読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

銀河の片隅で科学夜話  物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異

2020年05月12日 | サイエンス
銀河の片隅で科学夜話  物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異

全卓樹
朝日出版社
 
 
 美しい花には毒がある。本書にあらわれる科学話は、どれも一見美しいようでどこかひりひりする。人間の無邪気な科学的好奇心と、それが蓋然的に意味する社会的影響・自然的影響の破滅的なインパクトの温度差みたいなものだろうか。「世にも奇妙な物語」に似たような感覚に近い。最終章の、渡り方を習う機会がなかった子どもの渡り鳥をナビゲートするグライダーの話でさえ、読んだ直後はなんだか心が洗われた思いがしたが、よくよく考えてみると、なぜ渡り方を知らない渡り鳥が出現するのかといった因果の点で人間の罪と業がどこかにあるのを否定できないし、そうやって渡っていった鳥が、今度は自分たちの子孫に、ちゃんと旅の仕方を教えることができたのかまで見届けないとなんだか安心できない気がする。

 興味深かったのは、多数決で物事が決まるまでの妙を数理シミュレーションで解き明かしたガラム理論の話だ。「最初17%の固定票があって残りの人がみんな浮動票ならば、いずれすべてがその票に集まる」というものである。これは面白いと同時に、どこか薄気味悪いところがある。
 つまり、世の中が浮ついていたり、へんに落ち着かないときに少数の固定観念を持つ集団がいると、次第にその気運に周囲が巻き込まれ、やがて世間の大多数がその観念に染まるということをシミュレーションで明かした理論である。著者の所属先である高知工科大学によりつっこんだ説明のサイトがあった
 リンク先のサイトはなにやら専門的だが、本書で説明されている限りのシミュレーションのロジックは決して難しくない。なるほど確かにそうだと思う。
 しかし、これが意味するところは非常に示唆的だ。というのは現実の社会でそういうのにいくつも心当たりがあるからだ。太平洋戦争に突入するときの世論がそうだし、少数政党のひとつだったナチスドイツが最後に独裁政権まで至ってしまった経緯にもこういうところがある。「それでも日本人は戦争を選んだ」の加藤陽子は「国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れる」と指摘した。世論研究者の佐藤卓己は、1956年の東京オリンピックへの支持率が当初はほんの少ししかなかったのに、何度も新聞社が世論調査を繰り返してその結果を記事にしていくで次第に支持層が拡大していったことを指摘している。
 そして、今日の政権の暴走を許しているところの根っこにもこれはあったのではないかと思うし、コロナ禍で見られたデマやパニックの力学にも関係がありそうだ。本当に怖いのはガチガチのの固定層より、浮動層だ。おそるべきことに手続き的には民主主義以外の何物でもないのだ。


 科学技術の進展が倫理面と接触したときの危うさは、ユヴァル・ハラリなんかもしばしば指摘している。近年やたらに思考実験として出される「トロッコ問題」なんかは、自動車の自動運転など、社会装置をAIなどのテクノロジーに委ねる際にしばしば引き合いに出される。
 本書では、MITメディア研究所が行った、倫理感覚の国ごとの差異をクラスター分析で見せた研究の紹介が面白い。
 これは、自動車が歩行者をはねる事故を想定し、運転者や歩行者の属性や状況で誰を助けるべきかを判定するというのを各国の人にアンケートで答えてもらい、国ごとの傾向の違いをみるというものだ。分析した結果、世界の国は倫理パターンとして「西洋型」「東洋型」「南洋型」の3クラスターにわかれるという。この言い方は便宜的で、フランスが「南洋型」になったり、ブラジルが「西洋型」になったりもする。日本はもちろん「東洋型」に属するが、もちろん東洋型の中でもいくつか枝分かれがあって、日本はマカオやカンボジアと倫理パターンが近いのだそうだ。これもこちらのサイトでより詳細に紹介されている。ちなみに「日本は助かる命の数を重視しない(つまり、数よりも誰を助けるかという「質」を重視する)ほか、歩行者を助ける傾向が世界で最も強い。逆に、生存者の数を重視するのはフランスで、歩行者よりクルマに乗っている人を守ろうとするのは中国とエストニア」なのだそうである。
 
 アンケートに答えてもらって回答者をクラスター分析で分類する、という手法は社会調査統計手法としてはスタンダードである。この手があったかと思う次第だが、同一のアンケートを全世界でやった力技がこれの勝因だろう。
 そうすると気になることがある。国ごとの分類ならばこのような社会学の興味範囲で済みそうだが、国ごとでできるのならば個人単位でも分類できるはずで、そうなってくると不気味な実用が想像できる。本書でも警告気味な予言がしてあるが、個人個人の倫理パターンを全部解析すると、その人は結婚相手としてふさわしいか、就職採用して信用たる人間か、お金を貸して大丈夫な人間かなどがすべてシミュレーションできてしまうのである。中国なんかは既に人間信用スコアというのがあって、その人の経済力や賞罰歴をもとにデータベース化されていて、融資や保険の判断に使われている。倫理パターンから分析されるとなるとこれは全人格を把握されることにほぼ等しい。
 で、さきほど「同一のアンケートを全世界でやる力技がこれの勝因」と書いてみたが、よくよく考えると、Googleあたりがアルゴリズムをつかって瞬時に分析できそうではないか。技術的にはGoogleはひとりひとりの倫理パターンを自動的におさえられるはずである。20世紀の優生思想は否定されたものの、とんでもないパンドラの箱が見えないところで着々とデータを溜めているとなると急激に寒気がしてくる。


 アカデミズム上の思考実験や数値シミュレーションは、夢はあるけど悪夢とも裏表だ。銀河の片隅で科学夜話。眠りに誘うよりは、哲学的な思索に引きずり込まれる小話群である。
 

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あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた

2019年06月29日 | サイエンス

あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた

 

著:アランナ・コリン 訳:矢野真千子

河出書房新社

 

 

これはこれは衝撃的な本だった。サイエンス本でこんなに興奮したのは久しぶりである。自分の身体がこれまでとまったく違って見える。

つまり、我々の体には4000種、100兆個の微生物が棲んでいる。これはヒト由来ではない。これらの微生物はほとんど単細胞生物=細菌である。したがってタイトルの通り、細胞の数でカウントすると、「体の9割は細菌」なのである。人間の体は微生物の生態系なのである。

衝撃的なのはここからで、ということは微生物の生態のありようが、宿主である人間本人の健康・行動・精神状態をあるていど決めてしまうということである。

具体的にいうと、肥満もアレルギーも自閉症もうつ病も微生物のなせる技というのが本書の主張である。

本書はオカルト書でもトンデモ書でもなくて、けっこう調べもしっかりしたサイエンス書だから、実験過程の説明や、さまざまな留保条件までいろいろ書いてある。それだけに衝撃が半端ない。

 

人間は数万年に渡ってこれら微生物と共生してきた。盲腸、小腸、大腸という腸環境は、微生物群を住まわす世界なのだ。共生ということは人体が微生物に与えるだけでなく、微生物からの恩恵を人体も受けていたのである。その影響度はバカにならない。数万年来の旧友ないし戦友といってよい。脳の活性化も、脂肪のエネルギー代謝もみんな微生物がからんでいる。

つまり、「人体」というのは、「人体由来の細胞」+「100兆個の微生物」で、ひとつのシステムとして成り立っていると思ってよいのである。遺伝子だけにこだわっていてはいけないのだ。

