東京藝大美術学部 究極の思考
増村岳史
クロスメディア・パブリッシング
久々に面白い本を読んだ。東京藝大美術学部すなわち「美校」の関係者をインタビューして考察した内容の本だが、やっぱりアーティストの思考回路を追跡する話は面白い。自分がそんなものを持ち合わせてない凡人ゆえのコンプレックスなのか、あやかりたいのか物珍しさなのか。いずれも思い当たる。こういうのをアンビバレントな感情と言うのかもしれない。
だいたい「アーティスト」なんていうと、なんとなく自分勝手で世間様を舐めていて髪型や衣装も変にツッコミどころがあって、そのくせ傷つきやすいメンタルを持っている、という先入観イメージがある。我ら世俗に生きる者とは心の置き場所が違う仕様でできているように感じてしまう。
しかし、本書は藝大美校生の思考を追跡することで、アーティストの思考が本来はアーティストではない我々の生活やビジネスにも敷衍できることも狙っているようだ。実際のところ僕は本書を大型書店のビジネス本コーナーで見つけたのである。
本書に登場する美校関係者は油絵科、日本画科、彫刻科、建築科に及び、語られる内容は、そのユニークな入試のありようや彼らの受験時のハプニング、在学中の過ごし方から卒業後の意外な進路までと幅広い。そういった中から収束するように見えてきたのは、彼らの3つの特徴である。
①「ビジョン」というものを持ち合わせている
②「観察力」が徹底している
③「やり切る力」がある
アーティストは、なかんずく美校生は、これらがいわゆる「アーティストではない人」と比べてきわめて研ぎ澄まされている、ということのようだ。
①「ビジョン」というものを持ち合わせている
アーティストが作品を制作するにあたっては、何かを具体的に作り出す前に、そもそもビジョンやアイデアを持っていなければならない。つねに「ビジョン」は頭の上を浮遊している。この「ビジョン」なるものは北極星のごとくにぶれず、創り出す作品群の根底を流れる思想である。芸風とかテーマと言ってもよさそうだ。
一作品ごとに全然違うテーマやアイデアを繰り出すアーティストとか、いつも出まかせのアーティストというのはあまり存在しなくて(いるとすれば「でまかせ」がビジョンなのである)、奈良美智はいつもコワい目の子どもを描くし、草間彌生といえば水玉模様である。坂本龍一の音楽は東洋音階に特徴があったし、支持されているJ-POPアーティストはみんな一聴すればわかる芸風がある。これらはみんな彼らが「ビジョン」と言うものを持っていて、それにしたがって諸作品を創り出していると言えるだろう。生涯に作風が何度も変化したピカソやストラヴィンスキーも、その「ビジョン」が掲げられていた期間には集中してそのビジョンに沿った作品を発表し続けた。それに、一見作風が変遷したようでも根底には何かしら一貫した思想があったのかもしれない。
彼らが持ち合わせるこのビジョンが、世の中にどう受け止められるかで、そのアーティストの人気は大きく左右される。単に「わたしはこのようなビジョンを持ってます」ということをわからせるだけでは不十分だ。そこに見る人聴く人の心をざわざわと動かすような何かが求められる。鑑賞者をうならせたり、泣かせたり、畏れさせられるほどのビジョンがあれば、その人はアートをやっていく強い礎を持っていることになるだろう。
とはいっても「ビジョン」は正論や善なものとは限らない。背徳、邪悪、危険、いびつなもののほうが鑑賞者の心をざわつかせたりすることだってある。藝大では入試の際に実技が求められるが、単に上手に描くのではなく、審査員になんであれ「さあ、あなたはこれについてどう思う?」という問題を投げかけるような「問うた」作品が望まれるのだそうである。
ところが、アーティストでない我々(というか僕)は、「ビジョン」なるものを持って人生を送っているのかと問われると急に自信が無くなってくる。「貯金を1000万円貯める」「社長になる」「いつか世界一周してやる」「貧しい人を助ける」「自然を大事にする」などと、絵空事ふくめていくつか挙げてみても、特にぴんと来ない。自分の仕事に関して「社会に役立つ仕事をする」「地域の人が喜ぶ仕事をする」「未来に残る仕事をする」と言えばどれもそうありたいはずなんだけれど、じゃあそれが日々の自分の仕事の諸生産に反映しているかというとまったくそんな気がしない。我々の仕事はアーティストにおけるビジョンと作品の関係のようにはならない。
