあと、明日香には理解しえない理由によって、奏汰はさらに御機嫌になった。なんでも紺野看護師は、明日香自身がどうこうではなく、同性である介護士とつるんでいたくていつも行動が一緒になるということだったからだ。

「でもわたしが思うには、司も鶴ちゃんも人間としてはそんなに高尚じゃないと思うんですけどねえ。だってふたりとも、他の看護師さんと一緒になって色々くっちゃべりつつワハハ、ガハハ笑うことに、なんの異論もないっていう性格なんですもん。だけど紺野さん、手術室に異動になるって正式に決まってから、司や鶴ちゃんに言ったらしいんですよ。『君たちがいたから、僕はここまでどうにか持ち堪えられたんだと思う。ありがとう』みたいに。で、わたしに対しても随分色々助けられたとか言って、ちょっと涙ぐみつつ脳外病棟を去っていったって感じなもんですから……手術室でもし紺野さんを見かけたら、先生にはわたし、紺野さんに優しくしてほしいなーなんて思って」

「そうだなあ。だけど、ちょっと話が矛盾してやしないかい?脳外の手術に本当にその紺野くんが入るかどうかはまだわからないにしても……そこにはなんといっても、彼が天敵とするようなブラックストーンさんがいるわけじゃないか。特に最初の頃は勝手もわからないだろうし、紺野くんも白石さんに色々頼らざるをえないだろう。それに、白石さんが外回り看護師で、紺野くんが器械出し、あるいは逆に紺野くんが外回りで白石さんが器械出し看護師なんていうことがあった場合……そういう時、彼は大丈夫なのかなって俺は少し心配だね」

「ふふふ。心配しなくても大丈夫ですよ、せーんせ。白石さん、ああ見えて物凄い面食いなんです。で、紺野さんは真面目で暗くて重い性格だから病棟の看護師さんは「顔はいいのにねえ」って言って嘆くんですけど、白石さんの大好物な顔してますから、きっと手とり足とり腰とり、嫌な顔ひとつせず懇切丁寧に色々教えてくれるんじゃないですか。むしろ、そんな心配より、別のことが心配じゃないって、近藤さんなんかは笑ってましたっけ。紺野くん、白石さんに仕事をする合間にセクハラされなきゃいいけどって。ほら、白石さんおっぱい大きいじゃないですか。あれでぎゅっとやられた男の看護師さんっていうのが、過去にもいたらしいんですよ。もっとも本人は『勤務中に勃起しそうになった』とか言って、他の看護師さんの顰蹙を買ってたんですけどね」

 ちなみに白石早苗は、年齢は現在三十四歳で、常に誰かしら彼氏はいるらしいのだが、携帯の写真以外でその姿を見た人は誰もいないという、そんな感じの女性らしい。それほど美人というわけではないが、人に取り入るのがうまいので、そういう意味では確かにモテるだろうというのは、多くの人の間で一致した意見だという。

「あと、花田師長と手術室の看護師長である永井さんとは、同じ看護大学の出身で同期だそうです。だから、話のほうはいつでもツーカーで通るらしくて……紺野さんの性格とか、そういうこともようするにもうみんな知ってるってことなんですよね。そうしたこともよく考えた上で、適材適所の人事をっていうことらしいんですけど、わたしも紺野さんの新しい船出がうまくいくことを願ってます」

「それはまあ確かに、俺のほうでも、紺野くんが器械出し担当になったような時には、最初から厳しく当たったりはしないよ。何より、誰でもみんな、そんなふうにして順に仕事を覚えていくものだろうし……でもまあ、副院長でも臼井先生でもなく、俺が手術に入る時に紺野くんがいるとしたら、どういうことになるかな。たぶん、最初は外回り看護師として入って、器械出しの仕事に関しては順に覚えていくといったところだろうか」

「そういえば先生。来週の金曜日に、金井さんって手術予定でしたっけ?」

 この時、明日香は自分の脳の中の患者カルテを広げていた。明日香のこの脳内カルテは、実際の電子カルテとは別もので、あくまで介護員としての彼女に必要な情報が記載されているという意味の、記憶上のカルテである。

