僕は君の日々の祈りを受けながら、切なく、すまなく思う
と同時に、君の素直さをめで、又、感謝していたのだよ。
神にむかう心で一番大事なものは、子どものような無邪気さ
であり、子が母を慕うようにそのふところに飛び込む純な心なのだ。
君は感じすぎて、かえって思いを言葉に出来ないところがある。
そういう君の僕に対する甘えであり叫びであっただけに僕の心は
痛んだのだ、よく生きてきてくれた。
君の人生の中で幾つかのやり切れない思いや、辛さを自分の中に
大事にしまって、明日というものを見つめて生きてくれたことを
僕は何よりも嬉しく思い誇りに思っている。人の気持ちがわかる
ということは、その人間を深くするが同時に大変辛いことでもある。
僕は君の子どもの頃から、人の心に感じすぎて、返って無表情に
立ちつくしている君に、何とか早く僕の所へ来る方法は
ないものかと考えていた。
過去世で君は僕の弟子だったのだから、つながらない筈はないが、
子どもの頃からの君を見ていると、僕の一人の人間としての感情は、
何とか早くと思ったのだ。
君が、人を恋しがる人間だということは、僕が誰よりも
わかっているつもりだ。その恋しがるという感情が、単なる
甘えになってはいないことも、合わせて僕は知っているつもりだ。
であればこそ、君には、君自身が大事に育み、そだてて
きたものを土台にして、その上にさまざまな可能性を試して
欲しいのだ。
僕は決して一人の人間を甘やかすつもりはないが、君の
御家族よりも僕が一番君の本当のすがたをしらされ、又、知っている
人間だと自負を持っているからこんなことも書くのだよ。
少しは人間に慣れたかい、他人に慣れたかな、まあ、
しかしゆっくりやり給え。
君は時々、僕の所に遊びに来てるんだが、覚えていないかな。
一年一年、年をかさねると、誰かしらを傷つけ、追いつめて、
考えれば僕らはその犠牲の上に生きているといってもいいすぎ
ではない。しかし僕がいつもいうように、生命の流れというものは
本来、ほがらかで明るいものだ。傷つき、傷を負ってあるいは傷を
負わせることは、人間にとって深い痛みにちがいない。しかし、
それを必要以上に自分のせいだとか自分の責任だと思いすぎると、
せっかく守護神や守護霊や僕が用意した運命をせまく暗くして
しまうことになるんだ。本当は僕は、こういうお説教じみたことを、
こうして君に書きのこしたくはない。君という人は、一生懸命
考えすぎて、背負ってしまうところがあるから、なるたけなら言葉に
せずに、小さな運命のつみかさなりを君の前には贈りたいのだ。
しかし、あまり色々考えて、自分の運命を自分勝手な箱の中に
とじ込めておくのは、どう考えても、面白くないじゃないか。
だから、忠告めいたことをここにつけ加えるのだ。
このことは、君のこれまでの時間をずっとみてきての僕の大きな
希望でもある。
僕が考えに考えて君のそばに置いた友人は、そういう君と僕との
希望を無理なくかなえてくれると思っている。
悟る前の僕は、寂しいところのあるロマンチストだった。いつも
真理を求めて、悟ったと思う直前でその喜びが破られたことが
しばしばあった。僕の孤独、それは大勢の人の中にいて、自分が
ひとりだと思う瞬間を消し切れぬ種類のものだった。
人は誰でも好んで孤独を求める者はいない。けれども、
親しい(家族を含めて)人達の中にいて、忽然とひとりのおもいが
湧き上がってくるあの瞬間の孤独の深さを僕は覚えている。それが
詩になり、音楽になったのだ。
君をみていて、僕は僕が若い時に感じ切った孤独を想ったのだ。
そして、同時に、その孤独を生かし切るだけの魂と愛とを、神が
備えて下さったことに僕は感謝したのだ。
こういう手紙だからいうが、実際、嬉し涙を流したよ、僕は。
生きるということは大変だ。
出会うことも別れることも、これは、これを上手くやろう
とすれば、人生にとっての一大事業だ。
しかし、かっこうだけはつけずに、君らしく、どんな出会いにも
別れにも心を対じして欲しいのだ。