肥満やアレルギーや自己免疫疾患や自閉症は、「100兆個の微生物」のほうも大きく原因に関与しているのである。本書はそれを詳しく説明している。そして驚くことに肥満や自己免疫疾患や自閉症の人に、微生物を移植すると、状況が改善することがあるというのだ。それどころか、その究極の方法として、健康な人の糞便を、治療者の腸内に移植することで劇的な改善がみられるという。

 

要は体内の微生物生態系、平たく言うと腸内細菌のバランスが問題なのである。腸内の細菌が多様性に満ちていることが肝要らしい。抗生物質の服用いかんによってはその多様性を一掃させてしまったりする。経膣出産ではなく帝王切開で生まれた赤ん坊は、膣を経由しなかったことで多様な細菌を取り込む機会を逃し、それが後々影響を及ぼす(最初が肝心なのだ!)。

幸か不幸か、細菌は、胃や心臓と異なって簡単に出し入れできる。それどころか勝手に遷移する。

同じ家の中で同じ食べ物を食べていれば、家族の微生物生態系は似てくる。驚くべきことに帝王切開で取り出された赤ん坊に、すぐさま母体の膣内に生息した細菌を赤ん坊の顔になすりつけるだけで、子どもの免疫力が違うのだそうである。微生物は皮膚からも経口からも入っていく。

アトピーもちの人が、とある国のとある森の中をはだしであると治ったという記事があって、なんだそのオカルトはと思ったのだが、あながち的外れではなかったということになる。それどころか「やつの爪の垢でも煎じて飲め!」という慣用句や、「触るな! バカがうつる!」なんていじめネタが、荒唐無稽とも言えなくもなる。なんとしたことか。

 

本書では、健全な微生物生態系を体内で維持させるために、

①抗生物質をやたらと摂取しない

②赤ん坊は自然分娩で生んで母乳で育てる

③食物繊維を摂取する

ことを奨励している。つまり「昨日までの世界」ということなのだ。まさかあの本とここでつながるとは思わなかった。テクノロジーはますます進歩してホモデウスの未来になりつつあるが、10000年の人類史で培ったものもむげにはできないのだな。

 


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ダーウィンの覗き穴〔マンガ版〕 虫たちの性生活がすごいんです

2019年04月17日 | サイエンス

ダーウィンの覗き穴〔マンガ版〕 虫たちの性生活がすごいんです

日高トモキチ (原作:メノ・スヒルトハウゼン)
早川書房

 

 ぶらりと書店を覗いたら、おおーめずらしい!日高トモキチの新刊が出てる、と即買い。寡作だがこの人にハズレはないのである。

 

 中身は昆虫や動植物のひたすらオスメスのセックスの話だ。そしてやたらにオスの生殖器すなわちちんちんが出てくる。

 そんなテーマだが、知的興奮というか、豊穣かつ深遠な性の世界にくらくらする。曰く「コスパの安い精子とコスパの高い卵子」。これが複雑な性淘汰の進化と現象をつくりあげる。雄も雄なら雌も雌の子孫存続をかけた壮絶な戦いがそこにはあるのだ。おそまつながらここに書かれてることの10分の1も知らなかった。

 もともと原作はメノ・スヒルトハウゼンという生物学者の「ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか」という本があって、それを日高トモキチが要所をつまみながらコミカライズしたものだが、すみずみにまで図解や擬人化、関係ない雑ネタにお笑いネタがはりめぐらされて徹底していて情報量ハンパない。捨てゴマのように八代亜紀やブルース・リーやスカーレット・オハラが出てくるが、なんとなくメタファ的に言いたいことはわかる。原作のほうを読んでいないのだけれど、たぶんこのマンガ版のほうが圧倒的に頭にはいりやすく、しかも原作にくらべてそんなに情報は欠落してないんじゃないかと想像する。これこそ日高トモキチの真骨頂だ。

 

 理系ネタのコミカライズといえば「まんがサイエンス」のあさりよしとおが有名だ。あさりよしとおはもともとは(今でも?)サブカル系のマンガ家だが、この人のサイエンスまんがは定評がある。すでにベテランである。

 また、僕が小学生のころは学習研究社すなわち「学研」が全盛期で、そこに内山安二というマンガ家がいた。この世界ではレジェンドとでもいう人で学研まんが「できる・できないのひみつ」とか「世界びっくり旅行」とかに魅惑された小学生は多かったんじゃないかと思う。

 最近の学習まんが事情がどうなっているのかわからないが、うちのむすめが小学生のときに何か買ってやろうかと書店なんかでパラパラ見てみたりするのだが、情報過多なわりにストーリー進行が雑で頭に入りにくかったり、絵はこまやかだけどかえって重要情報と付加情報のめりはりがわかりにくくなったり、ドラえもんやポケモンなどとキャラクタータイアップして一瞬とっつきやすそうだけれど肝心の学習部分は全部文章で頭に入りづらかったりする。なんだか学習まんがとしてのメソッドが衰えているんじゃないかなどと思ったりする。

 思い出補正と言ってしまえばそれまでだがそうとばかりは言い切れない。むかしの学習まんがが古本に出ていたのでそれを買って、同じテーマの最新の学習まんがも買って両方を娘に読ませたら、昔のやつのほうがわかりやすいし覚えやすいといって、そのあとは昔のほうばかり読み返していた。

 

 日高トモキチ氏はプロフィールによると学習まんが編集出身者だそうで、なるほどどうりでツボをおさえているわけだ。なんとなく「オトナむけ」の仕事が多そうだけれど、子どもむけ学習まんがもやってみたらどうか。


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ソロモンの指輪

2019年01月31日 | サイエンス

ソロモンの指輪

コンラート・ローレンツ 訳:日高敏隆
早川書房


 なんか評判がよいロングセラーということで読んでみた。

 

 動物学者による動物観察エッセイだが、犬猫におよばず、鳥も魚もげっ歯類も、実はけっこう人間くさいんだなと思った。いやこの言い方は正しくなくて、われわれ人間も「動物くさい」ということなのかもしれない(この「人間と動物」という二項対立的な言い方は人間は動物とは違うカテゴリーという西洋的見立てがあってちょっと抵抗があるのだが)。

 つまり、人間っぽいなと思うような愛憎の気持ちとその表わし方、罪と罰の苛まれ方や赦し方、ストレスといやしの表れ、いたずらやごまかしなんてのは動物にも十分にみられるものであり、ということは、これは人間を含む動物一般が本来もつ性質ということなのだろう。

 

 狭いゲージにとじこめられている豚や牛が感じているストレスは、実は同様のことをされる人間とさして変わらないという研究報告があった。

 家で飼っていた鳥が、開いた窓から飛び立って帰ってこないのは、「逃げた」のではなく、「帰り道がわからなくなった」だけである、とも聞いたことがあって、同じことは本書でも出てくる。

 外をうろつきまわる猫と、家の中で単体で飼われている猫では、後者のほうがニャーニャーじゃなくてなんか複雑な鳴き声になるという。うちにも猫がいるが、”うぉるゎるぐうわぁ”みたいな発声をする。耳に入ってくるコミュニケーションが人間のコトバしかなくなるので、自分も同じようなつもりで発声している、ということらしい。

 

 だから、せちがらい人間と人間のコミュニケーションも、ペットにしむけるような愛情と眼差しですると案外、相手はいい気分になるかもしれない。そしてこちらも少々のことは許せる気になるかもしれない。なにかの記事で読んだが、仕事とか家事とかで同時多発的にしょうもない些事や呼び出しが発生しててんてこまいになったときは、あちこちで子猫がみゃーみゃーとヘルプを呼んでいると思えばイライラもなくなるとのことである。なるほどと思ったものだ。




