読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

21世紀の戦争テクノロジー 科学が変える未来の戦争

2017年02月21日 | テクノロジー

21世紀の戦争テクノロジー 科学が変える未来の戦争

著:エヴァレット・カール・ドルマン
訳:桃井緑美子
河出書房新社


 日本人が書いたSFとしてセンセーションを巻き起こした伊藤計劃「虐殺器官」では、テクノロジーの発達した兵器が次々と現れる。それはいかにも科学知識や化学知識を備えた、いかにももっともらしいものだらけで、その冷酷な最新兵器には思わず戦慄が走ったものだった。

 本書を読んだら、「虐殺器官」に出てくるような、そんな兵器の数々が、実は空想の産物ではなく、実はもう実現化されていたり、すでにプロトタイプはできていたりすることが書かれてあって呆然とした。光学や音響を駆使して敵の神経発作を誘導させる兵器だったり、高周波のミリ波で敵の皮膚を瞬間的に焼いて進攻を止めさせたり、どんな金属でも腐食させる薬剤だったり、無人で動き回るライフル付の遠隔操作型偵察カメラだったり。また、味方に対しても神経系に作用させて筋力を倍増させる方法だったり、3Dバイオプリンターで兵站なしに戦地で食糧や武器を生産したり。

 科学技術の発達と戦争は切っても切れない関係だ。インターネットーーワールドワイドウェブは、アメリカ軍のARPAネットがその母体であることは有名な話である。

 

 また、戦争技術は、平時中よりも戦争中においてより発達することは、先の二つの大戦でわかっている。第一次世界大戦がはじまったときは騎兵だったのが、戦争が終わるときは、毒ガスと戦車と飛行機と潜水艦になっていた。

 第2次世界大戦では、驚異的な航空機の生産力増強やレーダーや暗号読技術や、そして大陸間弾道ミサイルや原発が誕生した。

 これは、戦争中は、科学技術による兵器開発に莫大な資源が投入されるからである。アメリカが開発にこぎつけた原爆ーマンハッタン計画は、アメリカの戦時予算の4分の1と12万5000人以上の科学者と技術者が動員されたことも、最近判明している。

 ということは、少なくともいまの国際社会は局所的な戦闘や内戦はおいといて、大局的には無戦争状態であるが、ここで中・大規模な戦争となれば、今では想像がつかないくらいな兵器や戦争技術が急成長する可能性もあるということだ。「虐殺器官」をしのぐ世界も、無いとは言えない。

 

 というわけで、本書は恐ろしい未来を示唆しているようだが、実は本書のテーマは「科学は戦争を止められるか」である。これは人類の戦争の歴史が、科学技術発達の歴史であったことに対する反省からきたアジェンダだ。

 もっとも、本書で示されるその答えは、限定的だし、楽観的なものでもない。むしろ、科学は戦争の遂行に抗しえないことを認めている。いたずらに非戦闘員を負傷させたり、戦闘委員を殺めないために、「非致死性兵器」という方針の兵器が次々と試みられているが、非致死性兵器が横行するほど、戦争そのものはむしろ始めやすく、そして長引きやすくなる、というジレンマも本書では指摘している。

 本書がそれでもこの先の未来に科学が戦争を止められるとすれば、それは「宇宙」ではないかと指摘する。

 それは、宇宙空間上に地球を見下ろすように配列させる兵器が抑止力になるということでもあるが、それとはべつに、宇宙の資源エネルギー(太陽光など)は無尽蔵であり、これの採掘採取技術を地球上の国家がシェアすれば、そもそもの戦争の原因がなくなるのである。

 また宇宙開発こそは人類共通の夢として人間性の信望を取り戻すもの、とする。

 

 つまり、21世紀の戦争テクノロジーは極限までクールになっていきそうだが、そもそもの戦争の迂回策は宇宙が握っているということだ。

 でも、宇宙への船出が人類の夢であり、国際協調であることは、かなり古典的なSFのテーマでもあった。「虐殺器官」には酔わされたが、宇宙こそが人類の平和の道という希求のテーマも信じたいところである。

 