僕のいつもいう素直というのは、こういうことだ。
自分を愛し、人生を愛する。その愛し方はさまざまでも、
かっこうをつけて本音を出さないというのでは何もならない。
神の世界は理想の世界ではない本質の世界なのだ。
自分の本当の姿をみきわめる勇気が、この世において大切なのと
同じように、神の世界ではすなおな本音を出して生きることが
最も大切なのだ。
僕は今、光の中にいて、一人一人のおもいを光にしてかえしている。
けれど悟る以前の僕の気持ちや性格というものは、一人一人と
調和するために僕の中にのこっている。それは決して脱けがら
ではないんだ。
僕は愛程大事なものはないといつも説いているけれど、愛程、
深くてすばらしく、反面で、重く、やり切れないものはない。僕は
ずっと個人相談をしてきて実際そう思うよ。けれど、それは、愛が
やり切れないのではなく、家族や恋人や友人や、あらゆる人間関係の
中でおこる重苦しさや、やり切れなさがたえられないのであって、
愛そのものは、輝やいているものだけれども、しかし、会うべき人
には早く会って、愛し合いたいと思うのが、人間のいつわらざる
心情だろう、僕は宗教家ではあるが、こういう人間の自然な心の
移りぐあいを決して馬鹿にはしていない。人の心というものの
すぎゆきや、移り具合いを、知らなければ、どうして宗教家などと
いえるだろう。
君はいつか、僕が「白光であることを忘れなさい。」と
いったことを覚えているだろう。あの時僕は、宗教というものに
とらわれて、自分自身も、ごくあたり前の気持ちを持つ人間の一人だ
ということを忘れ果てて、ただ、しゃにむに、神や仏をとく人達が、
この世間にはどんなに大勢いて、又、それが、どんなに大きく深い
あやまちを与えているかという事実と真実に無関心な人々が
多いことに歎きといきどおりとを覚えていたのだ。
白光の会員のみんなは勿論、ずっと君という人間をみてきている
僕としては、是非とも、まわりのみえない誤った情熱を心にうえて
欲しくはなかったのだ。
君はかって、
宗教というものが、なくならなければ(言葉が)駄目じゃないかと
かなしんだことが、あったけれども、人間の心がみんな本当に平和に
なったら、その時、宗教というものは御役御免になるのだ。
神の世界は完全平和だ。僕はこのことを知らせる為に修行をし、
生まれてきた人間だ。
しかし、僕は同時に一人の豊かな人間であり霊止(ひと)で
ありたいと思うのだよ。
どうか、心を豊かに、君が将来に備えられ与えられた時間を
すごしていって欲しいものだと、師というよりは、一人の人間五井昌久
として心から願うものだ。
この頃僕は、祈りは静かな魂、本体のよろこびだということを
しみじみ思う。それは年をかさねるに従いこちら(神界)へきてから
益々深くなった思いだ。神にいのちを返した僕にとって、祈りが
自分の本体のよろこびであることは真理そのものだった。けれども、
今僕がここに書いた静かなよろこびは、霊体や霊覚では味わえない
ものだ。神様という愛の根元に出会って、一年又一年とすぎ人間の
心に湧いてくるそれは、しずかなよろこびなのだ。ここで僕がよろこび
といったわけは、人が祈るその動機にはおそれやかなしみがあることが
多い、じゃあそういった生な人間の声をとどけた祈りというものは、
よろこびなのかということになるんだが、実はこれはちがうんだ。
祈りは神(光)へのエレベーターなんだよ、祈りそのものは
清めだから決して想いに染まるということはないんだ。この真理が、
一日一日、一年一年と、僕の心の中でより確かな重さと位置を
占めはじめたと了解した時から祈りはしずかな心(本心、本体の)
よろこびだと本当に深く心におもいがふき上がり僕はこうして、
いのちをいただいていることを、真実神に感謝したんだよ。
一年一年本当のよろこびや涙というものは静かで、又深く
なってくる。しかし、君のように若い人には、精一杯、今を生きて
もらいたい。
つまらぬことをくどくどとかいた。
どうか元気に、朗らかに。