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地下水と地形の科学 水文学入門

2018年01月08日 | サイエンス

地下水と地形の科学 水文学入門

榧根勇
講談社


 林修が、講談社学術文庫が本棚に何冊あるかでその人の知性がわかる、となにかでコメントしてむむっと思った。

 改めて自宅の本棚の講談社学術文庫ーー藍色の背表紙を探してみる。佐藤信夫の「レトリック感覚」佐々木正人の「アフォーダンス入門」、網野善彦の「『日本』とは何か」、江藤淳の「漱石とアーサー王伝説」、貝塚爽平「東京の自然史」などなど、数えてみて10冊ほどはあった。このブログでも何冊かとりあげている。

 まずは面目たったかというと、実はそうでもなくて、この10冊も全部ちゃんも読んだこというと、そんなことはない。講談社学術文庫は、あつかうテーマはなかなか興味深いが、やはり内容が難しく、文章も易しくないのでハードルが高い。だから手に取るのは年に1回あるかないかくらいだし、斜め読みだったり、最後まで読み切れなかったものもある。

 そんな挫折本の中のひとつが本書だった。タイトルが気になって買ってみたものの、なかなか内容が手ごわくてうまく読み進められず、放置していた。学術文庫としての刊行は2013年だが、底本は1992年のものらしい。

 

 閑話休題。先日、静岡県三島市の柿田川湧水群に行ってきた。一度行ってみたかったところである。

 柿田川は湧水を源泉として太平洋にそそぐ、日本で一番短い一級河川である。源泉のある一帯を柿田川湧水群といって公園が整備されている。源泉は展望台で上から覗き見ることができて、川底から水が染み出ているのが肉眼でもわかる。

 ここは、インスタ映えすることでも有名で、旅専門のキュレーションサイトでもよく紹介されている。青く澄んだ湧水や、青々としげる森林の中をながれる清流の風景はなかなかフォトジェニックで旅心を刺激される。写真から判断すると夏に訪れると緑も豊かで水面もそれらを反映してどこまでも美しい景色となるようだが、この正月にたまたまこちら方面に用事ができたので足を延ばしていってみた次第である。冬場でもそれなりにきれいであった。

 しかし、なぜこんな海からたいして離れていないところに、こんこんと清い水が湧き出る一帯があるのか。

 現地の案内看板によると、この湧水は富士山の雪解け水なのであった。

 富士山は、今われわれがみている富士山の内側に「古富士山」というのが隠れているらしい。古富士山の上に、新しい富士山が、帽子を2つ重ねるように被っているようなかっこうなのだそうだ。

 で、古富士山は水を浸透しにくい粘土系の土質でできており、新富士山は水を通しやすい土質なのだそうである。

 したがって、富士山の雪解け水は地中に浸透し、古富士山のある層のところで地下流水となってすそ野に向かって流れだす。裾野のいちばん下の部分で新富士山の土壌が尽きて古富士山の土壌が地表に顔を出す。ここで地下流水が湧き水となる、というからくりらしい。

 なるほど柿田川の湧水は富士山という壮大な浄水フィルターを通した水ということだ。きれいなわけである。

 

 というわけで、あらためて地下水に興味を持って、そういや挫折した本があったなというわけで眠っていた本書を取り出した次第である。

 とはいえ、書かれている内容はやはりそうとう専門的で、やっぱり隅々まで頭に入るということはなく、もっぱらの斜め読みですませてしまったのだが、それでも東京都の西北部に広がる武蔵野台地の下にねむる地下水網の話はやはり圧巻だった。練馬区にある石神井公園、杉並区の善福寺公園、武蔵野市の井の頭公園、これらはそれぞれ池をたたえた公園で、これらの池はみんな湧水である。ここから石神井川や神田川となって東京湾にむかって流れだす。なんと、これらの池の水面の海抜は標高50メートルくらいとみんなほぼ同じらしい。

 ということは、標高50メートル付近で武蔵野台地は上下で土壌が異なるということだ。先ほどの柿田川湧水と同じく、この50メートルの地点で、関東ローム層の境目があるということになる。本書によれば武蔵野台地は多摩地方から扇状地として南東の方角にむけて傾斜している。挿絵をみるとたしかに扇状地の地形をしている。この扇状地をつくったのは多摩川であるが、いまの多摩川とはだいぶ流れている箇所が違いそうだ。そして標高50メートルくらいのところに新しい層と古い層の境目があり、そこから湧き出た水が石神井公園や善福寺公園や井の頭公園になっているのである。

 これらの公園より西側は、大地の下の地層の境目に水が流れているということになる。ただし、流れているといっても、人の目でみればほぼ滞留しているようなスピードだそうだ。1年で数メートルから数百メートルといった程度らしい。大地にしみ込んだ水が地下を通ってどこかで地表に湧水し、最後は海に流れ出るまで20年とか30年とかかかるそうだが、それでも世界レベルでみれば日本の場合は循環がはやいほうとのことである。日本は水が循環する国なのだ。

 

 日本は世界でもまれにみる水に恵まれた国であることはよく知られている。本書によれば、日本はあちこち穴を掘れば、いずれ水が出てくるそうだが、世界ではそうもいかないらしい。だから水脈をみつける呪術みたいなものが各国であったりする。

 水に恵まれるためには気象条件と土壌条件の両方が必要なようで、日本は、地震や台風など、世界の中でも天災をうけやすい国だが、地学的な見解からいえば、それと引き換えに水に恵まれる条件がそろったとも言える。

 昭和の高度経済成長時代は、工業用にこれらの地下水のくみ上げが盛んになって、それが地盤沈下を引き起こした。今は揚水は制限がかかっている。

 一方で最近の東京は(東京に限らないが)、温泉施設ラッシュである。地表付近の地下水は揚水制限がかかっているので、ボーリング技術を駆使してかなり地下深いところから温泉をくみ上げている。地下水のなかである一定の温度以上のものを「温泉」と呼ぶので、つまり地下水をくみ上げている。

 これだってくみ上げすぎてしまうと、なんらかの不都合が発生してしまうのかもしれないので、そこらあたりは自重が必要である。

 これらの深層からくみあげた地下水はそうとう時間がたった水だ。長い歴史でつくりあげられた地形と土壌とそこを通っていく水である。次に行ったときは、太古の水に浸っているという気分で浴してみよう。


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西暦535年の大噴火 人類滅亡の危機をどう切り抜けたか

2018年01月04日 | サイエンス

西暦535年の大噴火 人類滅亡の危機をどう切り抜けたか

著:デイヴィッド・キーズ 訳:畔上司
文芸春秋



 原初のタイトルは「CATASTROPHE」-カタストロフィ。つまり「大災害」という意味だ。

 本書は西暦535年前後で、世界各地で同時多発的に異変が起こっているという状況証拠をつかみ、「なにかあったに違いない」ということからその正体を突き止めていくのだが、邦題タイトルでおもっきりネタバレしている。出版社は反省しなさい。

 

 つまり、ヨーロッパのペスト大流行も、ユーラシアの民族大移動も、東ローマ帝国の崩壊も、イスラム教の躍進も、オスマン帝国の勃興も、中国が「隋」という巨大統一帝国に至ったのも、メキシコや南アメリカの古代文明が滅んだのも、日本に仏教が伝来したのも、これすべて西暦535年にインドネシアで起こったクラカトア火山の噴火が原因ないし遠因ということである。