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ビットコインはどのように動いているのか

2016年11月19日 | テクノロジー

ビットコインはどのように動いているのか

 
大石哲之
日経BP社
 
 ビットコインとか、ブロックチェーンとかがあいかわらず喧しいものの、なんのこっちゃらわかっていなかったので、こっそり勉強。
 読んでみれば「なるほど、あったまいいー」と思えるコンセプトだ。ブロックチェーンが意味することは、合意形成こそが社会の全ての秩序ということだ。行政とか国家というのは人々の合意形成のための装置であり、しかも合意形成において国家というものの設置は次善の策なのであった。ブロックチェーンによって合意形成が可能になるのであればもはや国家は必要としない。ブロックチェーンは国家崩壊の引き金になりうるかもしれず、人類の叡智というのは恐ろしい。マルクスもここまでは想像しなかったに違いない。
 

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<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則

2016年09月15日 | テクノロジー
<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則
著:ケヴィン・ケリー 訳:服部桂
NHK出版
 
 ようやく読み終わった。実に読み応えがあった。

  近年もやもやしていたものがだいぶこれで覚悟できた感じである。つまり、オレはこのままこの「技術革新の流れ」にどこまで追随し、どこまで抵抗すべきか、ということだ。

 たとえば、さいきん会社で会議などしようとすると、多くの若い社員がカバンからおもむろにノートパソコンを取り出し、自分の目の前に開いてパチパチしだす。手帳とペンというアナログな組み合わせは自分だけだったりする。
 会社から支給されたパソコンではない。そもそもうちの会社はパソコンなんか支給しない。彼らのそれは全部自腹である。
 若い彼らの動向はそれでいいが、さて自分はどうしようと葛藤がある。手書きメモのほうが手軽だし、図形的なスケッチもできるし、だいたい脳みその働き方が左脳右脳バランスいいような気がする、なんて自己正当化してみたり。でもいっぽうでパソコンならばあのメモがそのまま編集されて正式なドキュメントになったりメールでさっとシェアされたり、その場でWiFiにつないで、調べものなどもさっとできるし、何よりもひそかに別な仕事をしていてもばれない・・なんてことも思うのである。
 この逡巡の後ろにあるのは技術進化だ。僕が若いころはそんなパソコン環境はなかった。もちろんデスクにパソコンはおいてあったが、あんな手軽に持ち歩けるウルトラブックはなかったし、WiFiもなかったし、画像や動画をささっとひっぱってきて引用できるほどコンテンツも伝送速度もめぐまれていなかったし、Dropboxのようなクラウドもなかった。だから僕の仕事スタイルはこれらが登場する以前のものでいったん完成されており、だからある意味、このような便利なツールやアプリがなくても仕事はやろうと思えばできる。少なくともできるような気がする。仕事の本質はそんなこととは別だ、などと思ったりもする。
 だけど一方で、こうして自分は前時代化していくのか、とも思うのである。今から二十数年以上前、僕はたまたまめぐまれてパソコンや電子メールを自由に使う能力を備えていた(Windows95の時代である)。そのために当時勤めていたオフィスにOA機器(!)が導入されたとき、とまどう年配の社員を尻目にすぐになじんで自由に使いこなした。それと同じことが今度は逆の立場でおこっている。

 そこで本書を読んで、ようやく開眼した次第である。
 簡単に言ってしまうと、この技術進化の流れは「止められない」。「止められない」のだから抵抗するのではなく、利活用できるようになるしかない。そのためのリテラシーを磨くしかない。
 つまり、ポイントカードで買い物履歴が全部記録されてしまうのも、検索履歴や入力履歴が全部googleやappleに読み取られてしまうのも、AIの台頭が既存の人の仕事を奪うのも、LINEやインスタグラムのコミュニティでトラブルが起きるのも、夏休みの読書感想文をコピペですませる人が出てくるのも、「とめられない」のである。
 買い物履歴をとられるのがいやだからポイントカードはつくらない。少しでも情報をとられたくないからキャッシュへすべて遮断、SNSはやらない。コピペの読書感想文は絶対に許さず、しらみつぶしに叩いていくーーそういう生活態度をとってもよいが、全体論的には、その生き方は「時代を上手に利用していない」生き方になる。自分を守っている利益より「機会損失」のほうが多くなる。それは金銭的な機会損失だったり、知識や情報の入手の機会損失だったり、人との出会いの機会損失だったりする。しかもこれらの技術進化に乗るのとのらないので生じる「機会損失」の幅は、今後加速度的に広がっていくだろう。
 たとえば、読書感想文のコピペを禁止するくらいならば、課題を「同じ本について書かれた3つの感想文をネットから探し出し、その3つの作文の相違はどこから由来しているか考えてみよ」とでもやったほうが、よっぽど現代の情報処理と思考能力の訓練になるだろう。

