(前日からの続き)
それで、祈りというものは、どの宗教
でありましても、そういう自分の中の余分な
ものを捨て去る。
たとえ瞬間でも構いません。
その捨て去る時の充実を助けるために祈り
というものがあるんであります。
主の祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても
南無妙法蓮華経にしてもそうであります。
どこから入ってもそれはそうであります。
光明は絶えることはありません。
けれども、今この現代の世の中で、
「世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、私達の天命が
完うされますように、守護霊様守護神様
ありがとうございます。」というこのどこを
とり上げても無理のない、感謝と愛念に満ちた、
この祈りを唱えることによって、私どもは
私どもの中に常にある、しかし、常には
眠らされてる神性と、私どもの肉体が一致をして、
そして、肉体は肉の身のままに光と化していく
ことが出来るのであります。
その光となっていく日常を重ねていくことに
よって、だんだん肉体が肉体のままでありながら
波動が細かくなっていって、そうしてついに、
全く死にきってむこうに行かなければ波動が
細かくならないという様な時代ではもうなく
なってまいります。
でなければ、この世の中というものは常識に
照らして動いていくものでありますから、
この世の中の常識に照らして動いていく世の中で、
光明というものが働くためには、自分の波動が
いつの間にか光明化されて、そして肉体のままで、
何も祈りをするとか会に出るとかそういうこと
ではなしに、知らず知らずの内にやっていることが
光明化されていくと、自分の口から出る言葉
あるいは接する態度、眼差(まなざ)し、そういう
ものが和らぎに満ちたものになっていく。
それだけで、それはそこに愛念が輝くという
ことになっていくのであります。
そうして、私などはそういうさり気ない態度の方が
むしろ大事であると考えている訳であります。
(つづく)
それで、祈りというものは、どの宗教
でありましても、そういう自分の中の余分な
ものを捨て去る。
たとえ瞬間でも構いません。
その捨て去る時の充実を助けるために祈り
というものがあるんであります。
主の祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても
南無妙法蓮華経にしてもそうであります。
どこから入ってもそれはそうであります。
光明は絶えることはありません。
けれども、今この現代の世の中で、
「世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、私達の天命が
完うされますように、守護霊様守護神様
ありがとうございます。」というこのどこを
とり上げても無理のない、感謝と愛念に満ちた、
この祈りを唱えることによって、私どもは
私どもの中に常にある、しかし、常には
眠らされてる神性と、私どもの肉体が一致をして、
そして、肉体は肉の身のままに光と化していく
ことが出来るのであります。
その光となっていく日常を重ねていくことに
よって、だんだん肉体が肉体のままでありながら
波動が細かくなっていって、そうしてついに、
全く死にきってむこうに行かなければ波動が
細かくならないという様な時代ではもうなく
なってまいります。
でなければ、この世の中というものは常識に
照らして動いていくものでありますから、
この世の中の常識に照らして動いていく世の中で、
光明というものが働くためには、自分の波動が
いつの間にか光明化されて、そして肉体のままで、
何も祈りをするとか会に出るとかそういうこと
ではなしに、知らず知らずの内にやっていることが
光明化されていくと、自分の口から出る言葉
あるいは接する態度、眼差(まなざ)し、そういう
ものが和らぎに満ちたものになっていく。
それだけで、それはそこに愛念が輝くという
ことになっていくのであります。
そうして、私などはそういうさり気ない態度の方が
むしろ大事であると考えている訳であります。
(つづく)