 本書は、535年を境に世界各国でどのような異変があったかというのを、歴史書や伝説採集、植物の年輪や氷層コアの研究などを総動員して、つまびらかにしていく。

 たとえば、気象異変で東アフリカでネズミの生態系が狂い、ある種のネズミが海岸沿いの人間の町に出没する。そのネズミこそがペスト菌を持つのだが(正確にいうとそのネズミにたかる蚤が媒介)そのアフリカの町は、中東を中継点としてヨーロッパと貿易関係にあり、よってネズミが荷物に紛れる、あるいは感染した人間が移動するしてヨーロッパに到達する。ペストの猛威はすさまじく、一説によるとヨーロッパの人口は3分の1にまで減った。これでは経済活動も行政基盤も崩壊する。

 モンゴルのほうでは、気象異変で植物相が変わり、騎馬民族の足腰である馬の飼育がうまくいかなくなったことから、弱肉強食のバランスが変わり、これまでそこで支配していた民族が振興民族に下克上されて西へ西へと移動していった。そうなってくるともともと西にいた民族はさらに西へと移動し、やがて東ローマ帝国と衝突する。

 他の地域も多かれ少なかれ、こんな感じの連鎖反応をおこしており、政治史あるいは社会史的には、どのエリアもここでいったんの大混乱、断絶を生む。だいたいどの地域も、6世紀中盤あたりを境に、その前後で社会体制とか社会文化の様相がかわるのである。

  地震も台風もヤバいが、本当に怖いのは火山噴火である。日本にも南九州に加久藤火山という巨大な火山の痕跡があり、こいつが噴火すると西日本一帯が壊滅するといわれているが、むしろ問題はその後からといってもよい。「火山噴火」は「大量の火山灰を成層圏にまき散らし」、「日光の遮断」となって「地球の気温が下がり」、偏西風などの「地球規模の風の動きを変えてしまい」、各地で「気象異常」を引き起こし、そして「気象異常」は万物を大混乱させる、となってグローバルな破滅を引き起こすのである。

  本書が参照しているのは、科学測定だけではなく、様々な歴史書や古文書だ。そこには、カタストロフィーと、その後の社会不安のなか、追い詰められた人々がどのような手段に出るかという人の営みを克明に再現している。侵略、虐殺、人身御供といった数々の、その容赦なき地獄図を見るに、真に恐ろしいのはこちらかもしれない。

  

 なお、西暦535年噴火説は「仮説」である。本書を読むとかなり強固な状況証拠に支えられていて、もはや間違いないんじゃないかと思うくらいだが、この仮説、どのくらい支持されているのだろう。地球がすべて氷に閉ざされた「スノーボール仮説」ほど有名じゃない気がする。よくよく調べてみると、フン族の大移動は西暦400年代から始まっているとか、西暦1800年代のほうがさらに世界の気温は下がっていたという話もあるので、火山の噴火は本当だとしてもこれだけで全世界をひっくり返すだけの力があったとするのはやや極論なのかもしれない。いくつかの条件が揃っていたところに火山噴火が起こったとみるべきか。なんにせよ、まずはドラえもんの大長編映画あたりでいちど扱ってほしいものだ。


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バッタを倒しにアフリカへ

2017年07月29日 | サイエンス

バッタを倒しにアフリカへ

前野 ウルド 浩太郎
光文社


 の次はバッタかよ! と言いたくなるほど話題を呼んでいるらしい。
 
 実際、この本は面白い。のほうも思ったけれど、生物学者というのはタフなんだなあと思う。

 舞台はアフリカのモーリタニアだ。モーリタニアといっても西アフリカのほうだっけ、くらいがせいぜいだ。そういえば、モーリタニア産のタコって、よくスーパーに並んでいるなあ、なんて思ったり。

 本書の面白いところは、バッタのフィールドワークのエピソードもさることながら、モーリタニアの地における自然風土と人々の暮らしもまた描かれていることだ。なぜ、日本のスーパーにモーリタニア産のタコが並ぶのかについても、本書で初めてその背景を知った。そうか、そうだったのか。


 バッタ(イナゴのほうがわれわれ日本人としては通りがよいが)の大群が押し寄せ、農業に壊滅的な被害を与える、という話は、知らないわけではない。パールバックの小説「大地」には中国大陸でのイナゴの襲来が描かれているし、わが日本でも、江戸時代に繰り返された飢饉の中には、天候不順だけでなく、このイナゴの大量発生もあった。

 アフリカでは、イナゴの襲来は「神の罰」と称される現象だ。ドキュメンタリー映画か何かで映像をみた覚えもある。

 しかし、まさか、そのど真ん中で奮闘している日本人がいるとは思わなかった。それも、青年海外協力隊とかユニセフとかではなく、生物学者が研究として乗り込んでいるのである。たまげた。


 いまだ著者の研究は途上で、バッタの被害を効果的に食い止めるまでの成果は上がっていないようだが、こういうところに日本人が活躍しているのだというのはなんだかとても誇らしい気がする。しかも、純粋にバッタが好きで好きで、そこにはもちろんポスドクの無収入としての苦悩とか、うまいこといかない研究とか、モーリタニアの厳しい日々があるのだけれど、本書全体に立ち込めるモチベーションの高さとあふれる希望は、まばゆいばかりだ。

 また感動的なのが、著者が赴いた研究所の所長のキャラクターだ。この所長の言動だけでも、日々の自分の生活やふるまいをひどく反省させられてしまう。




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まんがでわかる サピエンス全史の読み方

2017年06月18日 | サイエンス

まんがでわかる サピエンス全史の読み方

まんが:葉月 監修:山形浩生
宝島社

 

 書店で見かけてびびった。こんなものまでマンガ化すんの!?

 しかも原作を単にまんがへとリダクションしたのではなく、会社が嫌になってニートになった女性が、ボルタリングと出会って人生の希望を見出すというストーリーに、「サピエンス全史」のエッセンスが並走するというしかけである。野心作である。ぶっとんでるなあ。

 

 ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」上下巻は僕も読んだ

 僕がもっとも関心をひかれたのは、現代人の幸福量と、原初の人間の幸福量はそうかわらなかったのではないかということと、そのことといわゆる文明の発達はとくに関係がないという指摘である。そのことはこのブログでも書いた。

 そのときのブログから省いてしまったがもうひとつ心に歩留まった話があって、それは「西洋」は帝国主義へと拡大展開していったのに、中国はなぜそうならなかったかという話だ。著者は、西洋は「自分たちにはまだ知らないことがあるはずだ」という世界観だったことに対し、中国は「自分たちは世界の全てを知っている」と信じていたことと指摘する。
 なるほど。前者は世界を無限に拡大するエネルギーになるし、後者は現在のリソース、過去の知識資産で生きようというメカニズムが働く。この違いはバカにならないだろう。もうオレはすべてわかりきっているという態度の人は身近にもいる。

 

 「サピエンス全史」に関してはまあそんなところを読後感としてもっていたわけだが、「まんがでわかる」で中核になっているのは、人間は「虚構」を描けるという、「認知革命」のところだ。この、「虚構」をつくり、仲間のあいだで共有できる能力。これが人間をして幸福感をつくり、一方で不幸感にさいなまされる元ともなった。

 そんなことが書いてあったこと自体は覚えてはいたのだが、とくにそこにつよい感銘がなかったので、本書を見て、へーそこなんだ、と思った。

 しかし、そういえばAIと人間の相克をテーマにしたSF小説「アイの物語」でも、「物語(=虚構)を信じる能力」みたいな点が強調されていたし、羽生善治も「AIの核心」で人間の強みとして似たようなことを挙げている。僕はなんとなくスルーしてしまったが、案外ここになにか普遍的な真理があるのかもしれない。

 

