アマテラスの正体
関裕二
新潮新書
著者の本は初めてだ。先行する著作がいくつかあるようで、本当はそちらを読んでからのほうがよさそうではある。
僕自身は日本書紀も古事記もよく知らないので、本書で書かれている著者の主張が妥当なのか奇想天外なのか判断するだけの知識も材料もない。だから本書の判断や結論からは距離を置くとして、とはいえ、古代史ミステリー話はキライではない。ヤマトタケルは鉄文化の伝播に託した神話だよとか、邪馬台国は本当は岩手県の八幡平にあったんだよとか。
とはいえ、日本人が学校の授業で正式に習う日本古代史は、文部科学省が認可した日本史の教科書のそれである。日本の古代史にあたっては、僕が中高生の頃(30年前)と現代とでは、考古学分野での調査や研究が進んでだいぶ記述が変わったそうだ。仁徳天皇陵は、大仙古墳(伝仁徳陵)になったそうだし、聖徳太子は実在さえ疑われだしてとりあえず厩戸皇子という記述になった。
何よりも、僕が学生の頃は、古代日本については壱与なる巫女が女王に付いたあとは、中国の歴史書から倭国の記述が消えてしまってその後しばらくどうなったかわからない、とされていた。100年くらいの空白期間があって中国や朝鮮の文献に倭国に関する記述が再び現れ、それと考古学的な研究をあわせてどうやら4世紀あたりには近畿地方に支配力の強い王権ができたらしい、とされていた。越前から某人物が奈良盆地に繰り出して継体天皇になり、九州で磐井という連中が反乱を起こしたくらいが軽く触れられて、教科書は仏教伝来の話になっていく。
最近では、東日本地方での発掘が進んだり、科学的アプローチが試みられるようになって、隔靴掻痒の感があった古墳時代の日本のありようがだいぶ見えてきたようである。古墳の分布を人口衛星から解析したり、出土品に残された染料や糸の成分から製造地を比定したりもするそうだ。
このような考古学的アプローチが進んでくると、もともと怪しいとされていた日本書紀や古事記の記述はますます眉唾になっていく。元来が編集方針として神話色がつよい古事記はともかく、日本国家の正史を編纂しているつもりの日本書紀も、天孫降臨などの神話時代のエピソードはともかくとして、一見もっともらしい歴史的記述だったり、「神話のフォーマットを借りた史実の何かだったのだろう」という好意的に解釈できたエピソードも、どうやら出鱈目だらけと疑心暗鬼にかられる。
もっとも、建国史が荒唐無稽であるのは日本に限らないだろう。正史の編纂なんてのは施政者の立場をより頑強にするために編纂されるものだ。本書は、日本書紀の編纂を事実上指導したとされる持統天皇と藤原不比等によって、天皇家と藤原家がいかに由緒正しくこのまほろばの国を治めるに至っているのかを説明したいがためにかなり牽強付会な編纂を行っているとされる。あったはずのことがなかったことにされたり、あるはずの無いことが書いてあったり、人間のはずが神様扱いになっていたり、Aの神様がBの神様にすりかえられたりしている。その詳細は本書に委ねるが、あまりにも饒舌で僕はとてもついていけない。
学生の頃からぼくが素朴な疑問を持っていたのは、なんで同じ時期に同じような内容の歴史書ーー古事記と日本書紀が編纂されたのだろうということだ。もともと焼失した歴史書があったらしく、それの復刻とさらなる論理強化を目指したのが日本書紀と古事記ということで、どちらも天武天皇の指示によって開始されたプロジェクトだそうだ。両者は文体や物量、刊行の目的が異なるとされていて、対比表みたいなものも検索すれば出てくるが、大同小異じゃね? という気がしてならない。むしろ素人のピュアな発想では、こういう似たようなプロジェクトが同時発進する場合は社内コンペみたいに競わせたとか、あるいはプロジェクトメンバー同士がライバル関係(あるいは敵対関係)だったんじゃないかなんて勘繰りたくなる。本書では、古事記は、日本書紀のウソを暴くための告発装置として書かれているなんて大胆な仮説を出している。人間の心理を考えるとこっちのほうがリアリティを感じてしまう。
また、本書によれば、意外にいい仕事をしているのは「続日本紀」だそうだ。僕なんか、日本書紀の続編くらいの認識しかなかったのだが、実は先輩の日本書紀が胡麻化そうとしたことをしれっと暴露したりして、日本書紀の記述の信ぴょう性に冷や水を浴びせているそうである。
これは「続日本紀」の編纂者による歴史家としての良心か、と思いたくなるが、もちろんそんなことはなくて、これさえも「続日本紀」編纂時代の施政者が己の立場を強くするために処置したものだろう。「続日本紀」が扱っている歴史範囲は飛鳥浄御原京から長岡京まで、つまり奈良王朝とそのエピ&プロローグであり、それをその次の時代、つまり平安京メンバーが書いている格好だ。
要するに、「続日本紀」は天智天皇系(桓武天皇)の血統が天武天皇系(元明・聖武・孝謙など)時代の記述をしていることになる。日本書紀は天武天皇系が都合のよいような書き方をしているのだから、そりゃ否定してくるわけである。
というわけで、日本書紀も古事記も続日本紀も、記述内容のもう一つ上のレイヤーで、皇族(および藤原氏の)の骨肉の争いを行間から見せているのだ。こういうの酒飲み話としてうってつけでとても面白い。