「そうだね。聴神経腫瘍の摘出術を行なう予定だけど……金井さんがどうかしたかい?」

「いえ、特に金井さんがどうこうっていうことじゃなくて、手術って聞いて今ぱっと金井さんの顔が思い浮かんだっていうか。金井さんって、チャキチャキの江戸っ子みたいな感じの人で、かなりのとこインパクト強いじゃないですか。見てて、いわゆるタイプA行動パターンって金井さんのためにあるような言葉だなーって、見てていつも思うもんですから」

 奏汰は笑った。患者の金井美香子は現在五十四歳で、行動タイプパターンAというのは、せっかち、怒りっぽい、競争心が強い、積極的などの行動パターンを持つ人のことで、そうでない行動タイプパターンBの人よりも狭心症や心筋梗塞になりやすいと言われるアレのことである。彼女は市場で夫と魚屋をやっているのだが、会った瞬間に誰もがそのエネルギッシュな様子、それに早口でまくしたてる態度に圧倒されてしまうのだ。

「行動タイプパターンAか。まあ、あれは外科医……それも、能力の高い有能な外科医にも多い行動パターンじゃないかと思うけど、確かに金井さんはその典型のように見えるね。普通、脳に電気メスを入れて腫瘍を取り除くなんて聞くと、人によっては手術前に鬱っぽくなっても無理はないと思うのに、金井さんは嫌なことはチャチャッと済ませてしまいたい性分らしくて、割合あっけらかんとしてるんだ。俺が主治医として金井さんの話を聞いてて思うのは、彼女の中では手術前からもうすでにそれは成功して終わってるってことかもしれないな。で、退院してすぐにも夫と働いてるっていうヴィジョンしか頭にはないみたいなんだよ。まあ、医者にしてみたらなんとも頼もしい患者さんだね」

「キャラが独特だけど、感じのいい、面白い人ですよね」と言って、明日香も奏汰と一緒になって笑う。「この間、髪の毛だけ洗って欲しいって言われてそうしたら、もうこっちが恥かしくなるくらい、『ありがとう、ありがとう、どうもありがとう!!』って、廊下で大声で言われちゃって。わたしも、金井さんの手術が無事に成功することを願ってます」

「まあ、俺も成功させるつもりでいるし、成功するだろうとも思ってるけど……それでも、それが脳腫瘍でもなんでも、脳にメスを入れるっていうのはそのこと自体がリスクだからね。あれ、今からもう何年前のことになるかな……俺が脳外科医としてはまだ駆け出しだった頃、比較的簡単な脳腫瘍の手術で、患者さんの人格が手術前と手術後で変わってしまったり、あるいは手術ミスで植物状態になったのを見たことがある。俺だって、自分では精一杯がんばってやってるつもりでも――ちょっと油断した時なんかに同じミスを犯すかもしれないとは思ったものだ。だからまあ、金井さんの手術のほうも心してかかるつもりでいるよ」

「その、先生……あくまでちなみにっていうことなんですけど、その手術ミスっていうのは、その後どうなったんですか?」

 医師や看護師が時として医療ミスを起こしうるというのは、仮に介護員でも、同じ医療現場にいる者として、見ていてわかるのだ。心の油断やヒューマンエラーなどにより、ある一定の割合で医療ミスというのは起きざるをえないものだし、むしろ起きないほうがおかしいくらいの過酷な環境下で医師や看護師は働いている場合が多いということも。

 そして、この時奏汰は手術ミスにより、永遠に人格の変わってしまった患者のことを思いだし……溜息を着いていた。八朔を食べ終わり、彼女の出してくれた濡れたタオルで手を拭く。