 
 さて、本書は技術進化の流れを12の動詞で述べている。
 BECOMING・COGNIFYING・FLOWING・SCREENING・ACCESSING・SHAREING・FILTERING・REMIXING・INTERACTING・TRACKING・QUESTIONING・BEGINING。
 これらの中には章立て上のレトリックもあるので、本当に重要そうなものをあえて抜けば、「COGNIFYING(認知化する)」「ACCESSING(接続していく)」「SHAREING(共有していく)」「FILTERING(選別していく)」「TRACKING(追跡していく」だろうか。
 これらの現在の関連キーワードは、それぞれAI、IoT、ブロックチェーン、キュレーション、ログ解析があてはまるということになるだろう。
 これらの共通は「我々人間の認知の及ばないところ」で我々は捕捉されており、そのデータで世の中は動くようになっているということだ。人間の脳処理を超えるロジック計算スピードが、デジタルネットワークとコンピュータの演算処理で可能になったのである。

 では人間はどうすればいいのか。
 本書では、1997年にIBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」に敗北したチェスのチャンピオンであるカスパロフ氏の話が出てくる。
 ディープブルーVSカスパロフのエピソードは有名だ。世界最強だったカスパロフがコンピュータに負けた日は、AI進化史にとってエポックメイキングだ。そのとき、将棋や囲碁はまだまだコンピュータは人間の敵ではなかった。しかし、ムーアの法則のごとく、コンピュータの演算処理は着実に進み、将棋ではほぼ人間に勝利するようになったのは、先の電脳戦でもあきらかだし、将棋よりはるかにコンピュータ思考では難しいとされた囲碁でさえ、先ごろついに世界最高位の人物に勝ってしまった。
 そんなAI史に不名誉な記録を刻んでしまったカスパロフ氏だが、僕はその後の彼のことを知らなかった。世界チャンピオンも形無しだったんだろうな、なんて想像していたくらいである。
 ところが、カスパロフ氏が偉いのはここからだ。本書の表現を借りればカスパロフ氏は「もし、自分がディープ・ブルーと同じように、過去の膨大な試合を記憶した巨大なデータベースをその場で使えていたら、もっと有利に戦えていただろうことに気づいた」。
 ここでカスパロフ氏は、人間がAIに勝とうとするのではなく、AIを使って人間の知能を拡張する概念に至った。つまりAIを使えば人間はもっと強くなれるということだ。そして、「人間」「人間とAI」「AI」ならばどれが一番強いか、という「フリースタイル」制の試合を導入した。
 2014年に行われたフリースタイルバトル選手権では、完全にAIだけのエンジンが42勝したのに対し、なんと「人間とAI」は53勝したのである。

 つまり、コンピュータと上手につきあう人間が一番強い。ここにヒントがある。
 この技術進化の流れは、どう抵抗しようと、批判しようと、自己弁護しようと、確かにとまらないのだろう。ならば、そこにいろいろ理由をたてて抵抗するよりも、上手に利用するリテラシーを身につけるがやはりよいのである。リテラシーがつけば、むしろ「それ以前の時代」よりも、はるかに様々な知性や知能が拡張され、よりよい機会にめぐまれる。
 僕もとうとうノートパソコンを会議に持ち込もうか。が、そのためにはまずノートパソコンを買わなくてはならない。我が家のデスクトップパソコンは何しろWindowsVISTAである。
 

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どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私

2015年02月03日 | テクノロジー
どうすれば「人」を創れるか   アンドロイドになった私

石黒浩


 ずいぶんかわった内容の本である。
 
 「ロボット」と「アンドロイド」というのはぜんぜん違うものなのだ、ということがまずよくわかる。自立した脳やに二足歩行機能さえなければ、「アンドロイド」というのはずいぶん精巧なまでにできるようになったのだ。
 つまり、遠隔操作で喋ったり、顔の筋肉を動かす程度であれば、かなり人間に近いところまできている。

