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今回の言い訳事項は、マキと君貴が見た映画が『ベニスに死す』だったことでしょうか(^^;)
いえ、リバイバル上演にしても……ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画ばかり特別にとか、ありえなくもないとは思うものの――他に新作がいくらでもある中から選ぶかどうかというと、「??」っていう感じしますよね。恋人同士というか、彼氏彼女で映画館に来ていたのであれば、特に。。。
わたしも、ここ書いてる時は「ええと、映画かあ。何にしよっかな☆」くらいな気持ちだったのですが、実をいうとこの小説ですね、レオンがショパン・コンクールで優勝している――という設定の縛り(?)があることから、実は逆算すると↓の時間軸って大体、「20XX」らしい……ということが、一応わたしにもわかっていたりします(^^;)
でも、その頃に日本で封切られていた映画の中から選んだりもあまりしたくないということで、「そうだ!昔の映画のリバイバル上映なんてどうだろう」と思ったんですよね。それで、「う゛~ん。昔の映画、昔の映画……」とわたしなりに探していた時に、「『ベニスに死す』なんてどうかなあ」とふと思い、今回のトップ画のビョルン・アンドレセンくんを見た瞬間――「レオンのイメージ、どんぴしゃじゃん!!
」と思い、その瞬間に「ベニスに死す」のリバイバル上映をふたりは見にいった……ということにしたわけです。
ただ、レオン=ビョルン・アンドレセンさんがモデル――みたいに思われると、この小説色々問題のある小説ですので(滝汗)、そういうわけではないものの、でも、ビョルン・アンドレセンさんのこの容姿でショパン・コンクールで優勝とかしてたら……そりゃまあ確かに失神者も出るわなあ、などと、ひとり勝手に納得したりもしてww
物語の最初のほうでは、ゲイの恋人にガールフレンドが出来て、ただ嫉妬に狂ってるようにしか見えないレオンですが、正直わたし、この小説はレオンが主人公なんじゃないかと思ってたりもするので……「そっかー。レオンってビョルン・アンドレセンくん張りに格好いいんだー♪」くらいの、軽い感覚で脳裏に留め置いてくださると嬉しいですm(_ _)m
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【7】-
マキは君貴と二度目の夜を過ごして以来、彼のことばかり考えていた。彼女にとってセックスというのは――テレビドラマや映画の中の出来事であって、自分には直接関係がないとしか思えなかった。
その上、一度目の処女を失った時には……間違いなく相手の男との間に精神的な繋がりや愛情に相当するものがなかったため、(もう一度彼に会えたら……)と、ぼんやり思いはしても、それよりも恥かしさが上回るあまり――ぶんぶんと首を振って終わるといったような、そうした淡い感情しかなかったといえる。
けれど、阿藤君貴はマキに会いに来た。いや、会いに来てくれた。しかも、最初彼女が想像したこと……なんらかの口止めのためということでもなく、ただ、一緒にピザを食べ、セックスしてお風呂に入り、自分のことを会社まで送って帰っていった。
その上、また時間が出来たら会いに来てくれるという。『次は必ずちゃんとデートしよう』――マキは思春期の少女のように、ただ君貴の言葉を純粋にそのまま信じた。それが「いつなのか」ということは、彼女にはどうでもよかった。何分阿藤君貴という男は建築デザイナーとして忙しい身なのだし、マキにはそもそも、彼のような男に対し、自分があれこれ言っていいとさえ考えてはいなかったのである。
おそらく、マキが自分の身の上に起きたことをそのまま親友の天宮ミナに話したとすれば……「マキっ!そのままじゃ都合のいい女一直線よっ!!」と大層心配したことだろう。だが、この時マキは恋愛によくある初期症状――特に、体の関係を持ってから襲われる、心理的のみならず身体的にも彼と一緒にいるような感覚に見舞われてさえいたのである。
電車に乗っていても、君貴が耳許で「可愛いよ、マキ」と何度も囁く声が聞こえたり、事務所に誰もいない時、彼女は自分がひとりだとはまるで感じられなかったものである。また、そんな形で君貴はよくマキの仕事の邪魔をした。おそらく、このありのままを君貴が知ったとすれば――「俺は寝てる間、生霊みたいになってマキのところへいってることがあるんだろうな」と言って、非常に面白がったに違いない。