 「国家」とか「家族」とか「道徳規範」とか「貨幣価値」とか「グローバルスタンダード」とか。そんなのみんな人がつくりだした「幻想」なんだよね、とドヤ顔でいってみせたのは「唯幻論」の岸田秀である。ここでいう「幻想」は、サピエンス全史でいうところの「虚構」とほぼ同義である。ニューアカの旗手として唯幻論は当時センセーションだったし、氏の代表作「ものぐさ精神分析」を読んだ当時大学生だった自分は、そのショッキングな指摘にずいぶんへこんだものである。

   そういう原体験があったからか、ヒトは「虚構」で秩序をつくっているという指摘に、どこかで「今さら?」とでも思ってアンテナが鈍ったかもしれない。
 しかし考えてみれば唯幻論が発表されたのは80年代だ。2010年代の今日、このパラダイムになにか多くの人々が感じることがあるのならば、それはやはり「ポスト西洋社会」そして「インターネットの次の世界」にむけて、さまざまな秩序がこわれかけ、なにを基準として信じていけばいいのかサピエンスはいよいよリアリティをもってわからなくなっているということかもしれない。

 

 ところでこの「まんがでわかるサピエンス全史の読み方」。大事なことをひとつ指摘している。うだうだ考えて悩んでしまうモードになったときは、体を動かすとよいということ(それで主人公の女性はボルタリングを始めるのだが)。
 なるほど。我々サピエンスの歴史のなかで、体を動かさなくてもよくなったのはほんの最近である。しかし、人間はもともと生存のためにいろいろ体を動かしていた歴史のほうがずっと長い。われわれサピエンスの身体は、体を動かすことでいろいろなバランスが保たれているプログラムのはずなのである。

 

 


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鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

2017年04月26日 | サイエンス

鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

川上和人
新潮社

 神保町にある三省堂の1階には、ジャンル別のベストセラー本が棚に飾られているのだが、なんと理工書部門で、このミもフタもないタイトルの本書が第1位であった。

 著者は鳥類学者である。著者によると、鳥類学者はこの日本に1200人しかいないそうだ。10万人に1人。つまり、10万人のお友達をつくらないと鳥類学者というものに巡り合えないことになる。著者曰く「タレント年鑑」に登録されているタレントないしモデルが11000人で、つまりはタレントよりも希少とのこと。

 そんなレアな鳥類学者による鳥エッセイというか、鳥学入門なのだが、その中身たるや著者のアニメ好き、マンガ好き、オカルト好き、神話好き、日本史好きを総動員させたサービス感満載の抱腹絶倒である。かなりあちこちにネタがしこまれており、その細部までの芸の細かさからみるに、僕が気が付かなかったものもたくさんあったに違いない。中学や高校の授業でも、これくらい面白おかしく講義してくれたら、もっと理科が好きになったかもしれないのに。

 しかし、あっけらかんと書いているようで、著者が研究のためにくりだしている地はかなりハードでアグレッシブなところだ。近代以降の記録では人類が3回しか上陸していないとされる超難度の南硫黄島では、なんと山頂まで到達しているし、海底火山の噴火によってできたてほやほやの西ノ島新島の上陸メンバーに入っていたりしている。こういう未踏の地に先んじておもむくのは探検家・冒険家のイメージが強いが、案外に鳥類学者というのは、先んじて海を越え山を越え谷を越えていくものらしい。そういえばダーウィンは生物学者でもあったし、南極探検のスコットやシャクルトンも生物学者を同行させている。生物学者というのは探検家でもあるのだ。

 それでも動物学者でも昆虫学者でも植物学者でもなく、鳥類学者というのは、やはりニッチだ。
 もっとも、日本というのは世界の鳥類愛好家にとっては聖地なのだ、という話も聞いたことがある。日本でしか見られない鳥類というのもけっこうあるのだそうだ。まあ、国土条件的には世界の国々の中でも地勢や気候ふくめて珍しいのかもしれない。だから、日本の場合は、動物学者や昆虫学者よりも鳥類学者のほうが、アカデミズムとしても期待しやすいのかもしれない。たとえタレントやモデルより数が少ないとはいえ、わが日本では、鳥類学者が川口探検隊よろしく先陣をきって未踏の地へ突入していくのだ。




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炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす

2017年03月27日 | サイエンス

炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす

佐藤健太郎
新潮社

 高校生のころだったかに、中間テストで17点という点数をとったのが「化学」である。定期テストにおける僕の史上最低の点数である。

 とにかく「化学」は鬼門であった。

 そもそも「周期表」というのがわからない。これはいったいなんの表なのかがわからない。どういう約束事で配列されているのかもわからない。

 分子結合もわからない。イオン結合もわからない。もうわからないだらけである。

 実験で丸底フラスコを加熱してなんやかやというのは楽しくはあったが、そもそも何をやりたくて実験しているのかはついぞ不明であった。

 

 というわけでこの「炭素文明論」。たいへん勉強になって面白かった。高校生の頃に読んでいれば、もう少し化学というものに興味をいただいたかもしれない。これ、中学生とかの夏休みの指定読書にしてみてもいいんじゃないの?

 人間の体は大半が水分というのは知られているが、次に多く含まれるのは炭素なのでそうである。本書によれば人体を構成する元素の18%が炭素。いっぽう、この地球の地表における炭素の存在比は0.08%だそうだ。

 人間がそうだということは、多くの生命もそうだと思うので、地表の中で炭素を集めたのが生命といってもよさそうだ。そしてなるほど。人類発達史というのは、炭素をめぐる(正確にいうと炭素による有機化合物)歴史なんだなと思う。「カロリー」のデンプン、「甘味」のスクロース、「うまみ」のグルタミン酸、カフェインにニコチンにアルコール、火薬にダイナマイトに石炭に石油。みんな炭素が仲立ちしている。

 

 ところで、本書のなかで唯一、無機化合物として窒素化合物―アンモニアの話が出てくる。これだけ炭素ではないのだが、著者としてどうしてもいれたかったのだろう。

 それは、20世紀はじめのユダヤ系ドイツ人カール・ボッシュだ。

 ボッシュの名前は、「第一次世界大戦で毒ガス兵器を発明した男」として知っていた。肥料化学メーカーの研究者だということも覚えていた。NHKスペシャルの「映像の世紀」でやっていたのである。

 だが、その前に、ボッシュは「人工窒素固定」という離れ業をやりとげ、人類を食糧難の危機から救っていた。これは言わば、現代ならば大気中に増えた二酸化炭素を分解して地球温暖化を解決してしまうようなイノベーションインパクトだ(化学史的にはたいそう有名らしいが、なにしろ僕は左記のごとくだったので、いちいち新鮮な話なのである)。

 ボッシュについては、毒ガスの話ばかり知らされたので、この人工窒素固定による農業肥料増産の話も同じくらいしてあげないと名誉バランスが悪いのではないかと思う。

 そのボッシュはしかし、毒ガス開発で、妻には抗議の意味も含めて自殺されてしまい、それでも研究開発をやめず、そして第2次世界大戦時にはユダヤ人ということで国外追放はおろか、その毒ガスで大量の同胞ユダヤ人が強制収容所で命を落とすことになる。

 化学史におけるボッシュの業績は、極端なまでに人類史の光と影に及んでいる。

 

 ダイナマイトのノーベルの業績も、ボッシュと似たような局面がある。「化学」というのは人類史における破壊と創造の因子なんだななどと思う。本書は最後に炭素をめぐる新素材の話や、メタンハイドレードなどの新しい有機エネルギーの採取を扱うが、明るい未来を炭素マネジメントできるように願いたいものである。

 