 で、本書では、そういった精巧なアンドロイドと、アンドロイドのモデルになった人間やアンドロイドの操作者、そして、アンドロイドに相対した人間たちの観察から、人間はどこまで自分のことを客体視できるか、という問いにつながっていく。
 つまり、自分そっくりのアンドロイドがそこにあったら、自分はそこに何を見出すか、ということだ。

 「近くて見えぬはまつげ」ということわざがあるが、人は、自分自身の立ち振る舞い、顔の表情、声色はわからないものである。鏡で見る自分の姿は左右反転しているし、録画映像を通してみる自分はある程度のことはわかるとしても等身大の臨場感をそこから感じ取るのはやはり難しいだろう。

 自分そっくりのアンドロイドと相対することで、自分がどう見えるか、あるいは「他人に何かされる自分」を自分はどう見えるか、という不思議な感覚を味わうことができる。本書の言うとおり、たとえ自分そっくりのアンドロイドではあってもそれはしょせん自分とは違う存在であることは左脳的にはわかっているのだが、しかしやはり「他人事ではない」気分に見舞われる、というのはそうなんだろうなと思う。
 なんというか、2人でもないし、1人でもない。1.5人の自分がいる、みたいな感覚だろうか。それは確かに新感覚に違いない。

 また、本書では、自分を一人称でとらえる人、二人称でとらえる人、三人称でとらえる人、がいるという話がある。
 なるほど、一人称でとらえる人というのは、自分が相手からどう見えているか、この社会空間でどう見られているかにあまり頓着しない人であろう。子どもはそうである。
 二人称になると、相手からどう見られているかに気を配るようになるし、三人称になると360度気を使うことになる。女性のほうが二人称や三人称でとらえやすい、という指摘は確かにそうだろうと思うし、役者やテレビのアナウンサーはもっとそうである、というも確かだ。面白いことに、二人称や三人称で自分をとらえる人のほうがアンドロイドの操作が巧いらしい。
 
 これはつまり、二人称や三人称で自分をとらえる人のほうが、日々の所作がやはり洗練されているということになる。
 他人がどう思おうと自分は自分、と強がる人がいるが、本人の想定以上に、その人は「浮いている」可能性がある。自分に自覚はないのに、妙にまわりから「変わっている」と言われてしまう人はこんなところに原因があるのかもしれない。

 アンドロイドの話のようでいて、本書が追及しているのは確かに自分を自覚するとはどういうことか、という話である。つくづく、かわった本であった。でも、なんか新しい地平が見えた気もする。
 
 

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森を見る力  インターネット以後の社会を生きる

2014年02月18日 | テクノロジー

森を見る力  インターネット以後の社会を生きる

橘川幸夫


 いろいろなことが書かれているが、いちばん読後に残ったのは

 「ロックだぜ!」

 

 本書では、スティーブ・ジョブズが次々と新製品や新事業を発表していく様を、「ロック・アーティストがアルバムを発表するかのようにビジネスを展開した」と表現し、そのあとにこう記している。

 機能の先進性は社会性だが、カッコよさは時代性である。なぜカッコよさを求めたのか。答えはひとつである。ロックはカッコよくなければならない。なぜなら、ロックのスタートは、世の中のカッコ悪い、醜悪な現実に対する怒りから始まったものだからだ。

 ジョブズの「Stay hungry, stay foolish」を意識してのことだと思うが、うまくきめたものだ。さすが、ロッキンオン創刊メンバーの人である。

 

 では、現代の日本のカッコ悪い、醜悪な現実とは何か。

 本書ではズバリ、それは「組織」である。「組織」の論理をもったまま、稀代の便利ツールであるインターネットを手に入れてしまったことから、現代の日本は、より醜悪な現実を拡大させてしまったのである。

 

 最近になって、「戦後民主主義社会」の功罪を検証するような言論を多く見るようになった。

 日本の戦後民主主義社会を押し進めたのは、政治でも経済でも生活文化でも流行でも「組織」であった。自民党の組織選挙と組織政治、日本型企業経営と組合、団地の造成、マスメディアによるブームアップ。

 本書では、そんな戦後民主主義社会がもはや目的を達成してしまって、「組織」が錦の御旗を見失い、「組織」そのものの存在を維持させようとすることに汲々するようになった言わば“手段と目的の転倒”が現代の日本と指摘している。

 