「まあ、患者の家族にどういうふうに説明したのかは、俺も具体的には知らないけど……とにかく「最善を尽くした」というようには説明したようだ。明日香も時々思うことはないかい?脳外の場合特に、死との境界線が曖昧な患者さんが多いから、「こんなことなら死んだほうがマシ」っていうケースが割にあったりする。交通事故で、首から下は健康体なのに、脳に損傷があって目覚めてこない患者さんや……それこそ、医者がどんなに最善を尽くしたところで、どうにもならない場合があるからね」

「先生の言いたいこと、大体はわかります。わたしも前に――脳梗塞で一命を取りとめた患者さんだったんですけど、家族はそのことをとても喜んでるのに、本人は全然だってことがあって。七十三歳の女性だったんですけど、七十に見えないくらい若い感じの方だったんですよね。入院してる間中ずっと、自暴自棄な感じでした。右半身麻痺っていう後遺症が残ってて、リハビリのほうが本当につらいらしくて……わたしも何度か「こんなんなら死んだほうがマシだ」って物を投げられたりしましたっけ」

 明日香自身が口にして言わなかったとしても、今病棟内を見渡してみても、脳梗塞や脳溢血などで倒れ、救急車によって運ばれてくるのが遅かったがゆえに、命は取りとめたが意識のない昏睡状態の患者が何人もいる。他に、交通事故によって遷遠性意識障害――簡単にいえば植物状態のことだが、そうした状態の患者もいれば、意識ははっきりしているが、首から下が動かない頚椎損傷の患者も二名ほどおり、医療者としてどう精神的に支えるのが適切なのか、難しい患者というのが脳外病棟には多かったかもしれない。

「そっか。右半身麻痺か。右半身麻痺の患者さんは、左半身麻痺の患者さんより、落ちこんだり塞ぎこんだりすることが多いからね。ほら、頭の左半球のどこかで脳梗塞が起きた場合は右半身麻痺に、右半球のどこかに脳梗塞が起きた場合は左半身麻痺になるわけだけど……左脳側で脳梗塞を起こした場合は、そこは言語能力や自分の行動を論理的に考えて合理化する機能を司ってるから、脳梗塞を起こした部位にもよるけど、右半身麻痺の患者さんは抑うつ的になりやすい傾向にあるんだよ」

「もちろんそのくらい、わたしも一応知ってますよ、先生」

 そう言って明日香は笑った。

「右脳側で左脳を代替するように働こうとしても、なかなか難しいっていうことですよね。右脳のほうでは、芸術的な感性や、いわゆる直感やひらめき、図形や映像のイメージ的な記憶とか、人が言語化出来ない抽象的な気持ちを司ってるから、左脳みたいに合理的に言語で説明して論理的に自分の人生やってくって感じじゃないってことですよね。だからこの左脳側で梗塞が起きた場合、情緒不安定になりやすいっていうか」

「そうだね。というか、君は本当に、随分色々なことを知っているな。このまま介護員を続けるっていうんじゃなくて、看護師になるつもりはないのかい?」

(金なら出してやろう)などと言うのは、流石に親父くさい物言いだと思い、奏汰は黙りこんだ。だが本当に、彼が自分の可愛い愛人にしてやれることと言えば、現状そのくらいしかないというのも事実だった。

「そうですねえ。わたし、今の自分のポジションってすごく気に入ってるんですよ。これが介護士ってことじゃなくて看護師ってことになると、正直キツイです。まわりの看護師さん見てても、そのことは物凄くよくわかりますもん。お医者さんとか看護師さんは、患者さんを人として見る前に、あまりにもやること多すぎなんですよね。体の状態とか、患者さんの人格は一切関係ない数値的な羅列をまずは頭に入れて治療方針を決定して、なんとかっていう点滴を入れてどうこうとか……まず左目では科学的なことを見て考えて、それから右眼では患者さんの顔色を見たりとか、人間的な部分を観察しなくちゃいけないでしょう?あとは同時に手も動かして、ミスすることは許されないだなんて、ちょっと異常じみてるとわたしは思うな。左目と右眼で全然違うものを見て、同時進行的に考えをひとつにまとめていかなきゃいけないだなんて――わたしにはまずもって無理。それより、患者さんの身の回りのお世話とかして、話相手になったりとか、そういうののほうが性格的にずっと向いてますもん」