なんにしても、表面上はいつも通り仕事しているように見えて、マキの心の中は阿藤君貴のことでいっぱいだった。毎日彼の名前をインターネットで検索しては、新しい君貴の画像を発見し、それを印刷してはスクラップブックに順に貼っていたほどである(もっとも、発見される可能性のあることから、マキはなるべくそれを鍵付きの金庫の奥へ隠すことにしていた)。
マキと君貴の出会ったのが、その年の梅雨入りの頃であり、二度目に彼が彼女に会いにきたのが、六月の第四週目のことだった。大体毎年この頃、マキは店に並ぶアジサイの鉢植えを見ては、憂鬱になることが多い。小さい頃に見た、あの女性の首吊り死体を思いだしてしまうからだ。けれど、リュミエール・ホテルからマキが出てきた時、ホテルの庭にも青い紫陽花がたくさん植わっていたのを思いだすにつけ――マキは君貴のことを光の救世主であるようにさえ感じはじめていたのである。
そしてその後、君貴が男の恋人とウィンブルドンでテニスの試合観戦をしたり、苺を食べたりしているとも知らないマキは、ただひたすらに彼から電話のかかって来るのを待った。自分から連絡したりして、うるさがられたくないと思ったマキは、二週間くらい連絡がなくても不思議に感じなかったわけだが……それでも次第に不安になってきて、(わたしのほうから電話したほうがいいのかしら)と思い、携帯電話を前に悩みはじめていたといえる。
悩み、などと言っても、それは多分に甘いところのあるもので、(電話するにしても、何を話せばいいのかしら)と思い、一日目は番号を途中まで押してやめ、二日目、色々考えるうちにやはり電話できず――そして三日目、まるで1万キロメートルの距離を越え、マキの思念が通じたとでもいうように、ロンドンにいる君貴から彼女に電話がかかってきたのである。
君貴がその時マキに連絡したことには、ある理由があった。ウィンブルドンの手に汗握る男子決勝戦を一緒に見たあと、レオンは再び次のコンサート地であるベルリンへ向かい……そうして君貴は、翌週にちょうど仕事で日本へ行く用があるため、彼女と前した約束を果たそうと考えたわけである。
『来週、会えないか?』
「えっと、来週のいつ?」
マキは胸がドキドキするあまり、携帯を握る手が震えるほどだった。
『水曜には、そっちに行くよ。といってもまあ、今回もホテル住まいだけどな。マキのところに泊まったんじゃ、迷惑だろうし』
「迷惑だなんて……ただ、わたしも仕事があるから、結局のところ何も出来ないものね」
『何も出来ないって、どういう意味だ?』
「えっと、ごはんとか、美味しいもの作ったりとか……」
ここで、君貴がさもおかしそうに笑ったので、マキは首を傾げた。時々彼は、笑いのツボのわからないところがある。
『わかってないな、マキは。俺はおまえに家政婦的役割なんか一切求めてない。マキの部屋にも、ボーヴォワールの本があったじゃないか。サルトルは彼女に、「家のことなんかして、つまらない女になるな」と言ったんだぞ。俺も同じだ。俺は料理のうまい女をいい女だと考えたりしないし、自分のパンツは自分で洗うってタイプだ。最初に言っておくぞ。俺の世話なぞ焼こうとするな。そんなことをされると俺のほうでは、なんでだかおまえに金を払わなきゃならん気持ちになるからな』
「そ、そうなの。気をつけます……」
今度は君貴が首を捻る番だった。明治か大正時代でもあるまいし、日本の女はどれだけ遅れているのだろう、とも思った。
『なるほどな。けどまあ、今のマキの反応で少しわかったよ。アメリカ女ってのは、世界で一番気が強いって言われたりするだろ?俺の知り合いで、日本の女房を持ってる奴はみんな、日本女は最高だっていう。彼らは、世界基準で進みすぎてる女どもにはついていけなくて疲れるんだろうな。なるほど、なるほど』
「…………………」
君貴の考え方があまりに突飛だったので、マキとしては嬉しいながらも驚いていた。最近、ユキやムツキとも恋愛の話をすることがあるが(マキは君貴のことはまだ伏せていた)、彼女たちから聞く限りにおいて――日本の男の夜明けは遠いと考えていいだろう。
『じゃあ、日本に着いたらまた連絡する。マキの花屋は、有休なんて取れないんだろ?』
「ええ。そんなシステム自体ないくらいの、小さな会社なものだから……」
『しょうがないな。日本は労働システムのほうもおそらく相当遅れてるんだろうな。じゃあ、外国旅行なんてしたら、周囲から白眼視か?』
「そこまでじゃないけど……とにかく、事務員はわたしひとりきりだから、一日二日風邪で休むっていうのならともかく、わたしがいないと店自体が回っていかないのよ」
『そうか。残念だな』
君貴が本当に残念そうに溜息を着いたため、マキは胸が痛んだ。最後に彼が『じゃ、またな』と言って電話を切る。
このあと、マキは自分の部屋で、携帯を胸に抱いたまま、はーっと甘い溜息を着いた。マキは君貴の容姿だけでなく、彼の声自体も好きだった。
(びっくりしたっ、びっくりしたもう~っ!!)