僕はいつも君を守っている。それでは。
と同時に、君の素直さをめで、又、感謝していたのだよ。
神にむかう心で一番大事なものは、子どものような無邪気さ
であり、子が母を慕うようにそのふところに飛び込む純な心なのだ。
君は感じすぎて、かえって思いを言葉に出来ないところがある。
そういう君の僕に対する甘えであり叫びであっただけに僕の心は
痛んだのだ、よく生きてきてくれた。
君の人生の中で幾つかのやり切れない思いや、辛さを自分の中に
大事にしまって、明日というものを見つめて生きてくれたことを
僕は何よりも嬉しく思い誇りに思っている。人の気持ちがわかる
ということは、その人間を深くするが同時に大変辛いことでもある。
僕は君の子どもの頃から、人の心に感じすぎて、返って無表情に
立ちつくしている君に、何とか早く僕の所へ来る方法は
ないものかと考えていた。
過去世で君は僕の弟子だったのだから、つながらない筈はないが、
子どもの頃からの君を見ていると、僕の一人の人間としての感情は、
何とか早くと思ったのだ。
君が、人を恋しがる人間だということは、僕が誰よりも
わかっているつもりだ。その恋しがるという感情が、単なる
甘えになってはいないことも、合わせて僕は知っているつもりだ。
であればこそ、君には、君自身が大事に育み、そだてて
きたものを土台にして、その上にさまざまな可能性を試して
欲しいのだ。
僕は決して一人の人間を甘やかすつもりはないが、君の
御家族よりも僕が一番君の本当のすがたをしらされ、又、知っている
人間だと自負を持っているからこんなことも書くのだよ。
少しは人間に慣れたかい、他人に慣れたかな、まあ、
しかしゆっくりやり給え。
君は時々、僕の所に遊びに来てるんだが、覚えていないかな。
一年一年、年をかさねると、誰かしらを傷つけ、追いつめて、
考えれば僕らはその犠牲の上に生きているといってもいいすぎ
ではない。しかし僕がいつもいうように、生命の流れというものは
本来、ほがらかで明るいものだ。傷つき、傷を負ってあるいは傷を
負わせることは、人間にとって深い痛みにちがいない。しかし、
それを必要以上に自分のせいだとか自分の責任だと思いすぎると、
せっかく守護神や守護霊や僕が用意した運命をせまく暗くして
しまうことになるんだ。本当は僕は、こういうお説教じみたことを、
こうして君に書きのこしたくはない。君という人は、一生懸命
考えすぎて、背負ってしまうところがあるから、なるたけなら言葉に
せずに、小さな運命のつみかさなりを君の前には贈りたいのだ。
しかし、あまり色々考えて、自分の運命を自分勝手な箱の中に
とじ込めておくのは、どう考えても、面白くないじゃないか。
だから、忠告めいたことをここにつけ加えるのだ。
このことは、君のこれまでの時間をずっとみてきての僕の大きな
希望でもある。
僕が考えに考えて君のそばに置いた友人は、そういう君と僕との
希望を無理なくかなえてくれると思っている。
悟る前の僕は、寂しいところのあるロマンチストだった。いつも
真理を求めて、悟ったと思う直前でその喜びが破られたことが
しばしばあった。僕の孤独、それは大勢の人の中にいて、自分が
ひとりだと思う瞬間を消し切れぬ種類のものだった。
人は誰でも好んで孤独を求める者はいない。けれども、
親しい(家族を含めて)人達の中にいて、忽然とひとりのおもいが
湧き上がってくるあの瞬間の孤独の深さを僕は覚えている。それが
詩になり、音楽になったのだ。
君をみていて、僕は僕が若い時に感じ切った孤独を想ったのだ。
そして、同時に、その孤独を生かし切るだけの魂と愛とを、神が
備えて下さったことに僕は感謝したのだ。
こういう手紙だからいうが、実際、嬉し涙を流したよ、僕は。
生きるということは大変だ。
出会うことも別れることも、これは、これを上手くやろう
とすれば、人生にとっての一大事業だ。
しかし、かっこうだけはつけずに、君らしく、どんな出会いにも
別れにも心を対じして欲しいのだ。
僕のいつもいう素直というのは、こういうことだ。