「そうか。それは残念だなあ。けどまあ、確かに医者もそうかもしれないな。案外、性格的に優しくて、患者に共感して親身になれるやつのほうが向いてなかったりもする。本当はそれが医術の原点なんだろうけど、そういう部分で躓いてやめていった人間もいるからね。そう考えた場合、確かに紺野くんっていうのは、大切にすべき人材なのかもしれないなあ」

 実際のところ、こういう時、奏汰は明日香のことを『面白い子だな』とつくづく感じる。そして、彼が彼女という愛人の部屋へ通うのを何故やめられなかったかといえば……こうした性格的なことに負うところが大きいのだろうと、奏汰はそう感じていた。

 肉欲的なことに関しても、彼はそれまでそうしたことをあまり深く意識したことはなかったが、奇妙な話、彼女はセックスに関して才能があるように感じた。もちろん、明日香は奏汰が初めての相手であり、他に男を知っていたわけではない。ただ、職業柄、普段から常に<相手を自分のことのように考える>という習慣があるためなのだろうか、彼女は本能的に彼がどうして欲しいのかを察知し、その上で相手が望むことを行なえるという意味において、その種の才能があるように感じていた。

 他に、家では出来ない仕事の話をして気晴らしが出来るというのも、奏汰が愛人宅に通い続ける大きな理由のひとつだったろう。人間は誰しも、古い経験よりも今目の前にある新しい経験に対して興味を覚え、脳のほうでもそのように反応して興奮するものだ。奏汰は妻のことを大切に思いつつも、脳の中のファイルとしては、彼女は古くて馴染み深い、あるのがあまりに当たり前の場所に根ざしていた。また、娘のことは娘のことで、日々の成長が彼の記憶ファイルには上書きされ続けていくのだが、唯一<清宮明日香>と名前のついたファイルだけは、現在彼の脳内で実の娘とも近い場所に位置しているだけでなく、新鮮な情報と興奮度を与えてくれるという意味において――奏汰の中では妻子という一部が繋がったファイルとは別個に、彼女はいまやそこから取り外してしまえない重要な位置を占めていたといっていい。

 もっとも奏汰自身は、妻や娘に関する記憶ファイルのすぐ近くに実は清宮明日香もいるとは、想像してみたこともなかっただろう。むしろ、このふたつの記憶ファイルとはなるべく離しておく必要がある、自分はそこまで良識のない、下種な人間ではない……とすら、無意識下では思っていたに違いない。

 だが、上書きされている情報量のほうは、妻との間では変化がなく、娘とのそれも妻との間のものよりは多いというくらいなもので、この時期、奏汰の中では愛人のファイルが情報量としては一番分厚かったのは間違いのないところである。

 ところで、奏汰の妻の小百合がいつごろこの夫の浮気と愛人の存在に気づいたのかは後述するとして、彼が明日香の部屋へ通いはじめて七か月以上の過ぎた八月初旬、紺野晶は脳外科病棟から手術室のほうへ異動してきた。

 季節柄、こうした中途半端な時期に異動してきたということは、「元いた病棟で何かあったのか」といったように軽く探りを入れられてもおかしくないが、紺野看護師にそんなことをする同僚看護師は誰もいなかったといえる。というのも、明日香のような院内の情報通というのは間違いなく<変わり種>であったにせよ、脳外科病棟と手術室には一本、あるいは複数のラインがあったからである。

 遠藤看護師は手術室勤務になって三年目だが、脳外科病棟にいた頃の親しいナースというのは今もいたし、彼女たちとは今も時折飲みにいっては仕事について愚痴りあうという仲だった。