マキは顔を真っ赤にして、ベッドの上に倒れ伏した。そして、二週間ほど前にこの同じベッドであったことを思いだす。もっとも、君貴は何度も『可愛い』と言ってくれはしても、『愛してる』とまで言ってくれたわけではない。けれど、マキはすでにもう阿藤君貴のことを愛していた。あるいは、愛しはじめていたと言っていい。今、電話で声を聞いた瞬間、マキはそのことを確信していた。
結局のところ、この翌週の水曜遅くに、『到着した』という連絡があり、木曜日は食事に出かけ、金曜日には映画を見にいき、土曜の夜には(マキはあれから、君貴に『モン・シェール・アムール』をやめろと言われ、そうしていた。自分のような男が再び現れては困るというわけである)――リュミエール・ホテルとはまた別のスイートで、彼に抱かれた。
そして翌週の月曜日に君貴は再び機上の人となったわけだが、マキはこの<夢のひととき>に自分でもうっとりした。何故なら、自分のような女(これは男のように見える女、という意味である)に、いつか人生でこんなにも素晴らしい出来事、百パーセントを越えて幸せだと感じられる瞬間が訪れようとは……彼女は思ってもみなかったのである。
とはいえ、確かに阿藤君貴という男は間違いなく変わっていた。いや、話す言葉の言語体系が変わっているというべきなのだろうか?木曜日、「マキがいつも行ってるような店に連れてけ」と言うので――マキは君貴が普段行ってそうなフランス料理店にではなく、ただの蕎麦屋へ連れていった。寿司屋、洋食店、喫茶店など、色々考えたものの、カツ丼やうなぎ定食など、蕎麦以外にもメニューがたくさんあっていいかと思ったのだ(何より、こうした日本に特有の食事に君貴が飢えているのではないかとマキは想像した)。
その後、どこへ行くのにも、マキは君貴のまったく同じ行動を目撃したかもしれない。たとえば、蕎麦屋へ行くと、まず彼は店内に置かれているものをしげしげと眺めまわす。そこはカウンター席が六席、テーブル席が十席ほど、それと衝立で仕切られた小上がりが四つあった。君貴は真っ先に小上がりに突進していくと、靴を脱いで一番端の座席に座った。
彼の後ろには、大きな招き猫の置物や、衣装ケースに入った日本人形、扇、熊の木彫りなどが並んでいたが――「日本趣味の奴には、こういうのを贈ると喜ばれるんだ」などと言っていた。また、窓から見える小さな日本庭園を見、写真を撮ったりしていたものである。
「君貴さんは、小さい頃はずっと、日本に住んでたんでしょう?」
彼の振るまいがあまりに観光客じみていたので――マキは、メニューを見ながらそう聞いた。
「まあな。けど、そもそもあまり日本文化には馴染みがない。ほら、セレブ家庭の嫌味みたいに聞こえるだろうが、夏休みは毎年海外へ旅行に行ったり、おふくろの公演先についていったりとか……北海道や沖縄にも行ったことないし、むしろヨーロッパやアメリカの日本オタクの連中に驚かされるよ。新渡戸稲造の『武士道』なんかを読んで、日本通を気取ってる手合いの奴らだ。空手や柔道をやってるもんだから、俺が剣道も柔道もやったことないなんて言うと、「それでも日本人か!」とか言ってくるんだからな。あと、あいつらは絶対漫画の読みすぎだ」
マキも、北海道や沖縄へは行ったことはないが、彼女がそのことを言おうかどうしようか迷っていると――突然君貴は座布団に引っくり返るようにして笑いだしていた。
「どうしたの?」
「はっ……ははっ。冷やしたぬきだと!?英語だと、コールド・ラクーンドッグか?はははっ」
マキにはやはり君貴の笑いのツボが理解不能だった。ただぼんやり、(英語でタヌキってラクーンドッグって言うんだ)と思うのみである。
「今度、日本の蕎麦屋でコールド・ラクーンドッグを必ず食えと言っておいてやろう。よしよし、ちょうどいい恰好のネタができた」
