宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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短 信(三十二)

2011-02-26 08:52:43 | 祈り
 自分を役立たせたい、お役に立ちたいという気持ちは、実に尊いもので

あります。ありがたいことでありますが、あまりに、この気持ちに熱を

おびさせますと、やはり我(が)の世界へと引き入れられるのであります。

 私達は、余程ここのところをしっかりと見極めねばなりません。

 私達が、お役に立ちたいとおもう時、それは具体的には、私達の知って

いる誰かに対して……ということが多いのであります。たとえば、友達が

病気で苦しんでいる、どこかいい先生はいないかと言う時に、一生懸命

世話をする、また、自分の知っているお医者さんに連れてゆく、それで

ようやく治ってみると、自分が思った程には友達が感謝してくれない。

 こういうことはよくある話であります。

 これはなぜこうなるのかと申しますと、苦しんでいる友達をみて

一生懸命に動いたその時には、お役に立ちたいという気持ちが、純粋に

働いていたわけであります。むしろ、この気持ちによって、心がもえた

ということがいえるかも知れません。

 お役に立ちたいという心、愛念が、その人を突き動かしたわけで

あります。この時には、ただもう友達の苦しみが取れればという気持ち

だけでありまして、そのほかには何ものぞんでいないのです。

 それで、色々動いて、その結果、元気になってきますと、本当に

よかったと思う。ところが、すっかり元気になって、その友達にお礼は

いったのでしょうが、そのお礼の言い方が、動いた方としては、何か

あっさりしていて、物足りない。そして、物足りなさを感じている

うちに、今度は、自分があれだけ動いてやったのに、友達はわかって

いるのかしらという気持ちになってくる。

 こうなると、もう「お役に立ちたい」はどこかへ行ってしまっている。

 お役に立ちたいという気持ちは、汚されない、純なものであります。

 この人も、そのはじめには、純な気持ちから出発したのであります。

 それがおかしくなったのは、自分が目の前の友達のために一生懸命

動いたという気持ちにとらわれたからなのであります。

 人間というものは、神様の光なのだ、光の一筋なのだということは、

つねづね申し上げていることでありますが、お役に立ちたいという

気持ちをじっとみていますと、それはただ、光が光にむかって働き

かけているということなのであります。つまり、私達は、具体的には、

自分の知っている誰かを通して、光として動く、光明を発揮している

ということになるのであります。

 ですから、お役に立ちたいというのは、本来、誰かのために動くとか

何とかというようなものではないのでありまして、それでいいますなら、

神様のために、このいのちを、幾分かでも働かせていただいたという

ことなのであります。

 要は、あまり、お役に立ちたいと思いつめず、ふんわりと、神様に

その気持ちを伝えていらっしゃれば、一番いい方法で、神様が、あなたを

使って下さるということなのであります。

 のんびりと、ふんわりと参りましょう。

 世界人類が平和でありますように
                       合 掌
                         昌 久