 というわけで、「紺野くんっていう男のナースがそのうちオペ室のほうに行くわ」といったことに纏わる諸事情については、彼女はすでに把握済みだった。とはいえ、遠藤看護師は口のほうが堅いため、そうしたことを同僚にぺらぺら言いふらすタイプの女性でなかったというのは確かなところである。ただ、手術室の看護師長が部下の看護師たちに「今度、男のナースで紺野くんっていうのがやって来るんだけど……」と、個別に機会あるごとに色々言って聞かせたらしいのである。『顔はいいけど、真面目すぎて暗い性格。でも看護師としては優秀らしいのよね。だから長い目で見て優しくしてあげてちょうだいよ』――といったように。

 脳外科病棟にいたから脳外科の手術に入ってもらう、というのも何か安直な話のように聞こえるが、このことは紺野看護師から志願してのことであったらしい。というのも、真面目な彼は、「これまでの業務で、手術室まで患者さんを搬送するのと、手術後に患者さんを迎えにいくということは何度となく経験してきました。けれども、この間のなんとしても知りたい謎の部分を、教科書以外の実地体験として埋めたいんです」……と、永井看護師長に随分熱弁を振るったらしい。

 そのような事情により、永井看護師長としては「もう少し簡単な手術から勉強していったらどうかしら?」との意見を引っ込め、「むしろ、あそこには白石っていう毒蛇がいるから、そういう意味でも別のところに配置したかったんたけどねえ」と懸念を抱きつつ、本人の希望のほうを優先させたわけだった。

 このようなわけで、紺野看護師は数度見習いとして脳外科手術の手伝いに入ったのち、その週の金曜には桐生医師が執刀医の聴神経腫瘍の摘出術で、外回りを担当することになっていた。ちなみに器械出し看護師は白石早苗であり、「何か困ったことがあったらなんでもわたしに聞いてちょうだい」と、彼女は請け合っていたものである。

 この日、術前カンファレンスのことを思い出しつつ、手洗いののち第三手術室へ入った奏汰は、助手の平川将也医師、麻酔科医の寺田翔平、検査技師の小松大介の他に、新顔がいるのにすぐ気づいていた。もちろん、脳外病棟やICUで彼とは何度も話したことがあるとはいえ(主に仕事の指示上のことではあるが)、手術室のほうでは初対面である。

 奏汰はもちろん、明日香の話してくれたことを覚えていた。けれどこの時は、「まったく何も知らぬ存ぜぬ」という振りをして、顔が緊張で強張り、動きも見るからに堅そうに見える紺野に優しく声をかけていたわけである。

「おや、手術室では初めて見る顔だね」

 寺田から患者の状態について報告を受け、そのあとで奏汰はそう聞いた。

「はい。脳外病棟では……大変お世話になりました。今度は、こちらの、手術室勤務ということに、相成り……」

(大丈夫かな)

 マスクの上からでも顔面が蒼白であるように見え、奏汰は心配になった。これからの手術のことが、というより、彼が今にも倒れそうに見えることが、だった。

(紺野くんが倒れて余計な患者がもうひとり増えたってことにならなければいいが……何分時間のかかる手術だし、実際、人間の脳っていうのは相当エグいものだからな)

 外回り看護師というのは、清潔な状態の器械出し看護師が出来ないこと――手術記録を録る、不足した手術器具類等を中材へ取りに行ったり、その他関係部署への電話連絡など――をする役割なのだが、0.1ミリの手許の狂いも許されぬ集中力のいる手術中、すぐそばでそんなアクシデントが起き、気が散るといった事態だけは避けたかったのである。

(手許がちょっと狂って顔面神経を傷つけた……なんていう事態だけは、絶対に御免被りたいからな)

 この時、手術開始前に奏汰が一言何か注意しておくべきかと数秒迷っていると、横から白石早苗が言った。

「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ、先生。今日はもうひとり、紺野くんがヤバくなった時に備えて、すぐ入れるように看護師をひとり待機させてありますから」

「そうか。なら安心だな」

 紺野看護師が奏汰の言葉にピクッと反応したのには構わず、奏汰は助手の平川医師や麻酔医の寺田、それに検査技師の小松らといくつか確認事項を取ったのち、金井美香子(54歳)の聴神経腫瘍の摘出術を開始した。