君貴は冷やしたぬき、マキはざるそばを頼んだのだが――自分で食べておかないと、人に勧められないと言って――だが、彼はどうということもないうどんが運ばれて来ると、見るからにがっかり肩を落としていた。なんだか、冷やしたタヌキが本当に運ばれてくると期待した、小学生みたいな様子だった。
結局、「マキの蕎麦のほうが美味しそうだな」と彼が言うので、マキは自分のお盆と君貴のを代えてあげることにした。何より、彼はマキのお盆の上にのった、そば湯に興味を示していたのである。
「これは、一体どうやって飲むんだ?」
「んーと……まあ、その人の好みにもよると思うんだけど、最後そばつゆに入れて飲むみたいな?」
「どのくらいの割合で入れるんだ?」
「それが、なんていうか、好みなのよ。まあ、ちょっとずつ入れて、このくらいが自分の好みだっていうくらいでいいんじゃないかしら?」
君貴は釈然としない顔をしていたが、最終的に、「うまい!」と言って、最後の一滴まで飲み干していた。マキとしてはただひたすらに(変な人)と思うのみである。
そのあと、もう一軒お酒も飲めるような店に行くと、マキは君貴からお店のことを聞かれた。このお店というのはもちろん、マキの勤める<ベルサイユのはなや>のことで、彼はもう一度「やっぱり、有休は無理か?」と聞いてきた。
「無理っていうか、ほとんど不可能だと思う」
店内が混み合っていたので、マキと君貴はのれんをくぐると、カウンター席の一番端の席に座ることになった。店員が、直前まで食事していた客の皿やコップを急いで片付ける。
そのあと、「今向こうでも流行ってるんだ」などと言って、日本酒を頼み、それから刺身の盛り合わせを注文していた。マキは、ウーロン茶に焼き鳥をいくつか頼んだ。彼女の胃袋的には、さっきうどんを食べただけでも結構お腹いっぱいだったのである。
「だけど、それじゃおまえに何かあったら、花屋のほうでも困るんじゃないのか」
「そうねえ。でも、わたしは五年くらい前に前任の事務員さんから引き継ぎを受けたんだけど……そもそも専務が経理全般については代わりに出来るくらいだから、病気でほんの何日かとかなら、それなりになんとかなるのよ。だけど、海外旅行なんて、わたしにとってはただの贅沢だもの」
(それどころか、国内旅行だってろくにしたことないくらいだし)
そう言いかけて、マキはやめた。道すがら君貴から話を聞いていて思うに――どうやら彼は、自分がいちいち日本へ来たりするよりも、マキのほうにニューヨークやパリなど、君貴がその時休日でいる場所へ来て欲しいという、そういうことらしかった。
「そうか。残念だな……じゃあ、もしそうしたしがらみが何もないとして――マキは外国の中で、どこへ行ってみたい?」
「たぶん、君貴さんは笑うだろうけど……スイスかな」
「スイスだって?なんでだ?」
おそらく、君貴にとっては意外な国名だったに違いない。彼は、マキがてっきりヨーロッパのメジャーな国名を答えるのではないかと予想していた。
「ほら、君貴さんは「おお、ブレネリ」なんて知ってる?あの中に出てくるでしょう?スイッツァランドっていうのが。で、自然が美しくて永世中立国っていうイメージから、わたしの中ではスイスって天国的なイメージなの。だから、小さい頃は人は死んだらみんな、スイッツァランドに行くんだって、勝手に思い込んでたみたい」
「ああ、『♪おお、プレネリ、あなたのおうちはどこ~』ってやつか。しかし、それがおまえのスイスか。確かに、いいところっていうのは本当だが、天国には程遠いぞ。スイスに行ったって、自然が美しいっていう以外では、ここにいるような」
と言って、君貴は居酒屋の宴会席のほうで騒ぐ、人々の姿を指差した。そこからは「わはははっ!」とか、「がはははっ!」といった、あまり上品とは言えない笑い声が響いてきている。
「大体似たような人間がいるってだけさ。マキはスイスを誤解してる。だが、その誤解を解くためにも、いつか必ず連れてってやるよ。スキーシーズンにでも」