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教養としての認知科学

2017年03月08日 | サイエンス
教養としての認知科学
 
鈴木宏昭
東京大学出版会
 
 人間の脳のはたらきによる認識とか記憶というのは、実はけっこういいかげんで怪しい、というのが最近の学説である。本人の中での現実と、実際の世の中での事実がまったくかみ合っていないというのはしばしばあることで、よくある「言った言わない」のトラブルなんかもこれが原因なんだろう。
 こういった認識のゆがみを経済学の側面で語ったのが行動経済学で、一時期ずいぶん流行っていた(マーフィの法則とかもこの類かもしれない)。かわったところではこういった認識と事実のずれを推理小説やミステリー小説に応用したものがあって京極夏彦や島田荘司に大作がある。
 
 
 僕は認知科学という世界は、断片的にしか見知ってなかったので、こうしてまとまった形で読むのは初めてである。難解な文章ではないが骨のある内容で、読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまったが、内容そのものはとても面白い。こういう本はもっと若いころに読んでおけばよかったと思う。
 
 興味深かったのは、「言語化」することによる脳の対象認識の退化ともいうべき現象だ。
 たとえば、人間は成長するにしたがって言語化できる能力(記号化できる能力というべきか)を得ていくが、それが逆に視覚情報を頼みにする空間認識能力を退化させる。ある種の自閉症の人物が写真と見まごう細密な絵を描くことからそんな仮説がうまれたそうだ。
 否定語を連発させた後に、ぜんぜん関係ない人間に会わせてみて心象をきくとその人がネガに思えるとか、青い文字で「赤」書かれたカードを目の前にして、「青いのをとって」と言われても、その「赤」カードに手が出ないとか(これが見知らぬ記号文字だったらすっと手がでる)。
 こういう「言語化」によってかえって行動にしばりをつくってしまう現象を昔の人は「言霊」と言ったし。これを操ったのが催眠術や呪術だろうと思われる。
 
 言語化というのは、脳の情報処理のショートカットみたいなものなのだろう。対象をすばやく認識し、いくつかのパターンのひとつにおさめてしまう。たとえばスヌーピーとハチ公とパトラッシュとソフトバンクのCMのものはみんなみてくれ、色、形、二次元三次元とぜんぜん違うが、我々はこれに「犬」というコトバを与え、同一グループのパターンにおさめることで脳の情報処理をすばやくする。当たり前みたいだけれど、脳に障害によってはこれがうまくいかなくなるらしい。
 だけれど、そうやってショートカットすることによってかなりの情報が抜け落ち、もしかしたらその抜け落ちた情報の中に大事なものがあるかもしれない。スヌーピーにあってハチ公にないものは「犬」というコトバに還元されたときすべて捨象されることになる。
 また、スヌーピーの世界をコトバを駆使して説明してもなかなか真実にはたどり着かない。「全体的に白いが耳は黒いビーグル種の犬がいて、その犬はよく犬小屋の屋根の上にあおむけに寝ていて、そこに黄色い鳥がしばしば遊びに来る」という文章を読んでも、スヌーピーのいつもの光景の100分の1も伝わっていないし、どこまでやってもあの素っ頓狂な場面にはたどりつかないだろう。
 そもそもいまいここでこういう文章をかいているのは「スヌーピー」というコトバに対して共通認識があるという前提があるからで、スヌーピーを知らない人からみればそもそも何を言っているのかわけがわからないということになる。
 
 
 したがって、言語化を果たすことによって認識される世界というのは、あくまで限定された認識による世界ということになる。われわれ人間社会は、あえてこの狭いコトバ化された社会を便宜として受け入れた社会でもあるわけだ。
 ヨハネ福音書はこの世のはじめを「はじめにことばありき」と記したのである。
 
 そうなってくると、言語を取得しないまま大人の脳みそになるまで育った人間というのは、この世の中をどういう風にみているのだろうか。たとえそういう人間が表れたとしても、その脳にあらわれた認識世界を我々が追体験する技術はいまのところなさそうだが、SF小説あたりでチャレンジしているものがあるかもしれない。
 ヘレン・ケラーは喋るどころか目も耳も機能しなかったそうで、つまりは永遠の闇と無音の中に生きていたということになるのだろうが、そこからこの世の中を認識させたのがサリヴァン先生である。三重苦を負いながら大成したヘレンケラーもすごいが、このサリヴァン先生も同じくらい凄いのではないかと思う。
 
 いずれにしても、脳による世界の認識や記憶というのは、かなり脆く儚い。しかし一方で人間自身認識したものがこの世界のすべてであるという哲学も定番ものとして存在する。何が「真実」で「現実」で「事実」かというのは問いとしてもはや無意味かもしれない。
 

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サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

2017年01月24日 | サイエンス
サピエンス全史  文明の構造と人類の幸福
 
著:ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
 

 やっと読み終わった。上下巻で1か月かかってしまった。
 
 ちなみに、下巻の末に納められている訳者あとがきが、これ以上ないというくらい、見事な本書内容のダイジェストになっている。この歴史絵巻を4コママンガのように圧縮しているので、お急ぎの方はとりあえずこのあとがきだけ読めばいいかもしれない。

 チャレンジとして、訳者あとがきよりさらに本書の内容を縮めてみたのが以下である。
 
 「本書は、アフリカの一地方で産み落とされた脆弱な存在ーホモサピエンスが、「虚構」という想像力を武器に集団行動というものを覚えて、その組織力で他のサピエンス(ネアンデルタール人とかだな)を駆逐し、グレートジャーニーの末にオーストラリア大陸にまで到達して地球上に生息するようになり、やがて狩猟採取漁労だけでなく、農業という画期的な食糧調達方法を覚え、その結果急速に人口が増えてさらに集団性を増し、そしてそれは集団対集団という交易や闘争の手段を発達させ、そういった集団間の価値観共有や物事の円滑な取引や秩序形成のために、貨幣と宗教と帝国が発明され、とくにヨーロッパに住む人種が未知への探求心を強く持ったことによって科学技術への追及と遠征ーアメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアへと勢力図を伸ばし(つまりもともとそこに住んでいた人間を駆逐し)、産業革命によってエネルギーを生み出す術を身につけて生産性はさらに増し、他の動物や植物を踏み台にますます科学技術を発展させて今に至るも、ついにみずからの生命体そのものの成り立ち、つまり遺伝子とか脳の電気信号にもメスを入れはじめ、「自然選択」によらない生命、超ホモサピエンスの可能性へとふみだし、シンギュラリティ目前にせまっている、ということが書いてある。」
 
 わはは。
 
 本書が実にクールなのは、そういったホモサピエンスの進化というか壮大なヒストリーを振り返りながら、「で、人間は幸せになったの?」と常に冷や水を浴びせることだ。
 つまり、他のサピエンスを絶滅させ、数多の大型動物や魚介類を絶滅ないし絶滅寸前に追い込み、多くの動物を人類の科学実験台や食糧のためのシステムに押し込め、さらにヨーロッパ人は他の人間を徹底的に駆逐し(南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジアの人々は西洋諸国に蹂躙された)、その後の人類は森林を焼き払い、大気を汚染し、そこまでやって「で、人間は旧石器時代のころに比べて幸せになったのかね?」と問うてくるのだ。
 
 著者によれば、旧石器時代の人が、泥と枯草でつくりあげた粗末な寝床を、真っ黒になりながらも遂につくりあげたときの幸福量(脳内で分泌される幸福を感じる物質の量)と、現代人がおしゃれで快適なペントハウスを業者に発注してつくらせて完成したときに感じる幸福量(脳内で分泌される幸福を感じる物質の量)はたいしてかわらない、というのである。
 