 この手術はなかなかに高い技術を要するもので、奏汰は手術件数及び、成功させた手術数が多いということで、わざわざ彼に執刀してもらうためだけに、かなりの遠隔地から患者がやって来ることがある(というのも、手術の成功した患者がネットでそのあたりのことを書き散らしてくれたお陰で、今ではネットで検索すると「聴神経腫瘍」の横に桐生奏汰と名前が出てくるくらいなのである)。

 金井美香子もそうした患者のひとりで、腫瘍がかなり大きかったため手術の適用になったわけだが(奏汰も、腫瘍が2.5センチ以下ならばガンマナイフなどの放射線治療を薦めている)、術後に合併症や顔面麻痺の起きる可能性も高いため、その患者の症状にもよるが、基本的に3センチ以上の腫瘍である場合に手術を適用することにしている。

 耳の後方の皮切ラインのマーキングに沿って皮膚切開し、500円玉より少し大きめの穴を開けると、ここから顕微鏡で小脳の下側方から視野を確保して腫瘍を精密に摘出してゆく。手術中、顔面神経や聴力の状況をモニタリングしながら手術を進めるのだが、顔面神経を傷つけないよう絶えず注意しつつ、腫瘍を少しずつ減らし、剥離していく……という根気強い作業が約五時間ほども続いた。

 腫瘍のほうはどうにか残らず剥離でき、さらには顔面神経を傷つけることもなく終わったが、残念ながらこの手術で聴力が戻ってくることはない。これ以上の聴力の低下を防ぐための手術であると同時に、手術をした結果、残っていた聴力を失ってしまう可能性もある。また、奏汰は顔面神経を傷つけることはなかったと思っているが、こればかりは患者が麻酔から醒めたあとの様子を見ないことにはなんとも言えないことでもある。

 なんにせよ、奏汰は閉頭作業に入る頃にようやく、ほっとしてマイクロサージェリーの術野以外の場所のことも情報として把握することが出来るようになった。器械出し看護師である白石看護師に対し、奏汰は特に言うべきことはなかったし、外回り看護師の紺野看護師が何をしているのかまで、注意を払ってはいなかったが――それでもほんの時折、白石看護師が奏汰の邪魔にならない範囲内で、器械出しの仕事を小声で教えているらしいのは聞こえていたのである。

 五時間という長丁場で、みな疲れているだろうと思った奏汰は、それぞれに労いの言葉をかけて第三手術室をあとにしようとしたわけだが……最後、紺野晶には彼の肩にぽんと手を置いてからこう言っておいた。

「慣れない環境で大変だろうけど、まあ、頑張るんだよ。女性の看護師を怖いと思ってるのは、何も君だけじゃないからね」

 このあと、奏汰は背中で「桐生先生、それどういう意味ですか!?」という白石早苗の声を聞いていたが、ハハハと笑って誤魔化し、そのまま手術室の外の廊下へ出た。それから手術室を出たすぐ脇にある、患者の家族らが待つ専用の部屋のほうへ足を進める。

 術着姿の奏汰が姿を現わすなり、金井美香子の夫、それに娘と小さな孫とが、一様にほっとした顔を見せていた。というのも、桐生医師の顔に穏やかな微笑みが見られたため、彼らはそれで手術が成功したのだろうと悟っていたのである。

「手術自体のほうは、無事成功しました。顔面神経のほうに傷はつけなかったと思いますし、聴力のほうも温存されたと思うのですが……こうしたことというのは何分、その後の回復を見てみないとわからないことでもありますので。難しい手術でしたが、最善は尽くしました」

 頭の禿げた背中の曲がった夫のほうは、「ありがとうございます、先生。本当にありがとうございます!」と、涙ぐみながら繰り返し感謝し、娘と孫からも、奏汰は同じように礼の言葉を述べられた。