「そうなのよね。だから困るの。たぶんきっと、わたしが実際にスイスへ行ったとしたら――「思ったとおりの素敵なところだった!」と思って、帰ってくることになるとは思うのよ。でもそしたら、わたしの頭の想像のスイッツァランドがなくなっちゃうでしょ。現実のスイスに、本当に旅行で行ってしまったら」
君貴はこの時、エミリー・ディキンスンの詩を思いだしていた。それも、マキの部屋にあったものだ。「わたしたちの人生はスイスです。とっても静かで、とっても涼しい……」ここで、日本酒とウーロン茶が届き、次に刺身の盛り合わせセットと焼き鳥の串がのった皿が運ばれてくる。
このあと、マキは君貴と他愛もないことを話しては、美味しいものを食べて大いに笑った。というのも、君貴は物凄い健啖家だった。彼は刺身を食べ終わると、今度はメニューの中の気になったもの――毛蟹の甲羅焼きや、ホッケの一夜干し、サーモンのチャンチャン焼きなど――を片っ端から注文し、マキにも一緒に食べるよう、強要してきたからである。
マキはもしかしたら彼が、(随分しみったれた店に連れて来られたな)と思うかもしれないと思っていたが、君貴が最後の締めに味噌コーンラーメンを満足そうにすする姿を見て、ほっとした。
この日、帰り際、君貴は「明日は映画に行こう!」とマキに約束させて帰ったわけなのだが……翌日、待ち合わせ場所に先に来ていたのは君貴のほうだった。色合いやネクタイの柄は違うものの、その日も彼はスーツを着ていた。マキは今の今まで、スカートなぞというものを、自分で買ったことがない。母親が、小さい頃にマキに女の子らしい格好をさせるのが好きだったので、不本意ながら母の趣味に合わせる……という時期が過ぎてからは、スカートというものを着たことは一度もなかった。
だからこの日、ワンピースを着ている自分がマキは気になって仕方なかったが――君貴がショーウィンドウの前で、右手に花束を持ち、左手で自分の前髪を一生懸命直しているのを見て、驚いた。自分程度の女に、彼のような男がそこまで身だしなみを気にするだなんて……と思い、かなりのところびっくりしたのだ。
マキは店の角に隠れると、少し待ってから君貴に挨拶した。花束を手渡されたあと、右と左の頬に一回ずつキスされる。(「欧米か!」なんて突っ込んでも、この人にはわからないだろうな……)と思いつつ、マキは照れくさそうに「ありがとう」とお礼を言った。
見たい映画の上映時間まで、少し時間があったので――これも君貴の提案で、「ボーリングにでも行こう!」ということになった。マキもボーリングは得意だったので、「いいわよ」と気軽に応じたわけだが、おそらく君貴はマキが相手ならば楽々勝てる、なんなら、少しくらい手を抜いてやろう……くらいな気持ちだったに違いない。
ところが、マキが美しいフォームによって次々ストライクを決めていったため、実際はかなりのところ接戦になった。マキはエル・グレコの絵の登場人物のように、とまではいかないが――ほっそりしていて、縦に長いといった印象のモデル体型である。だが、一度ボウリングのボールを手にするや、物凄い力によってそれを放り投げ、ズガアン!という、小気味いい音とともにピンをすべて倒していった。
そして、それが連続して三度ばかりも続くと、君貴は「おまえ、花屋の事務員なんてやめて、プロボウラーにでもなったら……?」と、そう呟いていたものである。結局、スコアのほうは275対252で、マキが勝利した。そして、負けず嫌いの君貴が、「もう一試合やろう、マキ!次は絶対俺のほうが勝つ!!」と言った時のことだった。
隣のレーンにいた彼らよりも若いカップルが――こんなことを言っていたのである。「あっ、あの人超カッコよくない!?」、「ええ~っ!?ただのおっさんじゃん」……この言葉が、何気に君貴の心の繊細な部分を傷つけたらしい。彼は溜息を着くと、ボールをゴトリと落としていた。
「あっ、君貴さん、そろそろ行かないと、映画に間に合わなくなっちゃうっ!!」
「ああ、そうだな……」