 こういう例えもできそうだ。
 スマートフォンが登場する前と後、この間はわずか10年くらいしかないわけだが(最初のiPhoneが登場して今年で10年)、いまや我々の生活にスマホは欠かせないものになっている。スマホ以前に比べ、現代はたしかに「便利」になったといえるだろう。
 では我々は10年前から「幸せ」になったか。
 裏をかえすと、スマホ登場前のわれわれはそんなに「不幸」だったか。便利と幸せは必ずしも一致しないことは、現代人ならば身にしみてわかっていることである。

 それどころか、物事に対してそれをどれくらい幸せに感じるかは、結局は時代の差よりも個人の感受性の差でしかない。
いつの時代にあっても、ほんの些細なことでも幸せを感じられる人もいれば、なにがあってもどこか不満がぬぐえないタイプの人もいるだろう。それは歴史の差よりも個人差のほうがよっぽど開きとして大きいだろう。

 本書では、研究の結果、人間が「幸せ」を感じやすい因子として、仲間とくに家族の存在と、「期待が実現する確率の高いこと」を挙げている。
 たしかに社会学の研究では、孤独が死を早めやすいこと、不幸感を募りやすいことが証明されている。
 また、「期待が実現する確率が高い」というのは、実は最初の期待の設定をどうするかという能力(つまり、期待を低めに見積もれる人は失望するおそれが少ない、つまり幸福感を得やすい)、あるいは、実現したものを期待と違わないと認められる能力(これはこれでよし、と思える能力とでもいおうか)、に負うところが多いことを看破している。
 
 で、著者が指摘するには、近現代の人類の歴史は「幸せ」を感じにくくなるほうに作用しているらしい。
 人類史は長い間、家族という単位を尊重してきた歴史だった。「家族」というものは足かせにもなってきたし、とくに女性や子どもは、家父長の財産という見方もある歴史ではあった。とは言え、その国の王や領主は、庶民の家族の中にまで介入することは原則としてなかった。
 その家族という単位をさらに個人という単位に分解したのが近現代だった。家族の扶養のかわりに国が行政制度として個人の厚生をみるのが近現代だ。生産行為を家族の生業ではなく、企業の仕組みの中に雇用という形で組み込むのが近現代だ。国の教育指導要領に基づいて子どもを学校に引っ張り込むのが近現代だ。
 「期待値」についても同様である。生産が拡大し、消費が奨励され、情報網が加速され、持つものと持たざるものの格差がひろがり、しかも「持つもの」がどんな生活をしているかを「持たないもの」でも知れるようになったのが近現代だ(メディアの発達)。つまり、「期待しつつもかなえられない」と自覚するものが増えているのが近現代である。東欧革命はテレビがつくり、中東革命はインターネットがつくったとされる所以だ。

 著者は問いかける。かつてと比べて、はたして人類は「幸せ」を甘受しやすくなったのか?
 
 
 本書のもっとも驚くべき指摘は、そもそも人類は「農業革命」の時点で大幅に「幸せ」の道を踏み外したというものである。
 実は、狩猟採取時代にくらべ、農業時代の人類のほうが圧倒的に長時間の労働を強いられながら、そのカロリー摂取量は狩猟採取時代よりも少ないのだ。
 どうしてこんなことになるのか。
 
 それは、人口が増えたからだ。
 たしかに農業によって、単位面積あたりの食糧調達量は増えた。しかし、そのために人間は増えすぎてしまったのである。食糧調達量よりも人口増加量のほうが多かったのだ。人類の遺伝子としては、大成功だが、一人一人の身になって考えれば辛い人生になってしまったのである。
 その「罠」にはめたのは、人類のDNA(利己的な遺伝子)と、なんと「麦」のDNAであった。収穫量は多くとも、そこに至るまでにやたらに負担を強いる「麦」の戦略性が、人間をからめとったのだ。「麦」によって人類は、定住生活を余儀なくされるようになる(アジアの場合は「稲」である)。
 農業に拘泥してからの人類史は、格差と集団間の闘争の歴史となる。小学校の歴史の教科書にも出てくるが縄文時代には「格差」はなかった。闘争がはじまったのは稲作が始まる弥生時代以降だ。
 要するに、狩猟採取時代の人類に比べ、その後の人類―現代も含む―のほうが、「幸せ」を甘受する頻度は低いということを本書は示唆している。
 

 そして本書は、長い長いふりかえりの後に、ゲノム革命やAIに手をだす人類に、こう問いかける。
 
 「私たちは何を望みたいのか?」

 そもそも、アフリカの片隅に立ったときから、我々人類は止まらない流れに乗ってしまったのだろう。利己的な遺伝子なのか、麦の恐るべき捕獲力なのか、宗教という麻薬なのか、貨幣という定量化され可視化された欲望の故なのか。他の生物を貪り食べながら。無関心の殺戮を重ねながら、この地球にはびこるようになった。
 
 そして、今なお流れはとまらない。ムーアの法則の通り、科学技術は加速に加速を重ね、第4次産業革命は始まりつつあり、シンギラリティは目前に迫りつつある。何も望まなくても。
 
 

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スノーボール・アース

2016年03月12日 | サイエンス

スノーボール・アース

著:ガブリエル・ウォーカー 訳:渡会圭子
早川書房


ちょい前の本だが、気になっていたので読んでみた。


ずいぶん昔に、「地下展」という科学展をみた。地球の地下深部にまつわる研究や理論がいろいろ展示されていてとても面白かったのだが、そこにスノーボール・アース、つまり全地球凍結仮説のコーナーがあって、白く凍った地球の姿が展示されていた。それが、僕が初めて見知ったスノーボールだった。

今では、かつて地球は全面的に凍結した時代があったというこの説はかなり知られているようである。全地球史を俯瞰した本でもこのことに触れていた。

しかし、この仮説が具体性をもってサイエンス界に現れたのは21世紀に入ってからだ。確かに僕が学生の頃にそんな話はなかった。地球は高温のドロドロしたあ火の玉で、それがやがて雨によって冷やされ、陸と海ができ、やがて海の中から生命が誕生した、というのがもっぱら聞かされた地球創生のシナリオである。

カンブリア大爆発と呼ばれる生命の大増発の直前、地球は凍っていた、というのが全地球凍結仮説であるが、本書はその仮説の解説ではなく、この仮説が市民権を得るまでの科学者たちの奮闘と乱闘の物語である。

この仮説を、ヴェーグナーの大陸移動仮説や、ウォルター・アルバレスの隕石衝突による恐竜絶滅説のようにスターダムにのせたのは地質学者ポール・ホフマンで、この本の主人公は彼なのだが、実は様々な立場の科学者が関与してこういう壮大な仮説は構築されていくのだなというのが本書の見どころであろう。

地質学とか地球史の学問で仮説を組み立てるには3つのことが必要であることが本書ではわかる。

まずひとつは、様々な分野の専門家の研究が相互に補強しあっているということ。全地球凍結仮説は、地質学者ポールによって完成させたわけだが、その仮説の大事なところを支えているのは鉱物磁気学者のカーシュヴィンクであり、炭酸塩岩のスペシャリストであるダン・シュラグであり、地磁気史のリンダ・ソールである。また、先行研究としてのブライアン・ハーランドである。
多方面から支える柱があって、壮大な仮説は組み立てられる。