そりゃ、アートと普通の人の仕事とは違うよ、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、本書には彫刻科出身でソニー生命のライフプランナーに就職した人物が登場する。彼いわく「彫刻のノミが保険証券に変わっただけだよ」。つまり、彫刻のノミと保険証券をアウフヘーベンしたものがあって、そこが彼の「ビジョン」の位置なのである。これはなかなか凄いことを言うなと思った。この「●●が××に変わっただけで、○○であることには変わらない」というのは思考フォーマットとしてなかなか使えると思ったけど(○○に何を置くかがポイント)、ちょっと思考実験してみたらこれはなかなか簡単なことではなかった。
②「観察力」が徹底している
とはいえ「ビジョン」とは寝転がっていれば浮かび上がるものでもない。ビジョンが定まるのも、ビジョンに基づいて具体的な作品をつくるのも、まずはインプットが必要で、そのもとになる力が「観察力」である。アーティストは一般人に比べて観察力が鋭いことが本書ではしばしば指摘される。
じゃあアーティストの観察力は具体的に何が凄いのか。それは
・「非言野」で観察する
・「バイアス無し」で観察をする
というのが本書の解答である。どうも一般人であるところの我々は、物事や事象を観察して把握するとき、本人の意識無意識に関わらずに脳みその「言語野」というところで情報を整理するそうだ。要するにコトバとして事象を把握しているのである。ヨハネの福音書が「はじめにことばありき」という冒頭で始まるとか、寒い国では雪や氷を表す言葉が何十種類もあるとか、言語による認識こそが世の中の認識という見立てはわりとハバを効かせている。
しかし言うまでもなく森羅万象は人間様が言語化しようがしまいが絶対的にそこに存在する。それは風の囁きのように聴覚で把握できるものもあるし、黄昏時の空模様のように色覚で取り込めるものもある。いわば世の中は多次元で情報を発信しているわけで、そんな事象を言語という一次元情報に圧縮するということはそこにかなりの情報の簡略化や取りこぼしが発生するということである。
アーティストは、事象を観察するときのこの取りこぼしが一般人よりもずっと少ない。その秘訣は脳みその「非言語野」を活性させながら観察してるのよん、ということだそうだ。一般人の観察力が音声メモアプリならば、アーティストのそれはマルチトラックレコーダーということだろうか。非言語野、つまり視覚聴覚嗅覚触覚すべてをそのまんま開いて事象を把握する。
ただし、一般人ががんばって非言語野の脳みそを動かして観察しようとしても、その事象の把握はバイアス、つまり自分自身が持っている知識や経験というフィルター越しに事象を把握してしまう。雲をみればその色は白色と早合点し、赤ちゃんはよちよち歩くものという認識が先に出来上がっており、フォークの先は3本に分かれている、という先入観で事象を見てしまうのだ。バイアスというのは脳みそのショートカットであって、そうやって情報処理を合理化しながら裁くことで人間の脳は生存能力を磨いていったのだろう。
しかしその結果、実際の事象とはずいぶん違う形で物事をとらえてしまうことが多いのだそうである。実はそのフォークは4本に分かれているのだが、そのことに気づく人はほぼいない。素人になんの手ほどきもなくスケッチをさせると、実態と本人の認識のずれがよく出るのだそうである。
観察力を身に付けるには、自分自身が本来もつ知識・経験・先入観を排して、そして非言語野を解放して、つまり無我の境地で対象のあるがままを見る必要がある、ということだそうだ。観察力の鋭いアーティストはこの能力が備わっているらしい。
ここに学ぶものがあるとすれば、我々も物事を観察するときは、サバンナの動物のようなつもりで、ぼーっと瞳孔を開きながら、だけどちょっとした異変にも気付く覚醒気分で挑めということになる。
そうやって観察力が研ぎ澄まされると、そこにビジョンのタネが宿るようだ。
③「やり切る力」がある