 しかも、そんな時代にインターネットが転がり込んできたのである。

 便利な道具ほど、使い方を間違えると猛毒になる。まさに今のWEB社会は毒と薬がいっぺんに効いている状況だろう。

 インターネットにはいろいろ革命的なところがあるが、社会学的な意味合いとしては、組織のチカラではなく、個人のチカラを押し上げたところにあるだろう。逆に言えば、インターネット以前の時代というのはなにごとも組織に頼り、組織に与さなければならなかった。インターネットはその組織の束縛力を弱め、ガッツとアイデアがあれば、個人でも事を成せるチャンスを大いに作れるようにしたのである。

 実際、インターネットによって発見された“魅力ある個人”は大勢いる。

 ところがマクロな面で見れば、日本はあいかわらず「組織」が強く、日本人は「組織」に弱い。これはもうDNAといってもよい。いくら個性の時代とか個人化の時代といっても、いわばこれは「組織への抵抗としての個人」という相対的な文脈で使われることが多く(あるいは「逃避」としての個人)、世の中のほとんどはやはり組織の論理で動いている。

 だから、インターネットは「個人」のチカラを引きだす一方で、「組織」のパワーとしても使われたり、「組織」の暴力を助長させる方向で使われたりする。

 既得権益の確保の手段としてインターネットを使う。同調圧力という意識の中でインターネットがその増幅効果を発揮する。情報の公開制限と非対象性でヒエラルキーを保つ、という日本型組織論理でインターネットを使おうとする。一人ひとりの個人意見の差異ではなく、累積された星の数で判定するためにインターネットの情報を使う。“匿名の大多数”という組織力にものを言わせて炎上が起こる。無党派にあたるものは「ポピュラリズム」で組織化される。

 組織の力、数の力にどうしてもわれわれ日本人は弱い。とくに本書がズバリと指摘したように、「団塊」は組織に弱い。「団塊」の世代の影響が強い、その下の世代や団塊ジュニアの世代も、このDNAから免れていない。

 もちろん、インターネットは革命的に世の中を便利にした。これからもインターネットはなくならない。それどころか、生まれたときから身近にインターネットがあった「デジタルネイティブ」がいよいよ社会に出てくる。

 だけれど、そうならば「組織」の論理をもう一度検証したい。インターネットがもっとも価値を発揮できるのは「個人」のチカラだからだ。

 

 さて、そんな「組織」に対する怒りをぶつけてきた行為こそがロックの歴史であった。

 ということは、インターネットはロックなのである。ロックはカッコよくなければならない。インターネットはカッコよく使わなければならない。

 まだまだ「組織」がハバを聴かせているとはいえ、個人や、コミュニティという水平的なつながり(旧来の組織とは違う)、あるいはシェアという新しいシステム(実は戦前にはあった)、は着実に台頭してきている。彼らのほとんどがインターネットを武器にし、まさにアーティストがアルバムを発表するように、新しいワールドモデルを世の中に提言していくのだ。

 ロックだぜ!

 


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ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力

2011年03月31日 | テクノロジー

ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力

池田純一

 アメリカがDNA的に持つフロンティアを目指す果てしなき夢は、リアルバーチャル問わず、個人の行動と思考の範囲をどこまで自由に延ばせるか、というところにある。これがカウンターカルチャーにも宇宙開発競争にもつながり、その技術と精神の申し子がARPAネットを経て、今のインターネット網をつくったとも言える。

 このインターネットという場でできた秩序がWEBである。WEBは、情報を水平に遍在させるという機能を持つ。この機能を最大限に引き出し、すべての情報へのアクセスというビジョンでふりきってみせたのがgoogleであった。一方、WEBは情報を遍在させる、ということを「機能」ではなく、デジタルコードへの変換の「足場」ととらえ、「情報」にアクセスするのではなくて人の営みの「場」としてWEBにつくった国家がfacebookだった。

 しかし、ユーザー数5億人であっても、基本的にクローズドな社交システムであるfacebookは、すべての情報へのアクセスを試みるgoogleとは矛盾しあう関係である。この2つの巨頭は、WEBというものの行方をどうしてしまうのだろうか。つまり、facebookの台頭は、WEBの死期を早める――すべての情報にアクセスという観点からはむしろ後退させる動き、とも言えるわけである。もしくは、5億人を越え、いまなお拡大を続けるfacebookという「国家」がやがてWEBを相転移させ、新たな地平をそこに見せるかもしれない。アメリカがファンダメンタルで持つプログラムは、フロンティアを目指して永遠に止まらない。