「ほら、先生。うちの口うるさい親戚連がね、インターネットなんかで色々調べて、わざわざ頭の手術なんかしてむしろ頭がおかしくなったらどうするんだって、最後までうるさかったんですよ。ほら、この手術で聴力が戻ってくるっていうものでもないですからね……でも、桐生先生を信じて本当に良かった。ほら、先生のお兄さんの桐生聡一さんっていや、テレビにも出てる名先生だもんね。オラ、そう言ってあいつらのこと、黙らしてやったんですよ」

「そうだったんですか。まあ、是非にということであれば、兄の研究施設のほうを紹介しても全然良かったのですが……」

 ここで、髪を茶色に染めた、ヤンママ風の娘が父親のことを軽く横から小突く。

「父ちゃん、こっちの桐生先生だって相当な名医だよ。ただ、お兄さんと違ってテレビに出たりとか、そういう派手なことはしてないっていうそれだけさ。あたしはどっちかっていうと、そういう人のほうが信じられるよっ」

「なつなもそうおもうー」

 ここで奏汰もまた、堪え切れなくなって笑った。そして、「そうお気遣いいただかなくても、大丈夫ですよ」と言って、今後の退院までの治療計画について話してからその場を辞去したのだが――その足で一度医局の部長室へ戻ると(手術室と医局とは、同じ階にある)、金井さん家族からいただいたフルーツの盛り合わせセットをまずは机の上へ置くことになった。

(やれやれ。今月に入ってからこれでもう五回目か。いくらこうしたことは困ると言っても、こっちが受け取らなかったら軽く一時間は押し問答しなくちゃいけない雰囲気だからな……)

 そして、今の奏汰の身としては、長くかかった集中力を要する手術で疲れきっており、結局こうして受け取ってしまうのが手っ取り早いということになってしまうわけだった。

 患者との会話の中で、兄聡一や父桐生総一郎の名前が出たことというのは、今までに何度となくある。何分今はネット社会であり、兄の桐生聡一のウィキぺディアには、弟の桐生奏汰もまた脳外科の勤務医である……といったように書き記されている。

 これまでの人生の間、奏汰は父や兄の医師としての名誉を傷つけないためにも、彼らのような超一流の外科医とまではいかないまでも、桐生家の名誉にだけは泥を塗るまいとして、随分注意しながら生きてきたつもりだった。

(けど、まあ……今の妻と別れて十八も年下の娘と再婚することにした、なんて聞いたら、兄さんはともかくとして、父さんはどう思うかな。今は一昔前と違って、一度離婚したっていうくらいじゃ、医者としての看板に傷がつくとか、そういうことはないにしても……頭の古い堅物だから、せいぜいのところを言って、愛人を持つなとは言わんが家庭を壊すことまではするなといったところか)

 奏汰は時計を見ると、この件については一旦棚上げしておいて、再び手術室のほうへ向かった。手術記録のほうを取ると、回復室から出た金井美香子が目を覚ましたとの連絡を受け、すぐにそちらへ向かう。幸い、顔面のほうに麻痺などは見られず、美香子は流石にいつものエネルギッシュな元気さはなかったものの――それでも、目を見ればわかった。彼女はこれで仮に顔面麻痺が出ようと聴力がなくなろうと、その場合にはそれはそれで運命として受け止めると奏汰に語っていたとおり……そのくらいの強い「生きる力」が彼女の目には漲っていると、奏汰には一目でわかっていたのである。

「先生、ありがとうね。信じてたよ。先生ならやってくれるってさ……」

 美香子はそれだけ言って、再び朦朧とした意識に呑み込まれるように眠りに落ちていったが、奏汰も彼女の家族もこれで心から安心できたわけだった。おそらく、彼女が弱々しいように見えるのも今限りのことで、一度回復したが最後、再び廊下の外にまで聞こえるくらいの大声でしゃべりはじめることだろう。