「観察力」がなければ強い「ビジョン」も持つことはできない。では「ビジョン」を持たないで生きていくとどうなるか。
短視眼な生き方になってしまうのである。
人生の大目的がたいへん希薄になり、とにかく目の前の雑事・些事・仕事を無事にケガ無くこなすことが目的の日々になっていく。いろいろなことに一喜一憂しながら毎日を過ごす。処世術には長けていくが、次第に目の前のクリアすべき課題に対し、最小限の労力と時間で最大の効果がはかれるようなバックキャストを繰り返す日々になっていく。想定不能なものに対して忌避していく態度になっていくし、冒険もしなくなる。
ビジョンのない人生を無事に生きていくためには生存本能的にそのように脳みそが行動決定されていくんではないかという気がする。
一方で、ビジョンを追いかけて生きる人は、毎日発生する雑事・些事・仕事も、どうやって「ビジョン」につなげようかという意思が働く。ビジョンに絡まない平穏な些事より、ビジョンにかこつけた無骨な些事のほうが人生は面白いという発想になる。ここにあるもので何が生まれちゃうかか考えてみようというトリガーキャストの発想になる。「死ぬこと以外かすり傷」という名言があるが、こう言えてしまう人は人生にビジョンがあって、些事の失敗なんかかすり傷ということなんだろう。ビジョンがないと、些事のひとつひとつの失敗があたかも人生上の大ケガになるような大ダメージの錯覚があってついつい安全運転してしまう。
とはいえ「ビジョン」をただ掲げ続けるだけではただのホラ吹きである。その実現のために石にかじりつくおもいで実践をチャンレジし続ける。金が尽きようがひと様に指をさされようがチャレンジを続ける。一作つくって満足ということはまずない。一作で満足できるビジョンなんてのはたかが知れているビジョンだ。
したがってそのビジョンが求めるものを何作も何作もチャレンジすることになる。ここで心が折れるか折れないかがアーティスト人生の分かれ道だ。諸事情によって道半ばでビジョンを捨てる元アーティストはごまんといるだろう。
ということで、「やり切る」というのは一種の才能なんだなというのが本書を読むとよくわかる。アーティストというとひ弱なイメージがつきまとうこともあるが、いやいやどうしてアーティストは頑強でなければ務まらないのだ。このあたりはアスリートの精神に通じるものがある。
ただし、面白くもおかしくもない日常の雑事・些事・仕事を、have to(やらされ)なものとして片付けず、何がしかのビジョンの体現にするのだとmust(使命感)なものとしてこだわることができれば、「やり切る力」はずいぶんつくのではないかと思った。細部のこだわりを大事にするいわゆる「ていねいな暮らし」なんてのも同じ話なのかもしれない。このあたりはアーティストではない我々も一聴できる思想だろう。
もちろん、会社でこんなことやってると、お前のこだわりなんかどうでもいいからちゃっちゃとその仕事を仕上げろと叱られること必至である。くだんのソニー生命に就職した元彫刻科生は恩師から「やりたいことをできる環境に身を置くのを才能という」と教えられたそうだ。
上記の通り、藝大に集うようなアーティストは並大抵ではないわけだが、この「やり切る力」に関連するところで言うと、以前「アーティストのためのハンドブック 制作につきまとう不安との付き合い方 」という本を読んだ。「アーティスト・ハンドブック」によれば、このアーティスト足れというプレッシャーそのものにどう負けないか、ということがとにかく大事なのだということである。アーティストであり続けるには自分を信じて作品づくりを続けるしかない。本当にそれは優れたビジョンなのかとか、自分には観察力があるのか、というよりも、自分はいいビジョンを持っている、自分の観察力は大丈夫である、そして自分はやり切れる、という自分への信頼だけがアーティストのエンジンなのである。まして技術技法のうまい下手なんてのはさらにその次なのである。
要するにアーティストを名乗れるかどうかというのは、売れているとか人気があるとかではなく、自分の主張する作品を生み出し続けることができるか、と言う気力を持ち続けらえるかということに尽きるようだ。彼らの「究極の思考」をぜひ我が日常に取れられたらと思ったものだがこれはこれで日々是修行なのだな。