(前日からの続き)
私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
切り換えるとか申しますけれども、この場合の
想いというのは、実はあまり良い想いではない。
どっちかというと、この人間商売をやっていて、
もう止めたいなと想うようなことが連続してきて
どうにもならなくなって、にっちもさっちも
いかなくなって、暗い想いが出てきた時に、想い
なんてあるから、こんな気持ちがあるから人間
止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想いで
あります。
あるいはそれに付属してですね、言葉という
ものも明るくはなっていかない。
ところが、じゃあ想わなきゃいい、言葉を
出さなきゃいいということになって、それを
望んでも、人間というものは想いからあるいは
言葉から切り離されてはゆかないのであります。
仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを
禁じて、一日でも暮せと言われたらですね、
これは、人間というのは非常に生きにくい。
もう息がしにくくなってしまう。
そういう存在である訳です。
そして、それは何かというと、想いとか言葉
とかいうものは本来は神様の方から出てくる
エネルギーだということなんであります。
(つづく)
私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
切り換えるとか申しますけれども、この場合の
想いというのは、実はあまり良い想いではない。
どっちかというと、この人間商売をやっていて、
もう止めたいなと想うようなことが連続してきて
どうにもならなくなって、にっちもさっちも
いかなくなって、暗い想いが出てきた時に、想い
なんてあるから、こんな気持ちがあるから人間
止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想いで
あります。
あるいはそれに付属してですね、言葉という
ものも明るくはなっていかない。
ところが、じゃあ想わなきゃいい、言葉を
出さなきゃいいということになって、それを
望んでも、人間というものは想いからあるいは
言葉から切り離されてはゆかないのであります。
仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを
禁じて、一日でも暮せと言われたらですね、
これは、人間というのは非常に生きにくい。
もう息がしにくくなってしまう。
そういう存在である訳です。
そして、それは何かというと、想いとか言葉
とかいうものは本来は神様の方から出てくる
エネルギーだということなんであります。
(つづく)