 

ここで興味深いのはtwitterである。

本書によれば、twitterはソーシャルメディアで、facebookはバーチャル国家である。つまり、twitterはメディアだが、facebookはメディアではない。メディアとは「情報が載る器」とでも考えればいいのだが、「情報の載った器」が自走的に人々の間に行きわたっていくための“匿名性”と”ブロックする権利”をtwitterは備えている(facebookは実名制の相互承認制で、ようするに排他的会員クラブなのである)。

 

人間社会は何でできているかというと、情報の交換で成り立っている。言語は情報を記号化したものだし、情報に定量的単位で一元的な価値の尺度をつくり、さらにそれを持ち運び容易にしたのが貨幣という考え方もあるくらいである。

情報の異配合が社会の進化(イノベーション)をつくってきたし、逆にいえば、クローズドな世界の中での情報交換は成熟こそしても、どこかで自家中毒をおこし、成長から衰退へと推移していく。バーチャル国家としてのfacebookは、宿命的にクローズ性が持つ限界に行きあたる。その矮小なものが日本のmixiではすでに「mixi疲れ」として起こってもいる。

ここにトリックスターのように、つまり異世界からの情報の使者があるとすれば、それはtwitterであろう。情報の正確性が必ずしも担保されないtwitter(本書では「遊戯性」と呼んでいる)が、民俗学でいうところの「旅人」あるいは「悪所」としての機能を持つ。このあたりアメリカというよりはヨーロッパ的な見方かもしれないが、googleという荒野とfacebookという城塞都市の間を出入りするtwitterというのが、いまのWEBという地球なのかもしれない。(そしてappleは人々がまとう衣装といったところか)


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ウェブは菩薩である

2008年08月20日 | テクノロジー
ウェブは菩薩である---深見嘉明

 たとえばホームページのような文字列を主体とした(もちろん画像もあるわけだけど)情報を検索する場合、その文字列に含まれていそうな単語や文章を入力して検索する。この場合、入力される情報の形態も、検索の結果出力されるものも、両方とも「文字列」である。これ、当たり前のことを書いている。

 が、これが「動画」を探す、「何かおもしろそうなもの」を探す、「漠然と今自分が何を欲しがっているのか」を探すとなると、検索の際、何を入力すべきかが俄然困難となる。入力すべき手段は「文字列」しかないため、自分が想定する「動画」なり、「何かおもしろそうなもの」なり、「漠然と今自分が何を欲しがっているもの」なりを、文字列に「翻訳」ないしは「意訳」しなければならない。
 各人がてんでばらばら勝手に「翻訳」することを前提にしてしまっては、検索エンジンは機能しない。そこでメタデータなるものが出てくる。この「動画」は、「何かおもしろそうなもの」は、「漠然と今自分が何を欲しがっているもの」は、こういう「文字列」にしましょう、というユーザー間の共通認識である。

 この「共通認識」を、運営側のトップダウンでなくて、ユーザーからのボトムアップでつくりあげていくのが、昨今のメタデータ検索だ。youtubeやニコニコ動画に見られる「才能の無駄遣い」とか「弾いてみた」とか、はてなの「これはひどい」とか、日本語の妙を凝らしたものがいくつもある。これらは淘汰の末に残った「名翻訳」である。
 
 もっとハイパーなメタデータは、本人が入力していることさえ意識しない、つまりその人の検索履歴や閲覧履歴を勝手にデータベース化しておいて、こういう画像や商品を見る人は、こんな画像や商品も好む、と統計的に分析してそれを提示するというやつで、amazonのおすすめや、youtubeの関連動画などがこれ。もっとも、amazonに限っては、僕はこのおすすめされたもので触手が動いたことがほとんどないので、もしかしたらまだまだ精度に問題はあるのかもしれない。

 いずれにしても、データもメタデータも、メタメタデータも、ボトムアップで形成され、そこから新たな知識情報が編纂されて展開される。利己と利他の渾然一体で、「菩薩」とはよくも言ったりだ。