このあと、映画館に到着してからも君貴が言葉少ななので、マキは少しばかり気を遣った。べつに、ポップコーンなぞ食べたくもなかったが、「わたし、キャラメル味がいいな~。君貴さんは?」などと、あえてはしゃいでみせた。
だが、お互いの飲み物を買って座席に着いてからも、君貴は「おっさん」と指摘されたことについて、あれこれ考えているようだった。そして、ぽつりとこんなことを言った。
「やっぱり、外から見た場合、そういうことなんだろうな……」
「そういうことって?」
君貴が支払ってくれたとはいえ、(ポップポーン如きが何故こんなに高いのだろう)と、マキはそんな疑問を抱きつつ、ぽりぽりそれを食べた。最初からジュースを飲みすぎると、途中で席を立たねばならぬため、少しだけにしておく。
「だからさ、俺が37で、マキが23ってことは……14歳も年の差があるわけだろ?いい年したおっさんが、若い娘とはしゃいでるみたいな、そんなふうに見えるのかと思ってさ」
「んー……どうかしら。わたし、君貴さんといて、年齢差ってあんまり感じたことないけど。君貴さん、見た目的にも若く見えるから、大体わたしより5~6歳上みたいな、そんな感じじゃない?」
「いいよ。慰めてくれなくて。どうせ俺は年甲斐もなく、若い女とつきあおうとするただのおっさんだってことなんだ。この事実は厳粛に受け止める必要があるって、そう思ったもんだからさ」
「…………………」
――映画がはじまった。リバイバル上映していた『ベニスに死す』だった。マキの中では、有名なマーラーの交響曲、第5番が効果的に使われた、「いい年したおっさんが、美青年に恋する話」といった記憶しかなかったわけだが……マキはずっとあとになってから、君貴と見にいったこの映画について、少しばかり深く考え込むことになったかもしれない。
「なんか色々、自分のことを考えちまった」
君貴は帰りに立ち寄ったファミレスで、そんなふうに呟いていた。日本人なら誰もが知っている有名チェーン店だが、彼はやたら物珍しがって、通りかかるなり「ここがいい!」と言ったのだ。
「ほら、映画の中でマーラーの有名な交響曲のアダージェットが使われてるだろ?あれはマーラーが年の離れた妻のアルマに捧げた愛の曲だと言われてる。ふたりは19歳も年が離れてたというからな……」
「もう、年のことを考えるのはやめたら?というより、わたしが気にしてないんだから、それでいいじゃないの」
「そうか?」
「そうよ」
とはいえ、君貴としては、『ベニスに死す』の有名な美青年、ビョルン・アンドレセンを見ているうちに、レオンのことを思いだしてしまい、そうした意味でも複雑だった。顔がそっくりというよりも、レオンもまた同じようにどことなく貴族的な顔立ちをしているという意味で似ていたのである。それで、何気なく選んだ映画だったにも関わらず、(こりゃ映画のチョイスを間違えたな)と、見はじめて暫くすると、後悔の思いが突き上げてきたのだった。
(僕のことを忘れて、日本娘なんかとこんなところでイチャイチャしてるだなんてね)――そんな言葉が副音声で聞こえてきたのは、君貴の罪悪感のなせる業だったのだろうか。
だが、そんなことをまったく知らないマキは、自分との年齢差を気にする君貴に、誠実なものさえ感じていたのである。おそらく、不倫も含めて、自分よりもずっと年上の男性に若い頃に憧れた経験のある女性ならわかるだろう。この場合、相手が既婚者でなかった場合でも、女性の「目が覚める」のは、「なんだ。こんな人、ただのおっさんじゃないの」と気づくことを通してである。あるいは、言い方を変えたとすれば、自分の理想のイメージを相手に被せて恋に恋していたのであれば特に――その魔法を解くことが出来るのは、自分だけだということになるだろう。
けれど結局、のちに色々なことがわかってきてからも、マキの彼に対する恋の魔法は覚めなかった。それはおそらく、君貴のほうでもマキに対し心から愛する気持ちがあればこそ……彼女は彼のことを愛し続けることが出来た、ということだったのかもしれない。
>>続く。