 奏汰は患者家族に再びしつこいまでに感謝されてから病室をあとにし、ナースステーションにいた夜勤帯の看護師に二、三指示を出してから、今度はICUのほうへ向かった。きのう、脳梗塞の急患として運びこまれてきた患者のその後の経過を見、ICU付きの看護師と少し話してからそこを出る。

 そして奏汰が、病棟側ではなく、廊下側に続く自動扉のほうからエレベーターホールへ出ると、偶然階段を上がってきた明日香とばったり鉢合わせた。もちろんこういう時、ふたりともまったく知らんふりをするか、せいぜいのところをいって目礼するといった程度だった。

 けれどこの時奏汰は、無視するように去っていこうとする明日香のことを捕まえると、そばにあったリネン室へ、彼女のことを引っ張りこんだわけだった。

「先生、駄目ですってばっ。前にも言ったでしょう!?院内では誰も見てないようでも、ほんのちょっとしたことから誰それが不倫してるらしいとかっていうのは、すぐ噂として……」

「べつに、いいよ」

 ベッドのシーツ類や布団カバーなどが重ねられた棚の前で、奏汰はぽつりとそう言った。術着の上に白衣だけ羽織ってこの時間帯(午後六時)にこのあたりにいたということは――奏汰はおそらく医局へ戻ろうとしていたのだろうと、明日香にもわかっている。

「先生、手術で疲れてて、もしかして正常な判断力も失われてるとか……あ、でも金井さんの手術のほうは無事成功したって看護師さんから聞いたので、ほっとしました。ほんと、金井さん、色んなこと心配してましたから。旦那さんのほうは腰が悪いらしくて、これで自分まで働けなくなったりしたら大変だって……」

 奏汰はこの時、自分の愛人のことを思わず抱きしめていた。もうこの時間で、リネン室になど誰も入ってこないだろうが、もし仮に誰かに見られたとしても構わないとすら思っていた。

「せ、先生。ほんと、駄目ですってば。こういうことは……」

 キスしようとして、顔を背けられたため、奏汰はかわりに明日香の首筋にキスしていた。そうしてから、耳元に囁く。

「今日はもう、君も終わりだろ?じゃあ、別々じゃなく、一緒に帰ろう。電車で帰るより、俺の車に乗って帰ったほうが、明日香だって体が楽なはずだ」

「その手には乗りませんよ、先生っ。病院の職員専用の駐車場なんて、ここのすぐ裏手じゃないですか。先生、今日の手術、大変だったんでしょう?だから疲れてて、ついそんなこと……」

「そうだな。確かに疲れてはいる」

 奏汰はぎゅっと明日香のことを抱きしめたまま言った。

「だが、そんな俺にもまだ正常な判断力くらいは残ってるさ。でも、今日一日くらいならいいだろ?車のほうは、一般駐車場の東側出口のほうに停めておく。明日香は地下鉄駅のほうへいつもの通り行くふりをしてたらいい。そしたら、なんでか知らないけど桐生先生が『乗ってかないかい?』ってナンパしてきた。話したことは取りとめもないことで、家まで送ってくれたけど、先生がなんでそんなことしたのかはよくわからない……もし誰かに何か言われたら、そんなラインの言い訳で十分だろう?」

「で、でもっ、こういうのはほんと、今日だけですよっ」

 そう言って明日香は、きょろきょろと周囲を見回してから、奏汰に対して自分からキスした。それでつい彼が、もう一度と、お返しをしようとしていると……「ここまでです」と、明日香に口許を手で押さえられる。

「それじゃ、わたしも更衣室で着替えたら、何気に東口のほうへ歩いていきますから、先生はうまくナンパしてくださいよっ」

「わかったよ」

 最後に、自分がいなくなってから、最低五分は時間を置いてくださいねと言われたが、奏汰は明日香の言いつけを守らなかった。そして、上機嫌に口笛さえ吹いて、エレベーターで三階に下りると、彼もまた着替え、帰り仕度をしてから車のキィを片手に部長室と名のついた自室をあとにしたわけである。



 >>続く。





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