自分を愛し、人生を愛する。その愛し方はさまざまでも、
かっこうをつけて本音を出さないというのでは何もならない。
神の世界は理想の世界ではない本質の世界なのだ。
自分の本当の姿をみきわめる勇気が、この世において大切なのと
同じように、神の世界ではすなおな本音を出して生きることが
最も大切なのだ。
僕は今、光の中にいて、一人一人のおもいを光にしてかえしている。
けれど悟る以前の僕の気持ちや性格というものは、一人一人と
調和するために僕の中にのこっている。それは決して脱けがら
ではないんだ。
僕は愛程大事なものはないといつも説いているけれど、愛程、
深くてすばらしく、反面で、重く、やり切れないものはない。僕は
ずっと個人相談をしてきて実際そう思うよ。けれど、それは、愛が
やり切れないのではなく、家族や恋人や友人や、あらゆる人間関係の
中でおこる重苦しさや、やり切れなさがたえられないのであって、
愛そのものは、輝やいているものだけれども、しかし、会うべき人
には早く会って、愛し合いたいと思うのが、人間のいつわらざる
心情だろう、僕は宗教家ではあるが、こういう人間の自然な心の
移りぐあいを決して馬鹿にはしていない。人の心というものの
すぎゆきや、移り具合いを、知らなければ、どうして宗教家などと
いえるだろう。
君はいつか、僕が「白光であることを忘れなさい。」と
いったことを覚えているだろう。あの時僕は、宗教というものに
とらわれて、自分自身も、ごくあたり前の気持ちを持つ人間の一人だ
ということを忘れ果てて、ただ、しゃにむに、神や仏をとく人達が、
この世間にはどんなに大勢いて、又、それが、どんなに大きく深い
あやまちを与えているかという事実と真実に無関心な人々が
多いことに歎きといきどおりとを覚えていたのだ。
白光の会員のみんなは勿論、ずっと君という人間をみてきている
僕としては、是非とも、まわりのみえない誤った情熱を心にうえて
欲しくはなかったのだ。
君はかって、
宗教というものが、なくならなければ(言葉が)駄目じゃないかと
かなしんだことが、あったけれども、人間の心がみんな本当に平和に
なったら、その時、宗教というものは御役御免になるのだ。
神の世界は完全平和だ。僕はこのことを知らせる為に修行をし、
生まれてきた人間だ。
しかし、僕は同時に一人の豊かな人間であり霊止(ひと)で
ありたいと思うのだよ。
どうか、心を豊かに、君が将来に備えられ与えられた時間を
すごしていって欲しいものだと、師というよりは、一人の人間五井昌久
として心から願うものだ。
この頃僕は、祈りは静かな魂、本体のよろこびだということを
しみじみ思う。それは年をかさねるに従いこちら(神界)へきてから
益々深くなった思いだ。神にいのちを返した僕にとって、祈りが
自分の本体のよろこびであることは真理そのものだった。けれども、
今僕がここに書いた静かなよろこびは、霊体や霊覚では味わえない
ものだ。神様という愛の根元に出会って、一年又一年とすぎ人間の
心に湧いてくるそれは、しずかなよろこびなのだ。ここで僕がよろこび
といったわけは、人が祈るその動機にはおそれやかなしみがあることが
多い、じゃあそういった生な人間の声をとどけた祈りというものは、
よろこびなのかということになるんだが、実はこれはちがうんだ。
祈りは神(光)へのエレベーターなんだよ、祈りそのものは
清めだから決して想いに染まるということはないんだ。この真理が、
一日一日、一年一年と、僕の心の中でより確かな重さと位置を
占めはじめたと了解した時から祈りはしずかな心(本心、本体の)
よろこびだと本当に深く心におもいがふき上がり僕はこうして、
いのちをいただいていることを、真実神に感謝したんだよ。
一年一年本当のよろこびや涙というものは静かで、又深く
なってくる。しかし、君のように若い人には、精一杯、今を生きて
もらいたい。
つまらぬことをくどくどとかいた。
どうか元気に、朗らかに。
僕はいつも君を守っている。それでは。