 さて、「菩薩」の悪用というか、かすめ取りで、何かと問題なのが、学校などで課される論文やレポートや感想文のコピペである。ついには提出された論文がコピペかどうか判定するソフトまで開発された。今の時期は、読書感想文のコピペが相次いでいると思われる。

 「無断引用」はウェブに限らず御法度ではあるのだが、中には勝手にコピーしていいよ、というサイトや、合法的に上手にコピペする方法などをうたったサイトもある。何しろ相手は利己利他を超越した「菩薩」なのであって、チンケなコピペ禁止などはいくらでも覆す懐の深さを持っている。コピペが発覚されようと、処分されるのはコピペした個人であって、菩薩であるウェブそのものは、個人の利己と利他を餌にして、菩薩の世界はますます豊穣に広がっていく。

 読書感想文というものが、教育指導としてどうなのかという疑問はずっとあるのだが、コピペ禁止をいくらうたっても、これは情報の非対称性がつきまとう問題である限り、永遠のいたちごっこだろう。技術革新にもからむ話なので、そんなに自力で書かせたいのなら、学校側も時代にならって課題の設定というのを考えてみてはどうか。例えば「『伊豆の踊り子』と『我が家の家族旅行』」というタイトルで感想文を書いてみろ、とか、「伊豆の踊り子」と「雪国」の2冊の本を読んで、あわせて1つの感想を書いてみろ、とか。相手が高校生くらいならば「伊豆の踊り子」の感想を書いているサイトを3つ探し出してきて、それぞれの相違点を分析し、その相違は何に起因しているものか論ぜよ」とか。

 評価採点する側がいちいち個人の事情や原文にあたらなくて大変というのならば、それは評価者の怠慢である。評価者の評価軸は、これまでの通例や指導要綱に基づいて行うのだとすれば、それが「慣習」からのコピペでなくてなんであろう。

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iPodをつくった男

2008年01月29日 | テクノロジー
iPodをつくった男 スティーブ・ジョブズの現場介入型ビジネス---大谷 和利---新書

 スティーブ・ジョブズを扱った本は硬軟大小既にいろいろある。そのうち出るだろうと思っていた新書も登場。

 彼の芝居っ気じみたところもあるパフォーマンスは、すべて計算されていると言ってよい。一挙手一投足までもが綿密に効果を狙っている。彼のプレゼンテーションは特に定評があるが、あのプレゼンテーションは念入りなリハーサルと、裏で走り回る膨大な人数のスタッフ陣、そしてジョブズ自身が相当にそこにかなりの時間を割いてトライ&エラーを確認しながら準備を行っている。著者がいうようにあれはジョブズの「リサイタル」なのである。

 進行台本(ナレーション原稿)や、背後のプレゼン映像の作成を彼自身が厳しく目を通し、手をいれ、ものによっては本人自らつくっているそうだ。これ、すごく大事なことだと思う。カネと時間を記者発表につぎ込むのはいまやアップルに限らないが、日本の記者発表やプレゼンテーションで、「喋り手」とナレーション原稿の「書き手」、プレゼン映像や資料の「作り手」がばらばらであることは非常に多い。エライ人ほど、書き手や作り手を他人(それどころか広告代理店みたいな別の会社)に任せる傾向がある。が、この手のプレゼンはまず間違いなく、喋り手と書き手と作り手の呼吸があってない(あるいは呼吸をあわせなくても良いようにすべて平面的でメリハリも凹凸も抑揚もなく、事務的に流れていく)。エライ人にそんな時間はないかもしれないが、たぶんジョブズも忙しい。
 ジョブズがプレゼンに一見破格ともいえるほど本人自ら手間隙をかけているのは、「経営戦略上、記者発表を成功させることは最重要」で、「記者発表を成功させるには、CEO本人の出来が不可欠」であると考えているからだ。準備やリハーサルに本人みずから時間を割くのは「経営」だからなのである(聞き伝えるところによると、あの小泉純一郎も、自分で原稿を書き、リハもやったそうな。彼の場合はあれが「政治」だったんだろうな)。
 数年前にソニーが、新型ウォークマンの新製品をCEO自らの手で発表したとき、その商品を逆さに持ってしまっていたのは有名な話だが、「記者発表」という場を、経営戦略上「攻めドコロ」ととらえるか「儀礼」ととらえるかの違いだろう。

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