宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

想いと言葉(7)

2023-09-15 09:30:03 | 祈り
       (前日からの続き)
しかし、長年長年長年、この地球世界という
ものは、業で汚れ切って汚れ切って汚れ切って
おりますから、ですから、その汚れ切った
世界の中でいくら人間が頑張って愛念を
出しても、祈っても、ちょっとやそっとの
ことでは清くなっていかない。
何しろ、汚れの方の歴史が長いんですから。
むこうの方が古いんですから。
ですから、それを浄めるというのは、本当に
並み大抵のことじゃない。
並み大抵のことじゃないけれども、今それを
やらなかったら、この地球世界はともかく、
もっともっと広い宇宙そのものの調和も
本当には完成していかないんだという
この視点に立ちますと、やっぱり我々は、
汚れ切って汚れ切っているこの中でも、祈って
愛して、そうして言葉も想いも神様から来たもの
であるということを大事にしながら、やっぱり
出来るだけ愛念の言葉を想いを出していかないと
いけない。

出しても出しても何にもならないという想いも
また、これ消えてゆく姿で、消してもらって、
そうして、段々段々、徐々に徐々にでもいいから、
この地球世界のひびきというか流れというかね、
そういうものを光明化していく。

そのためには何が一番いいか。
それは世界人類が平和でありますようにという
この祈りなんですね。
これを想わない人はないんです。
自分だけが平和でありますようにといったって、
これは自分だって世界人類の一人なんだからね。
ですから、それを想わない人は一人もいない
わけです。
            (つづく)

想いと言葉(6)

2023-09-14 08:55:04 | 祈り
        (前日からの続き)
私どもは、頭の先から爪先まで見ましてもね、
何一つ自分で造ったものはないんですね。
生まれて来た時も、我々が製造して持って来た
手だとか指だとか、そんなものはあり得ないん
ですね。
全部借りてきた生命なんです。
貰ってきた生命なんですね。
どっから貰ってきたか、神様から貰ってきた。
でも神様から貰ってきたけれども、その神様が
下すった生命を支えている光の流れという
ものは、神様と等しいものな訳ですね。
そして、神様の本質、本体、本心という
ものは、ただただ深い愛念なわけですね。
ですから、この深い愛念と等しくなって
しまうと、想いとか言葉とかいうものが、
だんだんだんだん、いろいろな余分なものが
とれていって、角がとれていって丸くなって、
そして柔らかくなって、そうして、ただ溢れる
ばかりの愛念、光、祈り、そういうものに一致
していって、ついに調和の世界の方へもって
いける様になる訳ですね。
                (つづく)

想いと言葉(5)

2023-09-13 11:13:34 | 祈り
     (前日からの続き)
実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、
自由で不自由なものはない。
こんなものがあるから生きにくいと
想っても、これを離れるということが
出来ないということになれば、じゃあ
これをどうすればいいか。

想いを浄めていかなければならない。
あるいは、言葉を高めていかなきゃ
なんない。
それは何によって浄められるかというと、
やっぱりこれは、祈り言、祈り言葉、祈って
浄めてゆける。
あるいは、祈り心によって浄めてゆける訳
であります。
ということはどういうことかと申しますと、
神様から来た想い、神様から来た言葉である
ということを、もう一度見つめ直して考え直
して、それを神様の元へ一回かえす。
かえして生命をいただき直す。
             (つづく)

想いと言葉(4)

2023-09-12 07:07:30 | 祈り
     (前日からの続き)
ところが、昔から言霊とか申しますように、
本当は言葉というものも想いというものも、
両方ともこれは自分が出すもんではない。
むこうの世界、守護霊さんなり守護神さんなり、
あるいは神様なり、我々を生かしめている
エネルギーの元というふうに考えてもいい
のであります。
そこのところがですね、今逆転してしまって
いるんです。
あいつはこんなこと言いやがったとか、こんな
こと言われたら俺だまっちゃいられねえー
とかですね。
そんなことを考えるから、そこで
その憎たらしいとか、悔しいとかいう想いが
飛んでいって、また争(あらそ)いが大きく
なる。
憎いという想いが飛んでいきゃ憎い、に
なります。
愛(いと)しいという想いが飛んでくりゃ、
やっぱりこっちも愛(いと)しい、と
なるんです。
それがつくづく分かるのは死んでから
なんですね。
死んで、自由な体になっちまったら、むこうへ
行けばですね、想いというのは、そのまんま
実現する訳ですから。
ですから何にも無いんです。
全く想いのまんまの世界が自分の目の前に
出てくる。
こんなたまらない世界はない訳ですね。

だから、今何でそれが実現されないかというと、
人間が肉体の世界のこの不自由な世界の中で、
いろんな物を物質化して、そして、肉体の波に
合うように、固い鉱物だとか何だとかいろんな
ものがまわりにあって、なかなか、その想い
というか想念そのままの世界を実現するには、
ちょっと時間がかかる様に出来ている。
ところが、むこうはひびきそのままなんですね。
人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、
そこへ合わせたひびきが出てくるから、その
ひびきがどういう流れのものであるかということ
によって、その想いが浄められもすれば言葉も
やわらかくなるということになっていく訳です。
              (つづく)

想いと言葉(3)

2023-09-11 09:07:13 | 祈り
     (前日からの続き)
この神様の方からくるエネルギーだという
ことをわきまえておりませんと、非常に
想い違いをしてしまう。
想いを軽くするとか想いが沈んでいく重く
なるというのは、これは自分の中にある
人間の我、ここで想いという言葉を使って
しまうとその想いという言葉で皆
雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは
我という言葉を使いますが、その我の方へ
引っぱられた想いに皆今なっている訳
であります。
ところが、もともとの想いというのは
どういう想いであったかというと、人間
生まれた時のその瞬間というのは、むこうから
こちらへ出て来た時の瞬間の想いというのは
真白なんです。
その真白の想いというのは神様のふところから
入って出て来たその想いでありますから、
本当にこれは無垢の、純粋無垢の想いで、
このまま大きくなってゆけば、その人から
出てくる想いも言葉もこれは光そのものの
想いで、あるいは、何をやっても光明化
されていく想いになっていく訳であります
けれども、人間の生活の中に我という
ものがありますから、肉体というものを
纏ってしまったその想い癖というものが
ありまして、その我の生活の中から出てくる
言葉なり想いなりというものが年々不自由さを、
実は纏わせていくものなんであります。
           (つづく)