もうひとつは、徹底的な反論や批判の洗礼である。数理の証明と違って「あんたその目で見たんか」と言われかねない地球史の学問では、学説の立証は、とにかくどんな些細な矛盾も潰していかなければならない。まさしく悪魔の証明のようなタフさが要求される。本書に出てくる反対派の攻撃も、学問の真理を守るためのものなのだが、反対派の研究結果が転じ転じて全地球凍結仮説をむしろ強固にしてしまうところなどは学問の面白さではある。STAP細胞も捏造かどうかともかく、徹底的なハードテストに耐えなければならない宿命のものではあったのだ。

で、3つ目は、そんな多くの多様な研究者や研究結果を束ね、次から次へとやってくる反論攻撃を粉砕していくだけのタフでカリスマのある人物である。ポール・ホフマンとはそういう人なのだ。彼がもっとぐだぐだの人であれば、ここまで協力者に恵まれなかったし、反論の嵐の前に潰えたかもしれない。


本書は、ポールの全地球凍結仮説を形にしていくまでの話だが、多様な立場からの支え、様々な攻撃に耐える試練、それらをふまえて物事を、進めていくタフさというのは、地質学に限らず、大きなモノゴトをなし得る上での大事な観点かと思う。


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地球の履歴書

2016年03月06日 | サイエンス

地球の履歴書

大河内直彦
新潮社

 僕は文理でいうと文系の人間だけれど、大学受験のときに国立大を志望していたこともあってセンター試験を五教科分うけた。つまり理科を受験したのである。
 当時の制度では、理科を受ける際は物理・化学・生物・地学の中から受験科目を選択することになっていた。僕は迷うことなく地学を選択した。物理や化学はまったくちんぷんかんぷんだったが、地学だけは好きだったのである。

 地学が好きだったのは、小学生のころ、学研が出していた学習まんが「ひみつシリーズ」がバイブルだったからだ。30年以上も前の話である。
 このシリーズは、圧倒的に理科の分野に良作が多かったと今でも思っている。宇宙のひみつ、地球のひみつ、海のひみつ、体のひみつ、南極北極南極のひみつにできるできないのひみつに、びっくり世界一自然のひみつなとなど、詳細な技術まで記憶に残っている。

 その頃ボロボロになるまで読み込んだ甲斐もあって、そこで得た知識は記憶にしっかり定着している。しかもまんがだから、断片的な知識に終わらず、物語的な前後関係や因果関係も含めて覚えてしまっており、ダイナミックな知識体系としてインプットされている。
 子供むけと侮れない。中学、高校と受けた地学の授業は、そのベースもあって、するすると頭に入り、大げさにいうと勉強という感じすらせず、エンターテイメントのように吸収した。これが物理や化学になるととたんにダメになるところが不思議である。

 とはいえ、いずれにしても昔々の話で、その後の自分はすっかり文系人間だったのだが、さいきん本書を読んで、地球がもつ神秘的な現象や歴史の痕跡の話に久しぶりにわくわくした。ひみつシリーズを読んでいた頃のあの感興を思い出した。

 ジブラルタル海峡がかつては地峡で、地中海は塩の堆積した大地だったという話、そしてある日、地峡が決壊し、大西洋から海水が注ぎ込んできたことなんてのは、映画にしたくなるくらいの興奮である。
 東京湾の底には古東京川と呼ばれる川の跡があり、かつて利根川も荒川も隅田川も多摩川もこの古東京川に合流していたなんて話は、さいきんブームの東京地形論でもっととりあげたくなる話だ。
 コーカサス地方にある黒海という不思議な地形をした海は、実は淡水と海水が混ざらずに複層化し、それが原因で不気味な現象を起こしているとか(隣にあるカスピ海もいろいろとヘンな湖であることは「ひみつシリーズ」で知った)、アフリカのカメルーンにある周期的に二酸化炭素爆発する二オス湖の話とか、人間の存在なんて当たり前だけど頓着しない地球自然の有り様を見せつけている。
 ほかにもおなじみプレートテクトニクスの話や南極大陸の話などいろいろ出てきて、本書はまさに大人のためのひみつシリーズといったところだ。

 人間社会にあくせくしていると、こういうスケールの違う話に接することがとても新鮮で面白い。我々は地球の上に生活していて、人類の歴史を歩んでいるけれど、いっぽうで地球は地球の歴史を歩んでいる。地球の歴史は人間の歴史はまったくスケールが噛み合わないものだが、石油とか塩とか温泉とか、人間の生活にひゅっと地球史の痕跡がまぎれこんでいる不思議なダイナミズムは、実はとても文系的感受性を刺激するものだ。
 有馬温泉の、近くに火山もないのになぜ昔からあんな高温の温泉が湧いているのかも、実はすげえからくりなのだった。


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ドーナツを穴だけ残して食べる方法

2014年04月02日 | サイエンス

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

 著:大阪大学ショセキカプロジェクト

新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち

 著:柴山哲也

 

 はからずもこの2冊を同時に読んでいたのだけれど、「タテワリ」がはびこびやすいアカデミズムで、研究対象をさまざまな分野から横串で通してみることで新たな世界を構築していくのは関西のお家芸かもしれない。

 「ドーナツ」のほうは、もともとはネットのネタだけど、それに触発された阪大の学生たちが各分野の教授陣を説得し、真剣とも漫談ともつかぬ「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」を寄稿してもらっている。もっともすべてが正面から“食べる方法”に挑んでいるわけではなく、“食べる方法”は放棄して、もっぱら形状のメタファーとしてのドーナツ論に終始したものもある。
 それでも、機械工学から認知心理学から哲学・数学・歴史学・経済学・法学など実に多彩なアプローチで「ドーナツ」を照射していく様は圧巻である。今後もはやドーナツを安穏と食べるわけにはいかないではないか。
 要するにこれは「ドーナツ学」なのであって、これができるということはすべての研究対象において「○○学」が可能だということだ。機械工学や認知心理学、数学や歴史学などなどは、○○を知るための『道具』なのである。手段であって目的ではないのである。
 まさしくこれこそ学問の真髄ではあるまいか。これはもしかして実に優れた学問というものの見本市ないしガイドブックなのではないかと思ったのである。東大の教養課程テキスト「知の技法」と比肩するかもしれない。

 でも考えてみれば、これをまことに風呂敷ひろげてやっていたのが新京都学派である。生態学、歴史学、民俗学、薬学、言語学、数学、地学、天文学、考古学、文学、哲学、美学などなどこういった分野が七人の侍よろしく、人間や都市や日本や世界というものを照射して、大きな統合された世界をあぶりだしていく。
 
研究というとどうしても目の前の研究対象を“分析”すなわち微に入り細を穿つアプローチで解題して行ってそこに芯を発見するようなイメージがあるのだが、京都学派のは目の前の研究対象が既に何かの「部分」である、という認識があって、そこから総体の正体を描き出していくところがある。”分析”というより”統合”というべきか。

 なぜ、こういうのが関西のほうで起こるのかは実に興味深い。

 東京のアカデミズムの頂点は自明の通り東大だろうけれど、立花隆が指摘するようにやはりそこには官僚システムとの切っても切れない出自の由来みたいなのがあって、国家運営とか行政機構という縦割りと細分化こそが合理的にして最大の効果を生むという思想、目の前に山積みされる難題を次々とクリアして目的達成への最短距離を探るための方法論とでもいおうか。そういうのが意識無意識かかわらず中枢に埋め込まれているのではないかとも思う。

 もちろんどっちが良い悪いという話ではなく、「知の技法」を出す東大に対し、「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」という一見ふざけた、でも学問の見本帳としてかなりよくできたこの本を阪大が出したという事実が、なかなか対照的で面白いと思った次第である。

 

 

 

 


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